1 しす

「単刀赴会」真の主役、魯粛スレ!

演義では周瑜と孔明の間で板挟みにあってオロオロする小心者の外交官。
しかし正史では機知に富み、覇気に溢れた名将!
そんな魯粛の実像に迫ってみましょう。
(PC)
2 ストラップ
平話では、五音(七声だったかな)のうち、羽(Aの音)を鳴らさず演奏させて、関羽を挑発しますね。
直ぐに関羽に締め上げられ、情けなく詫びを入れますが。
(PC)
3 無問題
かれこそ演技の1番の被害者でしょう。史実ではかなり活躍してるのに…。若い頃のエピソードなんか好きですね。『魯氏の馬鹿息子』とまで呼ばれてましたから…。
(W21K/au)
4 天草
ついに魯粛スレが登場ですね♪

では私から議題を一つ

周瑜は後事を彼に託し、彼はその期待に応えていきますが、一つだけ周瑜のやり方に背き(?)ました。
それは周瑜が描いていた『天下二分の計』です。
関中の馬超・蜀方面・そして呉からの三位一体攻撃で曹操を脅かすという方針は、親蜀(劉備)派の魯粛の考えで頓挫しました。

果たして魯粛の方針は正しかったのでしょうか?
(PC)
5 無問題
演技しか知らない姉が『頼りない人だけど好きだかよ』っていったのでいつものパターンで『だから、違うんだって〜!』といってしまいました。この人けっこう周喩の策に反対してますよね?劉備の取り扱いでも周喩の策に反対してますよね。何故なんですかね?一説によると不仲であって、劉備と結託して周喩を暗殺したというせつもありますよね?あまり信じたくないですが…。
(W21K/au)
6 ナナホッシー
天下二分の計、ですが。
これは司令官が周瑜であればこそ成し得た作戦だと考えています。魯粛は劉備と和することを前提条件としていたわけではなく、孫家のためにいちばんいい方策として劉備との親密関係をとっただけの話なのです。

天下二分の計が破綻したのは、江陵での曹仁との戦に苦戦し、行動を起こすのが遅れに遅れたから。その間に荊州南部を平定し力をつけた劉備と敵対してまで天下二分の計略を進めるよりも、講和してともに曹操とあたるほうがいいとの魯粛の考えが伺えますね。
(PC)
7 無問題
七星さん・やはり、周喩の存在が大きかったですか…。せめてあと十年いやあと五年生きていてくれればな〜…。そういえば、魯粛はかなり劉備に親密ですよね?荊州をかしてあげたりホウ統を推挙してあげたり…。いくら利用して同盟を結んでいるとしてもここまでするでしょうか?
(W21K/au)
8 元歎
そうですね、確かに親切すぎますよね。荊州をかしたのは天下三分の刑の一部ですが、ホウ統を推挙したのはなぜなんでしょう。厄介な人物をどうして敵(といっても同盟結んでますが)に仕えさせたのか。自勢力に仕えさせればいいものを…。
(PC)
9 無問題
元歎さん・魯粛は劉備という漢に惚れ込んでいたのではないですかね?故に肩入れしすぎて後に孫権も魯粛の事を振り替えって絶賛した上で『劉備に荊州を与えたのは失策であるが』と言ってます。
(W21K/au)
10 たろう
ロシュクが陸戦を得意とすると聞いた事がありますが軍を率いた事ってあるんですか?
(W21SA/au)
11 元歎
魯粛は、周瑜の後任となったとき、周瑜の配下四千を受け継ぎました。214年より前にその軍勢は一万余人に増加したようです(魯粛死後、これらの兵は呂蒙の指揮下に入ります)。統率能力はあったんでしょう。214年、孫権に従って、皖城を破ってますよ。ですから、軍を率いていていたことは確かですよ。ただ、陸戦が得意だったかどうかは…。戦績というものが多分ありませんから…。
(PC)
12 無問題
確か、その陸戦が得意というのは演技の話だったと思いますが、どこででてきた話か忘れました。
(W21K/au)
13 しす
>>12
演義でその話が出てくるのは赤壁の前哨戦で孔明が周瑜から曹操軍の兵糧庫を襲ってくれと依頼され、魯粛がそれを止めようとした時の話だったような。
孔明が「周瑜殿は水上戦のあなたは陸戦の専門家だが…」みたいなことを言っていた気がします。

あ、あと演技じゃなくて演義ですよ。
(PC)
14 元歎
赤壁のあたりを探していたら、見つけた。演義第四十五回。
「聞くところによると、江南の童謡では、『路に伏せて関を守るは子敬に饒し、江に臨みての水戦は周郎有り』と歌っている由。これはとりもなおさず、貴公は陸地で道筋に伏兵を置いて、関所を守るしか能がなく、周公瑾どのは水戦がうまいだけで、陸戦は下手だということです」という諸葛亮のセリフからですね。最初の方だけを見ると誉め言葉かと思っちゃいます。このすぐ前に諸葛亮は「私は水戦、歩戦、馬戦、車戦、なんでもござれですから、手柄を立てられないなどといった心配は無用です云々」などとぬかしてます。後は、おなじみこれを聞いた周瑜が怒り狂って…というパターン。しかし、『道筋に伏兵を置いて』とはよく言ったもんです。北伐(演義)で毎回毎回「偽退却→伏兵で包囲」で司馬懿に無敵コンボをきめていたのは誰だよ?(笑)
(PC)
15 無問題
しすさん・その場面です。今思えば、演義の孔明って性格悪いですよね?演義では策士っぽさを引き出すためにあんなになったんですかね?あ、演義はこの字ですね(笑)
元歎さん・孔明の必勝パターンですよね(笑)まあ、決定的な敗北は街亭の戦い以外なかったからいいんですけどね。
(W21K/au)
16 べん
魯粛の荊州貸与ってなぜでてきたのでしょうか?
そもそも荊州は劉表の嫡子劉キがいる劉備陣営の物、それを貸すも何も無いように思えるのですが。劉キ亡き後はしっかりと劉備が荊州牧になってますし。
(N900i/FOMA)
17 元歎
州牧は世襲じゃなかったと思います。まあ、名分ですが。
周瑜が曹操軍を撃退したから、劉備は生き残れたんです。孫権軍からしたら、曹操軍の主軍を荊州から追い払ったんですから、荊州は当然自分たちのもの。それを劉備が勝手に残っていた韓玄などを倒し自領としただけ…。これは、劉備も認めていたと思います。
(PC)
18 赤龍
正確にいうと、赤壁後孫権は南郡を、劉備は荊州の南四郡を支配しました。
その後、孫権は自領となっっていた南郡を劉備に貸したというわけです。
(PC)
19 べん
元歎さん、赤龍さん、ありがとうございます。後継者で劉表も問題にしていたから世襲だと思っていました。乱世だから好きかってやってただけなんですね。
しかも正式には荊州貸与ではなく、南郡貸与なのですね。
ですが南郡だけ返せと言っても益州を本拠にしている劉備が南郡を返還したら地理的に分断され南四郡の統治は不可能ですよね?つまり魯粛はあのタイミングで南郡を貸すことで、南四郡もついてくるようにしたというわけですか。
まとめると、魯粛は決して親劉備というわけではないのですね。
(N900i/FOMA)
20 子明
魯粛に感謝した孫権が
「私が馬丁となって、馬の鞍を支えて下馬を手伝えば、この功に報いたことになるのだろうか?」
と問うのに対し

魯粛曰わく
「不十分です。」
驚いた孫権に彼は

「貴方が天下を統一して帝王となり、私を迎え入れてくれて初めて、私は報われるのです。」と


自分の見識では周ユの天下二分の計の破棄といい、劉備の益州攻略は背中を押したかたちになってしまったが
魯粛は先々のことを見据えて全ては孫呉のためにしたことと思います。


演義とは程遠い覇気に満ち溢れた人物だったのは間違いないと思います。
(PENCK/au)
21 ストラップ
魯粛について不可解なのは、周瑜の動きです。
袁術配下として東城県の県長を任された魯粛ですが、これを辞め、周瑜の元に行き、そのまま孫策の軍に合流します。その後、孫策が死ぬと、周瑜は魯粛を孫権に推挙しました。

周瑜が孫策に魯粛を推さなかったのには、何か訳があるのでしょうか?
(PC)
22 しす
呉将をもっと盛り上げようキャンペーンage
(PC)
23 ストラップ
単刀赴会の際、関羽が鏡を割るのは、字「子敬」の「敬」が、「鏡」に音が通じるから見たいですね。
(PC)
24 天草
呉応援age

演義でやられ役ばかりが与えられた魯粛ですが、本当はもっともっと評価されて良い人物ですよね?
(N902i/FOMA)
25 寒貧
ここで質問していいのかわかりませんが、歴代の司令官達は(周瑜はともかく)古参の武将・参謀らと上手く折り合いがついていたのでしょうか?呉の方々はかなり濃い人が多いので気になりました。
(911SH)