1 天草

【一騎】呂布奉先2【当千】

呂布スレが100になりましたので、2スレ目です。

参考スレ
>>>2 前スレ
>>>61 古の剣豪達
>>>116猛将について…
(PC)
2 諸葛豊
いやぁ漫画の呂布は死ぬほど強いですねぇ。実際弓に優れていたとかいてありますが、剣術や馬乗りなどはうまかったんですか?
(N900iS/FOMA)
3 ストラップ
>>2
騎馬の用兵が巧みだった事と、名馬赤莵に駕跨していた事、弓の名人で李広と同じ渾名で呼ばれていた事が記されています。百歩離れた位置から戟の援を射抜いて劉備を救う逸話なども描かれていますね。

さて、呂布ファミリーって言いますが、ファミリーには誰が含まれていますか?たとえば陳羣は呂布ファミリー?僕はファミリーに入れています。
臧覇なんかは僕はファミリーに数えていませんが。

無論、陳珪、陳登、張弘は呂布ファミリーではありません。
(PC)
4 くわぁまん
配下には客将とか食客とか色々有ったでしょうからね…。(汗)

やっぱり思い付くのは…
陳宮、張遼、高順、成廉、曹性、李封、カク萌、魏続、侯成ぐらいですよね。

陳宮以外は皆武将型ですし、新参者の軍師ですから仲が悪かったのも頷けます。孔明、陸遜のデビューに似ているのかなぁ…(笑)

あ、そうそう、張バク、張超の兄弟も居るけど違いますもんね。あと、田氏?(´・ω・`)
(F901iC/FOMA)
5 ストラップ
陳宮って、それはゲームのイメージでは?彼は軍師なんて役職ではないでしょう。
陳宮とともに入幕した許巳と王楷、鉅野で李封と共に李整に斬られる薛蘭、呂布の腹心成廉と魏越、魏続、侯成と共に曹操に降る宋憲、曹操軍で後に活躍する袁カンと陳羣‥‥‥他は誰がいましたっけ?

pcのみだと思いますが、赤莵の英文説明を発見。
http://en.wikipedia.org/wiki/Red_Hare
直訳すると赤毛‥‥‥
(PC)
6 くわぁまん
ストラップ殿>…んと、データが少ないので多くは語れないのですが、陳宮以外呂布に献策したと言う記載は残っていませんからね。軍師と言うよりは参謀かなぁ…。

ただ、高順との仲たがいは文武の定め見たいなものでしょうね。(笑)

あと、忘れてはならない将として、ゾウ覇、呉敦、侯カイ、昌キ等もいますね。
(F901iC/FOMA)
7 ストラップ
蔵覇(嘘字失礼)などは、協力者で、ファミリーでは無いのでは?
韓セン、楊奉なども協力者であって、ファミリーでは無いと考えますね。
(D505iS)
8 ストラップ
「興其健将成廉魏越等数十騎馳突燕陣」と、黒燕賊との戦いが描写されていますが、成廉と魏越を「健将」と呼んでいます。これが後の「八健将」という名の由来となるのでしょうね。
(PC)
9 天草
八健将って、結局メンバーが分かったんですか?
(N900i/FOMA)
10 ストラップ
恐らくは八という数字があった後に、八人あてはめたのでしょうね。十常侍が十二人なのと同じ理由で。

一応は、
楊奉、侯成、高順、李粛、李儒、何蒙、陳廉、韓先
の八人という事に成っていますが……後半三名は誰なのか知りません。
(D505iS)
11 天草
李粛、李儒は董卓配下ってイメージが強いですが、呂布にも仕えてたの?
(PC)
12 無問題
う〜ん…、微妙な顔ぶれですね(笑)前から思っていたことなんですけど、張遼は入っていないんでしょうか?
(W21K/au)
13 大伴
通俗演技では、李儒は呂布に殺される役ですよ。史実では全くの正体不明の人ですし。

この八建将というのは、後の人が勝手に作った歴史的根拠の無い呂布の配下なのですよ。
(D505iS)
14 天草
>>12
張遼はどこかで書いた記憶がありますが、呂布配下というより、呂布の盟友扱いだったのかもしれませんね。

>>13
そうですよね。
>>8で書いてる黒燕賊との戦いというのは、袁紹に頼まれた黒山の張燕との戦いの事ですか?
(PC)
15 ストラップ
申し訳ない。寝ぼけて書いてました。黒山賊張燕ですね
(D505iS)
16 ストラップ
>>3-5
武帝紀の侯諧、曹仁伝の劉何、徐晃伝の趙庶、李鄒、于禁伝の高雅‥‥‥他は誰かいたかなぁ?
(PC)
17 ストラップ
呂布ファミリーの再重要人物(黒澤における志村的立場の人物)について、
http://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Chen_Gong&action=edit
で情報募集中みたいです。英語が出来る方は是非!
(PC)
18 くわぁまん
あああァ…、こんな時間になっちゃった。(・_・、)
呂布の配下何人かメッケタのでご報告を。

曹豹は違うね…(汗)

ええっとお…、まずは高雅を始め、劉何、李スウ、秦宜禄をメッケました。
アッシ思ったんですが、英雄、英雄を知るのことわざ通り猛将が多い事に驚きます…。

魏越、成廉等は勿体ない…(爆)
(F901iC/FOMA)
19 ストラップ
>>18
劉何も李鄒も高雅も、>>16で既出。

秦宜禄は関羽がらみの人物ですね。超有名なエピソードなのに、これは見落としていました。
(PC)
20 ストラップ
秦宜禄って、張飛に斬られるんですよね。

曹操に仕えていた時、秦宜禄はどういう気持ちでいたのでしょうか?僕にはわかりません。
(PC)
21 ストラップ
平話を読むと、呂布は「かいちの冠」を被って現れます。「かいち」は想像上の動物で、不正を見抜き、不正を正す生き物です。
かいち冠は、判事がかぶる冠との事ですが、何故呂布の頭にこれがあるのでしょう?
(F2102V/FOMA)
22
>>21
 まったく分かりません。本来は、大伴さんの言われるように判事の冠で、解豸の角を木彫りで作り、それに緑色の粉(着色?)を付けたものです。
 呂布がそういった官についていないなら、作者の意図があるのかと思います。或いは、考え無しなのか。
(P900i/FOMA)
23
>>22
 訂正で、木彫りの角を冠に付けております。
(P900i/FOMA)
24 ストラップ
孫引きで恐縮ですが、前スレッドの>>>2-96-97で書かれていた、呂布が弓を左右で撃ち別けた話に近いものを発見しました(ちなみに陳宮と曹性に関しては全く無し)。

牧野治三著「弓の文学史 那須与一は正鵠を射たか」によると、五世紀頃作られた児童用識字書「千字文」の句、
「布射遼丸 ケイ琴阮嘯(呂布は弓に優れ、宜遼はお手玉に優れた。ケイ康は琴の名手で、阮籍は口笛が巧みであった)」
の注釈「李註」に、「……馬に乗って左右を弓でいるのが上手だった」とあるそうです。
>>>2-96が参考にした書物は、これを「左右の手」と読み違えたのでは?

しかし呂布は名で呼ばれているのに、竹林の七賢の二人は姓で呼ばれているのでしょうかね(笑)
(F2102V/FOMA)
25 赤龍
『千字文』は、その名の通り四字一句、二百五十句、計千文字からなり、その千字は一字として重複することはなし。そのため、漢字を学ぶテキストとして使用されたそうです。
で、呂布を姓の「呂」でなく、名の「布」を使ったのは、『千字文』の中に「律呂調陽」という句があり、「呂」の字を使うと重複してしまうからじゃないのかな?と思いましたがどうなんでしょうか?
(PC)
26 ストラップ
>>25
そういう訳だったのですね。何分>>24に書いた様に孫引きでしたので(汗)
(F2102V/FOMA)
27 ストラップ
一歩は、我々の感覚だと二歩の事の様ですね。つまり百五十歩は三百歩。現代弓道の遠的競技は60mで、径が1mの的を用いますから、現代の観点(弓の生産技術)から言っても恐ろしいこわ弓です。無論、卓抜した技量と筋力無くして引けるものでは無いでしょう。

源頼光の弓術の師であり、文殊菩薩の化身でもある、春秋時代の人物、楚の養由基は、百歩(つまり二百歩)先の柳の葉に射て命中させる事を誇った様ですが、僕には呂布の射術の方が優れている様に感じられます。
(F2102V/FOMA)
28 ストラップ
今月号の文藝春秋から陳群が曹操配下に加わった記念age(泣)
(F2102V/FOMA)
29 ストラップ
>>>287-15-16
だけど呂布は評価低いんですよね。皇帝を救ったとはみなして無いみたいですね。
(PC)
30 無問題
なんか以外ですね?王允なんて残党のあつかいや蔡ユウを殺したり失政続きなのに…。蔡ユウをころした事なんかは彼がいかに器量が狭いか分かりますよね
(W32SA/au)
31 親指傷
大儀の為とは云え、親殺しは、当時、相当の大罪だと思います。善く書きたくても書けなかったのでは?

呂布が好きなので、贔屓目です(;^_^A
(P701iD/FOMA)
32 ストラップ
>>>2-81
見つけました。というか、>>>201-50-52の箇所ですが。
引用します。
「(袁家の軍)若し(劉)備を破らば、即ち北は太山に連なり、吾は(袁)術の囲みの中に在ると為る。救わざるを得ざるなり」
(PC)
33 ストラップ
>>32
三国志での記述と、ちくま訳も併せて。

三国志:「術若破備、則北連太山諸将、吾為在術囲中、不得不救也」

ちくま訳:「袁術は、もし劉備を撃ち破れば、北連太山の諸将軍(臧覇ら)と連合戦線を結び、わしは、袁術の包囲網の中に封じこめられてしまう。[劉備を]救援しないわけにはいかないのだ」

後漢書:「術若破備、則北連太山、吾為在術囲中、不得不救也」

三国志と後漢書で少しだけ文量が違いますね。
(PC)
34 ストラップ
>>>388-6
確かに
「十二月癸酉、曹操撃呂布於徐州、斬之」
と、「孝献帝紀第九」にありますね。
(PC)
35 天草
先日、ある書物で
『呂布は金髪碧眼のハーフであった可能性が高い』
という記述を発見しました。

それによると、呂布は騎馬民族の血が入っていた可能性が高く、匈奴はギリシャ歴史の中にも登場するスキタイと呼ばれる民族と関わりが深いためだとありました。

スキタイとは、イラン系遊牧民族だと書かれてましたが、どうなんでしょ?

呂布が金髪だったら、これまでのイメージを大きく覆しますね。
(PC)
36 赤龍
>>35
その呂布金髪説の発端は、多分『天地を喰らう』の金髪呂布なんじゃないかなと思ってます。
実際それ以外に呂布が金髪だったということを示す史料は皆無のように思います。
ひょっとしたらほんとに金髪だったかも?ぐらいの妄想はできても、可能性は限りなく低いと思います。
(PC)
37 しす
後漢書読んでると、董卓殺害後の呂布の王允に対かなり適切な助言をしているように思えます。
やはり武勇以外の面でもこの人は再評価する必要があるのではないですかね。
(PC)
38
 お初にお目にかかります。五、と申します。
 呂布の武勇についてですが、私が思うに、その武技よりも度胸の点で優れていたのではないか、と思いわれます。         日本の戦国時代、合戦の論功行賞を決める時、必ずあるのが『一番槍』という功績です。読んで字の如し、真っ先に敵陣に槍を入れた人物を指すのですが、この一番槍、中々できそうでできない功責なのです。 考えてもみてください、一番先に槍を入れるという事は、一番先に死ぬ可能性が高い、ということです。つまり、『一番槍』とは、その武者の武勇ではなく、度胸を誉め称える為のものなのです。
戦場の恐怖は、三国も戦国もかわりありますまい。馬中の赤兎と言われる名馬に乗り、敵中に真っ先に突っ込む・・・味方にしたらこれ程頼もしい味方はなく、敵にしてもこれ程嫌な敵はいない。これが、呂布の武勇の正体ではないかと、私は思います。
(P902i/FOMA)
39 巫俊(ふしゅん)
>>38

指揮官自身が特攻をかけるのか?
戦闘経験0の巫俊はこれが永遠の謎です。
ただ6世紀の北周の武帝は、皇帝自身が何万の兵の先頭にたって騎馬突撃をすることで有名なんですけど。
呂布も?
(PC)
40
 さてさて、明確な資料が今手元にありませんで、正確なところは判じかねますが、ただ呂布が董卓の元に使えていた時にはそういう事の方が多かったのではないかと思われます。虎牢関における関羽との一騎討ちにおいては、そのような状況だったのでしょう。君主となってからも、劉備と袁術の争いを自らの弓の腕で仲裁するなど、呂布自身に人並み以上に度胸があった事は、想像に難くありません。           また、当時の合戦はまだ鉄砲や大砲といった遠、中距離攻撃兵器がなく、乱戦になりやすかった事も要因に挙げられます。乱戦ともなれば君主自らも親衛隊と共に戦いに加わることはよくあったでしょう。現に、まだ自勢力が小さいうちは、洋の東西を問わず君主自らが味方の兵と共に突撃し勝利している事例は、挙げるのに事欠きません。
(P902i/FOMA)
>>40
注意事項(http://359kk.nobody.jp/tyuui.htm)の@を一度読んで下さいね。

勿論三国志演義の話もたまにはしますが、その場合は一度それとわかる様にことわって、皆さん書いてありますよ。

一度注意事項などを読んでみて下さいね☆
(PC)
42
申し訳ございません。呂布と関羽の一騎討ちの記述についてでございましょう。説明不足でございました。
あれを引き合いに出した理由は、『董卓配下の呂布は前線で自ら先頭に立って戦っていた』→『そのため、その武勇が際立って見え、また伝えられた』→『故に、虎牢関において関羽と一騎討ちをする場面が創作されたのであろう』という意味で書いたつもりだったのですが、文が稚拙でありすぎました。まことに面目ありません。
(P902i/FOMA)
43 赤龍
多分どこかですでに触れられてそうですが、呂布伝の注『英雄記』によると、郭氾に一騎討ちを挑み、勝負の末退けたと、貴重な大将クラスの一騎討ち経験者だったりします。しかも、孫策対太史慈のような突発的なケースでなく、わざわざ自分から名乗りをあげて挑んだという。
この例を見ますと、武勇を誇り、自ら先陣を切って敵中に攻め込むというのも、充分やりかねないようにも思えます。
(PC)
44
君主自らが先頭に立ち敵に向かい、その圧倒的な武力で敵将を打ち倒す。ある意味、最強の勝利の方程式ですね。張遼や高順が従う理由も、そんなとこにあったのかもしれません。自分の何かに絶大な自信を持つ人は、魅力的に見えますから。
(P902i/FOMA)
45 アポロん
初めまして。三国志自体は元々好きでしたが、北方三国志を読んで個人的にリョフブーム到来につき、自分も少し混ぜてください。
君主自ら先陣を切る…当時としては珍しい事ではなかったみたいな話を聞いた事があります。理由としては、兵卒の存在です。彼等は大部分が突然の徴兵によって、行きたくもない戦場に立たされているわけです。彼等の気持としては勝ち負けよりまず「死にたくない」でしょう、出来れば矢も飛んでこない後ろの方で小さくなってたいとか思っていたと思います。
そんな彼等に、君主がズッと後方から「行け」「突撃しろ」と言っても、士気も上がらなかったでしょう。
やはり、君主自ら敵陣に突っ込み、敵を薙ぎ倒しまくってこそ、兵卒達も「あの大将なら死なずにすむ」と士気もあがったのではないでしょうか。

君主・武将の先頭に立って〜〉は、兵たちを奮い立たせるための最も効率のいい方法だと、当時の武将達はしっていたのでは?
エンショウなどのように名門の出自などと言ったものを持たない武将達にとっても分かりやすい方法だったのでしょう。
武将の強さがダイレクトに部隊の強さに影響する=リョフ軍は乱戦では無類の強さを誇ったのもこれなら何と無く分かる気もします。

個人的にもリョフはやはり先頭に立って敵に突っ込んでは、無人の原を行くが如く暴れまわって欲しいですね(^-^)
(W33SA/au)
46 巫俊(ふしゅん)
>>55
北方三国志って期待が高いだけに、演義準拠なのが惜しいですよね。
演義準拠だからって何か問題があるわけじゃないし、人気も高いんだけど、
演義準拠というだけで、北方氏から正史の解釈を読み取るのは限定的になりますから。
人気があるだけに、これは史実ではないと説明するのは、心苦しいんですけどね、いつも...

呂布といえば温侯。温侯といえば河内郡の地名の温。温は司馬朗の出身地で建安年間以前に司馬朗が隠れていたところで、司馬氏の本籍地でもありますね。
あと190年代の河内郡の太守は呂布の友軍の張楊。

呂布はエン州や徐州での行動が目立ちますけど、黄河の北にいたときの事績も、彼の後年の人生に大きく関係していますよね。
(PC)
47 巫俊(ふしゅん)
うっ、
>>45
だった...
(PC)
48
今と違って、当時の合戦はそれこそ肉弾戦が主ですから、やっぱりもって生まれた体型が恵まれてるって事は重要ですね。呂布はその点でも、前線突出型指揮官としてかなり有能だったのでしょう。後は、弓の名手だった事も外せません。当時の戦争はまだ弓に対抗できるだけの防具が未発達でしたから(特に鎧関係)弓による死傷者が多かった事は簡単に予測できます。弓による攻撃で敵の勢いを削ぎ、一気に騎馬隊で突撃する・・・・勝利へのセオリーは完璧に満たしてますね。
(P902i/FOMA)
49 巫俊(ふしゅん)
呂布の軍は、強力でありながらも転戦し続けるからでしょうか、死傷者も少なくないですよね。

曹操も、何十年と戦い抜いていっしょに苦楽をともにしてくれた故郷の若者たちが、ほとんど死んでしまったことを申し訳なく思っていたみたいですし。
(PC)
50
上に立つ者の悲しみ、というやつでしょうか?上に立った事ないので分かりませんが(笑)
ただ、やっぱり信頼してる人(部下)が死ぬのは悲しいですよね。それを見たくないからこそ、呂布は常に戦場を一人突撃していた・・・・おおっ!面白い!小説書ける題材だ!(笑)
(P902i/FOMA)
51 趙統
名馬に釣られ、女に釣られ、裏切りを繰り返し、演義では悪役ですが強力な武将だったことはたしかだと思います。毎度戦から帰ってきた呂布の乗っている馬には何個も首がぶら下がっていたらしいですから。
(EZ)
52 タマン
呂布って、三國志の英雄でもあります。何故なら、かつての父 丁原は、董卓を恨んでいました。「董卓をこの手で、殺せるならわが命はいらん!」と言ったらしいです。しかし丁原の養子呂布は、赤兎に釣られ丁原を暗殺。その後董卓に使え王允の連鑑の計により董卓を秒殺。董卓を殺すのは、漢民族達の希望であり。義にかかって、います。さらに董卓を殺す事により丁原の夢は、完成されました。その後呂布は、劉備を頼りますが呂布も劉備を裏切ったり劉備が呂布を裏切り曹操につくなど……呂布は、曹操に首を斬られ前「劉備こそ一番信用できぬぞ」と罵り、首を打たれました。たしかに劉備は、裏切りの人生です。まず呂布、曹操、袁紹、孫権、劉樟さらには、漢の帝まで、裏切りました。三國時代の君主達をことごとく裏切って、います。皆さんが多分疑問に思うのは、漢の帝の裏切りでしょう。これは、曹丕が帝の位を強奪した時劉備自身が帝は、曹丕に殺されたと噂を流し。勝手に蜀の帝になるわ、漢の帝がまだ生きているのに葬儀は、するわで、もう凄い裏切りよう……
(EZ)
53 天草
>>52

勘違いされてたら、見た方も勘違いされる可能性もありますから、一応訂正させてもらいます。

>丁原の養子呂布は、赤兎に釣られ丁原を暗殺。

呂布が丁原の養子だったというのは、演義の創作だと思われます。

>王允の連鑑の計により董卓を秒殺

連鑑の計も演義の創作だと思われます。
(PC)
>>52
確かに>>53は酷いですね。


>「董卓をこの手で、殺せるならわが命はいらん!」と言ったらしいです。

ソース不明。


>赤兎に釣られ

呂布の馬が赤兎という名の優れた馬であった事は事実だが、董卓が呂布を引き込む為に与えたというのは創作。


>董卓を秒殺

意味不明。


>劉樟

誰ですか?
(PC)
55 タマン
劉樟って、リュウショウって、漢字じゃなかったっけ?ストラップさん〉に聞きたいんですが赤兎は、呂布に与えて、いないとすれば関羽の赤兎は、元々誰が乗って、いたんですか? あと練鑑の計は、あったと思います(^o^)チョウセンは、まずフィクションと思いますが………しかし女を使って、董卓を殺したというのは、本当のようです(^o^)この計略を美人の計とか練鑑の計とかいうらしいですw
(EZ)
56 ストラップ
>>55
きっと僕が勉強不足で、劉樟なる人物を知らないのでしょうね。


赤兎に関しては>>54をちゃんと読んで下さい。

・赤兎が呂布の馬であるのは事実。
・董卓に与えられたのは創作。

と書いている訳です。
ちなみに

・関羽が赤兎に跨がったというのは創作。

です。
(F2102V/FOMA)
タマンさん>ストラップさんが言いたいのは、劉ショウの字が間違っているからですよ。恐らく、[王+章]ですよ。
(EZ)
58 天草
>>55
タマンサン》貂蝉はもちろん創作です。(モデルとなった女性がいたのは確かな様ですが…)
少なくとも王允とは全く無関係ですから、計が成り立ちませんよね?(;^_^A
よって連環の計(正確にはこの漢字です)も創作で、その記述はどこにもありません。
王允が董卓暗殺を企て、呂布と共謀したのは事実です。

赤兔馬の話しは>>56の通り、正史には呂布がそういう馬に乗っていたという記述しかありません。
誰からもらったとかは全て創作。関羽に渡った話しは、演義の一流の創作なんです。

>>56
悪気があって荒らしに来てるわけじゃないんだから、そんな意地悪な書き方しないで、丁寧に教えて下さい(;^_^A
(N902i/FOMA)
59 しす
>>55
貂蝉のモデルは呂布が密通したという董卓の侍女のことですよね。
これは計略でも何でもなく、ただ女癖の悪かった呂布が主の女に手をつけちゃって、それの露見を恐れていたという記述から創作されたものですよ。
(PC)
60
呂布って武将は、演義での活躍がすごいので、よく漫画や小説でも格好よく描かれますが、実際は我々が猛将と聞くとまず思い浮かべるような『酒癖が悪く、女癖がわるく、力が強く、暴れると手がつけられない』といった、普通(?)の、そこまで格好よくはなかった人だったんでしょうね。でも馬鹿ではないと思いますよ。戦術のレベルは高かったでしょうし。配下も有能でしたし。相手が曹操だったのが不運といえば不運でしたね。
(P902i/FOMA)
61 しす
>>60
呂布が小説等で格好良く描かれるようになったのは最近の傾向であって、三国志を取り扱った作品全体を見れば、彼は圧倒的にどうしようもない悪役として描かれていますよ。
(PC)
62
はい、私はその最近の小説や漫画について書いたんです。最近の、と付けておけばよかったですね。
呂布が日本人に人気がある理由に、最近の小説や漫画やゲームの活躍もさることながら、物語としての豹蝉との悲恋と、最後に戦に敗れて死ぬという所が判官贔屓傾向の強い日本人には応援したくなる人物と映るのでしょう。最強の名、叶わなかった悲恋、そして戦に敗れての死・・・・形は全然違えど、言葉だけ並べてみれば源義経に似てなくもない。きっとこの形は日本人が好きな物語形式なんでしょうね。
(P902i/FOMA)
63
茶会に出れないのでこちらに…"笑

呂布の人気は、どちらかと言えば無双シリーズの強さのお陰のような…"笑、日本人が好きな人物って、義経・新選組など、勝手に悪者扱いを受けたり、最後までやり遂げる事が出来なかった事が出来なかった人物…、いわゆる悲劇のヒーローって奴です。三国志でも、劉備・曹繰・孫権は悲劇の人物だと思うんです。"三国志の面白さは、この3人が誰も中華を統一出来ないから面白いんだ"と、社会の先生が言っていました"笑、そう言った意味では、呂布多少は悲劇のヒーローだったかもしれませんね。
長文・スレ違い、すいませんでした。
(EZ)
>>62
既に、通さんが義経の話しを出していましたね。スイマセン。
(EZ)
65
いえ、やはり同じ様な事を考えてくれている人がいると、私も嬉しいです。良い先生に歴史を教わりましたね。歴史っていう授業を好きになるかならないかは、教えてくれる先生に負うところが大きいですからね。
(P902i/FOMA)
66 ストラップ
最近考えるのですが、>>>13で曹操がもし負けていたら、呂布という人は今程知られた人ではなかったのではないかと想像します。

確かにエン徐両州は当時の激戦区だったのでしょうが、後に大成する曹操、劉備と渡り合った事が、呂布という人をクローズアップさせている要因である様な気がします。
(F2102V/FOMA)
67 巫俊(ふしゅん)
徐州の州治のホウ城国は徐州の最西端ですからね。
呂布・陶謙にしてもエン・豫州の動向には気を尖らせていたはずです。

ところで呂布の爵位は平陶侯ですが、平陶国(へいようこく)はヘイ州の太原郡の中にある国(県の規模)です。
先週の世界ふしぎ発見で中国映画の墨攻が取り上げられましたが、その中で紹介されたのが世界遺産の平遥城です。
世界遺産の平遥城は明代につくられたものなんですが、呂布が封じられた平陶国はこの近くなので、面白かったです。
(平陶=平遥)
(PC)
68 巫俊(ふしゅん)
呂布の頃は下ヒに拠点を移していたんでしたっけ?
徐州牧劉備はどこにいたのだったか。
(PC)
69 赤龍
>>67
細かいことですが、平陶は国ではなく県ではないのでしょうか?
徐州の州治も、ホウ城でなく、ホウ城国としていいのでしょうか?
(PC)
70 巫俊(ふしゅん)
>>69
平陶は呂布が封じられた時点で侯国ですから、県ではないと思います。
ホウ城は郡サイズの王国ですから、郡治はホウ城県かもしれません。
(PC)
71 巫俊(ふしゅん)
郡治じゃなくて国治と呼ぶのか。
(PC)
72 赤龍
もう一つ、細かいことですみませんが、
後漢の徐州の州治は、そもそもホウ城でなく、東海郡のタンのようです(『後漢書』郡国志)後に下ヒに移ったと(この時期はまだ後漢末という以上は調べれていません)。
この時期ホウ城が州治だったというような記述があるのでしょうか?
(PC)
73 赤龍
>>66
確かに、演義などの小説でも、曹操、劉備共通の序盤の最大の強敵という感じで扱われていますね。虎牢関で圧倒的な強さを見せるのも、そのための演出のようにも思えます。
呂布の死後まもなく、劉備と曹操が本格的な対立関係となることなんかも、話の一つの節目として印象的ですし。
(PC)
74 ストラップ
この人、爵位の温侯ばかり注目されていますが、実は儀同三司(儀礼は三公になぞらえる)なんですよね。
>>66ではああ書きましたが、やっぱり重要人物かも。
董卓政権の崩壊の要因ですし。
(F2102V/FOMA)