1 孫仁 尚香

呂蒙 子明について

はじめまして
私は呉のファンなのですが周ユ、魯粛、陸遜と軍権を握る武将の立場に呂蒙は前者達よりもやや劣る印象を持ちます。

早死にしてしまったのが理由になってしまうのでしょうか?
皆様方にお聞きしたいです。
(W21CA/au)
2 子明
おぉっ!!
呂蒙ですかっ!
嬉しいですねぇ!
孫仁尚香さんそれでは少し呂蒙について自分なりに書いておきましょう

呂蒙…
生年178〜219
豫州汝南群出身。

一兵卒からの叩き上げで、軍に身を投じたのは貧しさから抜け出すため、と公言していた。
腕っぷしが強く、十五、六歳で従軍している。
「小僧何ができる?」と馬鹿にした上官を斬り殺すという乱暴者であった。
孫家陣営に身を投じ、軍功を挙げ出世するがこのとき孫権に教養について指摘される
(このエピソードについてのことは人物辞典に載っていますので…)

魯粛の死語、荊州方面のの司令官となり、関羽から見事荊州を奪取
その後病死をしているが勿論関羽の呪いではない。

呂蒙についてどういった戦略が得意だったか皆様聞いてみたいですね
(PENCK/au)
3 エイ
周公瑾、魯子敬、陸伯言らは、富豪や豪族の出自であることを鑑みれば、
寧ろ、呂子明の才覚は抜きん出ていた・・・とヒネクレ票を投じてみたりします。

確か、兵を率いるようになったのは姉の夫が亡くなった際に、
それを引き継いだ(張子布が推薦した)のが始まりだった気がします。
その辺りを考慮しても、相当に非凡であったことは間違いないと思いますです。

私個人的には、前述三名に大局的な戦略で劣るものの、戦争・戦闘では一番強かったのではないかと考えます。
『孫呉』の領土を武力で拡大出来たのは、彼だけではないでしょうか?
(PC)
4 朱家
孫権は、策略は公瑾に次ぐと言っている。
若い頃、隠れて従軍していて母に叱られると「貧困の境遇に止まっていられません、功を上げれば少しは良くなるでしょう。それに危険をおかさねば成功は手に入りません」(意味はこんな感じ)と言い母は何も言えなかった。また些細な事で人を殺めてしまい自首すると、孫策は率直さと才能を感じ召し抱えた。孫策もさすがだ。また褒美の品々は国庫に封印されており、死んだら国に全て返すように伝えていた。呂蒙は決して劣る人物ではありません。関羽に兵糧を奪わせたのも彼の策略ではないかと言われてます。まだまだ褒め足りませんが、他の人に譲ります(笑)
(A1304T/au)
5 風太
呂蒙の不運(ちょっと違うかな)は、関羽の件ですね。あれのせいで、演義では亡霊に呪い殺されますからね。まさか呉のためにやったことで死にかたまで変えられるとは思ってなかったでしょうね。
(W22SA/au)
6 元歎
ん? 子明…。子明さんて傅僉さんのサイトに出入りしている子明さんですか?

呂蒙は、他の三人とは全然質が違いますね。他の三人は政治が(おそらく)できるのに対し、呂蒙は政治などは全然できなかったでしょう。他の三人は武術が人並みであるのに対し、呂蒙は武術が得意だったと思います。関羽がちょっと賢くなった感じ?(笑)
関羽好きですけど、呂蒙も嫌いじゃないですね。「呉下の阿蒙に非ず」は学生の鑑ですよ…
(PC)
7 ストラップ
ケ当の後任になった際、閲兵の時に兵卒に煌びやかな格好をさせ、孫権の目を引き増員させています。孫権の趣味を知って、機転を利かせている訳ですから、元々頭は悪くなかったのだと思いますよ。

赤壁後の掃討戦でも、夷稜で甘寧を救出する戦略家としての一面も見せていますし。
(PC)
8 呂子明
6>>
自分はその方とは違う人物ですよ。
以前にもそれと同じ質問がありましたので名前をこれに変更します(笑)


最近コーエーの三國志シリーズでは能力の成長が早いのも彼の特徴の一つですね。あくまでもゲームですが…
(シナリオによっては能力が違う場合もありますし…)


しかし関羽を敗戦に導いた将ですからショクファンからは嫌われていますかね?
(PENCK/au)
9 赤龍
人形劇三国志では、呂蒙ものすごい悪人だったおぼえがあります。顔も悪人面で。民を人質にとったりして、「呂蒙、貴様だけはゆるさん」とか言われてたり(おぼろげな記憶)、ほんと最悪なイメージでしたね。
演義(系統の作品)から入ると、どうしても印象悪くなりますね。
しかし、その後劉備を叩きのめした陸遜は、そんなに嫌われてないですよね。
(PC)
10 孫仁 尚香
皆様の見識の高さには大変感服されます。

さて、関羽が登場しましたので思ったのですが219年、関羽が荊州からギを攻め寄せるとき呂蒙の作戦ではなく陸遜の作戦のほうに私は思ってしまうのですが皆様はどう思われますか?
(W21CA/au)
11 孫仁 尚香
すいません


》10
皆様わかっていると思いますが呉が荊州を攻めるときです
(W21CA/au)
12 朱家
普通に考えれば呂蒙でしょ。陸遜に会ったのは任地を離れた後だし、陸遜は「勝ち誇ってる関羽の不意をつくべき」(戻ったほうがいいですよとも取れる)と言ってるが、何の策もなく任地を離れるとは考えにくい。魯粛が任地に赴く前から関羽を警戒してたのに、いざ赴任すると今以上の友好を求めようとしてる。関羽を倒すためだけに牙を研いでた感じがする。苦労して落とした江陵に思い入れがあったかもしれない。全ての策が孫権の可能性もあるが、婚姻の点で説得力に欠ける。
(A1304T/au)
13 しす
関羽スレが盛り上がってる?のでこちらもage。
(PC)
14 元歎
>>>329-6の呂蒙についてはこちらで話しましょうか。
って、今日はもう遅いのでまとまった文章は書けないので、明日にします^^ でも、呂蒙は関羽タイプだと思いますよね? 政治に関する才はないと思いますが…
(PC)
15 ストラップ
中島敦の「悟浄歎異 −沙門悟浄の手記−」で悟浄が己が進歩の無い人間だという時に、呂蒙の名前を言っていますよ。
(PC)
16 皇澪桜
>>>493-58
呂蒙について話題をあげてしまったのでこちらもあげます。
(W52CA/au)
17 諏訪
せっかくスレがageられたので、私の印象を述べさせていただきます。

私は、呂蒙・陸遜を周瑜・魯粛と比べると、いささかスケールが小さいように思えます。
たしかに、呂蒙・陸遜は戦争に強く、占領地の統治にも優れているのですが、その戦略があくまで領土拡張のためのものであるのに対し、周瑜・魯粛の戦略が天下を見据えたものであったことからそう感じるのです。

もっとも、これはあくまで戦略のスケールについてであり、必ずしも人物の優劣についてではありません。呂蒙・陸遜のほうがむしろ現実的だともいえるからです。
(W51S/au)
18 皇澪桜
なるほど…そういう考え方もありですね。この討論場で周瑜の『天下二分計』を見ましたがそれ以降にそういった戦略の記述ってあるのでしょうか?呉に限らずあるならば聞いてみたいです…ご教授願いますm(__)m
(W52CA/au)
19 赤龍
>>17
その印象の差は、周瑜・魯粛がまだ群雄割拠の状況の時代に活躍した人物であるのに対し、呂蒙、陸遜は天下三分という大まかな趨勢がすでに決してしまっている時代に活躍の中心がある、という差も大きく影響するのではないでしょうか?
(PC)