1 しす

趙雲について その2

>>>45の続きです。
さすがに人気者だけありますね以後こちらでよろしくお願いします。
(PC)
2 元歎
>ある一定以上の昇進を嫌がった
慎み深くて昇進を嫌がったなどということはありえないと思います。趙雲の階級は、彼の功績を表したものだと思いますが。

>撤退戦では、名声は上がっても功績は上げづらかった
撤退戦は功績は上げにくいにしろ、才能は認めらることが多いと思います。

>総大将が無理だとはおもいません。
いえ、無理です。統率力はともかく、戦略の点でダメですね。これは致命的です。

>趙雲は部隊を率いての戦でこれといった失敗が無いので人並み以上の統率力があるのは明らかです。
これには賛成できます。

子龍さん>子龍さんの考えには天草さんも賛成されており他の人も何も言わないので、個人的な見解ではないですよ。むしろ僕の方が異端のようです^^ あまりお気になさらないで下さい(^^)
(PC)
3 青龍
またもや伝わりにくいとこがあったようなので先ずはそこからm(__)m
自分の中に、名声=周りの評価、功績=階級や昇進に直接影響がでるものと印象があったので(違ってたら直してください)言い換えると、名声が上がることは才能を認められることとなるので同意見ですね(結果は違ってくると思いますが)。
では他の話しですが、昇進については趙雲を考える上で出てくる、とても独特な見解なのでご理解されないのも仕方ありません。しかし、「彼の功績を表したもの」での功績を実力という意味で用いたなら(勘違いならスイマセン)それは違います。先に述べたように才能を認められても功績が上げづらい場合があるからです。
やはり総大将ですが、今度は戦略ですか(^-^)戦術より広範なんですよね?それにしても、そのよりどころを知力に見るならば確固とした記述はないものの、またシ号を例に出すとそれほど頭が悪いとは言えません。そもそもダメと言い切る理由が私には分かりません。出来れば教えてください。
(D901i/FOMA)
4 朱家
青龍さん〉初めまして、よろしくです。
「限界が明らかでなかった」すでにこれが推測です。これが限界だった可能性もあるのです。むしろ客観的にみたら後者だと思いますよ(そう思いたくないけど)
陳寿の評価で、張飛、関羽は「国士の風格があった」とあり、趙雲は武臣の評価ですね。
箕谷では降格してますが「自ら申し出て降格された」の記述でもあれば裏付けになりますが、ないですし、軍需品を拒否したのも、負け戦で特別扱いするなって事だと思いますし、難しい解釈だと思いますよ。
ちなみに総大将の才に関しては、記述がない事が、証明になると思います。元歎さんもダメと言ってるのではなく、良いという裏付けがないとの事だと思いますよ。私は「限界が明らかでなかった」の裏付けがないと、議論は難しいと思います。あくまで私の考えですが…
(EZ)
5 青龍
前のスレの事も出てますね(^^)書き足らないこともあったのでありがたいです。
箕谷の降格はその事実が大変重要です。さすがに自分からってことは私も考えてません。そして下賜を断ったことはその内容が重要です。内容とは慎み深さで有名な(笑)諸葛亮からの下賜を断ったということです。そこだけをみれば趙雲の慎む気持ちは諸葛亮と同等以上となります。また、諸葛亮ですら褒美を送ろうとしてしまう事をなしても降格はしました。これぞまさに(自分の見解ですが)「撤退戦では名声は上がっても功績を上げづらい」ではありませんか?私が趙雲の限界が明らかでないという理由はここにあります。戦で一人の死人も出さないのは至難の業です。特に難しいとされる撤退戦で、この上ない戦いぶりをした趙雲でさえ戦の後に降格される、箕谷の戦いを通じてそれを読み取るのは難しくありません。これより趙雲が就いていた階級はその限界ではないことが、単なるこじつけや記述がないからといった可能性だけの話ではないことの裏付けにはなりませんか?
評をそのように見れば一般的な順位(陳寿がつけたつもりかは別として)を多少は覆るのですね。ところで国士>武臣なのですか?
(D901i/FOMA)
6 子竜
とりあえず、国士と武臣を辞典で検索…
国士…その当時、国で第一等の人物。国事に奔走する人。(この場合当てはまるのは前者ですね)
武臣…武をもって朝廷に仕える人。

とりあえず、比較の対称にはならないと思います。例えに引っ張り出された夏侯嬰で考えてみると、彼は武臣であり、長年劉邦を支えてきた最古参の内の一人ですから国士であるとも言えるでしょう。この事から考えて、趙雲も関羽も同様のことが言えるのではないでしょうか。

ふと思ったのですが、本当に総大将に戦略眼が備わっていなければいけないのでしょうか?決して必要無いと言っているわけではありませんが、これについては横で補佐する人間がいれば解消されるのではないでしょうか。戦略というのは戦闘が始まる前に行われるものですし。それよりも大切なものはやはり統率力だと思います。兵士については両者引き分けといったところですが、部下(配下の武将)への気配りという点では関羽は一歩譲らねばならないと思います(糜芳、傅士仁などが例です)。また、これに関連して言えば、関羽は人に実力以上のものを求める所があります。しかもそれに応えないと処罰です(これが原因で糜芳、傅士仁は投降)。まぁ、だからと言って趙雲がそうでは無いと言えるわけではありませんが。

>>2
異端だなんてとんでもない!十人いれば十人の見解が有るわけですから。これからも熱く討論していきましょう!私、あんまり参戦しないですけど…。
長文失礼しました。
(W31SA/au)
7 朱家
捉え方の違いはあるが、国士=蜀の将、武臣=劉備の将と考えてます。部隊の統率と、軍の統率は別と思います。
箕谷での降格は、趙雲の敗戦による降格ですよ。撤退が見事でも、兵を失った責任のほうがはるかに重いでしょう。軍需品を拒否したのも、自分に失態があるのに、特別扱いはやめてくれって事でしょう。撤退の見事さを強調されて、兵を失った事を無視されては困ります。
他の例を挙げれば「劉備は天下統一する才があった」これも分かりません。事実なのは統一してない事だけです。趙雲も同じですよ。議論すべきは「何故総大将になれなかったのか?何が足りなかったのか?」だと思います。
総大将の才のあるなしで、将の優劣が決まる訳ではありません。劉備や孔明が、駒として使ったほうが良いと判断したのであって、むしろ活躍の場を与えられた幸せな将だと考えてます。 ちなみに私も関羽より優秀だと思ってますよ。貴重なのは関羽ですけど、ドラフトするなら、法正の次に趙雲を取ります(笑)
(EZ)
8 くわぁまん
う〜ん、なるほど、なるほど、皆さん激論されていますね…(笑)

アッシは関羽、超雲どちらも総大将の素質は充分だったと思います…。

で、ちょっと気付いたのが、魏の総大将は言わずと知れた名将張コウでしょ?
皆さん何かお気付きになりませんか?そうです…。
彼は超雲と郡は違うが同郷人だったのです。冀州人の気質として融通の利かない頑固な面があるようです。そこで孔明は正と正、張コウと超雲をぶつける事に躊躇したのではないでしょうか?

でなければ北伐第一戦の総大将は超雲を起用していたでしょうね…


…間違いない…(遅)
(F901iC/FOMA)
9 通りすがり
超雲×
趙雲○
(N2102V/FOMA)
10 元歎
参加者が増えてきましたね〜^^
>才能を認められても功績が上げづらい
功績が上がらないと昇進できないということはありません。才能が認められれば昇進もするし抜擢もされます。

>そのよりどころを知力に見るならば確固とした記述はないものの、またシ号を例に出すとそれほど頭が悪いとは言えません。
知力・頭が悪いなどよりも重要なのは、戦の経験や勘などでしょう。

>そもそもダメと言い切る理由が私には分かりません。
趙雲が軍規模の兵を率いたという記述がありません。全て部隊を率いる部将として働いています。ながく仕えているし、才能を認めてもらう機会はあったのに、劉備が漢中王になった時も漢中を任されることもなく、劉備死後の諸葛亮による北伐の時も漢中を任されることもなかった。総大将の才能が(関羽や魏延・諸葛亮よりも)なかったと思われており、実際そうであったと見るのが自然でしょう。

>慎み深さで有名な(笑)諸葛亮
諸葛亮が慎み深いというのはないでしょう。自分に反対する人物や政敵はしっかりと追い落としています。慎み深いはずがありません。

>総大将に戦略眼が備わっていなければいけないのでしょうか?
いけません。というか、戦略眼が備わっている者はたいてい統率力も持ち合わせています。
(PC)
11 元歎
>横で補佐する人間がいれば
そういう人がいても、最終的に決定するのは総大将ですから、総大将にその戦略の良さがわからなければ意味はありませんが、まあ、ある程度は解消されますね。

>兵士については両者引き分けといったところですが、部下(配下の武将)への気配りという点では関羽は一歩譲らねばならない
兵士については、「関羽は兵卒を好遇した」と特筆されているほどですから関羽の方が上ではないでしょうか。配下の部将には、というか大抵の武将からは嫌われていましたからね。これは何の記述もない趙雲が上でしょう。

>関羽は人に実力以上のものを求める所があります。
え、そうですか?

子竜さん>すいません、僕の前レスで『子龍』となっていましたね(汗) これからも熱く討論していきましょう!>ええ、そうしたいですね。最近はどこの掲示板も仲良しですから(笑)、討論にならないんですよ…

朱家さん>ちなみに私も関羽より優秀だと思ってますよ。>おお、朱家さんも趙雲ですか〜。関羽の方が優秀と思う人はいないのですか? もしおられたら返事をお願いします(^^)
(PC)
12 青龍
いつのまにか書き込みが増えましたね(^^)
朱家さん>国士の捉らえ方は陳寿の考え方やその用い方を汲み取ってですか?もともと考えてなかった私には国士は国内の優れた人との印象が強いです。
箕谷は例に出したつもりがその議論するようになってしまいましたね。「兵を失った」ですが、それほど兵を失ったのでしょうか?前にも言いましたが、戦で死人が出ないことはまずないです。趙雲の撤退は無駄な死人を出さなかったという範囲の損失だと考えています。それでも「兵を失った」ことを重大とするなら勝ち戦でも降格という事態が数多く出て来てしまいます。(あるなら申し訳ないですが)私は聞いたことがないです。なかなか同じ事を書くことが多くなってきました(私もですが)が、それは捉らえ方の問題ということですよね?下賜を断った理由を、朱家さんは、書いていて趙雲が慎み深いと思いませんか?
総大将の議論にたいしてですかが、「何が足りなかったのか?」については元歎さんが「統率力」や「戦略」等おっしゃってますし、私もそれに対して、「記述はないにしろ、行動や評価、戦歴を見れば少しは良い方向に見えてきますよ」といった形で答えてきたつもりです。「何故〜」といった理由もまた
(D901i/FOMA)
13 青龍
「階級」や「限界」の話しを照らしあわせてみると全く言っていないわけではないはずです。(読み取ってもらえませんでしたが)私はそのつもりで書いてます。
元歎さん>功績の話しですが、「上げづらい」というより具体的に箕谷の例を出すと、階級が下げられています。その判例(?)をもとにすれば「敗戦後の昇進」はおかしな事となります。また、直後ではないにしろ他の戦もなしに、ただ時間が経っただけで昇進も納得しづらいでしょう。
戦略ですが、まさか趙雲にその切り口で来るとは思いもしませんでした。総大将の経験ならばもちろんありませんが、戦自体の場数なら足りないはずがありません。また、諸葛亮からの策を賜る等の印象が、趙雲にはあるので、戦略を全く知らないこともないでしょう。そして勘ですが、どんな勘ですか?戦の臨機応変につながる勘ならばないはずがありません。そうでなければ撤退戦など出来ないからです。また、孫夫人から後主を取り戻すなど、日常的(?)な勘もあります。
総大将の話しですが、「才能が(関羽〜」と言ってもらえると、ただ趙雲だけを見てダメと言われるよりは納得です結局私が言いたいのは「趙雲がそれなりに総大将も出来る」ということです。
(D901i/FOMA)
14 青龍
ところで、薄学さをさらしてしまいますが、関羽はどれほど総大将として実績を残したのですか?
戦略眼の必要性は私も薄々感じてましたが、戦略というと決定権は間違いなく総大将にありますが、考えるのは軍師・参謀系がする印象があります。良さがわかるくらいの賢明さはあると思いますし、それを採用する心(?)も持っているはずです。
諸葛亮に関してですかが、彼が好きながら細かいところを私は知らないので何とも言い難いです。ただ、正史に書いてあったので使ったまでです。そして、あそこで諸葛亮の名前を出すのは私にとっては、やはり大きな意味があります。それは、諸葛亮が賞罰を明確にしていたからです(今度はあってます?)。その諸葛亮が褒美を与えようとしたということは、それだけの働きを、趙雲はしたということではないでしょうか?
最近「自分はこっちの方が優秀だと思う」と言う人が増えていますね。ちなみに私はこれまでそれを明らかにしていない(はず)です。ただ趙雲好きというだけで判断するほどの知識がないからです。もともと少ない材料で判断するのが嫌いなのでこうして討論に参加したまでです。そして、この討論を経ても私は優劣を決められないと思います。
(D901i/FOMA)
15 朱家
国=蜀としただけですよ。同じ評の中に武臣として夏侯嬰なら、国士は韓信、英布という事です。
趙雲伝「箕谷で敗北したが、軍兵をまとめて守りを固め、大敗しなかった」最初から守りを固めてたら、昇格したんじゃないかな?
総大将となる=才がある、ではなく、総大将の才がある=総大将となって敵を撃ち破る(守る)ですよ。
もし総大将になってたら、敗北して首を斬られたかもしれません。例えば「曹真に勝てた」全く根拠がないのです。関羽は総大将なので、ある程度裏付けできます。関羽は記述からの推測で、趙雲は想像からの推測なんです。想像の世界は議論できませんと言いたかったんです。趙雲総大将が前提の議論は無理があるのです。総大将でない関羽と比べるべきだと思います。青龍さんだけに言ってる訳ではないですよ。これに含まれないのは議論してるつもりです。
元歎さん〉好きなのは断トツで関羽ですよ。使いやすいのも大きな要素だと思います。関羽は劉備限定の将だと思いますので…体調が良くないので、関羽の称賛をお願いします。
(EZ)
16 赤龍
箕谷での件ですが、趙雲は少数のおとりの軍を指揮して、魏の主力軍である曹真にあたっていました。これはもともと勝ち目の無い戦。いかに被害を抑え、粘るかが重用。そして、趙雲は見事にその任を果たしていたが、街亭の敗北により総退却。しかしここでも、見事な退却を見せる。しかし、戦は蜀軍の敗北。趙雲も別働隊の将としての立場から、諸葛亮と共に降格処分を甘んじて受ける。諸葛亮は申し訳なく思い(本来戦略の立案者の己の責だから)、せめてその活躍に報いようといくらかの褒賞を与えようとするが固辞して受けなかった。
こんなとこではないでしょうか?趙雲の慎み深さ、実直さが感じられます。
あくまで、降格処分は蜀軍全体での敗北の責を負ってのものととるべきでしょう。
(PC)
17 赤龍
ついでに、総大将に必要なものに戦略眼云々という話がありましたが、関羽の戦略眼についても、実際どの程度のものなのか、怪しいものだと思いますが。あくまで国の戦略の一環として、指示を受けて方面軍を動かしていただけと思われますから。その点で趙雲との比較は無理なんじゃないでしょうか?むしろ、呉との関係を軽視したまま、魏と戦うあたり、関羽の戦略眼の有無も相当怪しいものじゃないかとも思えますよ。
関羽は総大将といっても、あくまで方面軍を率いる総大将ということを忘れてはいけません。
(PC)
18 無問題
人気スレなので参加してみます。
元歎さん・お久しぶりです、趙雲は判断材料が少ないので実力は未知数だと思いますが、内心ゲームのように万能であってほしいと思いますよね(笑)
(EZ)
19
 夷陵前に、劉備を諫めるのはどうみます?
 一般論である事は、違いないんですけどね。
(P900i/FOMA)
20 元歎
おお…書き込み多し…多いのでレスは最低限にしときますf^_^;

やっと見つけた…参考&類似スレ>>>197こちらもご覧ください。

青龍さん>
>総大将の経験ならばもちろんありませんが、戦自体の場数なら足りないはずがありません。
いや、戦略に関して重要なのは経験や勘ではないか、と言っただけです。で、趙雲の戦の経験ですが…参戦している戦を見ると経験がないということはありませんな。

>そして勘ですが、どんな勘ですか?
さあ、わかりません。ピッタリの言葉がなかったので仮に『勘』としただけです。どう言えば良いのやら…

>孫夫人から後主を取り戻す
ああ、この記述を僕は信じていません。孫夫人が劉禅のそばにいたはずがなく、連れ去ることなど出来ません。

>関羽はどれほど総大将として実績を残したのですか?
さあ、これは難しいですねぇ。214〜219年まで荊州を守っていたことでしょうか(もちろん魯粛の助力があってこそです)。これだ!という実績は見当たりませんね。まあ、総大将の期間はそんなにながくないですから。

朱家さん>関羽の称賛ですか…では、魏の劉曄の言葉を。『(ちくま訳)関羽・張飛は三軍に冠たる武勇をもって将軍となっている〜(關羽、張飛勇冠三軍而為將)』。もうひとつ。魏の人々の言。『(ちくま訳)蜀は小国にすぎません。名将は関羽だけです(蜀,小國耳,名將唯羽.)』 他にもこういう評ありますか?

赤龍さん>
>呉との関係を軽視したまま、魏と戦うあたり、
関羽に外交の才まで求めるのは酷じゃないですか? それに魏と戦ったのは劉備の命だと思っています。
「戦略」が指しているのは、どこからどこまでなのか? これどう思います?

無問題さん>本当にすごいレスですよね。「その3」までいくか!?(笑)
ゲーム、軍人のくせに政治がおかしいですよね。ゲームの話題は禁止なので、これ以上はやめときますが…m(__)m
(PC)
21 元歎
>>20
赤龍さん>
『>呉との関係を軽視したまま、魏と戦うあたり、
関羽に外交の才まで求めるのは酷じゃないですか?』
なんだかこれ、キレてるみたいですね(汗) もちろんそんなことありませんm(__)m
僕は、「戦略」に外交は含まれないと思っています。ちょうど良い大伴さんの書き込みがあったので、>>>189-32(←これで飛べるかな?半信半疑)
(PC)
22 赤龍
関羽が樊城を攻めたのは、劉備の命(というか劉備軍の戦略方針)だと思いますよ。ただ、その際に、微妙な関係にある呉に対する配慮が欠けていたといわざるをえない面が関羽にもあります。こうした大局を見据えるのも、外交方針を理解するのも戦略眼だと思います。関羽の話になっちゃうので、ここではこれぐらいにしたほうがよさそうですが。
戦略が指す範囲ですか。実はこれも難しいですね。一つの戦場での戦略(大伴さんの説明のやつですね)もあれば、国家戦略(当然外交含む)までありますから。私は国家戦略を念頭に使っています。
あと元歎さん、別にキレてるとか思ってないんで(笑)お気になさらずに。
(PC)
23 元歎
関羽の話ですね(汗) ついつい…関羽スレありましたっけ?

赤龍さんは国家戦略ですか。話す時はちょっと気をつけないといけないですね。
たしか、北方さんの小説でも戦略は国家の方だったような。戦略・戦術をごっちゃにしてない珍しい小説でしたね。

>キレてる
間に誰かの書き込みが入るとわかりにくくなるので、急いで打ったんですが、適当な言葉が見つからず^^; ネットは伝わりにくいですからね…。
(PC)
24 青龍
いや〜だいぶ話が進みましたね(^^)
関羽のことは落ち着いてしまったようですが、私が聞いたことなので触れておきます。
関羽の実績はそれほどなかったのですね。みなさん(関羽派?)の意見を聞いていると、もっと実績を残したのだと思ってました。言い換えると「総大将になった」という記述しかないとも捉らえられます。そしてその後は荊州を奪われ自らの命も落とした。それだけの記述だと関羽に総大将の才能があったかも謎に思えます。朱家さんの言葉をかりるなら、なっただけで才能がないという捉らえ方も出来ますよね?
おさまりかけた事を蒸し返しスイマセンm(__)m
(D901i/FOMA)
25 朱家
一応関羽は、私の中でかなり評価の高い于禁に勝ってますね。内容は微妙だけど。総大将の実績はこれだけですね。しかし、呂蒙「我々が死んでは、関羽を討てません」や、曹操も恐れてますし、関羽一人で、魏と呉を動かしてるので、関羽軍は異様に強かったと考えていいとは思いますよ。
他にも気になる事があるので、関羽スレに書きます。
(EZ)
26 元歎
>>24いや、落ち着いたというか…関羽だけの話で、趙雲が関わってないから止めただけですよ。関羽と趙雲の優劣は、またいずれ機会があれば…ですかな?
(PC)
27 ストラップ
趙雲の戦略家としての資質についての私見。

前提一:趙雲には、戦略家としての手腕を問われた事実が記録されていない。

前提二:趙雲は類稀な戦術家である。

前提三:戦略家としての資質と、戦術家としての資質は別物である。優れた戦術家が卓抜した戦略家になるとは限らない。

結論:趙雲が戦略家として優れていたという事は立証出来ない。


こんなものでは無いでしょうか?趙雲大戦略家説は、ゲーム等に影響を受け過ぎている気がします。

呉を攻撃する際(221年)趙雲は、
「魏が滅べば呉は降伏するから、呉を攻めずとも良い。魏に専念すべき」
という内容を発言した様ですが、「魏が滅べば」という言葉が「魏に専念すべき」という戦略の正しさを正しい理由から発していない事を現している様な気はします。
(PC)
28 赤龍
趙雲の諫言は、蜀は漢の後継を自認し、漢を簒奪した逆賊曹魏を討つ、という国家の方針をもとに、戦うべきは呉ではなく、呉と結び魏を討つべきだとの主張をおこなっているわけですから、ストラップさんの指摘は考えすぎなんじゃないかなと思いました。
一応その後に続く文も含め、趙雲も蜀のとるべき戦略を冷静に理解してたともとれるんじゃないでしょうか。戦略を立案できるほどではないものの、それを十分に理解・判断するだけの見識はあったとは思えないでしょうか。
(PC)
29 ストラップ
>>28
戦略目標をしっかりと認識する、という事は確かに、優れた戦術家である為の必要条件ですね。
そのあたりが妥当な線かも知れません。


趙雲が兵を率いたという記述はどれも少数のものばかりですし、一つの州を任せられる様な器量はなかったのでしょう。「関張馬黄趙伝」に納められた人物の内では、一人一歩下がった位置にもありますしね。趙雲総大将は、当時としては考えられない様な話だったような気がします。
(F2102V/FOMA)
30 元歎
関張馬黄趙で、総大将となれるのは関羽・馬超でしょうか。張飛は次点? 黄忠と趙雲は部将でしょうね。こうして見ると、文臣はもちろん、武臣も人材不足ですね。
(PC)
31 天草
age

博物館通信で触れましたが、年齢の件いかがでしたでしょうか?
受信されてない方はバックナンバーから見て下さい♪
ついでな五月いっぱいでバックナンバー閲覧ページはなくなる予定ですから、ぜひ登録してみて下さいm(__)m
(N902i/FOMA)
32 巫俊(ふしゅん)
最初の北伐のときに、趙雲は散関かどこかは忘れましたけど、蜀の桟道に出て陽動をかけてたような記憶があります。
街亭に趙雲という組み合わせはつくれなかったんですね。
(PC)
33 赤龍
>>32
趙雲は、>>16でも触れたように、北伐開始当初から魏の関中方面軍の主力である曹真の大軍をひきつける大役を担っていました。つまり、諸葛亮の本隊とは完全に別行動をとっていたわけです。諸葛亮に同行していたというのは、演義の創作です。
この状況で、眼前の曹真の大軍をほったらかして、街亭まで呼び出すのはまず不可能でしょう。
それとも、最初から趙雲を本隊に置き、街亭を任させればというご意見でしょうか?さすがにそこまで根本的に陣容を改変する仮定は、考えねばならない問題点が多すぎ、私には判断しかねます。
(PC)
34 ei
>赤龍殿
巫俊殿の言の語尾は「ですかね?」ではなく「ですね。」と云うものですが……。
(PC)
35 赤龍
>>34
たしかにそうですね。趙雲を街亭にあてることを希望する文に勘違いしてました。
失礼しました。
(PC)
36 巫俊(ふしゅん)
>>35
いえいえ、はっきりしない文章を書いたのはこちらですから、すいません。

それで希望しているというわけではないんですが、趙雲の才能に期待するというのも正史的見地からすると、希望的観測になってしまうことですが、
趙雲はまだ生きているってことも事実なんで。
関羽だって謀殺されてなかったら、このときまだ存命だった可能性がありますし(無病息災だったらの話だから可能性は低いけど)、
それはともかくしいて趙雲を評価するとしたら、それはこの陽導こそが諸葛亮の本隊より過酷な任務だったんじゃないかと、推測してみることくらいです。

街亭は趙雲のような数少なくなってきたエースとも言うべき人たちの配備先ではなかったんじゃないだろうか、ということです。
魏延はそのときどうしてたの?というのは疑問であるのですが。
けっこう苦しいなかの人選だったので、必ずしも精鋭とは言い切れない集団で何とか隘路を死守しようとというのが孔明の選択だったのかもしれません。
王平とか少し若いエース武将を置くのが精一杯で。。。
でも魏延たちはどこにいったんだろ?
王平もそのときもう若くはないかな。。
(PC)
37 巫俊(ふしゅん)
>>>509より移動。

そして趙雲ですが、彼は武人であるとはいえ、漢代の名や字の習慣は文人がつくって広く普及させたものですから、彼の字と名はこれまで話してきた文人、上層階級のルールに準拠していたはずです。
雲とは「くも」、子とは「男子の美称」、そして龍とは伝説の動物の「りゅう」のことですが、龍は雲に隠れていると中国の人は考えていましたので、趙雲は雲に隠れた龍という意味の字と名を持っている訳です。雲という漢字の「云」という部分は、「−」(−はくもの形を略した形)の中に頭を隠した「ム」(龍の下半身)を表現しています。

だから趙雲(子龍)とは、趙姓の雲に隠れた龍の男子という意味になるでしょうか。
(PC)
(PC)
38 巫俊(ふしゅん)
ちなみに>>36の内容は荒唐無稽でしたからスルーの方向でお願いします(笑)
(PC)
39 バンビ
ふと思ったのですが、初心者質問板の赤龍さんのレスを見たのとよく言われたりする事ですが何故趙雲だけ地位が@ランク下の地位と見られるのでしょうか?
趙雲には黄忠を助けたり空城の計で劉備でも無理だった曹操を退けたりと功績を色々と上げています。
かなり贔屓目が入っているとは思いますが(汗)別に低いとは思いませんがもう少し評価が高くても良いと思いませんか?
(W54T/au)
40 諏訪
>>39
劉備が漢中王に即位すると、関羽は前将軍、張飛は右将軍、馬超は左将軍、黄忠は後将軍に昇進しますが、趙雲は翊軍将軍のまま。
劉備が帝位に即いたときには、張飛は車騎将軍、馬超は驃騎将軍に昇進しますが、趙雲はまたも昇進なし。
1ランクどころか2〜3ランク格下です。
さらにいえば、魏延は劉備の漢中王即位時に督漢中・鎮遠将軍・領漢中太守、帝位に即いたときには鎮北将軍に昇進しており、趙雲は魏延よりも格下です。

蜀平定までは、趙雲は関羽・張飛に次ぐ武将といえるでしょうが、蜀平定後、劉備軍の人材がある程度充実すると、趙雲はその他大勢の武将と同等の扱いになります。
古参ゆえに関羽・張飛に次ぐ扱いだったが、黄忠らが台頭してくると、趙雲は黄忠らに及ばないと劉備は評価したのでしょう。
(W51S/au)
41 諏訪
空城の計の記述は『趙雲別伝』という著者も成立時期も不明の史書にありますが、まずこの『趙雲別伝』について考える必要があるでしょう。
裴注には『〇〇別伝』というタイトルの史書がよく出てきます。
この『〇〇別伝』というタイトルは、正史の伝と区別するために、後世便宜的につけられたタイトルでしょうが、その多くは子孫が先祖を讃えるために書かれたもので、たいていは先祖の功績を誇大に記してあります。
実際『趙雲別伝』を読むと、趙雲を誉め讃える内容ばかりです。
このため、『趙雲別伝』を読む際には注意する必要があります。

そもそも空城の計自体が非現実的です。
空城の計といえば諸葛亮が有名で、これは「諸葛亮伝」注の『蜀記』にありますが、裴松之は「たとえ伏兵がいるかもしれぬと疑ったとしても備えを設け、慎重に行動するはずである。どうして到達したとたんに逃走することがあろうか」と述べてこれを否定しています。
『趙雲別伝』の空城の計でも、曹操が伏兵の疑いがあるからと撤退していますが、百歩譲って撤退するにしても、伏兵の存在を疑うなら用心しながら撤退するはずなのに、不用心に撤退して趙雲に追撃されており、実に不可解です。
他に裏付ける史料もありませんし、『趙雲別伝』の記述は相当胡散臭いです。

私は史書に空城の計の記述をみかけると、まず疑うようにしています。
日本史でも、三方原の戦いでの徳川家康の空城の計がありますが、これも信頼できる史料にはみられませんね。

というわけで、趙雲の評価は演義成立以前から底上げされていると思いますが、実際にその地位をみれば、とても関羽らと同列の存在ではないでしょう。
(W51S/au)
42 皇澪桜
>>39

>>>45-8
趙雲スレ1のこちらのレス等にあるように、人としての評価は関羽・張飛より上かもしれませんが、活躍したのが撤退時(負け戦)が多いのも格下であった原因かもしれませんね。
他の4人ほど劉備が躍進するのに貢献したようにもみえませんし…。
(W52CA/au)
43 赤龍
漢中王即位時の、武臣最高位の4人に漏れたことが、5人の内趙雲が当時格下だったことを示すことですが、これにはそれなりの事情も考えられます。
関羽張飛は当然として、馬超はかつては一方の雄として関中に割拠した大物。彼が選に入るのはこれまた当然の立場。残る一人の黄忠というと、敵司令官夏侯淵を討ち取るという特級の勲功に対する褒章的要素が強いように思えます。別伝の趙雲の活躍を全て真実としても、やはり黄忠の大殊勲が優先でしょうね。
この黄忠の事情を裏付けるのが、諸葛亮が難色をしめしたこと。本来並ぶべき程の格の将軍でないとみなされてたようですね。
このような理由で、4人の人選が決まり、趙雲は漏れることになった。本気で「趙雲が黄忠に及ばない」と劉備が思っていたかは疑問が残ります。

ついでに気になってるのが、本当に趙雲の「昇進は無かった」のか?本伝の記述は、成都平定から、劉禅即位まで、あまりにすっぽりと抜けすぎなんですよね。これだけ古参の信頼すべき将が、全く沙汰無しというのも、どうも不自然。
(PC)
44 赤龍
反対に「趙雲の扱いが、劉備時代本当に低めだった」として、一つの仮説もたててみましょう。
劉備時代は、古参でそれなりの信頼も実力もあるものの、陳到あたりと並ぶ、それなりの将軍達の一人から抜きでることも無かった。
それが一転したのは、劉禅の即位。ご存知、長阪での阿斗救出は正史本文にも残るものです。つまり、劉禅にとっては、趙雲は命の大恩人。そのため、劉禅時代になって一気に引き立てられた。やがては、関羽、張飛、馬超、黄忠と並んで諡号が贈られた(実際は一年遅れだけど)そうして、彼等と並ぶ建国期の武臣の重鎮の一人として扱われるまでになった。
陳寿は、こうした事情をふまえ、関羽ら四人と共に、趙雲を同じ巻に並べ、建国期の最高の武臣の一人として同列に扱ったのではないか?

趙雲ファンには刺されかねない仮説ですね(笑)
(PC)
45 赤龍
そうそう、趙雲の評価を考える上で気になるのが、季漢輔臣賛の並び。
趙雲がえらい後の方にまわされてるんですよね。
(PC)
46 バンビ
回答ありがとうございます!
やはり皆さんに言われると納得(笑)
でも、何故昇進しなかったんですかね?
そういえば、劉備が袁紹のとこに居た時に兵を集めてますけど劉備はそんな事忘れちゃったんですかね?笑
(W54T/au)
47 諏訪
>>43
仮にそのような事情があったとしても、劉備が趙雲を黄忠以上と評価していたなら、せめて四鎮や四征将軍あたりに昇進させていたのではないでしょうか。

また、成都平定から劉禅即位までの記録がないことを疑問視されていますが、単に記録に値するほどの功績がなかったと考えるのが妥当だと思います。
(W51S/au)
48 諏訪
>>44
この説には賛成です。
260年9月に関羽・張飛・馬超・ホウ統・黄忠に諡号が追贈されていますが、趙雲に追贈されたのはその半年後の261年3月。
ここでも、趙雲が関羽らと同列の扱いではないことが窺えます。
また、『趙雲別伝』に追贈を決める際の劉禅と臣下とのやりとりが記されていますが、そこでは長阪の戦いで趙雲が劉禅を助けたことが言及されています。
このやりとりと、半年遅れの追贈から、「関羽らに諡号を贈ったことだし、命の恩人である趙雲にも諡号を贈ってやりたい」というのが劉禅の心情だったのではないかと私は感じました。
(W51S/au)
49 諏訪
>>45
楊戯が241年に著した『季漢輔臣賛』は、必ずしも生前の序列の順になっているわけではありませんが、目安にはなると思います。
その順序は、諸葛亮・許靖・関羽・張飛・馬超・法正・ホウ統・黄忠と続いて、趙雲の名が出てくるのはずっと後で、53人中24人目(劉備を除く)です。
楊戯の認識では、趙雲は関羽・張飛は当然として黄忠よりもずっと格下であっただろうと推察できます。
(W51S/au)
50 赤龍
>>47
まあ、そうともとれますが、『三国志』は書かれてなければ無かったと断定できるほど、綿密な記録ばかりでないのも事実。別伝にある、偏将軍領桂陽太守の人事なんか、本文には無かったりしますしね。
>>44と同様、こちらも一つの可能性として考慮すべきなんじゃないかなと思ってます。
(PC)
51 バンビ
色々と発言感謝です!
ですが、かなり評価が落ちてしまった気が(泣)
もう少し記録が残っていれば(汗)


実際の所個人の武はあったが他の人が思っている程の人物ではなかったという事なんですかね?


誰か趙雲の弁護を(泣)
(W54T/au)
52 諏訪
ふと気付いたのですが、趙雲は劉禅即位時に征南将軍に昇進していますから、仮に成都平定から劉禅即位の間に昇進があったとしても、四征将軍以下ということになり、いずれにしても前後左右将軍よりずっと格下という状況に変わりありませんね。

>>51
趙雲は、蜀将の中では記録が残っている方だと思います。
トウ方・費観・呉壱・呉班・陳到・輔匡・劉ヨウ…
事跡の伝わっていない武将はたくさんいます。

関羽らと比較するからそれ程でもない存在になるわけで、トウ方らと比較すれば飛び抜けた存在といえます。
(W51S/au)
53 朱家
実質的に趙雲が配下となるのは、麋竺、陳到らよりもかなり後で、おそらく陳到よりは上で、単純に武勲が上だと考えるように、趙雲もまた、魏延より武勲が劣ると考えるのが妥当だとは思います。

『趙雲別伝』は、私も胡散臭いと思いますが、それでも、黄忠もだけど、要は、任務失敗して、盛り返した、もしくは、先鋒として軽々しく攻撃して、返り討ちされそうなとこを、踏みとどまった、黄忠は趙雲の兵も連れてる訳だから、独断ではないし、好意的に解釈しても、一年に及ぶ漢中戦を大局で考えると、微々たるプラス査定だし、むしろ、個人の伝記で、これしかなかったんだな、とさえ思ってしまいます。
(PC)
54 朱家
諡号は関羽らも含め、姜維の政治的意図を感じるんですよね。趙雲には関わってるようですし、たかが牙門将とはいえ、次男の趙広は、姜維最後の北伐に参加し、戦死してると思われます。
また、二文字の諡号は、関羽、孔明、劉備も昭烈帝、蜀漢で二文字は重い意味を持つ気がするし、遅れた趙雲が二文字なのは「うわ〜」って感じがします(笑)


前述も含め、官位が高いからといって、優秀である根拠ではないし、その逆もしかり、蜀漢は記述が少なく、注釈でも補いきれていません。
仮に、膨大な史料が残ってたりすると、演義の趙雲が違ったかもしれないけど、趙雲の官位が低い理由が、ボロボロ出た可能性も考慮しなければならず、不毛な議論であるものの、私個人としては「東征に反対してるし、実は煙たい存在だった」とか、「陳寿は高い評価してるぜ」などと、いわば、何でも有りの現状のほうがいいし、決して、演義のイメージを壊すような記述が、正史にない事は幸せ(運がいい?)だなとも思います。
(PC)
55 諏訪
>>54
諡号の追贈は、滅亡が近づいてくる状況で建国期を思い起こそうとしただけで、姜維の政治的意図というのは深読みしすぎな気がします。

通常武臣に贈られる諡号は剛侯・威侯・壮侯などで、魏では張遼・李通が剛侯、楽進・臧覇・朱霊が威侯、張コウ・徐晃・文聘・許チョ・ホウ悳が壮侯ですね。
蜀でも黄忠が剛侯、馬超が威侯、関羽は二字ですが壮繆侯。
張飛の桓侯も、勇ましいとかたけだけしいという意味ですから、武臣らしい諡号といえます。
そんな中で、敵国を平定したわけでもない趙雲の順平侯は、たしかに「うわ〜」って感じです(笑)
ここでも、命の恩人ゆえの劉禅の特別な感情を感じます。

記述が少ないからこそ、官位は重要な判断材料だと思います。
趙雲は黄忠・魏延より古参ですから、実力や功績が同程度なら彼らより昇進しやすい立場のはずです。
それが追い抜かれたということは、劉備は趙雲より黄忠・魏延の方が上と判断したのでしょう。
劉備は誰よりもよく彼らの働きを見ているのですから、劉備に見る目がないというのでない限り、その判断は重視すべきだと思います。
(W51S/au)
56 赤龍
>>54
「東征に反対してるし、実は煙たい存在だった」
実は私も、これを仮説その3として考えてましたが、やりすぎかな?と思って自重してました(笑)

漢中王の時はともかく、帝位についたときにも沙汰がない理由として、関羽死後東征を主張する劉備に強硬に反対したため、ほとんど干され気味だったのではないか?古参の趙雲だから、昇進無しですんだととるか、趙雲ですら行賞無しという見せしめだったのか、わかえいませんが。おかげで、劉備が死ぬまで不遇であり、劉備の死後、やっと日の目を見たのでは?
なんて感じで

私としても、正史の記述が少ないのをいいことに?、自分の中でも諸説紛々、様々な可能性が考えられるから決めかねれない、という具合に誤魔化してる感じですね(笑)
(PC)
57 諏訪
「法正伝」に「群臣の多くは諫めた」とありますから、東征反対者は大勢いたはずですが、名前がわかっているのは趙雲と秦フクだけなんですよね。
趙雲の名前がわかっているのは『趙雲別伝』という史料が残っていたからで、おそらく投獄された秦フクはいちばん重い処罰だったので、記録されたのでしょう。
趙雲は大勢の反対者の中の一人にすぎないと考えると、趙雲が干された可能性は低い気がします。
まさか、反対者全員が干されたわけではないでしょうし。
(W51S/au)
58 諏訪
記述が少ないことと関連して思ったのですが、私はもともと趙雲の人気は個性の薄さにあると考えているんですよね。
関羽・張飛は個性が強いゆえに欠点も目立ってしまうが、趙雲は個性が薄いゆえに自由にイメージを投影できるところが人気の秘密かなと。
たとえば、関羽・張飛はヒゲのおっさんというイメージが定着していますが(笑)、趙雲は年齢を感じさせるものがないので、自由に若武者というイメージをつくりあげることができるわけです。
同様に、記述が少ないゆえに名将としての趙雲像も生まれるのだなと感じました。

ちなみに私の好きな人物は、曹操・曹丕・司馬懿・鍾会・魯粛…
アクの強い人物ばっかです(笑)
(W51S/au)
59 朱家
政治的というと、イメージが悪いですが、要は「お前らしっかりしろよ」の意図で、姜維を含め、趙雲と会った事のある人が結構いるはずで、高い評価とともに、ある意味、身近(具体的)な趙雲に順平の意味合いも含め、二文字を贈ったと…


秦ミツは益州人だし、占いのようでたちが悪いんだけど、その他大勢の一人ではなく、しつこいから趙雲も記録が残ったと考える訳で、前述してますが、根拠がなく、蓋然性を高める事ができないんですよね。

他に例がないと思うんだけど、明らかな武人と言える趙雲が、軍事に全く関係ない事に口出ししてるんですよね。武人は前線で命を張るから可愛いのであって、煙たい存在とか、官位に響くとかは別として、趙雲があまり可愛くないのは、相当有りそうだと思うんですよ。まあ、だからこそ『趙雲別伝』が胡散臭いとも言える(笑)
(PC)
60 諏訪
『趙雲別伝』の信憑性はとりあえず置いてその内容を信用するとしても、たしかに趙雲は口うるさそうなことは言っていますが、一方で劉備が趙雲を信頼していることを示す記述もあり、『趙雲別伝』の記述からだけでは劉備が趙雲を煙たく思っていたとは読みとれないと思います。
結局のところ、劉備が趙雲を煙たく思っていただろうということは、はっきりした記述がなく、可能性としてはゼロではないにしても極めて低いでしょうね。
それに、趙雲がもっと高い官位がふさわしい人物であったのならば、天下を争うためには、たとえ嫌な奴と思っていても重く用いるでしょう。
たとえば、劉備は許靖をよく思っていませんでしたが厚遇しています。
(W51S/au)
61 朱家
煙たい存在、可愛くないとは、嫌いとか、信頼がないとの意味で使ってないです。

私のせいで、変な方向になってるので…
私自身、趙雲が有能だと主張してるのではなく、官位は、武勲、才能、感情、政治的など、いろいろな要因が考えられ、トップが違えば、それも変化するし、才能であれば、第三者のほうが正当な評価(客観的)ができると考えますが、その記述がないです。

官位が高いからといって、○○より有能という根拠ではなく、いろいろな要因の中で、一つの可能性であって、「重視すべき」という言葉に、引っ掛かりを感じてしまうのです。
(PC)
62 バンビ
皆さんが書込んでいるのに書き込まなくてすいませんm(_ _)m


許セイが司徒になったのは名声が高いからっていう理由でしたよね。
趙雲が高官に就かなかったのは側近として置いときたいとかってのがあったとか駄目ですかね?笑
許チョみたいに(笑)
(W54T/au)
63 皇澪桜
皆様の発想力が羨ましい…。
>>62
趙雲って、側近的な役割を担っていたのでしょうか?可能性としてはありかなと感じますが…
官職的にも大部隊を率いる将軍って訳でもないですよね?
資料を見た感じでは陽動や殿を担う部隊の将軍でしょうか?
あからさまな欠点は無いが、個人の武芸以外に彼は何が優れていたのか…私の知識では…(汗)
(W52CA/au)
64 諏訪
>>61
官位の昇進にいろいろな要因があるのは私も承知の上です。
ただ黄忠や魏延の場合、馬超や許靖のように名声があるわけではないですし、古参でもなく勢力のある豪族でもないことを考えれば、その昇進は純粋に実力や功績が評価されたと考えるのが妥当でしょう。
一方趙雲は、古参という有利な要因があったのに翊軍将軍どまりだったということは、実力や功績はそれほど評価されていなかったと考えるのが妥当だと思います。
乏しい記録の中で、官位がもっともはっきりしている部分だから、私は「重視すべき」という言葉を使いました。
(W51S/au)
65 朱家
私も、趙雲の武勲が劣るだろうと、前述してますので、武勲を趙雲の実力(才能)と位置付けるのであれば、異論はありません。


趙雲は東征時、江州を取り締まっており、最高で行中護軍、最低でも護軍は持ってると考えます。
劉備と離れる訳だから、昇進しそうなんだけど、許靖の領鎮軍将軍が個人の伝にない事を考えると、趙雲も領(行)征南将軍の可能性があるかな。とりあえず、後主即位で、いきなり中護軍は不自然だと思います。

督や護軍は、研究者のライフワークなので、興味はないですが(笑)、私の知る限り、蜀は基本的に意味不明だと…東征時に領軍が見られ、劉備時代の護軍は、黄権、呉懿しか記述がなく、護軍系?が四人しかいない。

劉備時代は特に、官位すらはっきりしてないと考えていて、趙雲は武勲が劣り、将軍号が高くなくい(黄忠、魏延より)のは、間違いないし、護軍の位置付けが不明ですが、中軍の護軍を持ってるとしたら、劉備の評価はどうなんだろう?
(PC)
66 朱家
>>65
ちょっと酷い(笑)
孔明時代のように、中前後左右護軍と護軍、六護軍あった根拠もなく、蜀平定後に護軍となってる前提で、東征時であれば、領軍(護軍の上)がいて、何の意味もない。むしろ、東征に反対したとはいえ、領軍がいる事に注目すべき、蜀平定後に護軍である根拠が、呉懿が護軍だから、趙雲もだろうとか、趙雲だからといった酷いもの。
スルーして下さい。


客観的だと思っても、なんだかんだで、趙雲に好意的なんだね。別に好きではないんだけど(笑)

私自身、『趙雲別伝』の漢中戦のように、武勲が小さくても、内容はどうあれ、曹操を止めた事は才能を感じるし、呉で問題となってるように、踏み止まった事と、援軍として敵を撃破した事の評価の違いなどもあり、官位(将軍号)など、間接的な有能かどうかの判断はしないのだけど、これは考え方の違いでしょうね。
(PC)
67 諏訪
>>41で述べたように、私は『趙雲別伝』の内容自体を信用していません。
考え方の違いというのであれば、記述をどこまで信用するかという点でしょうね。
才能を判断できる記述なんてほとんどないから官位を重視するというのが私の考えなわけで、信頼できる詳細な記録があれば、私の評価の仕方も変わります。

私は趙雲が嫌いではないのだけれど、過大評価されていると感じるので、どうしても厳しめになってしまいますが。
(W51S/au)
68 朱家
正直なところ、蜀漢を歴史で考えると、劉禅を保護した趙雲は、誰よりも飛び抜けた功績だと思うんですよ。陳寿は劉備を知らないし、記録を整理しても、あの程度ですから。

陳寿が、劉禅を馬鹿にしてるはずはないから、第三者のフリをして(笑)、関羽らと同じ伝にしたと思うけど、逆に、第三者だという事を、拠り所に評価もされちゃうんですよね。
(PC)