4 天草
実は張任という武将は正史にはあまり登場してこないんですよね。劉障配下の武将自体があまり活躍する場面がないんですけど…。でも劉備は彼を配下に欲しくてしょうがなかったようです。演義でも彼は忠義の豪傑として描かれてますから、良将だったことは間違いないんでしょうね!辞典の記事以外に彼のことで知っていることがあれば、教えてください。
張任
張任
(PC)
7 大伴
黄権などは面白い人物ですよね。
劉璋配下の時は、劉備を危険人物だと忠告していますし、劉備の配下になれば、劉備や孔明とも信頼関係を築づく。そしてやむなく魏臣となれば、そこで多くの功績をあげる。そして、はばかる事なく孔明を称賛したり。
彼が魏の元で働いた年数は十七年。劉備の下では八年。にも拘わらず<黄権伝>は、蜀書に納められている。不思議な事です。彼が蜀に残した息子、黄崇は蜀臣で、陳寿と同時代の人物ですから、彼を陳寿は、蜀臣として扱いたかったのかも知れませんね。
劉璋配下の時は、劉備を危険人物だと忠告していますし、劉備の配下になれば、劉備や孔明とも信頼関係を築づく。そしてやむなく魏臣となれば、そこで多くの功績をあげる。そして、はばかる事なく孔明を称賛したり。
彼が魏の元で働いた年数は十七年。劉備の下では八年。にも拘わらず<黄権伝>は、蜀書に納められている。不思議な事です。彼が蜀に残した息子、黄崇は蜀臣で、陳寿と同時代の人物ですから、彼を陳寿は、蜀臣として扱いたかったのかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
9 大伴
<黄権伝>の記述の多くは、彼の魏での事ですよ。
三国志では、景初三年、蜀の延キ二年と、珍しく年号を並記し、この年、黄権が車騎将軍・儀同三司に昇進した、とあり、翌年没したと続きます。景侯と諡されたそうです。
三国志では、景初三年、蜀の延キ二年と、珍しく年号を並記し、この年、黄権が車騎将軍・儀同三司に昇進した、とあり、翌年没したと続きます。景侯と諡されたそうです。
(F2102V/FOMA)
11 李克用
またまた、突然現われて、他人様の知識です。
張任は、東州兵だそうです。劉焉が、益州に入るときに連れてきた武装集団で、略奪などもしていたようです。と言うことで、天草さん、東州兵について調べてください(笑)
張任は、東州兵だそうです。劉焉が、益州に入るときに連れてきた武装集団で、略奪などもしていたようです。と言うことで、天草さん、東州兵について調べてください(笑)
(P900i/FOMA)
12 天草
東州兵について…
これより先、南陽郡や三輔地方から多くの人々が益州に流れ込み、劉エンは彼らを兵士に取り立て「東州兵」と名付けていた。東州兵は益州の民衆を迫害したが、劉章は取り締まることができなかった。そこで人々の心をつかんでいた趙イが東州兵を統御することになったが、趙イは民衆の怨嗟を利用し、荊州牧劉表に賄賂を送って和睦し、州内の豪族らとともに挙兵する。趙イが劉章を攻撃すると、広漢・蜀郡などが呼応したので、劉章は成都城に立て籠もった。東州兵は趙イを恐れ、みな劉璋に味方して戦った。こうして趙イは敗北し、配下のホウ楽・李異に殺害されたのである。
しかし、張任がその兵の人物かどうかは…。
張任は「益州蜀郡の人。益州牧劉璋配下の勇将。張任は貧しい家柄の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の役所に勤め従事となる…」と書かれてますので、出生は結構はっきりしているのでは?と思いますが。。。
これより先、南陽郡や三輔地方から多くの人々が益州に流れ込み、劉エンは彼らを兵士に取り立て「東州兵」と名付けていた。東州兵は益州の民衆を迫害したが、劉章は取り締まることができなかった。そこで人々の心をつかんでいた趙イが東州兵を統御することになったが、趙イは民衆の怨嗟を利用し、荊州牧劉表に賄賂を送って和睦し、州内の豪族らとともに挙兵する。趙イが劉章を攻撃すると、広漢・蜀郡などが呼応したので、劉章は成都城に立て籠もった。東州兵は趙イを恐れ、みな劉璋に味方して戦った。こうして趙イは敗北し、配下のホウ楽・李異に殺害されたのである。
しかし、張任がその兵の人物かどうかは…。
張任は「益州蜀郡の人。益州牧劉璋配下の勇将。張任は貧しい家柄の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の役所に勤め従事となる…」と書かれてますので、出生は結構はっきりしているのでは?と思いますが。。。
(PC)
15 李克用
むむむっ…聞いてきたけど、東州兵ではあったらしいです。東州兵は、劉焉の私兵のようなもので、豪族ではなく劉家の軍人なら全員東州兵かもしれないとのことです。
張任が、悪いことをしていたかどうかは、わかりませんが、東州兵のなかではまともな方だったようです。
張任が、悪いことをしていたかどうかは、わかりませんが、東州兵のなかではまともな方だったようです。
(P900i/FOMA)
16 赤龍
東州兵を率いる将だった可能性は高いと思います。経歴にあるように寒門出身。豪族のように私兵を持ってる可能性も低く、郡大守レベルでもない。東州兵を率いて戦ったのではと思います。
(J-SA05)