1 無問題

アウトロー都市青州

久しぶりにスレを立ててみようかと…、後漢末期は色々な場所で異民族の反乱やら黄巾党の決起やらで全国的に荒れていたわけですが、中でも荒れまくっていたのが青州だと聞いたことがあります。確かに、黄巾の残党が猛威を振るっていたし、海賊までいましたからね。何故あそこまで荒れたんでしょうか?ちなみに、あそこを治めた人物は孔融と袁譚ですね。彼等が無能だったという事でしょうか?
(EZ)
2 朱家
太平道が最も盛んな土地となったそうなので、集まったんでしょうね。
青州と北海が微妙ですが、孔融は、理想が高すぎて、時代にそぐわないと言われてますから、始皇帝みたいな感じなのかな?田楷との関係も、かなり微妙ですが…
決定的は焦和じゃないですかね?全て廃墟と化したとありますし、それを立て直したのが臧洪ですね。
袁譚も「一万戸あるも、戸籍は数百に満たず」とあるので、統治能力は低いですね。
統治者が安定しないですからね。臧覇も平定に時間を要しますから。
(A1304T/au)
3 無問題
そこまで青州は荒れていたのですか?その臧洪という人物前なにかのスレでなまえがでてましたよね?臧覇の縁者か何かでしょうか?
(EZ)
4 朱家
臧洪は臧覇の血縁ではないと思われます。彼を説明できる文章力がないですが一応…張超配下の将で、伝が立ったのは烈士として選ばれたと思います。歴史に大きく関与しないので、ほとんど紹介されない。ちなみに『呂布臧洪伝』です。 前半略…袁紹に青州を任される。張超が呼び戻してないのは、友好のためと思われる。見事な統治をした後、東武陽に移り、張超の援軍のため兵を借りようとするが、許可されず、臧洪は絶交し、包囲される。「諸君は関係ないから逃げなさい」と言うが、誰も逃げず、男女七、八千人が死んだが、離反する者はいなかった。陥落寸前に陳容を逃がしたが、陥落を聞くと、自ら戻り、臧洪と一緒に斬られた。それより前に司馬の二人を救援に出してたが、帰ってきて臧洪が斬られたと知ると、敵陣に突っ込み二人とも討死した。
かなりのカリスマ性を持っていたと思われます。
(EZ)
5 無問題
そんなに魅力的な人物だったんですか?彼の統治しているところは比較的安定していたんですね。そういえば、袁譚が青州一帯で猛威をふるっていた海賊カン承を野放しにしていた話がありますよね?
(EZ)
6 ストラップ
>>3-5
彼は>>>235-53で紹介した人物ですね。
(F2102V/FOMA)
7 朱家
臧洪の人間性はともかく、批判も多いです。張超は陳宮と共に、呂布を迎えてますから、曹操と友好関係の袁紹からすれば、ある意味反逆者ですし、しかも呂布、援軍を許可するはずがない。自ら身を捧げたとはいえ、城兵、民を死なせた罪は重い。彼を立派と見るか、愚かと見るか、大きく分かれております。
青州は北が田楷、東が孔融、西が袁紹勢って感じだと思うが、臧洪の後釜が謎で、袁譚が195年から統治してたとは思えないのよね(根拠ないけど)
管承は野放しというか、官職与えて懐柔しようとしたけど、失敗した感じですかね。袁譚は民を顧てないですから「民が官を養う」を知らない典型的な将だと思います。
(EZ)
8 無問題
朱家さん・つまり、三つの派閥に分かれていたと言うことですかね?だったら荒れるのもなんとなく納得出来ますね。田楷は公孫賛派とみるべきですかね?
(EZ)
9 朱家
そうですね。ちなみに最大勢力時、田楷の下には劉備がいましたね。孔融と田楷が微妙と言いましたが、劉備が孔融を青州刺史に推挙してるんです。田楷の官職が上がったと思いますが、一時、孔融も公孫派に属したのかもしれません。
(EZ)
10 くわぁまん
ちょっと、待ったぁー!
蔵洪を語る前に忘れてはならない人が居るでしょ…(笑)

焦和ですよ、焦和。

それに、青州の話は少しややこしいのですよ。公孫讃対袁紹と言うよりも袁術派と袁紹派と言う派閥抗争が関係していますからね…(涙)
(F901iC/FOMA)
11 無問題
朱家さん・その孔融は後に劉備を徐州の刺史に推薦してますよね?意外と仲良かったのかな?と思います。
くわあまんさん・うん?蕉和という人物は何者ですか?
(EZ)
12 くわぁまん
焦和は蔵洪の前任の青州刺史です。

所謂、口先だけの臆病者で強力な軍団を持ちながら黄巾軍相手に戦闘の指揮がとれず、逃亡したので青州は荒廃しました。
そこで、袁紹は蔵洪を刺史として派遣したらしいです…(笑)
(F901iC/FOMA)
13 朱家
くわぁまんさん〉忘れてませんよ。最初に名を挙げてます。

劉備は、名声抜群の孔融と交流したかったんじゃないですかね?推挙すれば、印象に残るでしょうから。
袁術派はどうですかね?陳留で負けてからは、そこまでの勢力はないと考えてますけど…
(EZ)
14 無問題
くわあまんさん・おお、某冀州牧並にヘッポコだ!(笑)新たなヘッポコ人物としてノミネートしときます(笑)
朱家さん・劉備も名声をあげたかったのですね…。孔融に評価された人物はけっこう出世している人物が多いですからね。
(EZ)
15 劉備
当時は、著名な名士に評価してもらうということが、その人の社会的地位を考える上で非常に重要でした。曹操が許子将に人物評を無理やり求めたこと、孔融が機転をきかせ(屁理屈)李ヨウに会いにいったこと、そして劉備が孔融からの援軍要請を受けて喜んだことなどが、そのことを物語ってます。
さて、劉備が孔融を刺史に推挙した件ですが、劉備が公孫サン派から陶謙・孔融派に乗り換えようとしていたからではないかと考えています。ここら辺、ほとんど私の根拠に乏しい仮説によるものですが。
孔融が劉備に徐州を治めるよう薦めた時に、同時に劉備も孔融を推挙したのかもしれませんね。
(PC)
16 くわぁまん
朱家サン>失礼しました。(汗)

劉備サン>お初です。劉、孔間はそんなに難しい関係では無いと思いますよ。
一時期、幽州と青州は地続きでしたので公孫讃は冀州を包囲するために田楷、王経をそれぞれ青、エン州の刺史に任じていますから…

しかし、エン州が曹操の手に堕ちてしまったので公孫讃の計算がだいぶ狂ってしまったのではないでしょうか?
(F901iC/FOMA)
17 赤龍
あれれ、劉備の話書いてたら名前の欄が劉備になってました。>>15は赤龍です。申し訳ないです。
で、青州刺史の件がここで問題にあがってるのは、劉備は公孫サン勢力下の田楷に従ってたはずなのに、孔融を青州刺史にするのは、田楷の立場を無視した行動ではないか?ということです。田楷がいつまで刺史だったかはっきりしないのが問題ですが。
さらに、ひっかかるのが、劉備が徐州を治める際に袁紹に了解を求め、その後袁術と敵対。これも、公孫サン配下の立場としては筋違いですよね。どうも、劉備が公孫サン派から離脱したように思えるんですが。
(PC)
18 くわぁまん
おお!?赤龍サンでしたか…(笑)

年表を調べました。

193年》 田楷、劉備とともに陶謙の救援に赴く…。袁紹、袁譚を青州刺史に任ずる

194年》劉備、徐州の撲を継ぐ

195年》蔵洪、張超の救援に赴こうとするが袁紹に援軍を断られそれを恨んで不仲になり対立したすえ斬られる。劉備、孔融を青州刺史に推挙。
196年》袁譚、北海を攻め孔融を打ち破る…

…と、まあこんな感じです。田楷はおそらく193〜194年頃袁紹討つたれたのでしょう…(汗)
しかし、新たな謎が…。劉備と袁譚との仲って何時からなんでしょ?
(滝汗)
(F901iC/FOMA)
19 赤龍
年表の問題点。
まず、劉備が孔融を刺史に推挙したのは、194の可能性もあり。史料によって少々計算がずれるんですよね。
また、193年に袁譚が袁紹に刺史に任じられたというのは間違いと思うのですが、何か根拠があるのでしょうか?袁譚はあくまで都督として青州に派遣され、後に曹操の上奏により刺史に任じられています。
田楷が193〜194に討たれたとする理由もよくわかりません。
この時期は諸勢力間の関係がかなり複雑で、かつ史料も年代を特定しずらいものも多く、わかりずらい時期ですね。
(PC)
20 朱家
袁譚の青州刺史は、曹操の任命なので、献帝擁立後と考えてます。
田楷のもとを去りとあるので、見切った可能性はありますね。しかし陶謙は田楷に援軍を求めてますし、救援は公孫も了承してるでしょうから、この時点では友好関係でしょう。陶謙死後、敵対したとなるのでしょうか?となると孔融推挙は、陶謙死後ですね。ギリギリどっちか判断に困ってましたが。公孫は遠いので理解できますが、もれなく袁術がついてきますよね。陳登は曹操を評価してるので、そっちに付けって事ですかね?
(EZ)
21 赤龍
もともと、陶謙は袁術・公孫サン連合の一環で動いていますから、田楷(その下の劉備)の陶謙救援も、自派勢力の救援と考えて問題ありません。しかし、その一方陶謙は孔融らと、袁術、公孫サン派、袁紹派とも別に独自の動きを行なう形跡が見られることから、劉備もこれをきっかけに彼等のグループに鞍替えしたのではないかと考えています。ここらへんの諸勢力の関係、複雑なものがあると考えてるので、「鞍替え=即対立」みたいな単純な図式ではないとおもっています。
いつか、しっかりとまとめてみたいと思ってる私の仮説です。
(PC)
22 赤龍
袁譚の青州刺史任命は、私も196年のことではないかと思っています。そして、『九州春秋』の書き方から、田楷の敗北は孔融と同じく同196年あたりではないかと考えています。
(PC)
23 無問題
朱家さん・袁紹は劉備が徐州牧になった事についてどうおもっていたのでしょうか?一応認めていたようですが?もしかして、袁紹に接近して袁術・公孫賛派から脱会しようとしたのでしょうかね?
赤龍さん・ほんとにこの時代の勢力図はややっこしいですよね…。しかし、改めて青州をめぐる袁紹、袁術、公孫賛の勢力争いがかいまみえました。
(EZ)
24 くわぁまん
本当、青州の話はややこしいです。公孫度も係わっていますからね。彼は190年に東莱郡を攻略し、営州を設置していますから…(笑)

根拠は無いですが、自分は赤龍サン、無問題のお考えよりもっと早く袁譚は刺史に任命されていたと予想します。何故なら193年に高幹がヘイ州の牧になってますからね…

時間はそんなに離れていないと思いますね。(笑)
(F901iC/FOMA)
25 朱家
前に少し触れてますが、私は、陶謙、孔融は独立してたと考えてまして、曹操に攻められた時に、公孫派に属し、孔融推挙もその流れで、その後、呂布を受け入れた事で、袁術と敵対し、離脱したと考えてました。
しかし今、赤龍さんの意見を聞き、袁紹の件も含め、そちらのほうが説得力があるな〜と思い、混乱しております。無問題さん、返答は少しお待ち下さい。
(EZ)
26 くわぁまん
無問題サン呼び捨てスイマセン。(汗)

ちょっと興味深い文面見つけました。光栄から出ている「出身地でわかる三国志の法則」の一文で、青州黄巾族が曹操に降ったのは、曹操の考えた世直しと黄巾党の利害観念が一致した為に配下に加わったのだと…。

しかし、曹操が死去すると、青州兵はみな陣太鼓をならしながら去っていったらしいです。

また、臨シの習俗は「のびやかでおおらかであり、智に富み、議論を好み、重厚で付和雷同はしない。集団の戦闘には臆病であるが、一対一の刺撃には勇敢である」(史記、貨殖列伝)とされているとのことです。何となく青州人の気質が伺えますね。(笑)
(F901iC/FOMA)
27 朱家
二日ほど、こればかり考えて寝不足だ…
長くなるので劉備だけ。
一応袁術を推挙するので、まだ片足は公孫派と考えます。袁紹に陳登を派遣し、公孫派を離脱。この時点で袁術と組めば、曹操にとってかなり驚異だったはず(呂布もいますし)徐州民に反対された?袁紹を盟主と呼んでるので、これは袁紹、曹操派につく意味ではないような、つまり独立?公孫派を離脱したので、当面の敵は袁術、これは曹操と協力しなければならない。しかし呂布を受け入れる。曹操、袁紹の心象を悪くする行為ですね。袁術がいるうちは大丈夫と計算のうえか?呂布を迎えたなら、兵を与えて袁術にあたらせるべきで、裏切られても、曹操の援助を仰げると思うし。
劉備は何を目指してたのでしょう?

袁譚の193年説は、一番上に見ても、22才ぐらいですよね?いくら長男とはいえ、若すぎるような…都督になったのも195年頃と考えてます。
(EZ)
28 無問題
くわあまんさん・そういえば青州兵は青州の黄巾党の残党でしたね?何故曹操が志んだあと帰っちゃったんですかね?曹丕と不仲だったとか?
朱家さん・呂布を招きいれて他国への抑止力にしたかったとか…。しかし、何故裏切り者の代名詞ともいうべき彼をわざわざ招きいれたんでしょうかね?
(EZ)
29 赤龍
劉備は、一応袁術・公孫サン派に属していたので、徐州を辞退した際(形式的な辞退と思いますが)盟主的存在の袁術の名を出します。それに反対したのが陳登にくわえて孔融。陶謙が劉備に徐州を任せようとしたこともあわせて、やはりこれも陶謙、孔融が袁術・公孫サン派とは別個の動きを見せていたことを示しているのではないかと思います。
ただ、陳登は親曹操派ですが、孔融は袁紹、曹操の両者と結ぶことを拒んでいる。そこから、袁紹派にべったりついたわけでも無く、まさに独自の動きを画策していたのでは?と考えています。もっとも、劉備がその考えを忠実に受け継いでいたかは謎ですが。
すると、呂布の件も、両勢力との対抗上、名高い将軍呂布を迎え入れ、自勢力の軍事力にしようとしたのではないかとも思えます。
(PC)
30 朱家
順序が逆のような気がするんですよ。離脱(怪しい動き)して呂布を迎えると、全てを敵にまわす危険があったと思うのです。公孫・袁術派に属したまま呂布を迎えれば、派閥での地位も上がり、それを面白くないと袁術が敵対すれば、曹操と結べばいい。曹操と袁術が結ぶ事はないと思うし、中立の立場から主導権を握れたと思います。小さな三国鼎立(笑)孫策がどう動くか分かりませんが…
うっ!話が南下してる(笑)
青州の話を…臧覇の子臧艾も青州刺史、孫観(臧覇の配下)も青州刺史、その子孫毓も同じ。青州刺史は跡継ぎ制か?(笑)出身地とはいえ、縁があるんでしょうね。強引ですがお許し下さい。
(EZ)
31 くわぁまん
孫観が刺史になったのはだいぶ後ですね(209年頃かな?)

その前に…、袁譚が孔融を破り曹操は李整を刺史に任命しています。

また、208年には劉ソウが任命されていますね…(笑)

ちょっと話はそれますが、李整の親父サンは相当のツワモノだったらしいですね。別スレになっちゃうけど、隠れた名将です。
(F901iC/FOMA)
32 無問題
赤龍さん・孔融・陶謙が独立した勢力として動いていた話はブログでも書かれていましたね。劉備はこの人達に担ぎ上げられたのでしょうか?
朱家さん・自分もそこが納得行きません。劉備はいったいなにを目指したのですかね?
くわあまんさん・お、また隠れた名将ですか?
(EZ)
33 天草
青洲と言えば、私が以前から気になっている青洲兵の存在がありますが…。

最近ふと思ったのですが、太史慈が弓で相手にしたあのエピソードの賊は青洲黄巾なのでしょうか?

時代背景に詳しい方いますか?
(PC)
34 朱家
まあ結果から考察したのであって、情勢を理解しての考察ではないのでなんとも…

曹操は青州兵をかなり特別扱いしてましたからね。「世が乱れると思い」とありますが、理解者を失い、身の危険を感じてだと思いますね。反乱起こされたらたまらないですから、曹丕は警戒するでしょう。臧覇も少し愚痴をこぼしたら、軍を没収されてますからね。
(EZ)
35 くわぁまん
すんご〜ぃツマンナイ疑問…(笑)

管亥って最後どうなったのでしょうね?ヤッパ太史慈、劉備兄弟に斬られたのですかね…。

彼は黄巾の首領でしょ?青州の、つまり青州黄巾の関係者だったのですよねぇ…(笑)

なんで青州兵の代表者って記録無いんでしょ?

百万も人がいれば猛将の五人や十人はいても可笑しく無いのに…
(F901iC/FOMA)
36 無問題
くわあまんさん・自分もそれを疑問に思ってます。以外と曹操陣営の名のある武将の一人が青州黄巾党の出身だったとか…
(EZ)