1 子明

三国志のNO.1?長命リョウ化…

三国志上最も長命であった?リョウ化…
黄巾の乱からショク滅亡まで生き抜いた漢…


だが2人いたと言う説もあったのですが本当のところどうだったのでしょう?

皆様から御教授願いたいです


漢字がでなくて申し訳ございません
(PENCK/au)
2 子明
》1
少し質問が簡略化していたので追加いたします

では…
リョウ化はショクの滅亡の時には最前線で戦っているのだが黄巾の乱からすでに約80年は過ぎています。

元黄巾党の将だったので一体いくつまで最前線で戦っていたのかが気になります(下手したら歳が3ケタ超えちゃいます!(笑))


真実はどうだったのでしょう?

やはり同姓同名の方がいらっしゃるのでしょうか?
(PENCK/au)
3 くわぁまん
子明サンお初でゃんす。

子明をHNにしているとは呂蒙好きですかな?(爆)

廖化の年齢は演義のせいで変になってますね…

関羽の五関突破の話は200年頃、その時ハタチとして没したのが264年ですから八十路を越えている云々…、となる訳ですが、アッシは宗預伝?で逆算した年齢が正しいと思います。

ま、確かに80歳以上まで生きた士變なんて例外はありますが…
(F901iC/FOMA)
4 子明
くわぁまんさん》
お初よろしくです
そうですまたの名を阿蒙とでも呼んで下さい(笑)

さて
リョウ化を200年で20歳とすると黄巾の乱がほぼ制圧されるのが185年もしくは186年(確か…)になります
リョウ化は黄巾党の残党なので制圧されたのが186年として逆算していきますと4歳になってしまいます

これはちょっと無理がありますよね

200年のときに25〜30歳というのはどうでしょうか?
これでもチョット無理かなぁ?

御指摘があればお願いいたします
(PENCK/au)
5 子明
》4

14歳の間違いでした…

それでも無理がありませんか?
(PENCK/au)
6 朱家
正史では、黄巾の時に名前は出てないです。演義の創作ですよ。
(A1304T/au)
7 赤龍
どこかでリョウ化の年齢について考察したような気がしますが、どこだったやら?誰か覚えてるかたいます?
(PC)
8 子明
朱家殿》御指摘ありがとうございます
ですがそのことが演義の創作ならばあまりにも長寿の武将をつくってしまったと自分は思います

ですが実際にリョウ化が黄巾党の残党だったというのはどうでしょうか?
(ifのかたちに若干なってしまいますが…)
彼が若い頃に黄巾党の残党に登用されたというのはどうでしょう?
(ほぼ黄巾党が制圧される間際)
少し無理はありますが…(汗)

これでも一応元黄巾党の将になるのでは?

赤龍殿》自分もこのスレ立ち上げる前に検索したのですが見つかりませんでした…
(PENCK/au)
9
>>>242-9-11
にあります(-_-)ノ
(P900i/FOMA)
10 子明
李殿》おぉ!
やはりありましたかっ!

調べて頂き感謝いたします!!

やはりそちらのスレが一番有力視されますねっ!!

誠に感謝!

そしてこんな情けない質問に答えてくれた方々に本当に感謝致します

ありがとうございました!
(PENCK/au)
11 赤龍
李さん、探して頂いてありがとうございます。
やっぱこういうときは李さんが頼りになります。
というか、自分で書いといて思い出せないなんて、私の方が問題ですな(苦笑)
(J-SA05)
まあ、埋もれたら私でも自分の書き込みが何処かは分からなくなりますよ。
今回のは、大体目星が付けれましたから簡単に探せました(-ω-)ノ
(P900i/FOMA)
13 ストラップ
交流掲示板に少し書いたのでageます。

彼に関しては、「宗預伝」に詳しいですね。「蒋エン伝」にも記述がありますよ。

姜維には批判的だったみたいですね。
(F2102V/FOMA)
14 ストラップ
とりあえず交流板からコピぺ。

「三国志卷四十五 蜀書十五 ケ張宗楊伝第十五 宗預伝」に因ると、「為前将軍関羽主簿」と、元は関羽の主簿だった事が書かれており、一時は呉に下ったようですが、「咸熙元年春、化、預倶内徙洛陽、道病卒」と、蜀の滅亡まで四十数年仕えていた事になりますね。
(PC)
15 ストラップ
廖化を主役に図書館作品を書きたいという方がありましたので、ageておきます。
「以果烈稱」と書かれた人物ですが、注に引く「漢晋春秋」に因ると、姜維の蛮勇に関しては「必自焚」と非難した様ですね。>>>279-31

「関羽の主簿→呉での生活→劉備との再会→孔明の参軍→蜀の滅亡→洛陽への移動中の病死」と、数奇な人生の人物ですから、小説の題材としては、面白いと思います。

廖化に関しては、http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50017218.htmlも参照下さい。
(PC)
16 ストラップ
廖化年表が欲しいとの事でしたので、試しに作ってみます。

190年頃? 襄陽郡?に産まれる。

219年12月 関羽の主簿であったが、呉に捕らわれる。

221年夏? 呉を脱出し、シ帰で劉備の東征の軍に保護される。宜都太守になる。

223年二月以降 蒋エン、廖淳(廖化の本名)等数名の名を挙げ、茂才を辞退する。諸葛亮の参軍となる。
?  ↑
右車将軍・假節・領并州刺史の位になり、中郷侯に封じられる?
?  ↓
261年頃? 友人の宗預を訪ね、諸葛瞻への挨拶を提案するが、宗預の言葉で中止する。

262年十月 姜維の狄道侵攻を批判。

263年十一月 張翼、董ケツ等と剣閣に向かうが、鐘会に降伏。

264年春 洛陽に連行される道中で病没する。
(PC)
17
今修正している混沌記が終わったら、是非この人を題材に作品を作りたい!と、思っている今日この頃…
この人は2人存在したのが長寿の原因、ってのが一般的でしょうか?
(EZ)
18 赤龍
>>17
ストラップさんが>>16にまとめられた年表、>>15にあるブログのほうの私の駄文などにあるように、正史では廖化は普通に長生きしただけで、特に問題になるほどの年齢ではありません。
演義で登場時期を早め、創作上の経歴を作ってしまったため、設定上の年齢に無理が生じてしまったのにすぎず、廖化が二人というのは、その辻褄をあわすために作られたこじつけに近いものといえます。創作に生じた矛盾に史実をあわせようなんて本末転倒ですからね。ちなみに、演義自体にも当然そんな記述はないですし、多分そんな細かい問題までは気にしなかったんでしょうね(笑)
もちろん、小説のネタに使うと言うのであれば話は別。フィクションの世界でならばそれも当然ありだと思いますよ。
(PC)
19
>>18
確かにちゃんと考えればそうですね"笑、でも、小説ならば2人説の方が面白味がありますね。
あと、関係無いのですが赤龍さんの集解の更新楽しみにしてます!
(EZ)
20 ストラップ
管寧伝におまけとして書かれている張センもなかなかに長命ですよ。

百五歳まで生きています。
(F2102V/FOMA)
21 ストラップ
今思ったのですが、「二人いた説」の最初はどこなんでしょうかね?
たぶん誰か一人が言い出して広まったんだと思うんですが。
(F2102V/FOMA)
22 しす
なんか「二人いた説」って赤菟が二頭いた説と似てますね。
演義で寿命が異常に長くなってると言えば丁奉もそうなんですけど、こちらは呉将ゆえか、あまり注目されない人ですよね。

廖化が元黄巾という設定は周倉とも被るわけですが、関羽の部下として読者に印象付けたかったのかなという気もしますね。
初登場も二人して千里行の時ですしね。
黄巾→盗賊→関羽の部下という流れには罪あるものでも正道に帰ることはできるという意味もあるのかという気がします。
(PC)
23 ストラップ
赤菟二頭説は、北方謙三の小説だと思います。例えばそれ以前に発行された潮出版のコミックトムという漫画雑誌の三国志のコーナーでは、長命説がとられていたと思うので。

廖化二人説もここまで広がる為には、どこかで誰かが何らかのメディアで大きくとなえている必要がある筈で、多発的なアイデアとも思えないんですよね。
誰か仕掛け人がいる筈だと思います。
(PC)
24 巫俊(ふしゅん)
廖化二人説って討論場で初めて聞いたんですけど、広がっているんでしょうか?
廖化の寿命が異常に長いという演義の状態はずっと前から話題になっていたみたいですけど、廖化という姓名の組み合わせは少ない部類ですし。
二人いるという発想が出ること自体が驚くことであったりするのですが。
(PC)
25 李三
廖化が演戯で長命な事。正史での淳という名から改名した事。呉から蜀に戻る際に死亡説を流したとある事などからの推理で生まれたようです。
出処は不明ですが、演戯での先入観を持って正史を読むとこういう説も不思議な気はしないですね。
(912SH)
26 ストラップ
>>24
自分もそう思うんですよ。
しかし広まって入れのは確かだと思います。

自分も始めはここで知ったのですが、その説を互いは無関係な多数が発している事がわかりました。
ちょいと調べるだけでも、>>1>>242-7>>17、初心者板の質問と、多くの人がそう勘違いしていますし、他でも聞いた事が何度かあります。

恐らくは何かの入門者向けの書籍に、面白おかしくデマが書かれたものではないかと疑っています。
(F2102V/FOMA)
27 ストラップ
上記>>>242-7ですね。すいません。
(F2102V/FOMA)
28 しす
廖化2人説に関する本を読んだ記憶はあるんですよね。
コーエーの『小説三国志の謎』だったかなぁ。
かなりウロ憶えなんですけど、確か演義の創作の部分を面白おかしく矛盾点を指摘しているような本だったと思います。
もちろん廖化が2人いたと指摘しているわけではなく、2人いたんじゃないかと思わせるくらい演義では寿命が長いという書き方だったと思います。
確か上記赤兎の件や、北伐で趙雲が突然老将扱いになってるなどの指摘があったように思います。
ま、この本であったかどうかはともかくとして、こうした記述から伝言ゲーム的に広まったのではないでしょうか。
(PC)
29 李三
>>28
確認しましたが、廖化二人説の記述は見つけられませんでした。(趙雲の事は記述有りました。)
別の書籍も確認してみます。
(912SH)
30 しす
>>29
確認ありがとうございます。
やはり記憶というのは宛てにならないもんですね。
私も実家に帰った時に詳しく調べてきます。
(PC)
31 李三
爆笑三國志6の110頁に廖化の記述がありました。
前半部分で演戯での経歴を紹介し、その最期が正史でも同様だと述べたあとで正史では名を変えた、呉から蜀へ戻ったと記述した後、結論としてこう述べています。
「廖化と廖淳とは親子か兄弟なのでは?そう考えるとこの恐るべき長寿も納得できるのだが。」
今読むと誤解を招く表現(というより著者自身が混同してる?)になっています。
(912SH)
32 李三
誰もレスくれないんで…(笑)
少々話はズレますが、そういえば、宮城谷昌光氏が小説「晏子」を書いた時のエピソードなのですが。
当初、史料の年代に矛盾点を感じ筆が進まなかったそうで、ある時、晏弱という人物を見つけ、晏子が(晏嬰と)二人いたという説を導き出した事で作品が完成したと…。
廖化二人説もこんな感じで生まれたのではないかと…
(912SH)
33 赤龍
私も、どうも>>28>>31であがってる、あのころの光栄本が怪しいと思ってます。

当時は正史も文庫が出たばかりの頃で、関連書籍もそう多くなく、今ほど実際に正史を読んでる三国志ファンはそうそういなかったと思います。インターネットで正史の原文や訳を見るということもなかった時代ですしね。
なので、実際に廖化伝を読んで、正史と演義の相違などを検証して考察するような人も少なく、演義での異様な長寿と、これら光栄書籍からえた断片的な正史の知識からの廖化二人説が広まり、それが今につづいているのではないかと考えています。

今と違って、情報の発信源がかなり限られている以上、当時の一般の三国志ファンにとって、光栄書籍の影響はかなり大きかったものと、私自身も記憶しています。
(PC)
34 諏訪
『明帝紀』の注に引く『魏書』に「(238年)九月、蜀の陰平太守の廖惇が謀叛をおこし〜」とありますが、この廖惇とは廖淳(廖化)のことでしょうか。
『郭淮伝』にも「陰平の太守廖化」とありますし、『宗預伝』にも督広武になったという記述があるので、陰平郡のあたりに廖化がいたのは確かだと思いますが。
(W51S/au)
35 巫俊(ふしゅん)
淳、惇の関係を調べていたら、『魏書』に淳于という小字(幼少のころの字)をもった人物を発見!『魏書』というのは元魏(鮮卑が建国した北魏)の正史のことなのねんw
廖惇と廖淳は別人だと開きなおって主張してみても別にいいと思うんですがね。ただ私は支持してあげないが(笑)
(PC)
36 巫俊(ふしゅん)
崇寧四年(1105年、文人皇帝として知られる北宋の皇帝徽宗が即位して6年の年。21年後にこの皇帝が北宋を滅ぼす)に八十九歳で死んだ故の宰相の章惇という人は、『宋史』の列伝の中で一例だけですが章「淳」と書かれていました。
章惇は同僚である蔡●と組んで国政を主導している政治家であることが本紀などから読み取れますが、当該の箇所はある人が章「淳」と蔡●の政治を悪であると批判したとし、その批判のあらましは「・・・である」と文が続くのですが、「・・・である」の部分では「惇」という字に戻っています。
これは明らかに「惇」という字を書き誤って「淳」と伝写したものであると思われますがどうでしょうか。

だから私は廖化二人説、廖惇、廖淳別名説とかは突飛な発想だなと思うんですが、総じて歴史というものは同一の人物を二人であると言ったり二人の人物を同一であると言ったりすることは稀にですがあるものなので(笑)、そういうことが有り得るということを知っておく必要はあるかと思います。
あんまり拘らなくても良いかなと思うところですが、こういうこと調べることが病み付きになるってことは結構ありますし、私もそのひとりです(笑)
まあ気楽に行きましょう。




●は「十、」という字。「べん」と読む。
(PC)
37 巫俊(ふしゅん)
別名説じゃなくて別人説ですね。
(PC)
38 諏訪
>>36
蔡●は蔡京の弟の蔡卞のことでしょうか?

私は、廖惇は廖淳の書き間違いの可能性はないかと考えていただけで、別人だとは主張するつもりはありません。そもそも、廖化二人説もこのサイトではじめて知りましたし。

たしかに、別人説とか同一人物説とかは面白みがあります。
日本史だと、斎藤道三二人説なんかは現在では有力なようですね。
(W51S/au)
39 巫俊(ふしゅん)
>>38
いえいえ、諏訪さんが二人説を支持されているということではなくてですね、最近の諏訪さんの考えを拝見していますと「確実であるか」ということに留意されている箇所がとくに目立つものですから、私としては確実さに焦点を合わせるばかりに終始するのもつまらないと思っていまして、いえ諏訪さんが終始されていると言っている訳でもないのですが、ひとつの史料を整理して精査するということが終わればそれで良しとして史料から裏づけられないことについては口をつぐむというのもつまらないと常々思っているものでして、この場を借りて厳格な史料精査と大胆な想像力の許容という両極端の事柄を同時にmasterすることの大切さこそ世間に説きたいと思っているのです。

ええ、蔡卞です。携帯の機種によってはPCで普通に使える字体が、勝手に全然違う字に置き換わって表示されたりしたことがあります。だから私はついつい字体には警戒してしまうんですけどね。
この章惇という人は建州の出身ということですが、建州(今の福建省)が本格的に漢化し、漢人の入植者集団が面的に殖え、中央の高級官僚にも福建人が名を連ねるのってこの宋代くらいからなんですよ。
私は王朗、孫呉、両晋といった政権の「南進」、入植や略取という極めて政治的立場な展開によって中国文化が南下したり、或いは南から北の本土の文化や社会までが大きく変容していく、揺れ動いていくという数百年や数千年を単位とした歴史の変化に興味をもっていましてね、日本の歴史にしても倭寇であるとか南方との貿易であるとかで成立していますから、中国という文化集団、国家が東南アジアに向かって南進していくということの歴史的な意味は三国志ファンとしても見過ごせないと思っている訳ですよ。
なんせ孫呉の歴史的影響力という点では、江南の開発ということだけでなく、この建州という都邑の開発もまた、孫呉によって基礎がつくられたのです。
詳しくは別にスレを求めるとして。

こうした点からすると一人か二人かということばかりを気にしてられないというのが本音です。
(PC)
40 諏訪
>>39
私としては、まずは史料から確実なことを明らかにしていきたいと考えています。
ただ、私自身浅学の身ですし、また私の手元にある史料がちくま訳の『三国志』しかないので、他の方の意見を参考にさせていただきたく、このサイトに参加しています。

巫俊さんが仰られることもよくわかりますが、私の場合むしろ、想像の方に傾きがちだからこそ、まずは正確な情報を求めているところがあります。

そうは言っても、よく調べずに想像だけで書き込んでしまうこともあるのですが。
(W51S/au)