1 ヤスシ

泣いて馬謖を斬る?斬らない?2

街亭の戦い・馬謖・諸葛亮孔明・王平・張コウの話し…。
前スレは盛り上がりましたので、引き続きお願いします!

参考
>>>5…前スレ
>>>55…諸葛亮スレ1
>>>157…諸葛亮スレ2
>>>239…馬氏五兄弟スレ
(PC)
2 天草
ヤスシサン>すいません。
検索に引っかかりやすいように>>1を書き直しさせてもらいました。
無断で申し訳ないです。。。
(PC)
3 無問題
う〜ん…、何故馬稷を司令官にしたのでしょうか?かれには実戦経験がなく、相手は巍の名将張合。戦いの経験がない馬稷には少々荷が重かったのではないかとおもいます。巍延も彼ではなく実戦経験豊富な呉懿を推薦してますから…。
(W21K/au)
4 黄龍
無問題さんに同感ですね。蜀の北伐の際、魏も実戦経験のない夏侯ボウを起用し、失敗しております。恐らく孔明は、街亭は細道さえ抑えておけば誰にでも容易に守りきれるものだと計算しており、蜀の将来の為に馬謖に経験と大きな手柄を与えておきたかったのではないでしょうか?まさか兵法に通じる(はずの)馬謖が山上に陣取るなどとは思わず…それが実戦経験のない人間の計算が立たない部分ではあるんですが…周りの諸将からみれば孔明の人材起用に明らかに不手際があるのは明確で、孔明自身の責任を問わなければならない問題だと判断できます。しかしながら孔明自身が死ぬわけにはいかない以上、それでも孔明自身への処罰を明らかにするためには、一番分かりやすい方法が馬謖に処罰を下す、ということだったのではないでしょうか?
(F900i/FOMA)
5 無問題
黄龍さん・はじめまして、よろしくお願いします。そこのところは孔明らしくないですよね。彼は国家のことになると私情を通さないことで有名だったのに。彼は自分のお気に入りで戦歴のない馬稷に手柄を立てさせたかったんだと思いますね。そこいらへんは、劉備だったら絶対おこらない失策ですよね…。孔明には若干人材の使い方の下手さが目立ちますよね。
(W21K/au)
6 くわぁまん
蜀って名前が良くないですよね。誰かが言ってました。お腹の中に虫が居ると…。

つまり、お腹の中の虫、謀反、反乱により国が滅ぶと言う予言的言葉です。

ですから孔明苦渋の選択でしょう。

国を存続させるため自分に反感をもつと言う災いの芽はどんな些細な事であっても刈り取らねばならなかったのでしょう。
確かに、謀反気は独立独歩の源ではありますが、衰退した国での謀反気は問題ですからね。
(F901iC/FOMA)
7 無問題
くあわまんさん・確かその蜀の名前の意味は呉に来ていた蜀の勅使に諸曷恪が言った言葉ですね。確かに、けっこう異民族の反乱とかも多いですね。蜀じたいがあまり持久戦に無いてませんもんね。高祖劉邦もあんまり長居はしてませんし。
(W21K/au)
8 朱家
長くなりますが、謖の死に関して、私の客観的な見解を…まず逃亡説は謖の書簡により矛盾が生じると思います。順序的に謖の事より先に、降格を願い出たと考えます。孔明は処刑しなければと思いながら迷い、助命を願う者も多数いたが赦す訳にもいかなかった。これは良伝の獄死を加味した考えです。そこで謖は「私情を挟むな」の書簡を送るが、さらに孔明を悩ませる。
つづく…
(A1304T/au)
9 朱家
そこで向朗伝ですが、この記述は本来、謖伝か亮伝に記載されるべきと思うので、違和感があります。向朗は逃亡させる、もしくは助けるために罪を犯したと考えます。例えば、孔明を中傷したり、嘘の書簡を上奏したりなどで、謖は名士ですから、同調する動きが出てきた、つまり悪いのは孔明で、謖は悪くないとの動きです。さすがに孔明も向朗を罷免にし(心情的に死罪に出来なかった?)謖を涙ながらに処刑したのではと考えてます。しかし、今までも、これからも「泣いて馬謖を斬る」に疑いは持ちません。
(A1304T/au)
>>>5-12
「卷八十二 列伝第五十二」での続く部分は、
諸葛瞻又軽寿
寿為亮立伝
謂亮将略非長
無應敵之才
言瞻惟工書
名過其実
ですね。
(PC)
11 ストラップ
>>>5-44-45>>>5-48-51>>>5-53-58
本日、明治37年11月末から始まった乃木第三軍の攻撃の記録を調べていました時、高地奪取の勝利例を幾つか見つけました。例えば、紀元前270年秦軍がアツ与という地域を包囲した際、趙の趙奢という人が部下の進言を聞き、北方の山を制圧し、結局秦に圧勝したのだそうです。馬謖はこれらの故事を知っていたのでしょうね。
「戦争論」では、「制高の利は、戦術的に有利であるという事、接近が困難である事、展望が良好である事、の三件である」と、やはり推奨しています。

「高きに居て下を視るは勝つ可きの基いなり」と、現代でも言いますからねぇ。正解だと思ったのも無理は無く、現代戦でも同じ失敗をする指揮官は多そうな気がします。
(PC)
12 ストラップ
>>11
「史記巻八十一 廉頗藺相如列伝第二十一 趙奢」です。

許歴復請諫曰「先據北山上者勝、後至者敗」
(許歴復た諫めんことを請ひ曰く「先に北山上に據る者は勝ち、後れて至る者は敗れん」と)
(PC)
13 ストラップ
今日取引先の人と話していて思ったのですが、三国志関連の人物で、尤も現代日本人に名を知られているのが、馬謖みたいですね。
他にもヒーローは沢山いる訳ですから、理由はわかりますが、何だか不思議な気がします。
(PC)
14 天草
ふと思い出しましたが…黄忠が夏侯淵を討った、あの定軍山の戦いは高地を奪い合い、敵より上にいた蜀軍の勝ちになった(先主伝より)と理解してますが、この街亭の戦との違いは何でしょうか?
(PC)
15 諸葛蘭
個人的見解ですが、

〜定軍山〜
・軍団同士の正面決戦
・正面決戦なら高地を押さえたほうが有利
・魏は夏候淵の方面軍、蜀は劉備の本隊。黄忠は先鋒の将
・夏候淵は機動力を生かした戦術が得意で、山岳戦が得意か不明

〜街亭〜
・交通の要衝
・蜀はここの地を安全に通過できる守備態勢の構築が目的
・馬謖はこの地で敵の殲滅を目指すべく山頂へ布陣、街道封鎖を怠った
・馬謖、魏軍に包囲される
・水源を絶たれる
・おしまい

正面決戦にに有利な地形を押さえる事が重要な定軍山、
安全確保が第一で、そこに敵の侵入を許さないことが重要だった街亭、

戦いの性格が異なるので、求められる作戦も違ってきそうです。
(PC)
16 飛燕
>>14
個人的に気にしていたのもあって、孫子を読み始めました。定軍山と街亭は兵法的にも戦の性格は違う感じです。
まず、どこが違うのかというと戦場の地形。定軍山は山なのに対し、街亭は森(←前スレに、街亭は森が生い茂り、そこに一本道がある地形とあったので)。孫子によると地形により、軍の行動を変えなくてはいけない、とのこと。
・山が戦場のとき(定軍山)
 まず、劉備軍は夏侯淵軍よりも高い山を確保。孫子では、「山を取れたらひたすら敵の進攻を待ち、取られたら撤退するのがよい」と。要するに、山を取った方が戦を有利に進める。よって、必然的に高所の奪い合いに。
・森が戦場のとき(街亭)
 馬ショクは有利とされる山に布陣したものの、張コウに包囲される。コウが山にいるショクを攻めることはまずないため、ショクがコウを攻める立場。すると、戦場は森となる。戦場が森のとき「敵に備えがなければ、攻めると勝てる。敵に備えがあれば、攻めても勝つのは容易ではないうえ、森によって撤退が困難であるため窮地に陥る。」と。
↓つづく
(F900iC/FOMA)
17 飛燕
張コウほどの武将のこと、おそらく馬ショクが包囲に気付いたときには備えは万全→馬ショクは攻めたくても攻められず。焦っているうちに、備えは盤石に→撤退しようにも包囲されて撤退もできず。イライラして命令が煩雑に。士気↓→水がねぇ。士気↓↓→投了

山は取れば確かに有利。しかし、戦場の地形によって軍の行動は変わってしまう。この場合、山を張コウに取られても特に大したことはなく、馬ショクは素直に街道を占拠し、「要所要所に十分に兵を配備し、敵の進攻を待つ」のがよかったということです。
(F900iC/FOMA)
18 じた
街亭の戦いの馬ショクが山頂に陣をとって敗北したかは、僕の意見は〜魏軍は大軍であった為、孔明は地理を活かし道に陣取るように言いましたが、馬ショクは山頂に陣取ります。この戦いは蜀の侵攻によって発生した戦いですが、この場合は蜀は[防ぐ]という戦になります。確かに兵法には高いところが有利といいますがこの場合は明らかに適用されませんよね↓例えば10万と1万で戦争をした場合、1万の軍が狭い場所に陣を敷いていた場合、10万の軍は細長くなり、細くなるという事は横からの攻撃にももろく勝気も十分にありますし、戦力さも大分縮めれます。一方、山頂に陣取った場合は、書いてありましたように、この場合、食糧難になります。敵より高いとこに陣があれば確かに有利ですが、大軍に包囲され、食糧難で進退極まる。そんぐらいの事はわかるような(笑)
僕が言いたいのは…
●魏軍が大軍であったこと
●街亭は撃破するのではなく、進軍を阻む戦であったこと
よって、馬ショクは無能者であったと僕は思います。
長文の為、途中から意味がこんがらがってしまいました(笑)御指摘お願いします
(W31K/au)
19 不知火
<<18
もし馬謖が無能だとしたら、そこまで難しくは無い任務と言えども総大将に抜擢はしないのでは??
諸葛亮も大変気に入っていた将であるわけですからね
無能と言うよりはまだまだ実践経験を積んでいかければならない段階状態であのミスを犯してしまったのではないでしょうか?
私の推測ですがね
(EZ)
20
やはり馬禝の実戦不足が一番の原因でしょうね。呉懿に任せるのもいいですが、馬禝に任せる経験させるのも手だったのでしょう。そこまで、難しい任務でもなかったハズだとも思いますしね。
(W32SA/au)
21 不知火
何かでみたのですが、馬謖に実戦経験を積ませようとして、馬謖に任せたのでしょう。
馬謖は自分が有能だと思い込んでいて、諸葛亮の指示を無視し、山に布陣したとの記事もありました。
鍛錬のときから若者の中自分だけ飛び抜けた実力者だったのでしょうかね??
(PC)
22 りょう
馬謖の失敗をみると趙が秦に攻められた時の趙括みたいですね。まさに「生兵法は怪我の素」ですな。
(SH251i)
23 りょう
×「怪我の素」
○「怪我の元」でしたね。
(SH251i)
24
お初にお目にかかります。五、と申します。
山岳戦においては、敵より高い山をとった方が有利、とられたら、先に戦を仕掛けた方が負ける・・・これは日本の戦争史にもいくつか事例が見受けられますね。有名どころなら賤ヶ岳の戦いがあげられます。この戦いも、先に仕掛けた柴田方が大敗しています。
また、諸葛亮自体が戦下手だったのではないかと思います。彼の場合は、私の中では鬼謀神算の軍師というより、清廉潔白な政治家、というイメージなのです。彼が行った五度の北伐も、大した戦果をあげていませんし。
(P902i/FOMA)
25 不知火
ショクは深刻な人材不足だった為に元々は文官的な軍師だったのだが,武官の仕事もしなければならなかったのでは???
実際ホウ統が居た頃はホウ統が武官的な仕事を担っていたはずです。
ホウ統が居なくなったので諸葛亮よりも優れた人が居なく両方の仕事を任されていたのでしょう。
北伐はたいした成果は無いにしろ殆ど大敗もないです。
なのであの国力の差から言って結構凄いことなのではないでしょうか???
(EZ)
26
そう、大勝がない・・・これが問題なのです。本来、戦争は非生産的なものです。それどころか、大消費的なものとも言えるでしょう。北伐の場合、戦果はないのに国力は減る・・・戦術的にはよかったのかも知れませんが、戦略的にはこれは大敗です。戦術的勝利が無く、戦略的には大敗。これでは、悪戯に蜀の寿命を縮めるだけです。その点で、彼はやはり軍師ではなかったのでしょう。軍の師を預かる者として、これはあまりにお粗末です。
(P902i/FOMA)
27 巫俊(ふしゅん)
>>25
>>26

そうなんですよね。
しかし北伐は蜀の使命でもありました。
少なくとも諸葛亮の存命中は北伐が蜀の国是だったんですが、
やっぱり魏の国内が一応は安定してる以上は何事も無難に進めていくしかないですよね。

諸葛亮時代はまだ国力もそれほど疲弊せず、ついに成功はしませんでしたけど、蜀の人士たちの間に魏と互角に戦えるという自信や安心感をつくったのは諸葛亮の施策でしょう?北伐もふくめて。
(PC)
28 巫俊(ふしゅん)
蜀がそれでも劉禅の一代を通して、国内の平和を保てたことは、やはり諸葛亮の遺産ですし、泣いて馬謖を斬った孔明の厳正な態度を評価したいです。

蜀滅亡後の中原王朝では、しばしば蜀出身者が日陰者の扱いを受けることがあったようです。
そんな中で中原にも名声が聞こえ、魏将も敬意を表したという諸葛亮の存在は、どれだけ蜀人の励ましになったでしょうか?

あとやはり国の命運というのは、最後まで分からないもので、よくねばったんじゃないでしょうか?

犬馬とて主人に忠実たろうと努力します。
ましてや実力が及ばなかったとて、最期まで大義を貫いた忠武侯をどうして責められましょうや?

蜀が魏に降伏したあとも、蜀の人が孔明に賛辞を惜しまないのはそういう理由があるからなんでしょう。
蜀が滅亡したのは、孔明ひとりの責任ではないと思うからです。
(PC)
29
そうでございましょうなぁ。ただ、やはり蜀は人材不足の感は否めません。もう少し国全体をあげて人材の育成に力を注ぐべきだったのでしょう。費イ亡き後の宰相級人物の不在。諸葛亮後継者の姜維の軍事にのみの専心。夏侯覇や傅僉、郤正に羅憲などの人物もおりましたが、いかんせん人材の絶対数が少なすぎます。後は、南蛮との交易による収益の増強くらいしか打つ手はありませんかなぁ。十常侍の前例があったのに、何故黄皓のような人物をのさばらしたのかも、最大の問題の一つではありますが。
(P902i/FOMA)
30
巫俊様のいう通り、亡国の原因は諸葛亮だけのものではないでしょう。彼自身も、名宰相であることにかわりはありますまい。忠義の志は誠に称讚にあたいします。ただ、やはり彼は軍をおこすべきではなかった。彼一人の責任でないとはいえ、北伐が亡国の遠因であることは確かな事実。軍事は政治に属すれども、だからといって有能な政治家が有能な軍人でないのもまた事実。政治家なら政治家なりの国の守り方があったでしょう。いくら魏討伐が使命とはいえ、それより大切なのはいかに国を残すか、であると思います。死の瞬間、彼は何を想ったのか・・・私にそれを知る術はないが、なんとなく、悲しくなります。
(P902i/FOMA)
31 不知火
諸葛亮だって負けると思って戦はしていないでしょう。
諸葛亮が軍を起こすべきでないと有りますが,諸葛亮より優れた武官的軍師が当時のショクに居るでしょうか??
ショクが攻めなければいくら漢中が守りやすくても,盤石の体制で攻めて来たら確実に負けるでしょう。
だから魏を安定させないためにもショクの兵士の士気が下がらないためにも攻めたのだと思います。
諸葛亮が亡国を早めたのも事実ですが,圧倒的な人材不足では諸葛亮の思う通りに攻められ無かったのでしょう。
五虎将軍が皆健在ならもう少し攻められたと思いますよ
(EZ)
32 寿君
 亡国の遠因を求めるなら、夷陵の敗戦でしょう。
 ここで、失われた第二世代の将帥が後々響いてると思います。

 北伐にしても、呉もやっている訳ですから、同盟連携作戦上しない訳にもいかないのもあったんじゃないでしょうか?。
 実際、呉も蜀漢も魏に対しては懸命に持ちこたえていたのが三国時代の実情であり、両国共にこの状態を少しでも楽にする意味でも最低でも、魏の両国に対する前線拠点を潰すぐらいの事はしなければならず、そういう意味では北伐は国防上仕方なかったのではないでしょうか?。
 ただ、呉が国力が高く魏が苦手とする水上戦を強いられる長江を防衛ラインにしてた分、長く持ったって事でしょう。

 呉でも危ないんですから、蜀なら尚更だと思います。
(P901iS/FOMA)
33
磐石な体制による攻勢とは、いったいどの程度の事を言うのでしょうか。
呉による北伐も行われていたというなら、もっと連携を密にして同時北方進攻をすべきだったのではないでしょうか。
国防とは、国を保つために行わなければならず、亡国の遠因を作った北伐が国防上仕方なかったとは思えません。まあ、攻撃は最大の防御といいますが、私なら、やはり外交による攻勢も必要だったと思います。
(PC)
34 不知火
磐石な体制というのは、武将、兵数などがそろっている状態だと考えて下さい。

同時攻撃の場所が離れすぎているので、同時攻撃をした所で、大した効果は得られないと思います。

やはり魏による圧力を少しでも和らげるためにも、前線拠点だけは潰したかったのでしょう。
ずっと圧力に兵士が耐え続けられないと思われます。

北伐が亡国を早めたといっても、攻めずに待っていたら、確実に亡国しますよね。
三国時代は、中華統一を目標としていたので、責める必要があるかと・・・
(PC)
35
だがあんなに北伐をする必要がないでしょう。あの半分程度でいいんですよ、前線拠点を落とすだけなら。長い時間をかけて練兵と策を練って、少しでも人材の能力向上に努め、国力の無駄な浪費を防ぐ。私ならそうします。下手な弓は何発放ったって、当たらない時ゃ当たらないんですから、他国に侵攻する時はなるだけ磐石な体制を築くべきです(武田信玄のように)。あの時点で長安を落とせる訳がないくらい、諸葛孔明ならわかっていたでしょうし。
(P902i/FOMA)
36
不知火さん初めまして♪こちらにも>>>292顔出してくださいね!

北伐に関することですが、スレがないので、このままこのスレで大丈夫ですよね?とりあえず馬禝が斬られたのも北伐終わってからだし。

>>27で言っている通り北伐は、先帝の意思であり、蜀の基本方針は魏を平定することだったんでしょう。ですが>>35で言われてますが、あんなに北伐をする意味は無いと私も思います。ですが、曹叡が死んだり、魏で反乱に便乗したりと無駄にやってるわけでもないんですよね。第一に、蜀は魏の国力には到底敵いません。そこで攻勢に出られる蜀は素晴らしいと思います。これは孔明の力ですね。
(W32SA/au)
37 岳飛
このスレでは初めましてm(_ _)m

確かに戦争は国力を疲弊させるため、長時間をかけて軍備増強や錬兵、将軍の育成に力を注ぐという考え方は一理あります。
しかし、戦争には相手がおります。魏と蜀では人口的に圧倒的な差があるため、時間をかければかける程人口=兵力の差が開いていく…と諸葛亮は考えたのではないでしょうか。
北伐で長安を落とせば西域とのつながりもとれ、人口的にもかなり国力が上昇し初めて魏とがっぷり四つで組める体制が整う、そう考えたのならば積極的な防衛策としての北伐は評価できるものではないでしょうか?
(W31T/au)
38
そうですね。対等の力を得るための戦争、という見方もできますね。
結局、うまくはいかなかったわけですが、しかし、諸葛孔明は本当に長安を落とせるなんて思っていたのでしょうか。
五丈原において勝利を得たとしても、よほど圧倒的な勝利(将棋のはめ手のような)以外では味方の戦力も減っていて、続けての長安攻略は無理でしょう。魏の敗残兵と長安留守部隊に籠城されては、長安はそう簡単には落ちますまい。その間に洛陽や許晶から援軍も来るでしょうし、そうなれば兵力の点で勝ち目がありません。反対に、『中入り』のような戦術を採られて漢中をとられてしまうかもしれません(諸葛孔明以外に魏の攻勢を止められる人材もいないようですし)。この状態での長安攻略は無理でしょう。
(P902i/FOMA)
39 寿君
 まあ、長安を落とすのは無理だろうと思います。
 でもせめて隴右でも奪わなければ、国力差は両者が同じく守勢に重きを置いた場合、先進地帯の中原との格差は益々開くだけです。
 気付いたら、圧倒的な兵力差で攻め潰されるのがオチ。
 赤壁で孫権も劉備も曹操から対抗して独自に行く事になり、その後に荊州問題で拗れてあの形に落ち着いた以上は、変化してしまった状況に対応してやれる内に蜀を三国の一つとして大きくしとかなくてはどうにもこうにも始まらないと思いますよ。

 それに、蜀軍は魏軍と戦い適時野戦で撃破しています。この実戦経験だけでも夷陵から立ち直った新生蜀軍からすれば、メリットはあると思います。
 何せ、三国時代は平時ではなく戦時なんですから。
(P901iS/FOMA)
40
そうですね。戦闘によって兵と将を鍛える・・・・織田信長も美濃攻めで用いた方法ですね。
今にして思えば、蜀が魏との国力差を覆すのは無理に近いし、もはや賭けのような大勝負に持ち込むしかなかったのかもしれません。(その点が、私が諸葛孔明を手放しで絶賛出来ない理由でもあるのですが)
(P902i/FOMA)
41 不知火
>>36
劉さん初めまして、
エピソードにはあまり詳しくないですが、分かり次第発言させてもらいますね。

>>37さんの言う通り、待っていては兵力差はどんどん開きます。

だから早い段階で攻め落としかたっかたのでしょう。

私も長安を落とすのはほぼ無理だろうと思います。

ですが、長安から遠い位置で戦いながら、手薄な長安を落とす別働隊を作って、攻めようとしたりと、かなり手の込んだ策を作っている所から見ても本気で落とす気であったのでしょう。

大勝負で勝たなければ意味が無いので、大掛かりな戦をしたと思われます。
長安が落ちれば、魏と互角に戦えるだけの兵力が手に入るだろうし。

ここまで攻めたのはやはり長安を落とさなければ勝ち目は無いと思ったからでしょうね。
(PC)
42 寿君
 魏書陳泰伝を読みますと、魏側の見解として、諸葛亮が隴右を確保して周辺異民族を慰撫してここを足がかりに長安方面を狙う戦略だった事が書かれている事から、227年と231年の隴右直接攻撃が前者は馬謖のミス、後者が李厳のサボりで失敗した事から、さらに西寄りの陳倉や五丈原を攻略してそこから以西を魏から切り離す目論みであったし、迎撃する魏軍も大軍なのですから、全く無謀でもないし、大軍事作戦も当然だと思いますよ。
 まあ、残念ながら、第一次の失敗のツケが余りに大きすぎましたね。
(P901iS/FOMA)
43
やはり、惜しむらくは馬稷の失敗ですね。主将が王平だったなら、と思うと惜しいです!
(P902i/FOMA)
44
>>41エピソードと言うのは、不知火さんが三国志と出会った経緯を書いて頂くスレですよ♪

北伐をよく知ると、人生うまくいかないもんだなぁ↓と感じてしまいますね"笑、やはり一人の力では、大勢の力には敵わないってことですね。孔明に軍事は向かなかったのでしょう。
(W32SA/au)
45
孔明も、本当なら軍事はやりたくなかったんじゃないですかね。自分は後方で蕭何のように内政と補給に専念して、軍事はホウ統や法正に任せたかったんだと思います。漢の蕭何と張良のように、きっちり分業できたら、大分歴史も変わったでしょうね。
(P902i/FOMA)
46 不知火
ホウ統が生きていたらしっかり分業できたのでしょうね
ホウ統の死は諸葛亮を多忙にさせ且つどちらかというとあまり得意ではない軍事までこなさなければならなかったのでしょう。
(EZ)
47
ホウ統が益州攻めで戦死せず、50歳位まで生きていたとしたらかなり面白かったでしょうね。私ならホウ統は荊州の関羽につけて、漢中攻めは史実通りに法正、諸葛亮は成都で他の文官と共に内政と前線への補給。こうなると、諸葛亮の評価も変わってきますね。某ゲームみたいに知力100じゃなくて、政治100かな(笑)関羽も呂猛にやられることはなかったような気がします。荊州北部を制圧しておけば、魏とも(四に組んでとはいかないが)かなり戦えたと思いますよ。
まるで、反三国志みたいだ(笑)
(P902i/FOMA)
48 寿君
五さんのおっしゃる通りで、その体制なら魏打倒とまではいかなくても、227年からの北伐のような無理をしなくても、作戦に幅が出来る分、以前五さんがおっしゃったように間接的な戦略で勢力を維持できますよね。
 荊州から牽制が入る分、涼州、関中方面への出兵において余裕が生じますから、そちらを獲得した時点で、荊州を呉に返還すると言う事も可能になります。

 しかし、人の生死は運命ですからね…。こればっかりはどうする事もできないのが悲しいですね。
 だから、三国志は味わいがあるんですけどね。
(P901iS/FOMA)
49
やっぱり、蜀としては単独で魏と当たるのは辛いでしょうから、荊州南部は呉に譲渡して同盟を再締結するのは必須でしょうね。
(P902i/FOMA)
50 不知火
五さんの言う通り荊州に関羽とホウ統を配置する予定だったそうです。

関羽の人物評価は自信がありすぎるってなってました。

呂蒙が床に就いたときの後任として就いた、まだ無名の陸遜が関羽を褒めちぎったので、油断した状態で北伐にかかったので、殺されてしまったようです。
(PC)
51 寿君
 いや正しくは関羽は南郡にまとまった兵力をちゃんと残して北伐してます。
 呂蒙が関羽北伐開始時点ではその留守を突くのが不可能だった為、自らの病気を理由に陸遜に代わったのが実際。
 呉書呂蒙伝にその計略で行く旨を孫権に上書した文が掲載されてます。
 よって関羽は油断して北伐開始ではなく、きちんと呂蒙が付け入れないように留守を固めてから北伐してます。
 呂蒙と陸遜の凄いのは、関羽陣営の人間関係のもつれ、関羽自身の徹底研究を元に、自らの既成事実(病気や陸遜の対外的知名度)を利用し、巧みに関羽を油断させ、電撃的に南郡に進攻し、速やかに蜀との連絡を遮断し関羽を荊州に孤立させた事ですね。
 ただ、一流の部類に入る潘濬でも補佐しきれてない関羽を補佐するのは並大抵ではないです。

 かなり脱線しました。どうぞお話を元にお戻しください。m(_ _)m
(P901iS/FOMA)
52
やはり、関羽という武人は単独で用いるべきではないのかもしれませんね。潘濬は呉に臣従してからも、異民族討伐や権力を奮って国政を乱した呂壱を孫権に直言しつづけ失脚させたりと、かなり有能に働いています。その潘濬でも補佐しきれない、というのは、方面軍指令官として関羽は少々失格だったのかもしれません。ただ、彼の武名以外に魏・呉両国に睨みをきかせられるだけの人材がいなかったのも事実ですし、政務にもそれなりに明るかったようですから、あの時点での蜀としては彼以外の人選はなかったのでしょうね。まあ、完璧な呂猛と陸遜の作戦勝ちでしょう。蜀にしてみたら、あそこで関羽が負けたら仕様がない、といったところでしょうか。
(P902i/FOMA)
53 寿君
 スレタイに異なる内容になる事をまずはお許しねがうとして、
 関羽は上流階級の官吏とかは大嫌いなんですよね。 でも、彼以外に荊州ぐらいの大きさの管区を任せる人間はいないんです。
 私は樊城攻撃はそれほど大規模な作戦を起こすつもりはなかったと思ってます。たぶん関羽が荊州で保持してる兵力は全部合わせても5万を越えたりしないでしょう。そこで呂蒙に備えて、しかも彼をして普通には攻略が難しい留守部隊を残してる訳です。
 とすれば、関羽の出征兵力は「蒼天航路」での2万と言う表現は正解と見てます。
 これで大規模作戦は無理と思うし、あれだけ呉に対して備えをしていたのを見ると「状況に応じて進退する」はずだったと思います。
 私はこの荊州失陥については、呂蒙と陸遜の手際を手放しで褒めてます。
 関羽は「蜀と呉は共に当たらねばならない」と言う固定観念に囚われ、かつ尊大な性格(さらに督荊州、漢中王の最古参と言う地位がそれを増大)が孫呉を外交の席上で侮る姿勢に繋がり、荊州の諸将との関係にも悪影響を及ぼして、それら全ての因子が作用して悲劇に繋がったと思います。
 諸葛亮にしても、劉備のほぼ盟友的な関羽の人事に口は挟めません。
 これは呉で言えば、孫権に魯粛が周瑜の人事異動で意見するような僭越な行為でしょうから…。
(P901iS/FOMA)
54
寿君さんの言う通りでしょう。戦争は兵の数や武器の優劣や地の利なんかより、指揮をとる人間がその勝敗を決める、と私は思っています。関羽は勝者となるには、まずその武が強過ぎ、次にその経歴が大き過ぎ、最後に性格が剛毅に過ぎたのでしょう。
(P902i/FOMA)
55
 ふと思ったのですが、劉備はなぜ馬謖を「口先だけの男」だなんて言ったんですかね。それまでの経歴だって、出は『馬の五常』と言われた馬氏五兄弟の末子で、各地の県令や太守を歴任していたようです。難癖つける方が難しいような経歴なのに、何が劉備をしてあれほどの忠告を諸葛亮に与えたのか・・・・知ってる人いませんか?
(P902i/FOMA)
56 寿君
 簡単な話だと思いますよ。
 学識や名声がそのままその人間の本質ではありません。
 東大出たからと言って、その人が人品優れた人とは限りません。
 例えば、法正は非常に性格は悪かったけど、才能は秀でてました。
 ましてや劉備は若い頃から様々な人間と交流してます。人間は直に面と向かって交流してみなければ、本質は見抜けません。
 また劉備は任侠の人。裸の付き合い(意味を取り違えないでね・笑)で人と接したはず。
 それで下した結論が、あの馬謖評ではないでしょうか。
 諸葛亮はその点、人間観察において理が勝ちすぎてたのではないでしょうか。
(P901iS/FOMA)
57 寿君
>>56
 ただ、そうやって劉備は馬謖の本質を見抜いていたと言う記事を載せる事によって、陳寿は
「昭烈皇帝はこのように人を見る目がおありになったのだ!」
 と劉備の美点を称賛すると言う考えがあった可能性はありますね。
 もしかしたら、馬謖失敗と言う結果を利用しての「劉備賛美」だった可能性もあるかも知れません。

 歴史書って編者の思惑や思想も作用する事はこのサイトでも皆さんが語られてますから、私はそんな風にもみてます。
(P901iS/FOMA)
58 巫俊(ふしゅん)
・北伐について。

最初に長安城を制圧したとしても、関中の広い平野の中で孤立するだけです。
畑と牧草地、そして森林のなかに陣を置いて、漢中からの補給を仰ぐことになりますよね。
関中の東の入り口まで蜀軍が進撃する前に、洛陽からの援軍が到着するか、仮に関中の入り口を押さえたとしても、何個もある入り口に諸将を分散配置することになる..
孔明の選択は妥当なところだと思います。
(PC)
59
 その配置する武将を誰にするかも問題ですね。なんといっても、蜀は慢性的な人手不足ですから。
(P902i/FOMA)
60 しす
話が脱線しつつあるので北伐の話は>>>157辺りでした方がいいんじゃないですか?
(PC)
61
 脱線しすぎました。すいません。
 先程の寿君さんの話、成程と思いました。確かに、流浪生活の長かった劉備なら、独自の人を見る目が備わっていたとしても不思議ではありません。また、陳寿は『三国志』において、劉備のことを「先主」と書いているのに対し、呉の孫権に対する記述は「呉王権」と諱をそのまま載せてますから、二番目の説も可能性はおおいに有ると思います。
しかし、馬謖も有能ではあったのに惜しいですね。幼い頃から有望だ有望だと言われていると、能力面での成長はあっても人間性が成長しなくなるんでしょう。そこが、劉備をして諸葛亮に忠告させた理由なんでしょうね。斬るのは惜しいが、こういう人間は一度の失敗が挽回できない人が多いので、斬らずにおいても前程の活躍が出来たかは疑問ですね。
(P902i/FOMA)
62 寿君
>>61
 また、街亭を防衛任務と考えた場合、劉備の馬謖に関しての忠告は重々承知の上で派遣した可能性はあります。
 派閥の問題とか任務の内容等については既出ですので、ここでは言いません。
 素人丸出しな答えでいささか恥ずかしいのですが、「使うなと言われても使わざるを得ない」状況ってのは現代社会でもあります。
「なんであんなのが課長やってんだ。あの有能な社長が信じられん…」
 ってな事がね。

 ところが納得がいかない人事だったとしても、組織全体の構成図を考えると起用せざるを得ないケースがある。

 諸葛亮はそれで組織に不利益を与えたから、きちんと責任を果たした。

 「泣いて馬謖を斬る」とはそう言う事だと私は思います。

 まあ、魏延や呉壱を起用しなかったのは、彼らは決戦時の主戦に温存したかったのではないかと思ってますが…。
(P901iS/FOMA)
63
諸葛亮自身は馬謖の事を買っていたようですし、副将に王平を用いている所を見ると、馬謖そのものを十分主力に考えていた節があります。諸葛亮は自分の人物判断にかなりの自信をもっていたようなので、劉備の忠告も参考程度にしか聞いてなかった可能性が高いです。          また、馬謖の有能さは皆に知れ渡っていたでしょうし、馬謖は無能だが使わざるをえなかった、というのとは違うと思います。
(P902i/FOMA)
64 巫俊(ふしゅん)
そのとき(街亭のとき)魏延は暇を持て余して遊んでいたという訳でもないのでしょうし、
多分降伏した三郡の処理や他の備えなどに孔明配下の諸将は振り分けられていたんでしょうね。
とりあえず蜀の全軍揃って街亭になだれこむという状況ではないのですし、
むしろ長安より以西の郡県を自立した蜀の衛星都市として整備する必要があるはずです。
そのための時間稼ぎは馬謖に任されたのですが、張合βの登場をまえにして馬謖は..
有能以前に複雑な状況を前にして、背中に負う気持ちが大きすぎたんじゃないのかなと思います。
私なんか、シミュレーションゲームやってても気持ちをこめ過ぎると大失敗したりするんで(それも今日したばっか..)
(PC)
65
過度の期待は人を潰しちゃいますからね。馬謖も可哀想と言えば可哀想です。
(P902i/FOMA)
66 寿君
 いやあ、しかし馬謖伝を見ると、意見を具申した者は魏延・呉壱に先鋒にさせるのがよいといってたと言う記事がありましたので、馬謖起用は予想外であったのは確かです。無能とは思いませんよ。
 ただ、王平つけたのは余り評価できません。この人、偏屈な職人肌の武将で馬謖より戦場往来は長い。これに意見されたら、理論のみの若い馬謖には逆効果な気がします。
 もしかしたら、これでテンパって…と言う事もありえませんか?。
 諸葛亮に認められた才子が、文盲の一部将に当たり前の意見をされたから、性格の悪い面が出て、防衛すれば済むものを、「だったら大戦果を挙げればいいんだろ」と言う魔が差した可能性もあるのではないでしょうか?。
 どうも諸葛亮は軍事面の人事だけが下手に思えます。
(P901iS/FOMA)
67 赤龍
>>55
ちょっと細かいことですが、劉備は馬謖を「口先だけの男」と評していたというのは正しい理解でしょうか?
正しくは「言過其実」つまり「言葉が実質以上に先行する」と書かれています。
「口先だけ」というと、実際は無能というニュアンスを含みますが、そこまでは言ってないですよね。
そして、この発言は直前の「好んで軍計を論じ、諸葛亮に高い評価をうけた」という一文を含めて理解すべきとおもいます。
つまり、実戦経験に乏しい机上の兵法の秀才と、それを高く評価するやはり文人気質の諸葛亮。現場の実戦経験豊富な劉備がそれに危惧を抱いて、諸葛亮の性格も含めて戒めた。そう考えると、妥当な発言に思えるのですが。
ただ、たしかに>>57で寿君さんが言われるように、なんだかうまく出来すぎた話にも思えますね。


(PC)
68
赤龍さんのお話、参考になります。
寿君さんの話ですが、私は王平をつけたのは間違いだったとは思いません。
前にもありましたが、経験不足の馬謖に経験を積ませるための起用だとすると、経験豊富な王平をつけてやるのは当然ですし、反対に諸葛亮が馬謖の能力を認めていたとすると、王平のような武将も十分使えるようにならなければならないでしょう。だから、諸葛亮にとって馬謖の失敗はかなりショックだったのでしょう。
(P902i/FOMA)
69
経験不足ってやはり怖いことですね。ただ蜀にしてみれば、人材は皆無。その場で経験を積ませる他はなかったのでしょう。今更思いますが、街亭は山に陣取っても守るのに難しかったのでしょうか?
(W32SA/au)
70
軍勢の数が同数なら山の上でも守れると思いますが、あの場合は馬謖軍の方が少なかったので、手出しができないうちに包囲されてしまったのでしょう。
(P902i/FOMA)
71 天草
しばらく来てなかったので、お初の方がいましたら、よろしくお願いします


>>69-70
私は、街亭で山頂に陣を敷いたことに関して、本当に間違っていたのか?疑問に思っています。
馬謖が敗走したのは、間違いないのですから、正確に言えば、山頂に陣を敷く事が本当に失策だったのか?ということです。

兵法なんて、ノストラダムスの預言書みたいなもので、別の項目から見れば逆の説明がつく場合も多いですし。

ただこの戦が蜀軍にとって敗戦だったから、敗戦に理由を付けるために山頂に陣を敷いた事が選ばれたのではないでしょうか?
(PC)
72
確かに、戦術の解説書たる兵法書には、見る視点によって様々な見方が出来るものが沢山あります。
ただ、やはり街亭の戦いにおいて馬謖軍が山の上に陣を張ったのは間違いでしょう。
理由第一:戦術において最も根本的・基本的な事は『いかに敵より多い兵を集めるか』にあり、その点で馬謖軍はすでに戦いが始まる前から勝利に遠い。
理由第二:山の上というものは、えてして水不足に陥りがちであり、水の不足は士気の減退に直結する。
理由第三:兵書にはよく『地の利は山にある、先に山を獲った方がいい』と書いてあるが、地の利は各々の戦場の数だけあると言っても過言ではなく、その兵書の言葉を鵜呑みにするのではなく、いかに応用するかが重要である事。
理由第四:敵である魏の将軍張コウは名将の部類に入る武将であり、これ程の敵と戦うならもっと(あえて勝ちではなく引き分けを選ぶ程の)慎重さを持つべきであり、馬謖はその点自分の才に自信を持ちすぎていた。(自信の持ちすぎは身の破滅を招く。武田信玄も勝ち過ぎはよくないと言ってます)

以上の点で、山の上の布陣は失敗だったと思います。
(P902i/FOMA)
73 ジョージ
皆様、初めまして。 興味深い話題なので参加させてください。
まず、五さんの理由第一について。 理由はいつも、〜だからで締め括るとわかりやすいので、勝手に換言させてもらいますと、「戦術において、敵より兵を集める事が最重要であるから山頂に布陣した事は間違いである。」ということがかかれてあると思うのですが、いまいち理解できません。 山頂に布陣するかしないかと兵数の増減は関係あるのでしょうか? 五さん、突然で申し訳ありません。よかったらレス下さい。
 また、兵書の内容を応用できたのならば、山頂に布陣せずにいる事は簡単な事なのですか?
結果からみると、確かに山頂には布陣すべきではなかったのだろうと思いますが、どうして馬稷は先が読めず敗退したのでしょう?
その時の馬稷の思考を追ってみたいなぁ(笑) それと、物書きに不慣れなものですから、至らぬ所が何かあれば、ご指摘下さいますよう その時は改めさせていただきます。
(J-N51)
74
はじめましてジョージさん。
理由第一については、街亭の地の利が重要です。確かに日本にも山頂に少ない兵数で布陣し勝利した事例もないではありません。ただ、それらは敵兵との兵力差がまだ挽回できる状態であったり、本国との兵や物資の輸送・移動が可能な状態であったりと、布陣した軍勢が孤立しない状態であることが勝利の最大の理由です。街亭の場合、馬謖軍が山に布陣すれば魏の張コウは本国との通信遮断作戦を採るのは火を見るよりも明らかです(馬謖軍を孤軍にするのがこの場合もっとも効果的な殲滅方法だから)ので、馬謖軍はその場合、自軍のみで包囲を破らなければならない・・・・。馬謖対張コウ・・・・兵力が同数でも馬謖に勝ち目はないでしょう。
これが、理由第一の説明です。説明不足でしたな(笑)
(P902i/FOMA)
75 しす
>>71の指摘はある意味尤もな疑問ですよね。
確かに「山頂に布陣したから負けた」という記述はないわけですから。
水源にしても「山頂に布陣した結果、水源を確保できなかった」とは書いてません。
王平の伝を読む限りでは、むしろ「水源を確保せずに山頂に布陣した」と読める気がします。
また王平が「山頂の布陣に反対した」こと、そして「王平軍が踏みとどまり、敗残兵を吸収し無事帰還させた」ことから王平の言う事が正しかったと思われがちですが、王平の言う通りだったら街亭を確保できたという保証もないですし。
ただ私が気になるのは、連座して張休、李盛が死罪になり、黄襲は兵を没収され、陳寿の父親がコン刑に処されるなど関係者の処置が苛烈を極めているように思われます。
単純に馬謖の失策だけではかたずけられない事情もあるのではないかと言う気もしてきます。
(PC)
76
諸葛亮の苛立ち、という線もありますね。
諸葛亮は臨機応変の策より、しっかりと事前に作戦を立ててから戦うタイプなので、その策を一個無駄にされた苛立ちもあったと思います。
(P902i/FOMA)
77 ジョージ
五さん、解説有難うございます。ただ、火をみるより明らかな程の山頂布陣という選択肢をとった馬謖。
本当にこれだけの男がここまでの地位に昇り、またかの諸葛亮(人選下手とはいえ)から期待されていた。
これはあまりにも不思議な事です。
なぜなら、五さんの解説にある兵法さえ知っていれば孤立を避けるため街道死守の選択肢を採るのが自然である。と思うからです。 
馬謖が山頂布陣のカードを採った要因、または街道死守のカードを捨てた要因はほかにどのようなものがあるのでしょうか?
(J-N51)
78 天草
亀レス失礼。

五さんが>>72で指摘する文章は確かに一般論ですが、私はどうしても、>>75でしすさんが仰る様に、山頂に布陣することが失策だったとは思えません。

兵数の差を挙げている様ですが、逆に魏軍の方が大軍だったとしても(この兵数の差の記録はあるんですかね?)、その大軍に山頂を取られては、手も足も出なかったような気がします。

敢えて馬謖の失策を挙げるならば、しすさんの言う水脈でしょうが、これを失策というなら、俗に言う「背水の陣」なんてみな失策です。

要するに…失策か?妙策か?はあくまでも結果論でしかなく、この戦いの結果を見ただけで、山頂に陣を敷いた馬謖の策は失策だ、無能だと決め付けるのは、早合点のような気がしています。
(PC)
79 寿君
 確か以前ここでも見かけたし、本でも読みましたが、街亭は研究によると当時は鬱蒼とした大森林の中を街道が通る地勢だったとききます。
 ならば、なんで兵力で劣る蜀軍はゲリラ戦術を取らなかったのでしょうか?。
 いくら大軍でも森林の中の一本道では隊列は長くならざるを得ず、勝機はあったはず。
 水源と言うのはこの森林地帯内にあったのではないでしょうか?。
 諸葛亮の命に背いた結果が山上布陣であるならば、諸葛亮は「森林での戦い」を命じた可能性は否定できません。(街亭が森であった研究結果が確実で、諸葛亮の性格からして命令は正確に伝えるだろうと言う前提条件から言ってます)
 ところが、馬謖は命令に背いた件については勝てば事後承諾で済みますが、山上布陣ならそれなりの綿密な作戦が必要。
 ところが、命令は煩雑を極めたとあるぐらいだから、戦う以前の問題だったと思います。
 馬謖は知識としては有能かも知れませんが、軍隊指揮官としては失格だったのでしょうし、諸葛亮も、馬謖の非凡さを知っていたからこそ巧くやりとげてくれるだろうと言う甘い考えがあったのではないでしょうか。
 諸葛亮も完璧じゃありませんし、あの大軍事作戦の総指揮は経験値不足だったから起きた痛恨事だったと思います。
(P901iS/FOMA)
80 寿君
>>78
 ありゃ、書いてる内に天草さんのカキコがあったんで、話が合わなくなっちゃった(苦笑)
 要は馬謖は勝てると思った作戦ならば、勝てるような戦いをすべきだったけど、張コウの用兵が優ったか、もしくは馬謖の判断が少し遅れた為にああいう結果になった可能性は否定できませんよね。
 だって曹操ですら、ちょっとした判断ミスが赤壁敗戦に繋がったりする訳ですからね。(あくまで馬謖を有能と見た場合)
 なんか言い訳がましい書き込みになってしまいましたが、それもあるなあと思いまして(って書いてる内にまたダブったりして…・苦笑)
(P901iS/FOMA)
81
>>78
私は馬謖が無能だとは思っていません。寿君さんのいう通り、作戦遂行者として経験不足ではあったとは思いますけど。
ゲリラ戦の話も出ていますが、ゲリラ戦は将にも兵にもかなりの負担を強います。また、ゲリラ戦を成功させるためには軍を率いる将の非凡な軍才が必要です。馬謖に楠木正成や真田昌之の粘り腰と軍才があればゲリラ戦も成功したでしょうが・・・・お坊っちゃん育ちの馬謖はゲリラ戦を嫌がったのでは?戦争には率いる将の性格もかなり影響しますからね。それに、生兵法は怪我の元ともいいますし、経験不足の馬謖がゲリラ戦をしても、張コウなら簡単に各個撃破しそうです。また、背水の陣は私の中では下策です。兵法において最も重要視すべきは『いかに敵より多くの兵力を集めるか』にあり、背水の陣はそれができなかった軍隊が仕方なく採る布陣です。それに、背水の陣をとって殲滅させられた軍だっていたはずです。というより、普通に考えてそっちの方が(負けた方が)多いでしょうね。ただ、負けた戦が戦歴として記録に残ることが少ないので知らないだけでしょう。
(P902i/FOMA)
82 しす
結局これは正史全体に言えることですが、記述が簡素すぎて解らないことだらけ。
馬謖が孔明の指示に従わなかったのは確かなようですが、それがどんな指示だったのかも解らない。
馬謖の行動が理に適った行動ではなかったのは確からしいが、それが何を指すのか解らない。
馬謖が意図的に指示を無視したのか、それとも指示を実行できないような状態に追い込まれたのかも解らない。
そう考えると「山頂布陣」=「失策」という図式は極めて少ない記述から導き出せる一番もっともらしい答えであることは確かなんですよね。
でここからは私の勝手な妄想ですが、陳寿の父親がこの戦に関わり、しかもコン刑という極めて思い刑に処されている…。
(コン刑って確か降格より重いですよね。)
陳寿が直接記述することを憚るような事実が行間に潜んでいる…というのは考えすぎですかね。
(それは何?って聞かれると困るんですけど)
(PC)
83 赤龍
しすさんも>>82で言われてますが「馬謖は諸葛亮の命令を無視して山に陣を置いた」という通説は、私にも根拠がはっきりしません。
諸葛亮伝では「馬謖は諸葛亮の指示にそむき、行動は妥当性を欠き、張コウに大敗した」とあり、馬良伝には単に張コウに打ち破られたとあるのみ。王平伝では「馬謖は水路を捨てて山に上って陣を構え、指示する措置は煩雑をきわめた。王平は何度も馬謖を諌めたけれど、馬謖はとりあげず、街亭で大敗を喫することになった」と。
つまり、馬謖が諸葛亮の命令にそむいたことはたしかなようですが、それがなんなの命令だったのかはさっぱりわからない。
また、馬謖の山上布陣自体が命令違反だとは書かれておらず、諸葛亮が「山上に布陣するな」とか「街道に布陣しろ」とかいった形跡もなし。つまり、単に現場に行って布陣する際に二人の意見が分かれただけの可能性もあるということになります。
(PC)
84 元歎
>>71
この戦が蜀軍にとって敗戦だったから、敗戦に理由を付けるために山頂に陣を敷いた事が選ばれた
>>75
王平の言う通りだったら街亭を確保できたという保証はない

まったく同意見です。この一戦だけで馬謖は知識のみだとか才能云々は言えないと思います。

>>75
連座して張休、李盛が死罪になり、黄襲は兵を没収され、陳寿の父親がコン刑に処されるなど関係者の処置が苛烈を極めている
ある人もこのことを疑問に感じ、こういう解釈をしていました。

馬謖の独断による大敗ならば、これらの部下の刑は重すぎる。では、馬謖の独断ではないのではないか。例えば、部下たちの強硬な要請(突き上げ)が最初にあり、馬謖はそれが諸葛亮の指示に背くことを理解していながら、またそれを思いとどまらせることができる立場にいながら止めようとしなかったのではないか…など。このように考えれば、馬謖も部下も重刑であったことの理由ができる。
(その人はまた、死刑の一歩手前ではなく死刑に処したのは、馬謖隊だけでなく諸葛亮本軍でも同様の突き上げがあったのではないかという考えをしていました。)

なるほどなぁと思ったものでした。確かに、こう考えると筋が通りますし、部下たちの突き上げが三国志に書かれていない理由もわかります。
(PC)
85 寿君
>>82
 もしかして…間違ってたらすいません。
 ちょいニュアンスが変だけど、現場での作戦上、陳寿の父の意見や行動が敗因となるべき重要なファクターを握っていて、敗戦。
 うまく説明できないけど、父の不名誉を消すべく、漠然と「馬謖に全てを被せた」…。
 例えば、天草さんの>>78の疑問提示にしたがって言うのなら、馬謖がもし実際には戦いの主導権を握っていたなら?と仮定した場合、(ありえないとは断定できません)先鋒軍内部に作戦や人間関係で亀裂があった可能性がありますよね。
 と考えるなら、主将に従わなかった配下の将に責任があるし、統率できなかった馬謖にも責任がある。
 向朗の報告しなかった一件(何を示してるのかは判然としませんが)もありますし、戦後馬謖の処断に賛否両方の進言があった事を考えれば、何か作戦とかでは片付けれないもっと複雑な要因が敗戦の後ろ(かつ史書には書かれなかった事)に潜んでいるかも知れません。
(P901iS/FOMA)
86 赤龍
さらに、王平伝のその後の記述は、王平指揮下の千人だけが踏みとどまって、撤退に功をあげたことが書いてあるのみで、王平が馬謖と分かれて街道に布陣したという記述はない。
つまり、この文章を読む限りでは、結局は王平も一緒に山上に布陣することになったが、撤退に際して活躍したということですよね?ということは、これだけでは王平案で魏軍を防ぎきれたと言い切ることはできない。
このように、実際の記述はしすさんのいわれるようにかなり乏しく、多くが意図せずにせよ、演義の記述を前提に議論を進めているように思えます。つまり、正史準拠で議論しつつも、正史の記述で分からない部分が演義の記述により補われてしまっている。演義の影響力が強すぎ、知らぬ間にそれに引きずられてしまってるということです。そこら辺を意識しながら、もう一度考え直して見る必要もありそうです。
(PC)
87 寿君
 すいませんまたダブっちゃった。
 私も要は>>84の元歎さんと同意見です。
(P901iS/FOMA)
88 赤龍
ありゃ、のんびり書いてたら間にお二人もの書き込みが(汗)
>>86>>83の続きの文ということで。なんか分かりづらくなってすいません。
(PC)
89 元歎
ちょっと話が逸れますけど…
また違うある人は、石井仁さんのように、王平は漢民族ではなく板楯蛮という民族出身ではないか(ちゃんとした考察です)と考え、張コウがたった一千しか率いていない王平の伏兵を恐れたのは、「神兵」として漢民族からも畏敬されていた板楯蛮が王平の出身であるからだと考えていました。街亭と板楯蛮が住んでいた略陽は、とても近かったようですから。
(PC)
90 赤龍
>>89
王平の板楯蛮説、これが本当なら、馬謖が王平の進言を聞かなかった一因にこれが関係してたかも?とか思ったりしました。
つまり「蛮族ごときが私の策に余計な口出しするな」みたいな意識があったのかも?いや、単なる私の妄想ですが(笑)
王平が生粋の板楯蛮かどうかはともかく、その血を引いてた可能性は十分あると思います。馬超も婆さんは羌族ですよね。漢人の進出により、漢人と蛮人の混血というのは普通にみられるようになり、漢人が蛮人かはっきり区別するのも困難なケースも多々ありますから。
話が少々脱線してしまいましたね。申し訳ありません。
(PC)
91 寿君
 もし板盾蛮としてそれを作戦に利用せんと諸葛亮がして、馬謖と王平がもし>>90のような理由で対立したら…。
 諸葛亮の心中はいかばかりだったかと思ったりもしまいます。
(P901iS/FOMA)
92
>>89
>>90
確かに、その可能性は大ですね。
どうも漢民族というものは、かなり自分達の民族に強い誇りをもっている(中国という国名も『世界の中心の国』という意味だとか)ようですから、いいとこ出の馬謖にしてみれば、文盲で蛮族出身(または蛮族の血を引く)王平に対し、差別意識があった可能性はかなり有ると思います。
(P902i/FOMA)
93 巫俊(ふしゅん)
馬謖でなくとも、戦線のどこかが崩れるだけで蜀軍にとっては撤退に追い込まれるような戦力差だったと思っています。
馬謖ひとりの軍が敗走したって、別軍を街亭に派遣するなり、三郡だけでも死守するなり、その何れの選択肢も用意できなかったところに蜀の弱さがありますよね。
街亭が要害だったから、それを魏に取られた以上どうすることもできないということでもあるんでしょうが、二の手が無い以上撤退するしかなかった諸葛亮の北伐軍に物量・人物ともに限界があります。
が、そんなことは孔明自身よく分かっていたでしょうから、そこで馬謖に軍を任せたことを後悔することになったんでしょう。
つまり街亭の馬謖は諸葛亮にとって切り札だったと。馬謖を切り札にしたことを悔やんでもあとの祭り。
(PC)
94
 やっぱり、あの状況下で蜀が魏を覆して天下を取るのは物量や人物の点で無理ですね。五虎将軍並の武将がいれば、それなりに楽しい戦いが出来たでしょうが・・・・やっぱり政治向き軍師の諸葛亮には北伐は無理ですね。みなさんが諸葛亮の立場ならどうします?
(P902i/FOMA)
95 赤龍
王平って、馬謖の副将、つまりトップが馬謖で二番目に王平という印象が強いですよね。
しかし、今王平伝を確認してましたら「参軍馬謖の先鋒に属す」と書かれており、あくまで馬謖の軍に配属された諸将の一人と見るほうが妥当ですよね。
すると、張休や李盛なども馬謖軍に属してた諸将であり、王平も彼らと同格程度だった可能性もありますよね。すると>>84の説もありえない話ではないとも思えます。
やはり、演義で植え付けられたイメージというのに注意しなければならないと感じました。
(PC)
96
 そうなると、指揮決定権をちゃんと確立させなかった諸葛亮のせいで負けた、という事になりますね。
(P902i/FOMA)
97 赤龍
ついでに、>>78でも天草さんが指摘されてるように、街亭での両軍の兵力差について触れられてる記述はどこかにあるのでしょうか。
魏軍の方が兵士数でも勝っていたということを前提に議論が進められがちになっているので。
両国の国力の差とかいう単純な前提はわかりますが…。
例えば、諸葛亮伝注の『漢晋春秋』には「大軍が祁山、箕谷にいたときは、いずれも賊軍より多数であった」なんて、むしろ蜀軍の方が兵数は有利だったような書き方もされてますし、馬良伝にも馬謖に大軍(大衆)を統べさせたと書かれ、馬謖軍自体もそう少なかったわけでもなさそうです。
ここでも、前提とされてる常識の確認の必要を感じます。
(PC)
98 巫俊(ふしゅん)
『漢晋春秋』は諸葛亮側をひいきしてる可能性を留意しないといけないですけど。

街亭の戦い自体はともかくとして、街亭を喪失した時点で蜀側に二の手が無かったこと(もしくは損耗をきらって撤退した?)、
関中平野の魏軍の数こそ用意不足だったとしても増援の数は時間を経過するにつれ増えるだろうこと、
魏延が参加していないこと、
蜀にとって魏は脅威であるが、魏の地方の軍にとっても諸葛亮の軍は脅威だったこと。
実はギリギリの戦いをしていただろうこと(張合βの活躍がそれだけ目立つ)。
それでいて関中全体で戦力的に蜀に優位だったとしたら、諸葛亮は臆病だったということになること(簡単に関中を掌握できるような数がないか、そうでないとしても敵の増援は相当数あるはず。そこら辺は漢の劉邦の北伐と違うところ)

といったところじゃないでしょうか。
局地的にはともかくとして、魏の数も複数の地域から集めてくれば少ないとはいえない。むしろ多いはずだけど。この時代増援のない時代というわけでもないし、関羽の北伐のときだって曹操軍の援軍が用意されています。漢水流域は洪水のなかだというのにです。
(PC)
99 巫俊(ふしゅん)
×魏延が参加していないこと
○魏延が街亭に参加していないこと
(PC)
100 巫俊(ふしゅん)
兵力的にはどうあれ、街亭の戦いの結果、諸葛亮は撤退を決定したんですよね。

三郡を捨ててでも帰るという状況だったのに蜀の方が数が多かったら、あとは兵糧か魏将や地形がよほど険阻だったか、どちらにしろ兵力的に蜀が勝っていたとすると、ほかの条件がより酷い状況だったということいになりますが、、、
つまり魏の数は最終的には多い説が私の考えです。
三郡の人口をいっしょに連れて帰るだけのゆとりはあったようですから、蜀軍は壊乱した訳ではないのも言うまでもないですね。
(PC)