1 ひろし

甘寧について

色々教えて下さいm(__)m
(N900iS/FOMA)
2 ストラップ
劉表のもとに身を寄せるまでは、自警団の首領だったようです。これを「至二十餘年」と、二十余年もやっていたようですから、三国志への登場は随分ととうが立ってからという事になりますね。
(PC)
3 ひろし
なるほど〜海賊って聞いた事あるのですが、本当ですか?
(N900iS/FOMA)
4
錦帆賊とゆうやつですな。…それだけです(・∀・;)
(SH900i/FOMA)
5 朱家
孫権が「私には甘寧がいる」と言ってるが、度々軍法を犯し、罰せられそうになる。呂蒙が必死にかばい、罪を免れてる。あの呂蒙がかばうことが傑物の証明でしょう。それでも行いを改める様子がなく、主従の関係であったのかには疑問を感じる。孫策と太史慈の関係に近いのではと思ってます。
(A1304T/au)
6 ストラップ
>>2-3
その自警団というのが、郡の役人達によらず、独自の尺度で摘発や処罰(つまりリンチ)をしていたのですね。だから彼は賊の首魁であったとも言える訳ですね。
ただし、長江沿いの地域で暴れていた訳ですから、海ではありません、故に、海賊ではありません。

神戸に本拠地を置く団体や、チンパンの話を聞くと、港湾労働者の互助組織というのは、そういう性質を持ち易いのかも知れません。甘寧のグループなども、そういう所から生まれたのかも知れませんね。
(PC)
7 赤龍
自警団というほどまっとうなものでもなければ、賊というほど国・役人と敵対していたわけでもない。どういう表現をすれば的確なんでしょうかね?
(PC)
8 無問題
つまり、若い頃はやりたい放題やってたんですね?息子は父親譲りの無法者だったので流罪になったとか…。
(W21K/au)
9 ストラップ
黄祖の都督である蘇飛は、甘寧を県長に推薦した人物ですが、彼の評価を皆さんに聞きたいですね。
(PC)
10 無問題
ストラップさん・蘇飛ですか?確か、彼は演技では甘寧の親友になってますよね?実際はどうだったんでしょうか?
(W21K/au)
11 天草
前から疑問に思ってたのですが…鈴はこの時代に普通に存在してたのでしょうか?
だとしたら、何のために用いられる道具だったのでしょう?

ただファッションの装飾品なら甘寧はかなりのオシャレサンという事になるのかな?
(EZ)
12 しす
そういえば当時の鈴ってどんなものなんでしょうかね?
まさか「ドラえもん」のアレではないと思いますが…。
構造などを考慮した場合、仏具の持鈴のようなものを想像してしまうのですが。
(PC)
13 李克用
春秋戦国時代には、鈴と名のつくものがあります。確か、旗に付いていたとか。後、巫術にも使われていたらしいです。

形は分かりませんが、音の鳴る金属の塊なのだろうとは思います。
(P900i/FOMA)
14 天草
この鈴の起源については、個人的に興味がありますので、調べてみますね☆
しすサンの「ドラえもんの…」というのには笑いましたが(笑)
(N900i/FOMA)
15 李克用
>>13
訂正して、木製の鈴も有ったようです。
何かの器具に、付着しているのがままあるようです。
(P900i/FOMA)
16 天草
う〜ん。。。
色々調べてみましたが、日本でも古事記なんかででてるらしく、やはり歴史はかなり古いみたいですね。

しかし起源となるとどうしても分かりません。
また鈴が何に使われていたのかも不明。

ここは現役大学生の皆さんなどに、図書館や教授などから情報を仕入れてもらいたいですよね!!
(PC)
17 ストラップ
そういえば、
>>>171の話題は出てきませんね。そろそろどなたか口火を‥‥‥(笑)
(PC)
18 胡蝶
早速今日調べてみました。

中国では、紐(つまみ)で吊り下げ、身の内部に舌を下げて鳴らす日本の銅鐸のようなカネを鈴と呼び、柄を持って身の内部に舌をつけて鳴らすカネを鐸と呼ぶので、日本の銅鐸も本当は銅鈴と呼ぶのが正しいようです。
中国の銅鈴は、人、人を先導する犬、人を乗せた戦車を引く馬、容器につけ、金属の音と光の力で邪悪を退け神を招いて人を守る任務を持っていました。
中国では、銅鈴は3900年前(龍山文化末)に純銅製品が現れ、3700年前(夏代、二里頭文化)から青銅製品が普及。世界最古の青銅鈴は高さ8cmほどの小型品で、人の腰につけて使っていた。3500年前(イン代)には、人のほか、犬・馬の頸や馬車に銅鈴をつけた。

今日は時間が無かったので、この程度しか分かりませんでした(汗)また詳しく調べて鈴の起源や後漢・三国時代の鈴の実体に迫ってみますね。
(EZ)
19 李克用
甘寧スレが、鈴スレになっとる(笑)

風鈴が、一種の魔除けを担っているように、鈴の音は邪を祓うそうです。先に、巫術でも使うと言いましたが、それは病の人に対して使っていたようです。それも、体に憑いた霊やら邪を祓うためのようですね。
たぶん、甘寧はお守りとして持っていたのではないでしょうか。
(P900i/FOMA)
20 胡蝶
ぁ…確かにスレタイからズレてますね。
すみません(汗)

私も調べて思いましたが、甘寧はファッションとしてではなく、護身の御守りとして身につけていたと思いますよ。
(EZ)
21 赤龍
なるほど。しかし、当時呪術的な用途もあったにせよ、甘寧の用途はもっと一般的なものと思います。
文脈を見るに、鈴は甘寧一人ではなく、無頼の集団の皆がつけていたととるべきでしょう。当然数十人(推定)の集団みんなが鈴をジャランジャラン言わせながら闊歩してると、周囲にも鈴の音がよく響き、甘寧一味がやってきたという格好のアピールとなるでしょう。やはり、派手好き・目立ちたがりなやくざな若者グループ(かぶき者ってやつですか)のファッション(?)の一種と見るのが妥当ではないでしょうか。
(PC)
22 しす
ageます
(PC)
23 ストラップ
黄祖という人物はどういう人だったのでしょうか?
甘寧の功績を認めなかった人ですが、軽んじたというよりも、甘寧の素行不良が原因だったのでは無いでしょうか?

黄祖をどう評価するかは、甘寧をどう評価するかに因ると思います。
(PC)
24 琉球
アゲ
(W21S/au)
25 天草
せっかく上がってきたので…

甘寧は根っからのワルだった様ですが、悪人だったのかな?それとも純粋に侠の人間だったのでしょうか?

後者を信じたいところですが…現在の侠の人間wは、大体悪人ですからね(汗)
(PC)
26 ゼアス
お初です。甘寧って確か天下三分の計を唱えてたんですよね?
(W31S/au)
27 如水
よろしくです。
天下二分の計だったと思います。周瑜ほど緻密な戦略性はなかったと思いますけどね^。

ただ、劉エンに仕えた後劉璋に反乱起こして失敗、荊州に逃げ込んだって聞いた事があります。孫権を納得させるだけの計画性はあったんでしょうか…。

ちなみに周瑜の推薦があったとも聞きましたが、当時の彼の名声は高かったのでしょうか?それとも周瑜の人を見る目が飛びぬけて確かだったのかなあ?
(PC)
28 雲畜斎
この老いぼれが聞くには、甘寧が劉エン、劉璋親子に仕えたという記録は無かったと思うが。

甘寧は地元巴郡の無頼者達の頭領で、好き勝手やった挙げ句に劉璋に反乱して追い出されたのでわ?

甘寧を評価したのも周喩より孫権でわ?ただ、評価した割には官位は低かったとか。

あと確か、その武勇はあの関羽さえ警戒したとか。
(N906imyu/FOMA)
29 朱家
劉焉伝の注釈『英雄紀』に「劉璋の将軍、沈禰、婁発、甘寧が反逆し…」とありますね。

いきなり、孫権に会えるとは考えにくいので、先に周瑜、呂蒙に会って話をしてたなら、才能を認める事は難しくないと思います。まあ単純に、親の仇である黄祖の内情を知る人物は貴重ですね。
「まずは黄祖を討て」というのは、孫権としたらニコニコの発言ではないでしょうか(笑)。戦略はあくまで方向性ですから、外に目を向けて、荊州の重要性を理解すれば、それほど奇抜な考えではないですが、将来的なビジョンは重要です。実情は、山越討伐などに追われている訳ですからね。
(PC)
30 諏訪
当時の甘寧の名声(悪名?)がどの程度だったのかわかりませんし、才能を評価されたのかもしれませんが、数百人の配下というそれなりの戦力を有していることも、推挙された理由でしょう。
(W51S/au)
31 如水
確かに江夏にいた、というのはそれだけで戦力になりそうですね。
孫呉との戦いで多少名が知れてても不思議はないですし。
ところで、関羽に警戒されたのはいつのころの話ですか?
甘寧って魏との絡みが多いイメージが強くて・・・蜀将との絡みがあるなら是非知りたいです。
(P705imyu/FOMA)
32 雲畜斎
甘寧の蜀側との絡みって荊州の領有を巡ってやりあっていた頃でしたね。関羽が河を渡ろうとしたら、対岸に甘寧が待ち構えているのを知って、渡河を諦めたという話でしたよね。
(N906imyu/FOMA)