1 大伴宿禰ゴジョウ

曹操軍の組織

建安二十年、孫権の率いる攻撃に接し、合肥では、張李楽の三将が合議によって、方針を決定しています。どうやら三名には、専任だとか、上位という順位付けが無かった様な記述です。無論、これが事実ならば、(この場合は上手くいきましたが)指揮系統の混乱が生じた可能性は高いでしょう。組織として脆弱な気がします。
又、李典と程イクは、建安七年、袁譚、尚の兄弟を攻める際、黎陽において明らかな命令違反を犯し、水路を確保しています。

曹操軍の組織は良く言えば柔軟なのですが、それは明らかに命令系統に不備があるのです。
現場サイドが勝手な判断で動いた事によって負けた戦は、過去に多数(たとえば、「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られた、街亭の戦い)ありますし、最高責任者が複数居ては、意志決定に時間がかかりすぎます。

曹操軍の組織というのは、現代の観点からすれば欠点が多い様に、私には感じられるのですが、皆さんは如何でしょうか?是非意見をお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
2 天草
おっしゃる通りですな。

もし曹操が全てを見抜いた上で人材を配置していたなら、まさに驚きです。
例えば合肥では、三人の関係を知り尽くした上で、なおかつ同じ配置したとすれば…結果論ですが、合肥でも勝ってますし、三人の仲が悪い事は、書籍にも出てくるくらい有名なので、曹操が知らないはずはなかっととも思えます。
(PC)
3 大伴
そう、合肥の戦いはたとえるならば、

有能では有っても仲が悪い、同格の支店長三人が、支店の危機を上手く協力して乗り切る


かの様に書かれています。三人を信じた曹操は偉いし、期待に応えた三人も偉い……という事ですが、この人事、通常の会社ならば考えられませんよね。危機を乗り切れず失敗する可能性が高い。少なくとも、一人が支店長で、二人が副支店長とか、もっとも危なかしく無いと思うのです。
(F2102V/FOMA)
4 黄祖@天草
曹操という人間はもしかしたら、

全て自分でやらないと気が済まない人間

だったのではないでしょうか?よほどの人間でない限り、任せる事を良しとしなかった。そうなら、ここで三人を合肥に残した事は、「まだ孫権はせめてこないだろう?」とか「呉が攻めてくる頃には戻ってこれる」なんて安易に考えていた。という推測です。

もしそうなら、才能をこよなく愛してた割には、実は配下をあまり信用してなかった…なんて事になりますけどね。
(PC)
5 ヤスシ
あっ…ロムってる間に、天草殿に言われてしまった…。
他の可能性を探るとするならば、相乗効果を狙ったとか?三人を競わせる事により、より強固で柔軟な軍団を作ろうとした…。うーん難しい…
(J-SH53_a)
6 大伴
成る程。

曹操の危機感の希薄さが、あの合肥の戦いでは無理に序列を付ける事をしなかった理由である。無理に序列を付ける事による軋轢を恐れた。

しかしはたして、あの戦いが本当に、特殊例なのでしょうか?
それにこの方法は、メリットよりも、リスクが大きい様に感じますね。

我々が当時の戦争をイメージするところ、
「ある集団の長が倒れたら、その下に所属するより下位の単位の集団(現代の単位ならば……軍集団→軍→師団→(旅団→)連隊→大隊→中隊→小隊→分隊)はモラールが崩壊し、戦闘能力を失う」
というものですが、少々大袈裟でも、恐らくそう遠い訳では無いでしょう。トップを一人失う事でモラールが崩壊するという事は、その一人が倒れた時にそれを代行する人がいないという事ですよね?
この方法からいけば、たとえば
「張遼が主席で、張遼が死亡した場合は次席の李典が指揮を受け継ぎ、李典戦死の場合は、楽進が代行する」
という様な発想を当時の人々が持てなかった、という事にも納得がいく様な気もします。
だからあれは特殊例などではなく、案外、戦場で複数のトップが合議し、事を決定していたと、いうのが真実なのでは無いかと、そう私は考えるのです。
(F2102V/FOMA)
7 大伴
あ、モラールは、

moral ×
morale ◯

です。倫理という意味では無く、士気。
(F2102V/FOMA)
8 天草
確かにそういう意味では、蜀の方が上下関係が役職を通り越したところであったような気がしますね。

曹操から見れば自分やほんの一握りの人物以外は、誰も同じラインの人間だったのかも…。
(PC)
9 大伴
まぁソ連邦の陸軍は、この様な方式を現代までとっており、指揮官が狙撃されると途端に戦闘が出来なくなった様ですね。高位の者にしか地図を見る訓練すら施さなかった為、指揮官が死亡し迷子になった連隊も。これは、反乱防止の為だと考えられています。

無論、司令部を叩くというのは、基本戦術であり、今だに有効ではありますが、しかしその危険を少しでも緩和する為に、現代の多くの軍隊では、上位の者が指揮を取れなくなる状態を想定しているのです。

流石の天才曹操も、この思想にまでは到ってなかったのかと考えると、少々残念な気持ちにはなりますね。唯、
「配下の部将の裁量に任せ、上手く運用する為のシステムには頼らなかった」
こう書くと、彼らしい気もしますが、やはり任せ過ぎでしょうね。
(F2102V/FOMA)
10 天草
曹操は夏候惇を少しひいき目に見てたような気がします。本当に親友のような感じだったのかな?
他に曹操に重用された人物は誰かいますか?
(PC)
11 李行
こんばんはm(__)m
曹操に重用された人物といえば張コウはどうでしょうか?
他の五大将軍に比べても破格の待遇、戦には殆ど参戦していることは張コウを重用していたことになるのではないでしょうか?
(F2051/FOMA)
12 天草
張コウが重用されたのは、むしろ曹丕・曹叡の時代だったのではないでしょうか?
その頃には西に東に起こる戦の殆んどに顔を出してますね。

五大将軍の死んだ順番や時代が私はイマイチ良く分かってないのですが、長生きしたのかな?
(PC)
13 大伴
楽進 218年没
干禁 221年没
張遼 222年没
文帝) 226年没
徐晃 227年没
ソウハ 226年頃没

張コウ 231年没

話は大分変わってきましたが……お尋ねの件はこうです。
(F2102V/FOMA)
14 天草
やはり張コウは飛びぬけてますね。

それに比べて張遼や楽進は早いなあ。。。
少しスレとずれましたが、218年って言ったら、関羽より楽進の方が先に死んでるんだ。。。張遼も夷陵の戦いより先に死んでるんですね。改めて、初めて知りました。
(PC)
15 大伴
改めて議題を。

戯志才の地位は、どの程度だったのでしょうか?
曹操が東郡太守(五品)であった時に仮に参軍であったとするならば、七品。恐らく当時の曹操軍内では高位です。
夏侯惇は司馬(六品)として付き従ったと記録されています。畢竟、六品は夏侯惇クラスな訳です。七品の曹操に六品の部下は少ないでしょう。では、戯志才は七品の品位を持っていたのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
16
曹操は、パワハラの傾向があったと言われてますよ

実力以上の仕事をまかせてプレッシャーになったりとか、逆にそれによって実力以上の成果をだしたりしたそうです。だから、人材をかき集め、そこからはい上がってきたからこそ、配下武将は優秀なのかも反対にジョショなんかはそこまでだったのかもともジュンイクの死因もそこかもなどと邪推してしまいます
(F900i/FOMA)
17 大伴
三国志の記述によると、戯志才は軍略の一切について相談されていた様です。とするならば、彼の担った役割から「参軍」という立場はそうおかしなものには感じられません。

曹操が徐州を攻める頃、苟イクは司馬ですし、陳宮は将軍であったとされています。という事は、彼等二人は曹操が東郡太守であった頃から、七品程度の位があったのではないかと推測できます。曹操には親族も多く、彼等にもある程度の位を与えたのでは無いでしょうか?しかし、僅か五品の人に、七品の位の人がそんなに必要だと認められるものでしょうか?亦、それ程沢山養えるものとは考えられません。
以上から参軍は、軍内ではかなり高い地位にあった事になる訳です。

戯志才ははたして、参軍だったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
18 天草
これは難しい議題ですね。。。

官位について、イマイチ分からない私はついていけません。。。
(PC)
19 大伴
スレッドタイトルとは少し離れますが、戯志才関連でもう一つ。

<郭嘉伝>によると、郭嘉は戯志才の代役の様な書き方がなされています。
苟イクは郭嘉を識りながら、戯志才を推挙していたのでしょうか?それとも、代役を捜し、郭嘉を見つけたのでしょうか?
前者であれば、郭嘉は戯志才に劣る事を意味する可能性が高いでしょう。後者であれば、郭嘉の当時の名声が戯志才に及ばなかった事を意味します。
<苟イク伝>によると両名共、世俗に世を向けた生き方をしたとありますし、当時の(吹けば飛ぶ様な)曹操に仕えた位ですから、特別戯志才が世間で評判が良かったとは考えられません。そうであれば、伝は無くても裴松之注位はあるでしょう。名声でいったら郭嘉と左程変わらなかったのでは無いかと思います(郭嘉は姓名事跡をくらましていたと記述されていますが、二十歳で役所に召し出されています)。ですから私は前者説を採ります。
私は戯志才という人は、世に埋もれた無名の天才であったのでは無いかと推測するのです。
(F2102V/FOMA)
20 ユウキ
オオトモさんの説はすごいおもしろい話ですねもしそうなら三国志最強はギシサイになりそうです
(P900i/FOMA)
21 天草
郭嘉最強論を唱える私はあえて反論します。

郭嘉はその頃、司徒として役所に召しだされていた可能性もあります。<フ玄『フ子』>
つまり、戯志才は無職で郭嘉は漢の役人だった為に、推挙しづらかったのではないでしょうか?

戯志才が郭嘉以下の能力とは思えませんが、私はあくまでも郭嘉最強論者です。

しかし戯志才の活躍が残されてないのは、本当に残念ですね。
(PC)
22 大伴
郭嘉は207年、烏丸征伐の帰還後、三十八で亡くなっています。この年で十一年曹操に仕えていますから、二十八歳(197年)からの配下です。
逆算すると、彼が役所に召し出された二十歳は189年。霊帝が崩御し動乱の始まる年です。長続きしたとも思えません。
郭嘉はこの九年間の間(二十歳以前という事は無いでしょうから)に袁昭にも仕えています。郭嘉が袁昭へと仕えた期間と、戯志才が曹操軍で活躍した時期は重なりそうです。何故袁昭に仕える前に、苟イクは推薦しなかったのでしょうか?
苟イクが袁昭の元を去り、曹操に仕えたのが191年。この時に袁昭の元に郭嘉が既にいたとしても、やはり長くいたとは考えられませんから、充分余裕がある様に感じます。
まぁ苟攸ですら加わるのが196年ですから、いちがいには言えぬかも知れませんね。もっとも彼は公府に召されていた様ですが。
以上から私は、天草説の可能性は低いのでは無いかと考えます。それよりも、苟イクに人を見る目がなかったとか、呼ぶ程のコネクションがなかった、とした方がすっきりしそうです。全ての基準は苟イクの主観ですし、家系的な繋がりですから。如何でしょう?


尚、戯志才の活躍期間は最長でも、191年から197年迄の七年間となりますね。
(F2102V/FOMA)
23 天草
郭嘉が役所に召し出されたのが20歳というのは、何かに載ってます?郭嘉伝の裴注では27歳だとあるみたいですね。
ということは196年に、司徒になった。…ん?その前は?袁紹に仕えたのはどこに書いてましたっけ?
何か、分からなくなってきましたよ。。。

スレ違いです?(汗)
(PC)
24 大伴
良く見ると「袁昭に仕えた」とは書いてありませんね(汗)郭嘉伝冒頭に、

初め袁昭に会ったが、辛評と郭図に「袁昭に仕えるのは知恵者では無い」と言い、結局そこを立ち去った(要約)。

とあるだけです。が、少なくとも袁昭に仕え様としていた事は伺いしれます。

二十歳で司徒に召し出された、は、裴松之が注に引く「傅子」にありますよ。郭嘉伝の冒頭です。これが逆算すると189年です。
(F2102V/FOMA)
25 くわぁまん
曹操の愛情は人で無く、その者の才能です。

陳宮しかり、荀郁、荀攸しかりです。戯志才が才能有っても何時まで曹操が満足するか…。

もしかすると早死にも曹操の謀殺が原因かも…。
(SH900i/FOMA)
26 赤龍
はじめまして。いきなり訂正、失礼します。郭嘉が司徒に召し出されたというのは、司徒になったのでなく、「辟召」といい、司徒から属官(部下)になるよう招かれたということです。ちなみにこれ、訳本では二十歳の時、中華書局本では二十七の時となってます。
(J-SA05)
27 大伴
二十歳は誤訳でしたか!!!

ならばその間、郭嘉は隠れて生活していた訳ですね。

その後二十七で司徒に召し出され、すぐに辞め、袁昭のところに往った後に、二十八で曹操に仕えたと。この二年は忙しいですな……
(F2102V/FOMA)
28 天草
赤竜殿>初めまして!よろしくお願いします!いやいや、凄い知識をお持ちのようで…(汗)

やはり27歳でしたか!?
しかも意味を間違っていたとは。。。恥ずかしいなぁ。
(PC)
29 天草
失礼しました!
赤竜殿は伊舎那の赤竜殿でしたか!?

しかし、詳しいですな!
(PC)
30 赤龍
天草さん、多分それは別の赤龍さんでは?よそでも間違えられたことあります(笑)
私も二十七だとちょっと不自然な気がして、二十という訳は、なんか別の版本参考にしてるのかな?なんて思ってます。
(J-SA05)
31 大伴
確かに二十歳頃に隠れ始めたとありますから、二十歳では文脈がおかしいですね。ここは誤訳か脱字を疑うべきでした。

しかし偽情報を元に推論だてていたのは間抜けですね。戯志才の認知度を高めるエピソードは、別に捜すとします(汗)
(F2102V/FOMA)
32 大伴
では話題を替えて。

世間において戦争とは、前線での戦闘のみを指す様ですが、そういう事は決して無く、銃後の支援あってのものなのです。
曹操は官渡の戦いの際、劉馥を合肥に派遣し、後方の憂いを絶っていますが、これが後の赤壁の戦いに於いての退却の際、被害を抑える事に繋がったと思います。
そんな軍政家達の仕事を考えてみましょう。
(F2102V/FOMA)
33 天草
曹操は本拠地の地形的な問題もあって、常に多方面へ牽制しながらの戦だったと思いますね。そういう意味では、特に官渡前後(献帝擁護後くらい?)の曹操の戦は常に四面楚歌状態だったのかも知れませんね。
それでもあそこまで最前線の戦に集中できたのは、やはり多方面への牽制を考えた軍師・外交官の手腕なのかな?
(PC)
34 大伴
(乏しい知識から)私が官渡の戦いの際、特に重要な働きをしたと考える軍政家は、以下の人々です。

・韓浩(屯田制を発案)
・棗祗(屯田制を発案、計画、推進)
・任峻(屯田制を実行)
・劉馥(合肥の防備を整える)
・鍾ヨウ(長安にて関中よりの憂いを絶つ。馬を二千頭戦場に供給)


人材登用を担った毛カイや、執金吾だった賈クの働きは、その仕事の詳細が書かれていないので除きました。
(F2102V/FOMA)
35 天草
韓浩……本当に渋い男だ。。。
(PC)
36 大伴
韓浩は中領軍まで出世しますしね。曹操惟幕として良い仕事したみたいですよ。

しかしそれよりも私が注目したいのは、

東阿太守 棗祗(そうし)

ですね。(以下、程イク伝、任峻伝注より)彼は呂布の乱の際も呂布になびかずに東阿を守った人で、そこを良く治めていた様です。後に大軍の食料が欠乏した時、東阿からの物資でつないだとあります。屯田のやり方について苟イクと議論させたが、苟イクは侯声の意見を支持した様ですが、棗祗は綿密な計算から導いた自分の意見を譲らなかった様です。そして棗祗に任せてみたら非常に上手くいったとあります。しかし彼も又、早死にした様ですね。
(F2102V/FOMA)
37 天草
実際曹操軍で最前線に立って文字通り『軍師』としての活躍をしたのは、司馬ィは別ですが、案外賈クだったんじゃないかな?

苟イクは居残りって、手紙をやり取りしてたイメージが高いんですよね。
(PC)
38 大伴
苟イクが戦闘に参加した記録を探してみたのですが……苟イク伝に
「(初平三年)いつも司馬として随従した」
とあるだけで、全くみつけられませんでした。
張バクが謀反した時も、程イクを使ったり、大慌てで夏侯惇を呼び寄せたりしただけですし。
(F2102V/FOMA)
39 諸葛覧
久々に覗きます。随分面白そうな話題で盛り上がっていますね。

個人的見解ですが

◇戯志才と郭嘉
どっちが上かは判断不能です。
ただ戯志才の献策が残っていないのは、彼の在籍時には呂布や袁紹などとの大きな戦役が無かっただけかと。
使えた順番については、単に縁が有ったか無かったか。まず先に知り合った戯志才を当用した→使ってみたら有能だったから重宝した→急に死なれて困った→郭嘉と知り合う縁があった→後任に起用した。こんな構図じゃなかろうかと思いました。
(SH900i/FOMA)
40 大伴
蘭さんの評価では優劣無しですか。

私は戯志才の記録が少ないのは、敵の問題よりも曹操の問題だと思います。曹操自身に力が無く、記録に残る様な大きな戦闘を経験していないと。まぁ結局は「大規模な戦闘」を理由とする訳ですが。

しかし郭嘉の伝に、前任より優れたとは書かれていませんし、甲乙なかったのかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
41 赤龍
戯志才の記録の無さは、曹操が一地方勢力にすぎない時代の臣であったため、記録・史料がほとんどなかった。さらに、その後一族で栄達した人物も見られず、その業績を語り継ぐ人もいなかった。という要因も考えられます。
(J-SA05)
42 大伴
私も赤龍さんのいう通りだと考えます。

曹操に力が無い、と。

戦闘に限ったのは、郭嘉の前任ですし、軍事について相談された様だからです。無論、その他の活躍もあったかも知れませんね。


以外に戯志才、人気あるのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
43 諸葛覧
今日大伴さんとの昼食中に出た話題ですが、

大伴「初期の曹操陣営は負け戦ばかりだったので、曹操は撤退戦に長ずるようになった」

これを聞いて、「そういやこの時期の軍師は戯志才では…」とふと思って、こんな仮設を立てました。

戯志才の策はことごとく外れ、責任を取らされて処刑or敗戦のさなか討ち死に

たまたま郭嘉というセンスある人材と巡り会い登用する

郭嘉は才能を発揮し、曹操軍の連勝街道が始まる

ただこれだと、戯志才は無能という扱いになってしまいます。

どんなものでしょうね。
(SH900i/FOMA)
44 大伴
私は

(大前提)曹操は後退のオーソリティ
(中前提)後退戦の経験を多くつんだ筈だ
∴記録に残らない後退戦を多数経験した

という仮説をたてましたが、
後退戦の経験≠作戦の失敗
では無いと思います。戦略的理由(兵を募集したら千人程集まった、とか)から、正攻法よりも
擬似敗走→逆襲
という作戦を採る方が良かったのかも知れませんから。

無論、後退戦の経験が豊富だという前提自体が「仮説」ですしね(笑)
(F2102V/FOMA)
45 諸葛覧
自分で書いといて何ですが、責任を取らされて処刑は考え難いですね。

ただ、こんな仮設なら…

黄巾の乱の頃は的確な策を立てる

董卓戦で徐栄の追撃を受け、乱戦の中で討ち死に

後任に郭嘉を見つける

これなら話が繋がりそうです。
(SH900i/FOMA)
46 大伴
徐栄に大敗するのは挙兵直後ですよね?

戯志才は苟イクの推挙で入幕しますし、徐栄との戦いに参加したとは考え難いのではないでしょうか?
私には、苟イクの参入すらも疑問です。
(F2102V/FOMA)
47 大伴
ちなみに後任の郭嘉の参入は、(十一年仕えていますから)没年から逆算すると、197年(献帝を迎えた翌年)です。
ならば戯志才の死は早くても194年位ではないでしょうか?もし戯死才の死を190年と設定すれば、八年間も後任が不在だった事になりますから。


さて、陳留での挙兵の際の曹操軍には、どんなメンバーがいたのでしょうか?

陳宮
棗祗
史カン
楽進

曹操の親族は誰がいましたか?正確には知りません。
(F2102V/FOMA)
48 しす
苟イクは冀州の韓馥の招聘を受けたものの、いざ冀州へついてみたら袁紹支配下になっていたので袁紹に仕えたということだった筈。
なので陳留で挙兵した時には当然曹操軍にはいないはずです。
私は彼の曹操軍参入は青州黄巾軍討伐の前後ではないかと考えていますが。
エン州牧就任辺りまでは陳宮が曹操のブレインだったと考えていいのではないかという気がします。
ちなみに私の小説だと陳留挙兵メンバーとして李乾と李典も登場してますがこれはウソ(爆)
李一族の参画は記述から察するにおそらくこの2〜3年後でしょうね。
ついでに書くと王必も名前だけ登場させてしまいましたが、実際彼はいつごろから曹操軍にいたのでしょうか?
(PC)
49 赤龍
荀イクは「初平二年(191)荀イクは袁紹のもとを去って、太祖に身を寄せた」と正史荀イク伝にあります。
(J-SA05)
50 赤龍
夏侯惇、淵、曹洪は挙兵当時から参加してるようです。曹仁は最初独自の軍をもって暴れてたようなので、ちょっと正確なとこはわかりません。後は衛茲も挙兵時からです。
(J-SA05)
51 大伴
ああ確かに苟イク伝にありますね。この時二十九とありますから、163年生まれでしょうか。

曹仁は淮水や泗水のあたりで千人程を率い、活躍していた様ですね(曹仁伝)。

赤龍さん、ご教授ありがとうございました。


曹真は子供だった様ですが、曹休はどうでしょう?二人は曹丕と共に育てられた様ですが、彼は187年生まれの様ですしねぇ。?の嵐です。
(F2102V/FOMA)
52 しす
ああ、肝心な部分見落としてましたね。
恥ずかしい…

>赤龍殿
衛茲は曹操の配下ではなく張バクの配下ではないですか?
曹操との交流があった記述はありますが主従関係を伺わせる記述を見つけられなかったのですが。
(PC)
53 大伴
しすさんのいわれるのは、呂布伝の記述でしょう。

太祖は張バクとともにまっ先に義勇軍をおこした。ベン水の戦いでは、張バクは衛慈に兵を授け、太祖に随行させた。

とありましたよ。
(F2102V/FOMA)
54 赤龍
確に張バク配下みたいですね。衛シン伝の方しか見てませんでした。
(J-SA05)
55 大伴
任峻は、中牟で役人していたのですよね?

曹操が一度捕らえられたのも中牟ですし、この時一度会っていたら面白いですね(笑)
(F2102V/FOMA)
56 大伴
訂正(汗)
>>36

× 太守
 ↓
◯ 県令


真に済みませんm(__)m
(F2102V/FOMA)
57 大伴
>>47
曹真の親父、秦邵を忘れていましたね(汗)
(PC)
58 大伴
で、結局秦邵ってどんな人?
(D505iS)
59 八苦
曹操軍は確かに組織として指揮命令系統が大雑把な所がありますよねぇ。けど、あの広大な地方を治めるにあたっては、そのくらいの方が良いんじゃないですか?ガチガチの法で固めた秦の始皇帝や孔明の失敗がそれを物語っている気がしますが。現場の直感第一主義(臨機応変の才)こそが曹操が大大切にしたものだと思いますね。この感覚が曹操が配下に余り厳罰を下さぬ所以かと。大伴さんの話に続かなくてスミマセン。秦邵なる人物の知識はゼロなんです(;-o-)
(P2102V/FOMA)
60 赤龍
曹操に限らず、劉備も、孫氏も最初は地方の一群雄。雑多な人々で構成された、私的な軍団を拡大していくわけですから、組織の系統として雑なとこがあるのもやむをえないことだと思います。そしてそれは曹操軍に限ったものでも無いと思います。
(J-SA05)
61 八苦
赤龍さんどーも。そうかもしれないですね。劉備もダイブ大雑把な人事やりますもんね。こーゆー類の方が乱世で成功するんですかね?法による理詰めで政を行なおうとする様な輩ではとても勤まらない世界なのかもですね。
(P2102V/FOMA)
62 大伴
まぁ現代の観点で見れば不備が多いという事です。しかしそんな曹操軍も、官渡の戦いでの記述を読めば、袁紹軍よりは随分と整備されていた様ですね。

秦邵は旗揚げ当時の曹操を支えた人物の様です。曹操は彼の死後、彼の息子(曹真)を養子としていますから、何らしかの大きな役割が有ったのではないかと推測するのですが……彼等の事を思う時、曹植の「一将功成万骨枯」という言葉が思いおこされますね。
(D505iS)
63 大伴
>>62
私は勘違いしているのでしょうか?
曹真伝には曹真の父は曹ショウであるとありますよね。しかし注には、曹真は秦姓であったとあります。
曹真の父も曹姓なのでしょうか?秦姓では無く。皆さん如何でしょうか?
(D505iS)
64 楽毅
はじめまして。 曹邵はもとは秦姓です。袁術軍に追われて来た曹操をかくまって、曹邵が俺が「曹操だっ」て言って身代わりに殺されてしまった功績によって曹姓を与えられました。 その後孤児になった曹真は曹操に引き取られました。
(SH900i/FOMA)
65 楽毅
曹操軍に限らず、臨機応変でなければ戦争に勝つ事はできません。命令違反をした為に負けた場合は処罰の対象になり、勝てば大して咎められる事はありませんよ。将、外にあらば君命をきかずです。 現場の事は現場の人間しか決められませんから。 命令の為に負けるなら無視して勝てばじゃないですかね。
(SH900i/FOMA)
66 楽毅
連がき、すいません。 補足。↑のカキコは君主と将軍、戦時指揮官の関係であります。 軍内の場合、軍の規律、将軍の命令は厳正かつ絶対でなければなりません。 それは曹操軍全体に浸透していたはずです。 個人と軍の違いです。 伝わりますかね
(SH900i/FOMA)
67 どら
李典と程イクが行なった命令違反とはどういったものなんでしょうか?その内容を知らないのでなんとも言いようがないのですが、「命令違反」ではなくて「独断」なのでは?
「独断」とは状況の変化が通信の速度を上回った時や通信が不能になった際に起こるもので、聞こえは悪いですが、現場指揮官はこれが出来なくてはだめです。
「命令違反」と「独断」の違いは
@状況の変化を報告する手段の有無
A状況の変化に対する考え方が上級指揮官の意図と反していない事

例えば「討って出るな」と言う命令を受けた城塞指揮官が間者に兵糧を焼き討ちに合い、報告する暇がなく短期決戦を挑み
@勝てば「独断」による勝利
A負ければ「独断」による敗北
B兵糧が尽きて士気が崩壊すれば無能な指揮官

なんの状況の変化もないのに討って出たり報告の手段があるのに勝手に討って出るのは「命令違反」
つまり後で聞いて上級指揮官が「おれもそうなったらそうしただろう。」と思えば「命令違反」ではなく「独断」
ちなみに馬稷のは明らかな「命令違反」
(N2701/FOMA)
68 大伴
>>67
曹操は河から攻める事を固く禁止。
二名は現地で水路から攻める事を決定。
実行し成功。

こんな流れだったと記憶しています。
(D505iS)
69 どら
ん〜なるほど〜それだけ見ると明らかな「命令違反」ですね。ただ内容が具体的に分からないだけはっきりは分からないですね。
例えば「河から攻めるな」というのも
@渡河するな
A川上から攻撃するな
B川下から攻撃するな
と色んな意味が考えられますよね。
(N2701/FOMA)
70 どら
曹操は撤退戦の名手と大伴さんが言っていたのもありますから、「川上から攻撃するな。」と命令してた可能性もありますね。
撤退のスピードを考えると川下から攻撃するのが定石らしいですからね。ただし奇襲的に攻撃するのは川上側から。
…そんな時に敵の布陣に決定的な欠点を見つけたら…
(N2701/FOMA)
71 どら
「渡河して攻撃するな。」という命令があったとしても、目の前で撤退して行ったり、敵の陣に反乱など大きな混乱があったりしたら追撃しますよね。
見逃したら曹操に怒られそう…
つまり、曹操と李典の位置関係にもよりますが一概には「命令違反」とは言えないわけです。
もちろん曹操がその状況の変化を知った上での命令であれば全く違う事になります。
(N2701/FOMA)
72 大伴
水路の確保は、戦闘にのぞんでの事では無く、その前段階の移動手段のものでした。
曹操は危険だから陸路から攻めるようにと指示を出しましたが、二名は現地を見て、水路を用いる事を決めたようです。
(D505iS)
73 どら
分からないですね。具体的な軍議の資料が残っている訳ではないですからね。仮説ならいくらでも立てられますが…
(N2701/FOMA)
74 赤龍
李典、程イクの任務は兵糧の運送。船で輸送を行っていたが、敵に水路を断たれる。曹操は「船が通れないなら、船からおりて陸路を通れ」と命ず。水路の方が便利に決まってるが、無理せず確実にということでしょうね。しかし、敵に隙があり打ち破れると判断。諸将とはかり、敵を攻撃し撃破、水路を確保することに成功という流れです。
(J-SA05)
75 赤龍
これは確に命令違反ですが、現場の人間の判断。ここでの最大の目的は兵糧の輸送。李典も「いやしくも国家に利があれば、専断も許される」と言ってます。現場の将の判断として咎められることは無く、むしろ評価されたでしょう。勿論失敗すれば命令違反で処罰は受けたでしょうし、その覚悟は当然あったでしょう。
(J-SA05)
76 大伴
ギ郡太守の高ハンが黄河のほとりで水路を絶ったとありますね。
(D505iS)
77 どら
なるほど。命令違反なのかな?水路を遮断している敵を撃破することを具申した記述は残ってないんですよね?
連絡手段が確保しにくい現代と違って、現場の判断で上級指揮官の指示と全く違う事をしても成功さえすればOKなのかな?
(N2701/FOMA)
78 赤龍
前にも引用しましたが、この決断をする時の李典の言「軍は内に御せられず、いやしくも国家に利あらば、之を専するも可なり」(軍は宮中から統御されない。国家に利益があるのならば、専断することも許される)が曹操の命令を無視した現場の独断であること、そしてその行動が妥当な物であれば現場の判断を優先させる事も認められたこと等を示していると思われます。
(J-SA05)
79 赤龍
また、この事が李典の伝に記述されているという事は、この行動が李典の功績として記録された、行為が正当なものと曹操にも認められたことを示しているのではないでしょうか。
(J-SA05)
80 どら
その言葉を一軍の将が公言するという事は、当時の軍の考え方として一般的ではなく、一般的でないにしろ一軍の将といて許される考え方だったのでしょうね。
そう考えると、当時の将にとって君主の考え方を理解している必要性は近代より大きいものだと思います。
いくら正しくても結果を残しても君主に不審に思われたらいい評価はしてもらえないですからね
(N2701/FOMA)
81 ストラップ
曹操の幕僚と言えば、名は必ず挙がる婁圭ですが、実際はどの様な人物だったのでしょう?
確か氷の砦はかれの発案だったと記憶しています。知恵者であった事は確かなようですが、当人武勇に優れた様ですし、軍議における鼓舞係の様な役柄を担ったのでは無いでしょうか?
(PC)
82 ストラップ
魏書諸夏侯曹伝第九を見ていてですが、曹真は「太祖族子也」とありますよね?「族子」の中には養子も含まれるのですか?それとも元々父親の邵(秦邵と思われる)が親類だったのですか?
(PC)
83 ストラップ
>>82
今日改めて曹真伝を見ていたのですが、注に引く「魏略」と「魏書」では、邵に関する記述で二律背反する様ですね。
黄エンに殺されたとすれば、黄エンは初平年間に死んでいるし、興平年間に曹操を助ける事は出来ませんよね?
(F2102V/FOMA)
84 ストラップ
曹操の軍を考える時、趙儼という軍政家の果たした役割は大きいと考えます。
この人は各将軍の調整役を担っていた様で、建安十三年には都督護軍として于禁、張遼、張コウ、朱霊、李典、路招、フウ楷の七軍を統括していますし、十六年には関中護軍としてその方面の軍全てを監督しています。

この人は曹操の時代には、こういう将軍達の統率を任された人の様ですが、この人のこれらに類する初仕事は、協調しない穎陰、陽テキ、長社の三つの軍の参軍になり、三名を親睦させる事だった様です。
さて、この三名というのが、于禁、楽進、張遼なのですが、于禁も、この二名とは不仲だったのでしょうかね?
(F2102V/FOMA)
85 たま猫
>>1以前から興味深く読ませていただいましたが少し発言いたしたく思いました。よろしくお願いします。
当時の兵卒は「曹操の兵」ではなく「各将軍の兵」だったので三将軍に任せたのではないでしょうか?3トップで指揮が乱れるからといって2人の将軍の兵卒を1人の将軍の軍団に組み入れるという事は2の将軍の解任を意味したんだと思います。また混成された兵卒も所属の将軍の軍団として巧くまとめるには時間を必要としたと思います。
現代の軍隊組織の様に「国家」や「元首」というものの為に戦うというのでは無く「おら達の大将」的なものだったと思います。支配地域からの徴兵制で連れてこられた兵卒ですから…例え三人の将軍が仲が悪いとしても曹操としては、どうする事も出来なかったと思います。仲が悪いからと誰か一人(あるいは二人)では兵力が足りないと判断したのではないでしょうか…駄文、失礼いたしました。
(W32H/au)
86 諏訪
>>57-58
>>62-64
>>82-83

曹真がもともとは秦氏であったという記述は『魏略』にしか見られませんが、はたして信用できるのでしょうか。

これは根拠の無い推測ですが、曹爽が一族もろとも処刑されたために、曹爽及びその父の曹真は、じつは曹氏の血をひいていなかったということにされた可能性はないでしょうか。

私にはどうも、曹真の後の立場から、曹真が秦氏であったというのは疑問に思えます。
(W51S/au)
87 巫俊(ふしゅん)
・『三国志』魏書「曹真伝」

明 帝 即 位 , 進 封 邵 陵 侯 ,[二]遷 大 将 軍 .

・「曹真伝」裴松之注

[二] 臣 松 之 案 : 真 父 名 召β . 封 召β 陵 侯 , 若 非 書 誤 , 則 事 不 可 論 .

裴松之は『三国志』の本伝に曹真の父の名前を邵と書いているにも関わらず、魏の明帝の時代に曹真が召β 陵というところの侯に叙爵されていることに注意を促しているようですね。
実の父の忌み名を犯す封地を授けるというのは、確かに不審です。
(PC)
88 巫俊(ふしゅん)
>>87
>曹真の父の名前を邵
「邵」(しょう)という字、ケータイでご覧になっても召+βという字で表示されているでしょうか?
(PC)
89 諏訪
>>88
「邵」という字、携帯でもちゃんと表示されていますよ。

邵という名の件といい、曹真の父には謎が多いですよね。

もっとも名の件に関しては、裴松之も指摘しているように、書写の際の間違いという可能性もありますが。
(W51S/au)
90 巫俊(ふしゅん)
書写の際の間違いですか。
裴松之の指摘を見ると、誤写で誤った字が書かれている可能性に裴氏が留意していることを窺えるんですが、372年(東晋)に生まれた裴松之にして取り返しのつかない誤写があって本当の字が分からない可能性を指摘しているなんて、そもそも史書としては悲惨な状態ですよね。
やっぱり『三国志』の正本など信頼できる版本は西晋滅亡の折などに焼かれたりしたのでしょうか。
私は150年ばかりの間で取り返しのつかない(修正できない)複写ミスが起こるらしいことに暗然とします。
『三国志』ってこういう史料なんですよね。
(PC)
91 諏訪
同様な問題として、「邪馬臺国」か「邪馬壹国」か、というのが有名ですね。
これは、印刷技術の普及以前における史書の宿命だと、私なんか割り切っているところがありますが。

段々スレ違いになってきたので、この話題は>>>254に移しますね。
(W51S/au)
92 バンビ
皆様お久し振りです!

最近婁圭について調べたら初平年間に婁圭の下風に立つ事を望まない王忠に破られているんですよね。
皆さんはさすがに知ってましたかね?
劉備にやられてかなり評価を落としていると思うんですが自分の中でもかなり下の評価だったんですけど皆さんの王忠の評価はどうですか?
(W54T/au)
93 徳操
はじめまして、バンビさん。徳操と申します。

王忠は曹丕即位の勧進帳では序列7位で名を連ねています。官位は雑号の軽車将軍でありながら、魏の衛将軍曹洪の上に来てるので、夏侯惇のように不臣の礼を受けていたのかもしれません。
(CA001/au)
94 バンビ
徳操さんはじめまして!

不臣の忠はさすがにない様な気がします。
憶測で申し訳ないんですが、曹丕は王忠の事を人肉を食べた事で馬鹿にしていますよね。それに他の武将(張遼や徐晃みたいな)に比べると目立った功もなく曹操が彼を溺愛したっていう記述(←ただ自分が知らないだけかも)も見た事がないっていう理由からそう思うのですがこれだけだと少し弱いですかね?笑


自分的には夏侯惇は特例だと思うんですよね。
やはり同族だったりその他の待遇で分かりますが。


曹洪の上に名を連ねているのは初耳です。
ただ上にあるだけって訳じゃないですよね?笑
(W54T/au)
95 徳操
妄想全開なんですが、王忠は曹操が呂布にエン州とられてピンチの時に、帰順したんじゃないかな〜と思っています。

王忠の序列については、渡邊義浩先生の「魏公卿上尊号奏にみる漢魏革命の正当性」が詳しいです。PDFで読めるので、ぜひ。
(CA001/au)
96 朱家
王忠は、魏公推挙も皇帝即位もかなり前の方に名前があり、影響力を持つ人物だと思われます。

王忠でも劉備を潰せなかったため(負けた訳ではない)、危険を承知で曹操自ら動いた、って解釈が妥当だと思います。感覚的に名士とは思えないので、私兵を抱える任侠的な長でしょうか。その後の記述がないため、さっさと私兵を譲渡し、尊重される存在となった感じだと考えます。

注釈で、記述そのものは呉質が暴走した話ですが、曹洪と一緒になって、太ってる曹真をからかった記述があり、これは曹丕が呉質のために招集した宴会での話で、曹真はこの時、上軍大将軍という、とんでもない高官であり、信憑性はともかく、そういう記述が残るという事は、曹丕とも一門とも仲は良さそうです。人肉の話も、そんな事を笑いのタネにできるなんて、かなり仲が良いのではないでしょうか。
(W56T/au)
97 諏訪
王忠らは形式的には漢臣であり曹氏の臣下でないということで、魏臣よりも高い地位にいたのではないでしょうか(軍師や三公は別格)
日本史でたとえれば、禄高では譜代大名よりも上にいた外様大名にあたるような存在だと思います。
(F07B/FOMA)
98 バンビ
ウッ!
もしや今まで王忠の事をへぼい奴と思っていたのは自分だけだったという事ではないですか(笑)

いや〜お恥ずかしい(照)

まだまだ修行が足りんですね〜(笑)
(W54T/au)