1 徐福

姜維について

蜀軍最後の名将姜維ですが。皆さんは国の衰退を招いた亡国の将と見るか、諸葛亮の意思を受け継ぎ志を果たそうとした英雄と見るかどちらでしょうか?僕は三国志の武将の中で姜維が一番好きなので名将と見ています。
(EZ)
2 ナナホッシー
この人物に関しては正史の評価は厳しく、「文武の才能はあったが国の衰運を招いた」という評価ですね。
何度もここの板で挙がっているアスペクトの「三国時代」の解釈が私にはしっくりきています。「姜維の評価には演義による脚色のほかに、諸葛亮の脚色が入っている。北伐の戦果として姜維という名将を得た、ということが必要であったために諸葛亮が名将と喧伝した」というものですが、たしかに諸葛亮存命中の姜維の実績ってほとんどないんですよね。
(PC)
3 赤龍
陳寿の師ショウ周は、姜維による相次ぐ外征を、国を疲弊させ、仇なす者と『仇国論』を著した人物。陳寿の評価も、その影響があったのかもしれませんね。もっとも、それ以上にショウ周、陳寿含む大くの益州人の感情を代表したものだったのかもしれませんが。
(PC)
4 朱家
客観的に考えて正史の評価を覆すのは難しいですね。しかし、トウ艾にはかなわなかったが、軍才はかなりの評価をしてます。政治と戦争を切り離して考えてた典型的な将だと思いますね。負けない戦いをしていた孔明から何を学んでいたのか不思議でならない。
(A1304T/au)
5 天草
さすがに姜維についてのコメントは皆さんかなり辛口になりますね。

逆に彼の優れてた点、評価しても良い点というのはどうでしょうか?

私は彼が魏に降るシーンなんか、彼の忠義の姿を垣間見れるシーンとして、深く印象に残ってますが、皆さんは?
(PC)
6 朱家
前記しましたが、軍才に関して当時では屈指の人物だったと思います。局地的に見ればかなり勝ってますからね(トウ艾赴任以前)剣閣が要害とはいえ少ない兵力で、鐘会を撤退寸前まで守れたのは、統率力に優れていたからでしょう。劉禅が降伏した時、成都にどれくらい兵がいたんですかね?士気とかは別にして…劉ジン「矢尽きて挽回不能ならば、かなわぬまでも〜」これでは判断に困る。剣閣が突破される事はないし、呉の援軍が来たでしょうし、まあ兵が十分でも守れたとは思いませんが…
(A1304T/au)
7 無問題
彼は生まれるべき時代を間違えた可哀想な武将でしょう。それだけ当時の蜀は人材不足でジリビンな状態だったんです。
(W21K/au)
8 くわぁまん
日本の戦国時代の武将とすれば伊達正宗になるのかなぁ?

演義によれば蜀降参時の国力は戸数二十八万戸、人口九十四万、軍人十万二千、官史四万人とあります。

因みに呉は戸数五十二万三千戸、人口二百三十万、兵二十三万、官史三万二千人です。

蜀より国力の多い呉の官史、いわば役人の数の少なさには疑問がわきますね。
(F901iC/FOMA)
9 赤龍
私は武田勝頼のイメージがありますね。あくまでイメージなんであまり気にしないで下さい。
(PC)
10 無問題
彼の評価はハイショウシの注ではめちゃくちゃで『姜維ごときは一ヒップにすぎず、第一次北伐で成果をあげられなかった諸曷亮が成果を誇張するために名をあげているにすぎない』とありますよね。そこまでいうかと思いますけど…。
(W21K/au)
11 姜維は脅威?
広く人材を集められなかったのは君主劉弾のせいでしょう。
(N900iS/FOMA)
12 天草
陳寿(の父)は蜀の出というのはもう皆さんご存知だと思いますが、彼についてどう評価しているのでしょうか?
姜維伝が手元にないので詳しい事は分かりませんが、陳寿個人の評がないような気もします。

>>11
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(PC)
13 無問題
確か、陳式の事ではなかったですかね?あまりよく分かりません。確かに、自分の父をどう評価しているのか気になるところですね。
(W21K/au)
14 天草
陳式=陳寿の父説、ありますね。
ソースは不明ですが…(汗)
(PC)
15 くわぁまん
あちし、思ったのですが、姜維と一緒に帰順した尹賞、梁ケン等が歴史の表舞台に出て来ないのは残念です。

尹賞は執金吾に、梁ケンは大長秋に、それぞれ高官に昇っているのに…。

彼らは姜維に味方しなかったのかなぁ?
(F901iC/FOMA)
16 赤龍
姜維伝の終わりに、ゲキ正の姜維評が引用されてます。そこでは、姜維の清廉な態度が賞賛され「およそ人の議論と言うものは、常に成功者を称え失敗者をけなし、高いものをさらに持ち上げ、低いものをさらにおさえつけ」と敗者である姜維が一方的に非難されている事を嘆き、最後に姜維の人物を「その時代の模範」と評しています。陳寿は、評で姜維に対し酷評を与えつつも、このゲキ正の文をわざわざ引用した。これは陳寿の中に姜維に対する同情の気持ちもあったことを示しているのではないでしょうか。
(PC)
17 赤龍
もしかしたら、陳寿は晋に仕えている立場上、おおっぴらに姜維を賞賛する事ができず、評では建前として酷評しつつも、ゲキ正の言葉を借りて、蜀の遺臣としての己の本心を伝えたかったのかも…。なんて想像するのも面白いですね。
(PC)
18 天草
赤龍サン>私が考えていたのはまさにそこです!!

もしかすると、当時の世論や情勢から陳寿は姜維を高く評価することが出来なかったのではないかなぁ…と。

つまり魏や晋では姜維はかなりの悪党で、しかも国民の中でも蜀衰退・滅亡の第一戦犯と考えられていたのではないかと。
(PC)
19 赤龍
ただ、私は>>3で触れた、益州人の一人としての反感という考えも捨てきれないんですよね。
生き延びた遺臣として、国に殉じた姜維をどう思っていたのか?
陳寿が三国志を書いた時、蜀滅亡はわずか数十年前、同時代の人として複雑なものがあったでしょうね。戦後60年たった現在の日本ですら、戦時中の人物の評価に対してはデリケートなものがあるくらいですから。
(PC)
20 朱家
蜀晩年は反戦感情が高まってたでしょうし、その根本は姜維である事は事実だと思います。しかし更迭されてないのは、軍民から圧倒的な支持を受けていたと考えます。人柄やカリスマ性が優れていてたのでしょう。陳寿はその事に同情したのであってあくまで評価とは別と思います。才も人柄も良の人物であっても結果的に衰退をまねいたのは事実で、厳しい評価も当たり前と思いますね。
(A1304T/au)
21 子明
お初よろしくです

自分も姜維ファンとして言いたいのですが姜維は本当に孔明と同じように北伐を繰り返してしまったことがショクの国を滅亡に結びついたのでしょうか?
否、戦もせずそのまま三国の緊張感のあるバランスを保っていけるのでしょうか?
人口等、かん官の暴政で圧倒的不利な状況でショクが維持できるとは到底思えません自滅を待つのみです。
やはり戦をしての防御だと自分は思います。
それ以外に方法はあったでしょうか?


ちなみに陳寿の正史は晋(ギ)を主体(正統)として書かれている訳ですからショクや呉が皮肉にも悪く書かれていることは仕方のないことだと自分は思います。でもまだ他の数多い歴史書の中では陳寿の筆は平等の方です。


あともし孔明もしくは姜維が韓信のルートにギに進撃したらどうなっていたのでしょうか?

漢字がでなくて申し訳ないです
(PENCK/au)
22 子竜
皆さん、お久しぶりです。ずっと観ていただけだった子竜です。久しぶりに書き込ませて頂きます。
子明さん…はじめまして、どうぞ宜しくお願いします。
まず、姜維の相次ぐ遠征が…という話についてですが、子明さんのおっしゃりたいことはわかります。しかし、だからといって無闇に戦を起こすのはどうかと思います。戦を行うという行為自体が国力を消費してしまうのです。では子明さんのおっしゃるように指をくわえて眺めているだけか…というと決してそんなことはありません。国を守る為に、敢えて戦をするのも良いでしょう。ですが、それを可能にするのは前線と本拠の連携が取れてこそ…と私は考えます。ではショクは連携が取れていたか…ということになりますが、私は取れていないと考えます。何故ならここの討論場でずっと言われているように、ショクという国は極めて異質な国家で、法正を代表とする益州派閥、諸葛亮を代表とする荊州派閥、更に(これは私の付け足しですが)関羽を代表とする荊州以前の旧臣達の3つの派閥から成る国家だからです。これをまとめ上げていたのがいわゆる劉備の徳望であり、諸葛亮はそれを理解していたからこそ、劉備亡き後、しばらくは国内の安定、国全体の結束に従事しました。その為、七度に及ぶ北伐が可能になったと私は考えます。では姜維はというと、諸葛亮亡き後、しばらくは国内におりましたが、蒋エン、費偉が死ぬと、後ろをかえりみることなく北伐を行っています。それにより、各派閥の結束が破綻し、黄皓などという下賤の輩の台頭許してしまった…と考えます。では、どうすればショクが中原に進出できるか…ということになりますが、ここはやはり先に述べたように、しばらくは国内に止まり、国内の一枚岩化を謀ります。この間、魏が攻めてきたらショクの天険に拠って守ります。そして来るべき時(魏の内部分裂など)が起きたら、孫呉と連携し、一挙に進出していきます。たとえ呉が動かなくてもショクには未だにリョウ化、王平、馬岱、トウ芝、無名の者を挙げれば羅ケンなど、中原に進出する為の良材はたくさんおります。姜維の戦術家の資質があれば、長安くらいまでなら到達できるでしょう。もっとも、これはあくまで私の愚見ですので、異論が多々あると思いますが…。
…続く
(W11K/au)
23 子竜
…続き
続いて、陳寿のショク、呉に対する評価ですが、これはたしか、過去に討論されていたと思いますので、そちらを参照してみて下さい。
最後に姜維が韓信の進軍ルートを辿ったら…というのについてですが、私は韓信がどんな道を辿って進軍したかよくわかりませんが、多分、駄目だと思います。と言うのも、これは将棋や碁と同じで、たしかにその手は優れていますが、それだけに多くの人により研究され、数多の対策がたてられていると考えているからです。しかし、生兵法ではなく、それを参照し、自分流(この場合姜維流になりますね)にアレンジした策なら十分通用すると思います。

後、これは個人的な見解になってしまうのですが、政治をかえりみない(判断の甘い)点、武芸、用兵に秀でていた点を見ていると、彼は南宋の岳飛に似ているなぁと思ったんですけど…。いかがなものでしょう。
最後に、超長文失礼致しました。
(W11K/au)
24 元歎
そうですね。この頃はもちろん、諸葛亮の時代から成都と漢中に軍が分かれていました(といっても成都にはあまり兵力ありませんが)。姜維のころは官僚らも分かれているから、連携も何もありません。諸葛亮は李厳など反抗勢力を追い落とし失脚させ、漢中に半独立政権(幕府のようなもの…。219年頃の劉備と関羽のような関係かな?)を築きます。これが、のちに姜維がトップとなってしまう遠因であると思います。だから僕も、姜維が、ひいては諸葛亮が蜀の滅亡を早めたと思っています。

僕は、蜀臣は劉備派と諸葛亮派に分かれていたと考えています(もちろん、益州・荊州・その他の対立も最初はあったと思います)。蜀書で称えられていたり出世しているのは諸葛亮派であり、粛清の嵐にあっているのは劉備派です。諸葛亮派には蒋エンや向朗などがおり、劉備派には李厳や魏延などがいます。だいたい諸葛亮は文官との結びつきが強く、劉備は武官との結びつきが強かったのだと思います。この二つの勢力で、諸葛亮派が勝ち、上と同じですが、姜維の暴走の元となるわけです。三国志姜維伝を読めばわかりますが、姜維は戦争ばかりやっています。漢中の防衛線を下げ、その状態でまた出兵したりしています。皮肉な言い方をすれば、姜維こそが魏の征蜀軍最大の功労者といえます。

…なんだか、姜維の悪口ばかり言っているような気がしますが、別に姜維が嫌いなわけではありません。戦争狂ですから呂布とイメージが被ります(笑)。
(PC)
25 子明
自分の質問に答えて頂いて感謝です

さて少し気になったのですが姜維の最期はギの兵士に殺害されたもしくは追いつまれて自害してしまうと言うことを最近知ったのですが本当はどちらなのでしょうか?


演義と史実の違い?
もしくは各小説の違いで殺害と自害に分かれるのでしょうか?
(PENCK/au)
26 子竜
>>25
うーん…私は演義の後半はよく分からないので、何とも言えませんが、演義はあくまでも「作り話」なので、言っていることが全く正しいとは言えないと思います。ですが、そう割り切ってしまうと味気ないので、史料を使って推測をしてみたいと思います。
正史の記述によると、姜維は「殺害された」と書かれております。自害の記述については正史のどこにも記されておりません。ですが、世語の記述によると、姜維は「死んだ時に腹をさばかれた」とあります。これを使えば、姜維は自害したが、後に殺到してきた魏兵が自分達の功績を誇張する為に「殺害した」という形にした(「死なせた」ではなく、「誅伐」という形に仕立て上げた)。その既成事実の為に敢えて彼の腹をさばいた…
…と考えることはできないでしょうか?まぁ、まったくの推論なんですけどね…。いかがなものでしょう?
(W11K/au)
27 子竜
>>26
「死なせた」ではなく「自害に追い込んだ」と書き間違えました。すいません。
それと元歎さん、イメージを挙げてくださり、ありがとうございました。
(W11K/au)
28 子明
子竜殿》
早い回答感謝致します。

やはりギ軍に追い込まれてからの自害が有力視されますね
(自分の推測)

正史には殺害と書かれていたが…

まぁ基本的には三国志には色々な説もあるがとらえ方は個人それぞれなので三国志を楽しめればそれで良いと自分は思います

ありがとうございました
(PENCK/au)
29 天草
age
(PC)
30 馬玄
天草さん>先程は有難うございました。
皆さん>姜維の若年の活躍など聞かせて頂けませんか?壮年の事は過去スレで大体わかりましたので。
(W31CA/au)
31 ストラップ
>>>299-15
「智不出敵、而力少於寇、用之無厭、何以能立」と評価されているところから考えても、世間の人が思う程の知恵者では無かったのだと思います。
(PC)
32 天草
>>30
残念ながらほぼ皆無に等しいです。。。

(前略)幼くして父を失い、母と暮らした。鄭原(漢字が違うかな?)の学問を好んだ。

注では、姜維は功名を樹立する事を好む人物で、密かに決死の隊を養い、庶民の生業に携わらなかった(傅子)

こんな感じです。
(PC)
33 馬玄
密かに隊を編成し常に功を上げる機会を窺うとは大胆かつ冷静な姜維らしいですね。

有難うございます。
それと、姜維の容姿について何かご存知でしたら聞かせて下さいm(_ _)m
(W31CA/au)
>>>68も姜維スレッドです。
(F2102V/FOMA)
35 三国志○
しすさん!素晴らしいご返答ありがとうございます☆☆スレが移動になったのと返答が遅れたのをまずお詫びします↓僕自身の三国志はまだまだ狭く浅はかですがどうぞまたご教授のほど…。しすさんの姜維に関する返答ですが、無血開城ですか?僕自身の政治的観念からみるなら、確かに判断自体は間違ってはいないでしょうね、しすさんの言われている事も理解できます、五斗米道の教祖張魯なんかもほぼ本土決戦などにおいては無血開城に近い形なので、曹操などからも評価されているものだと思いますたしかに、圧倒的国力差213年頃の統計でこれが正しいかはわかりませんが蜀の兵士の最大動員数が5万人に対し魏は30万人さらに孔明没後の時にはさらに差は開いていたと思います、数字で見ても一目で圧倒的に不利確かに無謀!ですが蜀という国、軍事国家と言われていますが地縁や血縁関係を重視していた漢民族の社会の中で、劉備の時代の頃現代の僕とかでも理解しやすい友情や義理によって形作られていた組織が苦難を得て蜀という、国家にまでなったのにその最たる長子が無血開城?!たしかに『勝算なきは戦うなかれ』ですが!それはあまりにも蜀の散っていった同朋に対して酷な結果なのでは?僕の中の、姜維は上記のような友情や義理、劉備の時からなる基盤をよく理解していたように思うのです…。全体を見る君主たる劉禅の判断→圧倒的不利→降伏ってトコですが君主としては○なんでしょうがこの時代『特に蜀』を統括する者としては×だと思います☆まぁ現代の僕からすれば戦争で人が死ぬ事自体が極めて遺憾でありおかしいとは思うものの当時の蜀〈劉備や関羽や孔明その他から受けつがれてきた〉の志を無視した政治的決定は、納得がいきません!かなり感情論+推論ですが姜維は 将軍としては○蜀(いわゆる蜀時代後期、孔明死後のメンバー)としては×ですが、一人の男としては大いに◎これも正史に詳しくない若輩者の意見ですが蜀という国の根底をよく考えて頂きたく思います。これが現代や政治的いわゆる話し合いなどで決着がつく時代なら姜維は狭い所しか見えてない人でしょうが、これは三国時代、戦争を抜きには語れない時代の話しです!!『一人の男子に生まれながら本懐を遂げられぬとは…』ぐらいじゃないと!だから当時の時代としては姜維は〇三国終焉してからの陳寿や平穏な時になってからの評価では×でしょうかね!しすサン今後とも宜しく!
(V903SH)
36 しす
>>35
亡き英霊の志を無視するよりも、民の怨嗟の声を無視する方がよほど罪だと思いますが。
志を全うすると言えば聞こえはいいですが、当時の蜀の状勢を考えれば劉禅が降伏せずに抵抗したとしても単なる悪あがきにすぎなかったと思います。
ただでさえ国が疲弊しているのに、その上更に国土を荒廃させることが国政を預かる者の為すべきことでしょうか。
戦乱の時代であろうと平穏な時であろうと民政を無視した軍事行動は肯定されるべきではないと思います。
それに蜀の志と言いますが、姜維は諸葛亮が死んだ時、後事を託されていませんよね。
後事を託された蒋エンや費イの功績を無にしてしまった姜維を「蜀の志を継ぐ者」として評価することは私にはできません。
私は劉禅が有能だとは思わないし、姜維が無能であったとは思えません。
それゆえに本来劉禅を補佐しなければならない立場であったはずの彼が政治から目を背け、軍事行動に没頭してしまった行為こそが悔やまれるべきだと思います。

あ、あとスレ内容とは関係ありませんが>>35の文章はPCから見ると読むのが嫌になるくらい、非情に見難くなってしまっています。
出来れば句点ごとに改行を入れていただきたく思います。
それと、こちらこそ宜しくお願いしますね。
(PC)
37 三国志○
しすさん…。いやはや勉強不足は百も承知でしたが…たしかにおっしゃる通りですね。
姜維や蜀というより蜀になる前の劉備たちに傾倒しすぎたようですなるほど漢再興の根底は民の事を第一に考えていましたね…。これは演義の虚構かも知れませんが…。
たしかに蒋婉や費緯←(漢字がでない…)後継に指名されてるのは知っていましたがどうも小説などに影響を受けすぎているみたいで
文章も読みずらく申し訳ありません。
回りが見えていないのは僕も同じでしたね↓いや楽しかったです!また色々と教えて下さい↑感謝です!!
(V903SH)
38 しす
もう一つ補足すると陳壽の生没年は233−297年。
蜀の滅亡は彼が31歳の時の263年。
呉の滅亡は280年。
彼の生涯のほとんどは戦乱の時代であり、蜀の滅亡をその目で見届けた人物です。
決して平穏な時代を生きていたわけではありません。
また姜維のことを「文武両面に秀で」と才能を評価した上で、彼の失敗を非難している辺りに私見に捕らわれず、冷静に姜維を(他の人物もですが)評価しているように思えます。
(PC)
39 兀突杯
はじめましてm(__)m
姜維を戦国武将に例えるなら山中鹿之助に似ているように思えます。国を思う気持ちや意志はわかりますが国を衰退させてしまった張本人の一人かと…
生まれてきた年代が悪かった…
軍才はあったと思いますが政才は…
蜀晩年の悲しい人材事情だと思います。
(SH903i/FOMA)
40
はじめまして、柊と申します。よろしくです。

僕は好きですね、彼の生き方は。というのは、日本人に良く似た性格の人物だったのではって思うんですよね。僕が感じるのは名将というより、日本にあわせれば『侍』です。亡き主人を想い、確固たる意志のもと行動していたのではと思います。当時の思想、理念というのは今では想像つかないほどのものであったと思うし、命をかけるに値するものだったのでは?と感じるんですよね。(勿論、姜維一人ではなくて)だから、当時の状況でいうならば無謀でしかないと思うかもしれませんが、彼の行動は必ずしも否定、卑下できるものではないと思います。

でも、現代に置き換えていうならば、暗愚な主人に仕えてるからと言って玉砕する事が正しいわけではありません。戦争は決して正しくありませんからね。
ただ、思うのは(余談になりますが)数しれない殺しあいの後で僕らは生きてるんだから、正史だろうが演義だろうが現代を生きる参考にしていけたらと、常々、感じています。その為に本来、歴史は記されてると思うので。生意気ごめんなさい。
(W32S/au)
41 赤龍
兀突杯さん、柊さん、はじめまして。よろしくお願いします。

私も姜維は好きな人物なのですが、この人のことを考える場合にはやはり演義のフィルターをはずしてみなければならないように感じます。
彼が戦い続けたのは、本当に孔明の遺志とか、蜀漢の理想とか、忠義とかいう美しい名分のためだけなのかと。
私には、軍人としての功名心とか、政治力にも人脈にも乏しい彼が政権内で地位を維持するには戦って功績をあげつづけるしかなかったとかいうような、彼自身の事情もあるようにかんじます。そうして戦争を続けるほど、姜維に不満を持つ者も増え、ますます軍の中にしか居場所がなくなり、手柄を立てて認めさせるしか無いという悪循環。確固たる戦略を元に戦争を行なっていた孔明に対し、戦争自体が目的となってしまったかのような。ちょっと辛口の評価ですが、こうしたことも考えてしまいます。
(PC)
42 赤龍
魏を裏切って蜀についた以上、今さらもう一度魏に降ることが出来ないという、彼自身の意地とか面子のようなものもあったかもしれないですね。
(PC)
43
赤龍さん、ありがとうございますm(__)m
でも、やはり彼には『大義名分』があったと思います。
赤龍さんのおっしゃる通り多方面からみると、『自己防衛の為に…』との見方もできますが…僕にはそうは考えられないんですよね。簡単な話、姜維ならばクーデターを起こすことはできたのでは?って思うんですよね。晋と戦うより楽だと思うし降伏だってしやすい。ジレンマに陥っているなら、尚更かと。
(PC)
44
あと、『士は己を知るもののために死す』っていう言葉がある通り、『魏を裏切ったから』というよりは『厚遇してくれたから』の方が姜維に関しては、僕的にはしっくりくるんですよね。いかがでしょうか?
(PC)
45 将劉賢
みなさん初めましてm(__)m
軍人としてはそこそこ評価できる。しかし、一国を背負うには厳しいって感じですかね。
宮中すらおさえられない立場で、一国をおさえられる訳がないという感じっす。いろいろ教えてくださいm(__)m
(SA700iS/FOMA)
46 巫俊(ふしゅん)
こんばんは。
宮中の事情などは一国の成否にかかわる問題であって、姜維ひとりの手に負えるところではそもそも無かったと思います。
大将軍といっても何でもできる訳じゃないし、派閥とか名門とかが足を引っ張っていて改革など容易ではないですよね。
とくに奥向きの後宮に関することなどは外戚でもない大将軍には意見する権利もないこと。

などとつらつらと適当に言ってみましたが、蜀の滅亡は蜀漢の支配階級の共同責任だと思いますよ。
しいていえば保守主義者の諸葛亮なんかに問題があったんじゃないのかな。
諸葛亮が存命のあいだはともかく、死んでしまうと手のつけられない慣例とかがあったのでは。

最近近代史に凝ってるんで、国民的人気のある保守主義者が国を滅ぼすのだとか思ってるんですが(^^;まあともかく、
根拠があったら探してみます。
(PC)
姜維は蜀滅亡後も魏に何度か蜀の残将を募り蜀復興を胸に反乱を起こしてるようだし私は名将だと思ってます。私も姜維が1番好きですね。孔明死後の姜維の気持ちを考えると涙がでます。。。劉備幕下に入った後は外様で肩身の狭い思いをしていたと言うのがあるけど姜維は賄賂などを嫌ったが為に外へ出されただけで劉備と言うより孔明よりですが蜀に忠誠を誓った一人だと思いますよ。
てかコウコウが劉禅に降伏をさせなければ姜維の評価もまた変わってたんでしょうね。。。
(811SH)
48
孔明亡き後の蜀の軍事面を支えたという功績を持つ一方、多年に渡り無謀な北伐を敢行し国力の衰退を招いたという見解があり、特に費偉没後の独裁では批判の多い武将です。また、蜀滅亡後の反乱は孔明の意志を告ぐものとは言いがたいないようです。
しかし、三国志愛好家のなかでは文武両道や義志の精神から登場人物の中でも非常に人気の高い人物の一人です。
(PC)
49 ☆あっ!
劉禅は北伐中の姜維を説得しようと試みていますが姜維はそれを聞き入れていませんよ!で、結局成都に帰れなくなって孤立したと考えられます。
国家が成立するころの話ですから乱世の時代とは大きく時勢が違いますけど・・・・。
(PC)
50 朱家
姜維は演義の先入観が強いですからね。とりあえず、孔明から、後継者どころか、軍事面の後継者でもないのは致命的でしょう。
蜀への忠義というのは、私には理解できないんですよね。
劉シンなどは、最低な人種だと思ってますからね。所詮は記録とか、聞いた話によって、劉備像や蜀漢像を、極めて強い思い込みで作り上げ、それを周りに強要し、それが叶わないと妻子を斬って、劉備の墓前で自害。劉備に会った事すらないのに…
姜維は、すぐに投降せず、劉禅の安全を確認した後に降ってますから、劉シンのような人種ではないと思いますよ。
(PC)
51 赤龍
その理屈だと、一旦降服し、後主の身柄も安堵されたにもかかわらず、反乱を企てた姜維はもっと最低な人種になりますね。
劉シンがまきぞいにしたのは結果的に家族のみですが、姜維は妻子のみならず、将兵の命もまきぞいにして奪い、後主や蜀の臣、戦火をまぬがれた民にまでに、死の危険にさらそうとしたのですから。
曹操も劉備も諸葛亮もみな、自分の目的のために、他人に(しかも劉シンとは比べ物にならないほど多くの人に)なんらかの形で死を強いた、もっと最低な人種になりますね。

なぜ、劉シン一人が特別最低の人種と批難されるのか、私には理解しかねます。
(PC)
52 朱家
う〜ん、稚拙な文はお詫びしないとなりませんが…
劉シン一人に限定してませんし、妻子を殺した事でもないです。まあ敵を殺さず、味方(妻子)を殺すのは馬鹿だと思いますが。
建前や理想(自分の想い)を語り、あとは自害って酷いよ。何も語らずの自害か、語ったなら玉砕でしょう。以前から想いを行動で示してても可。ちょっと違うけど、口先だけって感じです。
蜀への忠義だろうが、自分の信念、欲だろうが、そのために精一杯生きたのか?もうやれる事はないのか?その上での自害なら、最低なんて思いません。
一般的に、劉シンの行為が蜀への忠義とされてますが、私には理解できず、忠義とも思ってません。姜維も蜀への忠義と表現されていたので、それに対する反論であり、安易に死を選ぶ人物ではないし、劉禅を無視して玉砕する人物でもありません。と書いたつもりでした…
(PC)
53 赤龍
>>52
劉シンは公子といったとこで、軍権があるわけではなく、朝議が降服と決定した後では、彼程度にどれほどのことができるでしょうか?精一杯の抵抗と意地といえば、国に殉じて死を選ぶくらいではないでしょうか。

そもそも、生きて虜囚の辱めを受けるよりかは死を選ぶ。これはかつては、中国に限らず日本でも珍しいことではありませんよね。その数多い事例、時に悲しい事件、みな最低の人種だったのでしょうか?
現代人にとってみれば、愚かで無意味なことかもしれませんが、当時の価値観や美意識から導き出された精一杯の決断なわけですよね。たとえ、愚かで短慮だったとしても。それに朱家さんがどう感じられようと、全くの見解の相違で、それ自体は問題とは思えません。
しかし、それを安易に「最低な人種」とまで貶めるのは、私にはあまり好ましいものには思えません。
(PC)
54 朱家
私は、国に殉じて死ぬ、辱めを拒否して死ぬ、愚かで無意味なんて思ってません。

皇族として、何もしてこなかったが、最後だけ死を選んだ、これを最低だと思うのです。皇族で王位、子供でもなく、一般に立派と言える行為だが、それ以外の記述がない。
私は、劉シンがどんな人物か分からない、を前提とし、主観で話してますが、多くの人は、死を選んだから立派な人物だ、を前提としてます。私の前提が正しいと思ってます。
強い主観であり「最低の人種」は不適切だったかもしれませんし、前提以外の主観を、真実である話し方になった事は、お詫びしますが、私の考えるような人物であった可能性もあり、それを最低と思うかどうかが、見解の相違へつながります。

私が発端ですが、こういう議論はキツイです(笑)基本的に「死」の事は、赤龍さんと同じですし、私が言わんとする事を、理解頂ければと思います。
(PC)
55 赤龍
>>179-34を見てふと思ったのが、姜維ってなんとなく「永遠の若武者」的イメージがありますよね(ひょっとして私だけ?)
光栄の三國志の初期の作品で、鬚の生えたおっさんで軽いショックをうけた記憶もあります(笑)
でもこの方、実際は63歳で死んでます。蜀滅亡の頃は、もう「老将」と呼んでも差し支えないお年ですよね?
この頃の姜維、実は演義の黄忠みたいに「血の気の多い頑固爺さん」というのが実体に近いのかも?とふと思ってしまいました。
(PC)
56 赤龍
そういえば、何となく近いイメージのある大坂の陣の真田幸村。
この方も若々しいイメージがありますが、大坂の陣の頃五十間近。「歯も抜け、ひげも黒いとこはあまりなくなった」と、蟄居中にめっきり老け込んでたようですね。

このタイプの人物は、なぜ若々しいイメージがあるのだろうと、ふと思ったりしました。

たとえその身は老いても、その心は朽ちることなく若さを保ち続けその生涯を全力で駆け抜けたがためであろうか?

と、ちょっと綺麗気にまとめてみました(笑)
(PC)
57 赤龍
>>55
失礼。アンカー間違ってますね。
>>>179-34
です。
(PC)
58 しす
>>55-57
講談の登場人物として見たら、確かに両者にはいくつかの共通項が見えてきますよね。

・弱きを助け、強きを挫く、孤軍奮闘のヒーロー。
・蜀最後の花形と豊家最後の花形。
・天才軍略家と猛将、二つの側面。
・孔明、昌幸の軍略を受け継ぐ英才。

現在公開中の『茶々 天涯の貴妃(おんな)』で幸村を演じているのが27歳?の黄川田将也なんですが、ここに東映サイドのキャスンティングの思惑が見える気がするんですよね。
『仮面ライダー THE FIRST』およびその続編『仮面ライダー THE NEXT』で仮面ライダー1号を演じた黄川田将也。
ショッカーという強大な組織に立ち向かう孤高のヒーロー像は幸村に通じているような気がします。
テレビも映画も無かった時代、彼らは間違いなく子供達のヒーローだったわけですしね。
ヒーローはやっぱり若くて格好いいキャラでないとってのも関係ある気がします。
渋親父もいいんですけど、それは主役級じゃなくて、バイプレイヤーって感じですし。
渋カッコイイ親父は張翼や後藤又兵衛が担うキャラって感じがします。
あと上に書いた孔明や昌幸との言わば師弟関係もまた彼らに若いイメージを植え付ける要員なのかとも思いますが。
(PC)
59 赤龍
>>58
しすさん、的確な解説ありがとうございます。

たしかに日本人うけのするこの手のヒーローには、おっさんはあまり思い浮かびませんね。

日本では関羽、張飛より趙雲が人気というのも、彼らのキャラクター以外にも、ひげのおっさんで固定したイメージのある関張よりも、りりしい若武者ぽく書かれる趙雲のほうが日本人うけするヒーローというのがあるかもしれませんね。三国無双なんかは、それをもろに反映してると。

ところで、中国でのヒーローになると、張飛やら水滸伝の魯智深やら、ヒゲ親父も割と普通に混ざってるイメージがあります。そこら辺も日本と中国の英雄像の違いになるのかな?と思ったりしました。
(PC)
60 しす
>>59
姜維や幸村と同じタイプのキャラということであれば義経もかなり近いキャラですよね。
私は史実の義経はあまり好きではありませんが、物語上で義経の人気が高くなるのは充分頷けます。
彼も出っ歯で小男だったという記述があるにも関わらず、見目麗しきイケメンのイメージ強いですよね。

張飛や魯智深に関しては、ヒーローである以上にトリックスターの一面が強いように感じます。
真田十勇士だと三好清海入道、義経ご一行様だと常陸坊海尊辺りでしょうか。
この手の図式は『封神演義』や『三銃士』、『ロビン・フッドの冒険』、『スターウォーズ』などにも当てはまりますよね。
(PC)
61 寿君
上の方で、「費イ生前は北伐してない」って意見読みましたが、247〜250年にかけて4年連続でやってますよね。大体が魏と羌族との戦いへの介入戦争ですけど。
姜維は戦術家としては優れてたとは思いますが、いかんせん諸葛亮の時と違って、政権内における支持がないですよね。
それに郭淮、陳泰、トウ艾らが彼を迎え撃ち、作戦をいかに講じても、3人の内の誰かには意図を読まれて撤退に追い込まれてる。
また段谷まではそれなりに涼州に影響力を伸ばしていて、むじんさんのブログなんか読ませてもらうとかなり涼州は姜維が闊歩できる状態になってたみたいですね。
ところが段谷で大敗すると一度に情勢が悪化する。
この時は合流するはずの督漢中の胡済がやってこなかった。
思うに、涼州への進捗がそれなりの成果を挙げていたので、涼州人で降将だけに中央から疑念を抱かれたかな…なんて思ってしまいます。
ところで姜維って魏打倒なんて考えてませんよね。狙いはまず涼州ですよね?。本人もそう自負してたし、陳泰にも確か戦略意図を読まれてたし。
身の丈にあった軍事行動だったと思いますよ。
痛いのは段谷でしょうか?。これの失点を取り返す為に悪循環に陥ったような気がします。何度か呉の要請で兵出してますしね。
(P905i/FOMA)
62 朱家
孔明は、支持しない人を弾いた感じもしますからね(笑)
涼州は、異民族懐柔を含め、孔明時代から基本戦略の一部ですし、以西を魏から切り離す考えは、姜維だけではないし、魏打倒や国力向上、功名心など、明確に区分けできないと思います。

段谷は、姜維が遠征先だから、おそらく、胡済とは手紙ですよね。連携が絶対条件なら、合流して作戦を練るべきだし、姜維は開府を許されてないから、胡済を動かすなら、劉禅の許可が必要で、【記述の順序通りならば】、胡済は罪に問われてないから、姜維の指揮下にないだろうし、姜維は、権限のない軍事作戦を展開し、失敗した可能性があります。これならば、擁護のしようがないです。
胡済本人は了承したと思いますが、冷静に考えれば、劉禅の命令なくして、軍を動かすのはリスキーですからね。まあ【】が前提ですけど。
(PC)
63 皇澪桜
正史を読んで感じたのは局部的にはかなりの名将なのでは…ですね。
結局は国を滅ぼす原因を担ってる訳ですが、諸葛亮や蒋エン、費イ、董允等がもう少し長生きし、且つ和が取れれば…あそこまで非難される様なことにはならなかったように感じます。
何名かの方が仰ってますがやはり時代が悪かったと私も感じます…。
長文失礼しましたm(__)m
(W52CA/au)
64 劉封
キョウイはギに居た時は諸葛亮を負かして強かったけど、降伏した後はイマイチやった
(W56T/au)
65 皇澪桜
>>64
正史(ちくま)姜維伝には諸葛亮が攻めてきた際、大守が姜維を疑って逃亡し姜維等はそれを追ったが、城門を固持した為に諸葛亮の元に行ったとう記述しかありません…
確か演義の漫画等では64にあるように姜維が奮戦して撃退したみたいなシーンがあったはず…
これは演義の創作でしょうか?
どなたかご存知の方ご教授願いますm(__)m
(W52CA/au)
66 石良
僕は姜維を一軍を率いる
武将としては英雄だと
思います。
すぐれた槍術と戦術を
もった勇将なのですが
運が悪い…

天の時・地の利・人の和
・戦乱後期
 三国が固まってから
 デビュー…
・三国で一番小さな国
・涼州出身の弱小派閥
しかも宮中乱れ
軍事費は削減された。

気にかかるのは
費偉から人材育成を
頼まれていた事です。
期間は費偉が大将軍となった243年から暗殺された253年の10年間。

北伐しようが
国を守ろうが
有能な将軍が少なければ
作戦の幅が狭く、また
呉に対する備えも
薄くなる…が、しかし
人を育てられなかった…

いざ北伐するや
重病の張嶷が
従軍しなければならない
程の人材不足。

王経を破った時も
共に戦ったのは、
魏から降ってきた
夏侯覇…

国力が衰弱していく中
宮中乱れ政治に携われず
たとえ姜維自身が
北伐を諦めて
国力の温存を計っても
孔明が蒋エンや費偉に
託したように次世代に
北伐を託せる人材なし…
(N900iS/FOMA)
67
ぼくは姜維はやっぱ
三国志有数の名将だと
思います。


正史でも孔明の北伐では
孔明に信頼される
武将の一人で活躍したし、
孔明の死後も
ショウエンや費イや董允らと
協力してショクを
支えています。


費イは
リスクを考えないで
北伐を行おうとする
姜維を若干疎んじていたけど、
その姜維の実力は
認めて互いに協力して
ショクの政治に望んだって
ぼくは聞いています。


だから、
誰かが言ったように
姜維は生まれる時代が
遅すぎたんだと思います。

せめてあと十年早く
生まれてれば…

もっと姜維の
好きなように
生きられたと思います。


まぁもし姜維が
十年早く生まれてたら
ショクの武将としてではなく、
魏の武将として
活躍していたと
思いますが…
(N705i/FOMA)
68 しす
>>67
残念ながら孔明在命中は姜維はこれと言った活躍はしてないですよ。
孔明は確かに彼を高く評価するようなことは言ってたみたいですが、重要な局面で彼を用いた形跡がありません。
死に際して後事を託してもいませんし、孔明が彼を本当に後継者として考え難い気がします。

ここからは個人的な意見ですが、孔明は大して成果の上がらない北伐において成果を水増しするために姜維の評価を底上げしたのではないかと思ってます。
もちろんそれとて、凡人には勤まらぬことですし、一目を置くくらいの力量はあったと考えてます。
(912T/SB)
69 皇澪桜
ああいった書き方しましたが、あの時代に生まれてなければあそこまで高位には至らなかったでしょうね。
私自身は姜維はあまり好きではないですし、それほど評価してはいません。
ただ国を滅ぼす原因作ったのだから愚将であるとか思ってる訳ではありません。
(W52CA/au)
70 朱家
私は、李福の件をかなり胡散臭いと思ってますね。蒋エンは、本文にも記述がありますけど、仮に、費イが後任指名されてなければ、姜維の見方も変わると思います。
姜維は最初、孔明府では、兵糧管理の役職ですし、涼州の土地勘もありますから、演義のように、孔明にベッタリの可能性もあると思います。

私見ですが、孔明は死後の事を示したとは思います。その内容は、蒋エンを後任とし、当然ながら、費イを高く評価する(後任とかでなく)旨もあるでしょうが、その中には、姜維の名前もあったと考えてます。
(PC)
71 諏訪
蜀末期、諸葛瞻はたいした功績もないのに高官に昇り、姜維を更迭しようとしたりして、姜維と対立していますよね。

蜀がもう少し長続きして対立が決定的になっていたら、姜維が諸葛亮の後継者と言われることもなかったのではないか。
むしろ姜維は諸葛亮派に対抗するために、戦功を立てて朝廷内での地位を上げようとしたのではないか。

私自身、必ずしもこのように考えているわけではないのですが、こういう考えもあるかなと思ったりします。
(W51S/au)
72 雲畜斎
私見ですが、孔明は自分の死後は「文」の蒋エン、「武」の姜維と、今まで自分一人で担っていた役割を分担させる狙いがあったのでは。

そして自分の後継者に蒋エンを指名したという事は、「武」よりも「文」、つまり内政を重視せよという意思表示だったんじゃないかと思っています。

ただ悲しいかな、蒋エンは政治的だけではなく派閥的にも荊州系だったのに対し、姜維は涼州出身の外様感が強く後ろ盾が無かったのも痛かったですね。
(N906imyu/FOMA)
73 朱家
姜維伝に「黄皓らが専権し…」とあり、陳寿の目に映る『ら』とは誰だろう?記述から推測すると、諸葛瞻、董厥でしょうか。

姜維は、陳祇が死ぬと、滅亡の前年まで出兵してないし、「仇国論」も『華陽国志』によれば、258年、255年の侵攻で、反対したのは張翼のみとあります。
不満というか、不安定を引き起こした段谷の敗戦は、姜維の責任ですが、怨嗟の声を無視した侵攻は、実質、翌年の諸葛誕の乱に呼応したのみだと思うんですよね。
これは批判されるべきだとは思いますが、対蜀の兵を東に移動されてますし、珍しく(おそらく唯一)孔明っぽい戦い方をしてますし、成果がないため批判されますが、大敗の後、言わば、魏になめられた状態で殻に閉じ篭るのか、もう一度、速やかに侵攻するのか、どちらも一長一短かなと…

最後の侵攻は記述が少なく、意図もよく分からないですが、注釈の『華陽国志』によれば、黄皓からの害を回避するために、外に出た状態ですからね。
(PC)
74 諏訪
>>73
当時の諸葛瞻の地位は行都護・衛将軍・平尚書事。大将軍・録尚書事の姜維に次ぐ地位です。
また「宗預伝」に「当時、都護の諸葛瞻が朝廷における諸事をとりしきることになった」とありますから、このころ実質的に国政のトップにいたのは諸葛瞻でしょう。
諸葛瞻は董厥・黄皓らと互いに結びついて専権していたものと思われます。
(W51S/au)
75 諏訪
諸葛誕の乱が起こると、魏の雍州・涼州方面は中央からの援軍が期待できないどころか、関中の兵まで東方に廻される状況ですから、蜀にとって最大の好機であったといえます。
しかし姜維はこの好機に戦果を上げることができませんでした。
その一因として、前年の段谷での大敗があると思います。
この敗戦によって国力を疲弊させたのみならず、隴右での羌族などの支持を失ったのではないでしょうか。
それまでは隴右に出兵していたのに、このときは関中に出兵したのもそのためかもしれません。

諸葛誕の乱という最大の好機を活かせなかったのは、姜維による連年の出兵(とその失敗)のつけであると考えると、姜維のそれまでの戦略の不味さ、責任の大きさが問われるべきではないでしょうか。
(W51S/au)
76 朱家
>>74
私もそう思いますが、陳寿は、直接的な表現を避けており、宦官が絡んでなければ、専権とは表現しなかったと思います。

諸葛誕の乱時は、段谷の敗戦があったから、魏は兵を動かしたと思いますし、記述からも、姜維の侵攻を想定してないように感じます。

段谷の敗戦前、姜維は鐘題に撤退し、中央からの司馬孚は帰還し、多くの論者が、再度の侵攻はないと主張し、高貴郷公(司馬昭でしょうが)は慰安の勅命を出してます。
249年、魏は白水の北で防いでいますが、255年は、かなり防御ラインが下がっています。これは、戦争で負けたからではなく、姜維侵攻の余波で統治できなくなったのだと思います

かといって、姜維も直接的な統治を考えてないと思うので、蜀にとっての成果は微妙ですが、隴西を切り離す基本戦略は、確実に前進してると思います。

連年の出兵ではなく、段谷の敗戦、正確には、トウ艾に動きを読まれ、祁山を固められた時に撤退しなかった事でしょうか、魏側の史料とはいえ、高貴郷公伝や王基伝に「姜維は兵糧が無くなり…」とあるので、これは、痛烈に批判されるべきだと思います。


(PC)
77 諏訪
私にはどうも、陳寿が悪事を黄皓に押し付けて諸葛瞻を庇っているように思えます。
記述が曖昧なのもそのためでしょうか。
「みな互いにかばいあって、政治を矯正することができなかった」というのが、陳寿としてのせいいっぱいの表現だったのかもしれません。

諸葛誕の乱のときに姜維の侵攻を想定していなかったというよりは、段谷の敗戦による蜀のダメージから、たとえ侵攻されても、残った戦力だけで対応できると考えたのかもしれません。
その意味でも段谷の敗戦は痛いのですが、問題は単に敗戦したことだけではなく、それまでの戦略そのものにあると思います。
姜維の隴右切り離し戦略は、私も一定の成果を上げていたとは思いますが、しかしその成果は出兵し続けなければ維持できず、しかも一度の敗戦でひっくり返るような脆いものだったということが問題だということです。
(W51S/au)
78 朱家
私が思うのは、陳寿は宦官と親しい人達を、言わば差別的に非難してるだけで、裏付けに乏しく、具体的に書けなかったのではないか?諸葛瞻は宦官と親しくしてる以外、トウ艾との戦いを除いて、特の問題はなかったのでは?と思ってますね。


姜維は別軍ではなく、本隊が壊滅してますし、孔明っぽい戦い方でも、かなりの地域(最低でも、陳倉、上ケイ、襄武あたり?)を制圧しないと、本隊壊滅ではひっくり返されると思います。
そもそも、孔明は本隊が壊滅するような事はしないですが(笑)

姜維は、領土を切り取ってる訳ではないので、狄道、襄武を一気に陥落させない事には、基本、成果はゼロだと思ってます。
諸葛誕の乱時は、今までと違って、完全に益州に負担を強いるものですが、羌族と魏に対して「まだまだイケるぜ」とのアピールかなと…戦い方が今までと違いますしね。
(PC)
79 雲畜斎
諸兄ほど知識も深くないし、また史実と演義がゴチャ混ぜになっていると思うが、私も私見を。

私は陳寿が非難しているのは「時の政治家である瞻や董厥が黄晧に対して、何ら手立てを打てなかった事に」対してではないかと思う。生前、黄晧に手も足も出させなかった董允とは雲泥である。

彼ら3人が台頭したのが近い時期だったかもしれないが、瞻と董厥はあくまで「表向き」だけで、実利は「裏」の黄晧が握っていたので、明確な接点は無かったと思える。

瞻の息子の尚が「早く黄晧を斬らなかったばかりに…」的な事を言っていたと思うが、当時の風潮から察するに、親子の考えが真逆とは考え辛い。

また董厥って援軍として姜維と合流して、共に剣閣に行きませんでしたっけ?
黄晧と仲良くしていたら、そんな行動は起こせなかったのでは?

つまる所、彼らは皆凡庸で、姜維も含め皆で足を引っ張り合っただけで終わった感すらします。
(N906imyu/FOMA)
80 朱家
諸葛尚の言葉そのものではなく、理由が重要で、仮に、自身の出世のためなどであれば問題外ですが、これは分からない事ですね。あと、董厥は劉禅の命令で援軍に行ってます。

姜維は約4年、成都にいて、注釈の具体的に黄皓を排除しようとしたのは、最後のほうで、黄皓らの政策には妥当性があり、特に反対する事もなかったかもしれません。少なくとも、4年もの間、対立してたなら、陳寿も仕官してますし、もっと具体的に書けると思うんですけどね。
いざ、姜維が政策(仮に戦争)を発言した時に反対され、それを恨み、排除しようとしたのかもしれません。
(PC)
81 諏訪
258年以降、姜維は漢中の防御陣の変更を行っていますし、軍事は姜維が担うということで棲み分けができていたのではないでしょうか。
外征のため外にいたとはいえ、姜維が軍事以外に関わった形跡がないのは以前からのことですし。
対立するとしたら、軍事面に口出しされてきたからかも。
(W51S/au)
82 しす
age
(PC)
83 朱家
閻宇の官位だけど…

朱然伝(朱績)に右将軍、姜維伝、襄陽記、晋書には右大将軍。
『華陽国志』だと、259年に、左右車騎の後、閻宇を右衛大将軍にとあり、おそらくこの時、胡済も右驃騎に。普通に解釈すると、衛将軍の分置だけど、左右車騎(胡済も)に大将軍がくっ付いてないのが気になる。


閻宇を姜維と交代させようとしてるから、最低でも大将軍の下の、驃騎や衛の格は持つとは思う。
「右衛大将軍」の「大」が気のせい(笑)だとすると、諸葛瞻は左衛将軍、衛将軍をかなり強化した官位(車騎らの上、大将軍の下)ならば、諸葛瞻は左衛大将軍。
「衛」が気のせいだとすると、姜維は左大将軍で、それだと姜維の昇進時(258年)に、閻宇も右大将軍になってるはず。

陳祇が領中護軍(華陽国志)だった事を考えると、時間が空くとはいえ、諸葛瞻の都護は、姜維の軍事権がかなり怪しい。陳祇が生きてるか微妙ですが、仮に生きていても、反北伐派を抑えきれず、大将軍に戻せなかった?、むしろ、かろうじて左大将軍を確保したのかも。そんな時に陳祇が死んじゃって、姜維は録尚書事の権限をもって、とりあえず、閻宇を外に出したと…

推測の域を出ないけど、閻宇が姜維と同格に一票かな。降格なんか願い出るから面倒なのよ〜(笑)
(PC)
84 諏訪
>>83
『華陽国志』の、閻宇が259年に右衛大将軍に昇進したという記述ですが、衛(大)将軍を左右に分割したのなら、閻宇と諸葛瞻の昇進時期がずれているのがおかしくないですか?
私は『華陽国志』が誤りで、『蜀志』などに従って右大将軍とするのが正しいのではないかと思います。
そして、右大将軍は大将軍を左右に分割したものではなく、右将軍の上位版ではないかと考えています。
閻宇を姜維と交代させようとしていますが、結局は263年に魏の侵攻を受けて召還されるまで都督巴東のままだったのですから、録尚書事・督中外軍事の姜維と同格というのは考えにくいからです。
右大将軍が右将軍の上位版だとすると、ランクとしては四鎮大将軍の上、衛将軍の下あたりになるでしょうか。

ところで胡済って、『華陽国志』では248年に驃騎将軍に昇進していませんか?
まぁ、この記述には多少疑問がありますが…
(W51S/au)
85 朱家
本当だ、248年になってる。その後、鎮西大将軍で登場するのは符合するから、この時驃騎で、姜維とともに降格し、鎮西は先取り記述の可能性ってとこかな?間違いでなければ(笑)


車騎将軍トウ芝、『三国志』だと251年に亡くなってますが、注釈(華陽国志)で、248年、死期が近いと悟った逸話があり、この年、胡済がエン州刺史(前任がトウ芝と思われる)になってます。
@トウ芝が248〜249年に亡くなってる。
A夏侯覇の車騎が251年以降。
B249年に車騎が二人いる。
もう一つ、可能性として、病気で召還され、何らかの名誉職となってる。

243年にトウ芝が車騎なのは、符合します。258〜261年の事は、もちろんBを採用し、主観で組み立てた仮説ですね。

将軍号は、孔明のせい(笑)で、形骸化してると思いますし、トウ芝も督江州で車騎ですし、基本は序列だと考えています。胡済が死んでると思われ(再びエン州刺史で、261年に宗預)、本気で交代させる気ならば、驃騎将軍にしてると考える訳で、すでに同格か上なのではないかと…

大右将軍(便宜上)だとして、蜀漢で、他の大前将軍などの官職が見られず、前後左右将軍は、行、領も見られない。まあ、行などの将軍の記述がほとんどないですが。
(PC)
86 萌黄
話を戻してしまいますが、姜維は名将だとおもいます。悪いのは、自分しか考えず、黄コウにのせられて奢侈ばかりしていた、劉禅だと思います!だって、劉禅がしっかり国を治めていたなら、姜維の北伐は成功していたはずです!
(P903i/FOMA)
87 バンビ
自分が忙しく来てない内にこんなに盛り上がっているとは…

さて萌黄さん成功していたはずと言われますがその根拠はなんですょう?
自分的にはあの国力差と人材不足の点から呉にさえ勝てないと思っています。
(W54T/au)
88 子明
久しぶりに投稿させて頂きます
改めて姜維という人物は本当に賛否が別れる武将ですね
さて疑問に思ったのですが
正史三国志の筆者陳寿の彼への評価なのですが「姜維は文武ともに優れていたが、多年に渡り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」という批評しています
まあこのことは的を得ていますが
陳寿の師とする譙周が討論を元に、『仇国論』という北伐の無謀さを批判した著書をまとめたという影響で批評に繋がったのでは無いのかと疑問を感じました
この頃の蜀漢には人材に乏しく軍事面だと殆ど姜維にしか頼るしか無かったのでは?
と思ってしまうのです
魏のケ艾や鍾会に対抗出来る人物は姜維を除いて誰が出来るでしょうか?
剣客で鍾会を死守したのは評価しても良い気が致します
皆様の意見を伺いたいです
(iPhone6.0.1/s)