3 無問題
演技の被害を受けている人だと思います。法正に『蛮勇をたよりにする男で簡単に打ち破れる』といい放たれていますから(苦笑)実際の彼はかなりの名将ですよね。韓遂を攻めたときに、陣地とざんごうを築いてから迎え撃つべきだという意見を退け一気に敵の精鋭を打ち破ったところですかね。
(W21K/au)
4 しす
蜀志において、夏侯淵を討ち取ったことが大々的に扱われていることこそが、彼の評価の現れでないかな…という気がします。
「あの夏侯淵を討ち取っちゃったんだぜ!こりゃサプライズだぜ」
当時の蜀の人にしてみればこんな感じだったのではないでしょうか。
「あの夏侯淵を討ち取っちゃったんだぜ!こりゃサプライズだぜ」
当時の蜀の人にしてみればこんな感じだったのではないでしょうか。
(PC)
5 赤龍
>>3で無問題さんが挙げられてる例のように、果敢な攻めを得意とする反面、曹操が「指揮官たるもの、臆病な時もなければいけない。勇気だけを頼みにしてはなるまいぞ。指揮官は当然勇気を基本とすべきだが、行動に移すときは智略を用いよ」と忠告していたように、蛮勇ととられかねない、猪突猛進、慎重さに欠けるという面もあったのではと思います。守りの戦は不得手だったのかも。
(PC)
7 天草
>>6
一騎討ちの記載はないと思います。
私も>>4のしすサンの意見同様ですね。黄忠なんか、その功以外、思いつくほうが少ないくらいですからね(笑)
しかし、(今手元に資料がありませんのではっきり分かりませんが…)確か蜀では淵を討ち取り、張コウを取り逃がした事を悔やむような記述がありましたよね?
あれのソースはどこでしたっけ?
それが本当なら、単純に
張コウ>夏侯淵
という風に少なくとも蜀の人間は思ってたのでしょうか?
一騎討ちの記載はないと思います。
私も>>4のしすサンの意見同様ですね。黄忠なんか、その功以外、思いつくほうが少ないくらいですからね(笑)
しかし、(今手元に資料がありませんのではっきり分かりませんが…)確か蜀では淵を討ち取り、張コウを取り逃がした事を悔やむような記述がありましたよね?
あれのソースはどこでしたっけ?
それが本当なら、単純に
張コウ>夏侯淵
という風に少なくとも蜀の人間は思ってたのでしょうか?
(PC)
8 赤龍
張コウ伝注の『魏略』に「劉備は張コウを恐れて夏侯淵を軽く見ていた。夏侯淵を殺してから、劉備は言った「一番の大物を手に入れねばならぬ。こんなことでどうする」」とあります。これを、実際に夏侯淵の方が評価が低かったとみるか、ここで気を緩めるなという劉備の鼓舞とみるべきか?史料自体は魏の史料。ということは魏でもこのような評価でったのか?
(PC)
9 無問題
孔明の評価は逆ですよね。彼は黄忠にこういってます。『夏候淵と張合では比べ物にならない、けしてあなどることのないように』
劉備は彼を生かしておけば後々災いとなる事をなんとなく察していたのではないでしょうか?
劉備は彼を生かしておけば後々災いとなる事をなんとなく察していたのではないでしょうか?
(W21K/au)
12 赤龍
>>9
私が見た限り、正史にその言葉は無かった気がします。おそらく、演義の定軍山直前で、孔明が黄忠を煽るために言った台詞だったと思います。夏侯淵を斬った後は反対に「夏侯淵は張コウには到底及ばない」(これは、前述の『魏略』に見える)といって、また黄忠に火をつけています。熱くなりやすい爺さんだなあ(笑)というわけで、話を盛り上げるための創作かと。
私が見た限り、正史にその言葉は無かった気がします。おそらく、演義の定軍山直前で、孔明が黄忠を煽るために言った台詞だったと思います。夏侯淵を斬った後は反対に「夏侯淵は張コウには到底及ばない」(これは、前述の『魏略』に見える)といって、また黄忠に火をつけています。熱くなりやすい爺さんだなあ(笑)というわけで、話を盛り上げるための創作かと。
(PC)
13 赤龍
これまでで私の感じたイメージをまとめると、夏侯淵は確かに名将であるが、周囲の評価は、張コウの方が上で、曹操も心配するような慎重さというか知略に欠けた一面もあったのでは。それでも、古参であり、一門につらなる夏侯氏ということで、地位は淵の方が上だったのでは(高位の将軍はほとんど曹氏、夏侯氏で占められている)。それでも、魏の重鎮の一人で、一方面軍の司令官ですから、それを討ち取った功績は相当なものでしょうね。
(PC)
14 とまと
韓遂を攻めた時、彼の逃げた略陽城を目の前にして、夏侯淵は羌の屯営へと矛先を変えています。これは韓遂が羌族救援に向かうならば城外へのおびき出し、そうでなければ韓遂の孤立、という苦渋の選択を迫るものですが、ここから私は夏侯淵が単に勇猛さだけを頼みにしていたわけではないと考えます。ただ、智略という点では特筆すべき記述ではないかもしれません。彼の長所は、やはりその勇気と機動力でしょうね。
(N900iS/FOMA)
15 名無しさん
夏侯淵の機動力はすごいですよね。どんな行軍をしていたのでしょうか。
しかし逆に防衛戦はあまり得意じゃないみたいですね。たしか下手な防衛戦に持ち込まれて漢中では負けたんじゃなかったかな?
しかし逆に防衛戦はあまり得意じゃないみたいですね。たしか下手な防衛戦に持ち込まれて漢中では負けたんじゃなかったかな?
(P900i/FOMA)
16 天草
>>15
初めまして。
申し訳ないですが、掲示板注意事項をもう一度よく読んでから参加して下さい。
全ての掲示板では固定ハンドルでの参加をお願いします。
せっかく良い意見を出されてるのに、なぜコテハンにしないのか分かりませんが、今回は注意で次は削除します。
名無しさんには悪気はないのでしょうが、悪気のある匿名の方が出た場合に注意できませんので、ご協力をお願いします。
初めまして。
申し訳ないですが、掲示板注意事項をもう一度よく読んでから参加して下さい。
全ての掲示板では固定ハンドルでの参加をお願いします。
せっかく良い意見を出されてるのに、なぜコテハンにしないのか分かりませんが、今回は注意で次は削除します。
名無しさんには悪気はないのでしょうが、悪気のある匿名の方が出た場合に注意できませんので、ご協力をお願いします。
(PC)
17 無問題
赤龍さん・その記述は演技でしたか…。まだまだ勉強が足りなかったようです。
誰かがおっしゃってましたが、夏候淵の速さは遠距離を短時間で移動するマラソンランナーみたいな速さだといってましたよね。自分もその通りだと思います。
誰かがおっしゃってましたが、夏候淵の速さは遠距離を短時間で移動するマラソンランナーみたいな速さだといってましたよね。自分もその通りだと思います。
(W21K/au)
19 天草
于翠サン>どういたしまして♪こちらこそこれからもヨロシクお願いします♪
夏侯淵が機動力があると良く聞きますが、実際何のことを指すのだと思いますか?
足の速さ?(笑)単純に移動の早さなら、それは夏侯淵の能力ではなく、馬の速さかと…(苦笑)
皆さんどう思います?
夏侯淵が機動力があると良く聞きますが、実際何のことを指すのだと思いますか?
足の速さ?(笑)単純に移動の早さなら、それは夏侯淵の能力ではなく、馬の速さかと…(苦笑)
皆さんどう思います?
(PC)
21 とまと
後詰や輸送を担当する事も多かったようですね。
兵の士気や疲労等の状態を的確に把握していたと思われます。そこで機動力ですが、将としての統率力も大きく関わっているでしょうね。
兵の士気や疲労等の状態を的確に把握していたと思われます。そこで機動力ですが、将としての統率力も大きく関わっているでしょうね。
(N900iS/FOMA)
22 ストラップ
道に精通した裏道オタクだったのかも知れませんね。
輸送は官渡以後に担ったとありますね。曹操は糧食で散々苦労していますから、その重要性を良く識っていたのでしょう。任峻などへの信頼を表すエピソードなどをとっても、曹操軍の物資輸送の職が、左遷先では無い事が理解できます。
輸送は官渡以後に担ったとありますね。曹操は糧食で散々苦労していますから、その重要性を良く識っていたのでしょう。任峻などへの信頼を表すエピソードなどをとっても、曹操軍の物資輸送の職が、左遷先では無い事が理解できます。
(F2102V/FOMA)
24 赤龍
『太平御覧』に見える曹操の命令書によると、漢中戦でさかもぎが焼かれたとき、本営から15里離れたさかもぎであるのに、淵自身がわずか4百の兵で修理に行き、それを蜀軍にみつかり攻撃を受けたと書かれています。
そして「淵本非能用兵也」すなわち、淵は本より用兵が得意でなかったと厳しい評価がなされています。そして「督帥たるもの直接の戦闘を控えるべきであるのに、さかもぎの修理などにいくとは」と嘆かれています。
>>5であげた曹操の忠告もあわせて考えると、やはり一方面軍の将としては思慮に欠けた、前線むきの猛将ということでしょうか?
そして「淵本非能用兵也」すなわち、淵は本より用兵が得意でなかったと厳しい評価がなされています。そして「督帥たるもの直接の戦闘を控えるべきであるのに、さかもぎの修理などにいくとは」と嘆かれています。
>>5であげた曹操の忠告もあわせて考えると、やはり一方面軍の将としては思慮に欠けた、前線むきの猛将ということでしょうか?
(PC)
26 岳飛
彼の息子達は夏侯覇をはじめ優秀な人材が多いようですから本人も良将であったのではないかと思います(あまり根拠になってませんが)
ただよく分からないのは、曹操が馬超を潼関で破った後長安に10万の兵と共に残り、力を削ぎつつ巧みに馬超を涼州、擁州から追い出した人物が正面切って突っ込んで黄忠に切られてしまったというのはどうも…武勇に優れてはいなかったのでしょうか?
ただよく分からないのは、曹操が馬超を潼関で破った後長安に10万の兵と共に残り、力を削ぎつつ巧みに馬超を涼州、擁州から追い出した人物が正面切って突っ込んで黄忠に切られてしまったというのはどうも…武勇に優れてはいなかったのでしょうか?
(W31T/au)
27 赤龍
「三日で五百里、六日で千里」と言われる夏侯淵の急襲。行軍方法や統率力といった面ばかりが議論の対象になってますが、私はその決断力も見逃せないと思います。
姜叙らの救援要請を受け、曹操の指示を仰ごうとする諸将の意見を退け、すぐさま出陣。
こうした速断による軍事行動が、夏侯淵の急襲を実際以上により速いものに感じさせたのではないかと考えています。
しかし、これは反面慎重さにかける猪突猛進、思慮の浅さと紙一重の危険性もあわせもっています。そのため曹操も、彼の戦果を聞きながらも、その危うさを感じ、慎重さも求めていたのではないでしょうか。
姜叙らの救援要請を受け、曹操の指示を仰ごうとする諸将の意見を退け、すぐさま出陣。
こうした速断による軍事行動が、夏侯淵の急襲を実際以上により速いものに感じさせたのではないかと考えています。
しかし、これは反面慎重さにかける猪突猛進、思慮の浅さと紙一重の危険性もあわせもっています。そのため曹操も、彼の戦果を聞きながらも、その危うさを感じ、慎重さも求めていたのではないでしょうか。
(PC)
29 ストラップ
>>>403-5
ちなみに歩兵は
「32Km/一日」
ですから、普通行軍でも単純計算で三日に96Km進む訳ですよね?
これでは「三日で五百里」、短里説だと遅すぎるし、従来の400m強ならば速過ぎる。
やはりここで謳われた典軍校尉の率いる軍は、騎兵主体なのではないでしょうか?
ちなみに歩兵は
「32Km/一日」
ですから、普通行軍でも単純計算で三日に96Km進む訳ですよね?
これでは「三日で五百里」、短里説だと遅すぎるし、従来の400m強ならば速過ぎる。
やはりここで謳われた典軍校尉の率いる軍は、騎兵主体なのではないでしょうか?
(PC)
30 赤龍
>>>403-6であげたように、「短里」というのは一里約75〜90m。仮に80mで計算しますと「3日に40km、6日で80km」となり、一日あたり約13km。これで評判になるのなら、曹操軍の行軍はどんだけのんびりなんだということに(笑)
「短里」というのは所詮倭人伝を読むためだけの理屈にすぎないんでしょうね。
ちなみに、私はこの「三日で五百里、六日で千里」というのは、「日に千里を走る馬」と同類の単なる誇張表現であり、そのぐらい迅速だったということにすぎないと思っています。なので、計算したら速すぎるのも当然と思います。
「短里」というのは所詮倭人伝を読むためだけの理屈にすぎないんでしょうね。
ちなみに、私はこの「三日で五百里、六日で千里」というのは、「日に千里を走る馬」と同類の単なる誇張表現であり、そのぐらい迅速だったということにすぎないと思っています。なので、計算したら速すぎるのも当然と思います。
(PC)
31 ストラップ
>>30
僕も「誇張表現」と「誤差」と、「音や字面」の関係があったのではないかとは考えますが‥‥‥
一里≒434.16mならば五百里は約217km、(一里≒414.72mならば、約207Km)、一日72.3kmの行軍ですから、これはそれらを加味しても過ぎる数字かな、と。
騎馬を主体としていたと考える方がしっくりきませんか?
僕も「誇張表現」と「誤差」と、「音や字面」の関係があったのではないかとは考えますが‥‥‥
一里≒434.16mならば五百里は約217km、(一里≒414.72mならば、約207Km)、一日72.3kmの行軍ですから、これはそれらを加味しても過ぎる数字かな、と。
騎馬を主体としていたと考える方がしっくりきませんか?
(PC)
33 飛燕
どこかに書かれてる事かもしれないですが、見つからないので(汗)
夏侯淵はどうして領邑が少ないのでしょう?惇は二千五百戸、曹仁は千五百(推定)、曹洪は千百(推定)。それに対し、淵はたったの八百。張楽于張徐の五人よりも少ない。
功績では、曹仁にも匹敵すると思うのですが、何故曹洪より下の領邑数なのでしょう?
夏侯淵はどうして領邑が少ないのでしょう?惇は二千五百戸、曹仁は千五百(推定)、曹洪は千百(推定)。それに対し、淵はたったの八百。張楽于張徐の五人よりも少ない。
功績では、曹仁にも匹敵すると思うのですが、何故曹洪より下の領邑数なのでしょう?
(SH902iS/FOMA)
36 飛燕
>>35
原文でもそのままなのですか。注釈もないとなると、脱字だと指摘も議論もないということですよね。
個人的に「千八百戸」のほうがしっくリきてるのですが、原文そのままに従って、考えたほうがよろしいでしょうか?
原文でもそのままなのですか。注釈もないとなると、脱字だと指摘も議論もないということですよね。
個人的に「千八百戸」のほうがしっくリきてるのですが、原文そのままに従って、考えたほうがよろしいでしょうか?
(SH902iS/FOMA)
37 ストラップ
僕も調べてみました。
夏侯淵は、
「(建安)二十一年、増封三百戸、并前八百戸」
夏侯惇は、
「建安十二年、録惇前後功、増封邑千八百戸、并前二千五百戸」
確かに、建安十二年の頃の夏侯惇より、建安二十一年の夏侯淵が少ないですね。
曹仁の
「増邑二千、并前三千五百戸」
というのは、随分と時代が下ってからの様ですが(汗)
夏侯淵は、
「(建安)二十一年、増封三百戸、并前八百戸」
夏侯惇は、
「建安十二年、録惇前後功、増封邑千八百戸、并前二千五百戸」
確かに、建安十二年の頃の夏侯惇より、建安二十一年の夏侯淵が少ないですね。
曹仁の
「増邑二千、并前三千五百戸」
というのは、随分と時代が下ってからの様ですが(汗)
(PC)
38 赤龍
>>36
まだ確たる根拠が無い以上、イメージだけで「千」の字を追加するわけにはいかないと思います。
たしかに>>33の面々と比較すると少なく感じますが、それでも他の曹操の臣と比べると、八百戸でも多い部類に入ると思います。領邑の問題も色々と面白そうですね。
まだ確たる根拠が無い以上、イメージだけで「千」の字を追加するわけにはいかないと思います。
たしかに>>33の面々と比較すると少なく感じますが、それでも他の曹操の臣と比べると、八百戸でも多い部類に入ると思います。領邑の問題も色々と面白そうですね。
(PC)
39 ストラップ
(PC)
40 赤龍
>>39
三百戸という加増自体も、曹操時代に限ればごく当たり前の数字のようです。曹操の臣で例外的に一度に千戸以上の加増といえば207年の夏侯惇に対する千八百戸、荀イクに対する千戸の加増が目立つくらいでしょうか。この二人が特別扱いだったことが、こうした数字からもわかりますね。
一般的には一度に数百個程度の加増。郭嘉の死による八百戸加増が得に目立つくらいです。この夏侯淵の場合も三百戸という数字自体はその中にあってまったく普通なものです。
さてとりあえず、現状としては「八百戸」という数字を認めるしかなく、こうした場合、安易に自分のイメージに史料を引き寄せて(千の字をつけるという)結論を出そうとするより、むしろなぜ諸将の領邑がこうした数字になっているのかということを考える方がより大切なのではないかと思います。
と、難しげなこと書きましたが、そこまで深入りすると私もまだよくわかんないんですよね(苦笑)ぼちぼち調べてみます。
三百戸という加増自体も、曹操時代に限ればごく当たり前の数字のようです。曹操の臣で例外的に一度に千戸以上の加増といえば207年の夏侯惇に対する千八百戸、荀イクに対する千戸の加増が目立つくらいでしょうか。この二人が特別扱いだったことが、こうした数字からもわかりますね。
一般的には一度に数百個程度の加増。郭嘉の死による八百戸加増が得に目立つくらいです。この夏侯淵の場合も三百戸という数字自体はその中にあってまったく普通なものです。
さてとりあえず、現状としては「八百戸」という数字を認めるしかなく、こうした場合、安易に自分のイメージに史料を引き寄せて(千の字をつけるという)結論を出そうとするより、むしろなぜ諸将の領邑がこうした数字になっているのかということを考える方がより大切なのではないかと思います。
と、難しげなこと書きましたが、そこまで深入りすると私もまだよくわかんないんですよね(苦笑)ぼちぼち調べてみます。
(PC)