1 漢魏の風骨
名戦
数多くある戦の数ですが皆様にとって印象の濃い名戦をあげてほしいです。理由はなんでもかまいません。私は漢中での戦いです。初めて二大巨頭が大軍勢をもって行った戦ですので。簡単ですいませんが。
(P505iS)
4 漢魏の風骨
無問題さん、単福さん、名戦中の名戦をあげて頂き感謝です!合肥での戦は一人の男として最強にふさわしい戦ぶりの彼にはかなり惹かれますものね。官渡は喧嘩は数ではないということを思い知りましたよね(笑)
(P505iS)
6 くわぁまん
データが少ないので良く解らないのですが、あちしがオススメなのが244年の漢中戦でゃんす。
魏の曹爽率いる数十万の軍勢、漢中を守るは蜀後期の名将王平将軍。しかし兵力差は歴然三万にも満たない寡兵であった。
そこで王平は一計を謀る…。魏軍に取り囲まれる前にわずか数百の手勢を率いる奇襲をかける…。
策は見事に成功し魏軍は大打撃を受け混乱状態に陥る。
と、そうこうするうちに綿竹より費緯率いる援軍が駆け付けたので魏軍はやむなしと引き上げたと言う…。
確かこんな感じだったかなぁ?
魏の曹爽率いる数十万の軍勢、漢中を守るは蜀後期の名将王平将軍。しかし兵力差は歴然三万にも満たない寡兵であった。
そこで王平は一計を謀る…。魏軍に取り囲まれる前にわずか数百の手勢を率いる奇襲をかける…。
策は見事に成功し魏軍は大打撃を受け混乱状態に陥る。
と、そうこうするうちに綿竹より費緯率いる援軍が駆け付けたので魏軍はやむなしと引き上げたと言う…。
確かこんな感じだったかなぁ?
(F901iC/FOMA)
12 しす
私は劉備の漢中平定戦、特に定軍山の戦いがいいですね。
間違いなく劉備軍最大の戦果でしょう。
演義での絶妙な演出っぷりがあればこそ、余計に興味が湧きます。
あともう一つ、界橋の戦いも興味深いですね。
ご存知だとは思いますが、恐らく当時最強クラスだった公孫サンの軍を袁紹の軍が完膚無きまでに破った戦。
騎馬戦術の見直しが計られた戦のような気がします。
間違いなく劉備軍最大の戦果でしょう。
演義での絶妙な演出っぷりがあればこそ、余計に興味が湧きます。
あともう一つ、界橋の戦いも興味深いですね。
ご存知だとは思いますが、恐らく当時最強クラスだった公孫サンの軍を袁紹の軍が完膚無きまでに破った戦。
騎馬戦術の見直しが計られた戦のような気がします。
(PC)
13 ストラップ
于毒の賊に本拠地(東武陽だったかな?)を攻撃されるも、それに構わず逆に于毒の本拠地を急襲する曹東郡。
記録からは、実際の戦術的な内容は一切判りませんが、互いに本拠地を攻撃しあうチキンレースみたいな我慢比べは、戦史上でも稀な出来事では無いでしょうか?
ちなみにこの于毒の賊との交戦中、済北国の相鮑信の求めに応じて曹東郡は、陳宮を寿張に派遣しております。
記録からは、実際の戦術的な内容は一切判りませんが、互いに本拠地を攻撃しあうチキンレースみたいな我慢比べは、戦史上でも稀な出来事では無いでしょうか?
ちなみにこの于毒の賊との交戦中、済北国の相鮑信の求めに応じて曹東郡は、陳宮を寿張に派遣しております。
(PC)
14 ストラップ
第二次北伐-陳倉包囲戦もなかなか。
カク昭という人は、この戦いのみで後世に名を残した人ですが、無名の一現場指揮官の名を史書に記さねばならなかった程に、戦略的にも重要な一戦だったと思います。
ここを突破されていたら、大きく歴史が変わっていたでしょう。司馬氏の台頭が早かったかも知れませんし、逆に遅くなっていまかも知れませんね。
カク昭という人は、この戦いのみで後世に名を残した人ですが、無名の一現場指揮官の名を史書に記さねばならなかった程に、戦略的にも重要な一戦だったと思います。
ここを突破されていたら、大きく歴史が変わっていたでしょう。司馬氏の台頭が早かったかも知れませんし、逆に遅くなっていまかも知れませんね。
(D505iS)
15 赤龍
>>13は、裴注でも触れられてるように、兵法三十六計の一つにも数えられる「囲魏救趙」のアレンジ版ですよね。しかし、大きな違いは、敵の攻撃を受けているのが他国の城ではなく、自分の本拠ということ。自城の守備への信頼と、かなりの度胸がいりますよね。兵書に通じ、しかもそれを応用して使いこなす、曹操の兵法家としての手腕(さらに決断力)を示す戦いですね。
(PC)
16 くわぁまん
ストラップ殿、カク昭はもうちょっと生きてて伝を残して欲しかった名将ですね…(涙)
魏・明帝伝に227年に西平の鞠英の反乱討伐に名を残しますが詳しい事は良く解らないですし…。
それと、この時一緒に討伐に行った鹿磐って誰だろう?
魏・明帝伝に227年に西平の鞠英の反乱討伐に名を残しますが詳しい事は良く解らないですし…。
それと、この時一緒に討伐に行った鹿磐って誰だろう?
(F901iC/FOMA)
18 無問題
なんか周喩の江陵包囲戦に似てますよね?江陵を包囲した周喩は甘寧の献策で彼に千人あまりの兵を率いさせ夷陵を占領させますが、逆に曹仁は本隊を率い夷陵を包囲します。周喩は呂蒙の献策どおり本陣を凌統に任せ曹仁を敗走させてます。なんか違うようなきもしますが…。
(W21K/au)
19 朱家
規模が小さいですが、牛渚と西塞山の戦いをあげますね。孫策の長所、短所、すべてが集約されてると思いますね。
摩擦が生じそうですが、カク昭は孔明のおかげのように思います。確かに少ない兵で退けたのは評価しますが、補給の困難を知っていながら、二十日程度の兵糧しか持っていかなかったとされてます。軽視していたというよりは、戦うと思ってなかったのでしょう。カク昭より孔明のふがいなさが目立った戦いのように思います。
摩擦が生じそうですが、カク昭は孔明のおかげのように思います。確かに少ない兵で退けたのは評価しますが、補給の困難を知っていながら、二十日程度の兵糧しか持っていかなかったとされてます。軽視していたというよりは、戦うと思ってなかったのでしょう。カク昭より孔明のふがいなさが目立った戦いのように思います。
(A1304T/au)
20 ストラップ
>>19
街亭の敗戦のその年に攻め込んでいますから、余程のチャンスだった訳で、実際三国志での魏のピンチを描いています。
孫子作戦篇に、「智将は務めて敵に食む。敵の一鐘を食むは吾が二十鐘に当る」と有ります。この場合急襲こそが大事だった訳ですし、糧食の少ないは仕方ないのでは?
事実カク昭が大軍の包囲に攻め破られていたら、後の歴史が大きく動いていたかも知れませんよ。
街亭の敗戦のその年に攻め込んでいますから、余程のチャンスだった訳で、実際三国志での魏のピンチを描いています。
孫子作戦篇に、「智将は務めて敵に食む。敵の一鐘を食むは吾が二十鐘に当る」と有ります。この場合急襲こそが大事だった訳ですし、糧食の少ないは仕方ないのでは?
事実カク昭が大軍の包囲に攻め破られていたら、後の歴史が大きく動いていたかも知れませんよ。
(PC)
21 ストラップ
>>19
街亭の敗戦のその年に攻め込んでいますから、余程のチャンスだった訳で、実際三国志での魏のピンチを描いています。
孫子作戦篇に、「智将は務めて敵に食む。敵の一鐘を食むは吾が二十鐘に当る」と有ります。この場合急襲こそが大事だった訳ですし、糧食の少ないは仕方ないのでは?
事実カク昭が大軍の包囲に攻め破られていたら、後の歴史が大きく動いていたかも知れませんよ。
街亭の敗戦のその年に攻め込んでいますから、余程のチャンスだった訳で、実際三国志での魏のピンチを描いています。
孫子作戦篇に、「智将は務めて敵に食む。敵の一鐘を食むは吾が二十鐘に当る」と有ります。この場合急襲こそが大事だった訳ですし、糧食の少ないは仕方ないのでは?
事実カク昭が大軍の包囲に攻め破られていたら、後の歴史が大きく動いていたかも知れませんよ。
(PC)
22 ストラップ
戦国史討論場の為に、関ヶ原合戦の本戦を調べていました。東軍本陣のある桃配山を、西軍が三日月状に取り囲むという配置図が作られていますし、
治部三成-兵五千八百二十
の様に、兵数もわかっています(但し織田信高のみは全くの不明)。
三国志の合戦に、この様な詳細なデータの残るものはありますか?
治部三成-兵五千八百二十
の様に、兵数もわかっています(但し織田信高のみは全くの不明)。
三国志の合戦に、この様な詳細なデータの残るものはありますか?
(F2102V/FOMA)