1 元歎

偉大なる荊州の統治者・劉表

昨日の茶会で、李さんが劉表スレがない!!と言っておられたので(笑)

劉表だけでなく、蔡瑁やカイ越などの人物についても話していきましょう。
(スレタイ、決して冗談でも誇張でもありません。とても素晴らしい人物なのです。(「三国志」の劉表伝より「後漢書」劉表伝の方が詳しいかも…でも、和訳がない!!))
(PC)
2 無問題
彼の行動を見ているとつくづく歯がゆく感じますが、彼ではなく彼を支持する豪族自体が他国にせめいる意欲がなかったのでしょうね?平和な世では間違いなく名君になれたであろう人物ではあるとは思いますね。
(EZ)
3 元歎
ある本の要約みたいなもんですが…
『荊州はもともと不穏な地でした。後漢書には「荊州の人情はさわぎを好み、そのうえ四方は駭震し、寇賊は煽動しあい、あちこち沸きたっている」とあります。劉表はそんな荊州に190年に刺史として赴任します。当時の荊州の一番の問題は宗賊(一族郎党、あるいは一村一地区が単位になって横行する賊)というものでした。劉表は、宜城にこの宗賊の首領五十五人を招き、一挙に全員を誅殺して、そのあと襄陽にはいりここを治所としました。以後、兵十余万を常備しながら外へ兵を出すこともなく、群雄の争いにはすべて中立の立場をとります。周辺が戦乱に荒廃するなかで荊州のみが平和で豊かなので、学者や文人(諸葛亮もそのうちの一人)が数多く避難して来て文運隆盛します。演義では、進取の気象に乏しい、優柔な大将となっているが、果断を要する時には果断であったのは宗賊誅殺の件が示している。
しかし、劉表の晩年には中立は難しくなり、劉表の臣であるカイ越や韓崇・劉先・蔡瑁などは荊州の平和のために曹操につくしかないと考えます。そして劉表死後、荊州は曹操に降ります。』
いや〜、これを読んだとき劉表に申し訳なさでいっぱいでしたよ(笑) 宗賊誅殺のことなんか知りませんでしたから(汗)
(PC)
4 無問題
元歎さん・その話しってますよ。あと、張斉が攻めこんできたときに張斉が戦死したと聞くやいなや喪にふくし、張斉の残党を感動させ味方につけていますよね?彼は策略をけっこう駆使して荊州をおさめていますよね?
(EZ)
5
 劉表と蔡瑁の関係は、相当密接だったようですね。劉表からと言うよりは、蔡一族から接触したんだとは思いますが。蔡一族の交友関係や婚姻関係は、多岐に渡りますし、やり手の豪族だったんでしょうね。
(P900i/FOMA)
6 無問題
李さん・お久しぶりです。蔡一族は地元で有力な豪族だったのですかな?あの一族演義では悪役になってますよね?そういえば彼等って下ってからのゆくえが全然分からないですよね?
(EZ)
7 元歎
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20050706/p1
劉キ派と劉ソウ派の争いについて書かれているページです。とても参考になるので、一度見てください。
(PC)
8 ストラップ
>>95への参考age
(PC)
9 ストラップ
失礼。
上記>>8>>>95の誤り。
(PC)
10 天草
自ら失礼しましたが、確かに>>>95の話題はこちらの方が適当なのかもしれませんね。
(PC)
11 朱家
そういえば、何故カイ越は、国を売った人として非難される事がないのだろう?法正信者としては、かなり不満。確かに、魏に売ったのは大きいと思うけど、法正には『演義』という強烈な味方がいるのにね。カイ越は人柄が良さそうだから、国を売っても良し?納得いかねぇ〜(笑)
(W32K/au)
12 赤龍
カイ越の場合、ちゃんと劉ソウを説得して劉ソウ政権ごと降服。主従ともども取り立てられてる(劉ソウが殺されてるのは演義の創作)というのが法正との決定的な差。法正のように主君に対する裏切りは行なっていません。法正と同列に国を売ったという評価は不適当でしょう。
まあ、劉備ファン、アンチ曹操の人にはそれだけで国を売ったということになるでしょうが(笑)
演義の場合は蔡帽が悪役のポジションを一手に引き受けている為、非難される以前に存在感が希薄(笑)
(PC)
13 ストラップ
>>>95は、>>7と共に、以後赤龍さんのエントリーも参考にすべきと思いますのでurlを記しておきます。
http://blog.m.livedoor.jp/amakusa3594/c.cgi?sss=stseugroodevil&id=50177888
(F2102V/FOMA)
14 ストラップ
(PC)
15 朱家
あは、法正信者ですから(笑)しかし、劉備ファンの人でも、蜀に引き込んだ事を評価してくれないんですよ(涙)「所詮、自分のためでしょ」てな感じ。まあそのとおり(笑)

とりあえず曹操の「荊州よりカイ越」が非常に気に入らない。これによって過大評価されてる気がする。少なくとも荊州の枠を超える大才ではないと思ってますし、これが王粲なら、納得しても良い(笑)まあ荊州出身ではないし、重用されてないから、対象外だろうけど。
(W32K/au)
16 赤龍
「荊州を手に入れたのはうれしくないが、カイ異度を手に入れたのがうれしい」
カイ越を得た喜びをオーバーに表現している、また、それだけ優秀な人物を求めてるよというアピールも含まれていると思います。
あんまりにもあっさり荊州を得たことから「たいしてうれしくねえけど」とかちょっと調子に乗ったこと言ってるのかもしれませんね(笑)
カイ越自身は、かつて大将軍の何進にも召し出された人物。全国レベルの名声を持った人物と見てよいかと思います。
(PC)
17 無問題
そういえば、カイ越と言えば、漢楚大戦の時になをはせたカイ通の子孫だといわれてますよね?実際の所ほんとうなんでしょうか?
(W32SA/au)
18 皇澪桜
正史の資料をもってないのでちょっとわからないのですが…荊州組で降伏して活躍した人っているんですか?
(W21CA/au)
19 しす
>>18
私もあまり名前は思い浮かびませんが、文聘は紛れもなく活躍した人物であると言えると思います。
派手な活躍こそないものの、かなりの長きに渡って最前線でもある江夏を守り抜いた実績は評価されて然るべきだと思います。

>>>381 文聘スレ
(PC)
20 皇澪桜
なるほど・・・。私が読んだのって演義系ばかりなので・・・しかも漫画が多いため文聘などはゲームで知った程度。ご教授感謝です。
(PC)
21 巫俊(ふしゅん)
降伏組ではないですけれど、江夏郡平春県の李通が荊州人ですね。
文聘は南陽郡宛の人でそれは文聘のスレッドで。

あとは武帝紀で、曹操が赤壁の戦いのまえに荊州名士の韓嵩と登β義を用いています。
韓嵩は「楚国之望」と呼ばれた士大夫であるとされ、曹操に用いられたようですが、若干のエピソードがあるのみでその後中央で活躍した等の事跡は無いらしいです。
登β義については、武帝紀で韓嵩といっしょに名前が出てくるだけで、分かりませんでした。
(PC)
22 巫俊(ふしゅん)
周 瑜 為 南 郡 太 守 , 分 南 岸 地 以 給 備 . 備 別 立 営 於 油 江 口 , 改 名 為 公 安 . 劉 表 吏 士 見 從 北 軍 , 多 叛 來 投 備 .

南郡太守周瑜と劉備が江陵付近の長江沿いで別居していた際、劉表の官吏、士人が曹操軍に背いて多く劉備側に投降してきたと書かれています。

これは先主伝に引かれた『江表伝』の記事で、この部分は荊州貸与説の存否の焦点になっていることから、信を置くことを躊躇いますけども、劉備側に再び投じる者が多かったということです。

劉備側は当初関羽を襄陽太守に任命していて、この襄陽太守は任務先を持たない遙任であるとする説と江北のある程度の部分に関羽が進駐して勢力を扶植したのだとする説に分かれていますけれども。
(PC)
23 巫俊(ふしゅん)
南陽郡堵陽県の韓キ(既+旦)は>>>464>>3に書きましたが、荊州と他州の境界付近で山民を従えていた男です。

劉表に仕えて宜城県の長になっていましたが、曹操の南征後に中央に呼ばれた後、監冶謁者という金属関係の実務部署に拝命されています。

金属鉱石は山中に産するもので、平野では採れません。
また、韓キは馬排、人排、水排という金属精錬の新技術を開発して利益を挙げ、九卿に次ぐ名誉的な地位と司金都尉の官を加えられています。

金属精錬は風を必要とします。風を管で送風して一気に炉に酸素を送りこまなければ、良質の金属は出来ないのですが、山中の渓谷では山頂から山下まで渓谷内を強い風が吹き抜ける性質があり、精錬に向いているのです。

祖父の時代から官吏であることが確認され、かつ山地民を従えていた韓キは曹魏にとってうってつけの人材だったと思われます。

のち、司徒まで昇進しました。
(PC)
24 巫俊(ふしゅん)
和コウ{シ合}は汝南郡西平県の人。冀州の袁紹の誘いを逃れて親戚・旧知の人たちと荊州の劉表を頼る。劉表は和コウを上客として待遇するが、劉表の周りでは讒言が流行り危険が身に及ぶと考えて、武陵に南渡する。そうして曹操の南征があり、和コウは丞相府のエン属として出仕し、魏国が成立してからは侍中、 郎中令、太常と歴任する。爵位は西陵郷侯、200戸。

裴潜は河東郡聞喜県の人。荊州に逃れ劉表の手厚い礼を受けていたが、劉表の敗れるのもそう遠くは無いと判断し、長沙に逃れる。曹操の南征に従い、参丞相軍事、三県の令、倉曹属を歴任し、代郡太守として赴任した際は烏丸と大胆に交渉し単于を従える。沛国の相、エン州刺史を歴任し、エン州刺史として執務に当たっていた際は州軍を乱れ無く統率し曹操を驚かせる。文帝の即位してからは散騎常侍、 魏郡、潁川典農中郎将、荊州刺史を歴任、明帝の即位してからは河南尹、太尉府の軍師、大司農、尚書令、死後に太常の位を贈られる。爵位は関内侯から清陽亭侯に転じ、200戸。

このような地方、中央の要職を歴任していた士大夫に荊州組も参加しているということは知られてもいいでしょうね。
荊州組といっても、多くは劉表と距離を取っていた在荊の士大夫が採用されているようですけど。
(PC)
25 ストラップ
王サンも劉ソウに降伏を勧めていますよね。
(F2102V/FOMA)
26 皇澪桜
知られていないだけで意外と活躍した人物がいるんですね…。私みたいに演義準拠の漫画、ゲームメインでしか三國志を知らない人は劉備陣営に絡まない人物に関しては全く知らないですし…。
正史を購入してもこういった人物達に目をむけるのは当分先になりそうですね。
(W52CA/au)
27 飛燕
>>26
和コウや韓キは正史以外の本では、まず出てこない人物なので、知らないことを気にすることないと思いますf^_^;

あと、正史のことでいろいろ考えていらっしゃるようですけど、そんなに悩むこともないと思います。三国志の勉強は正史以外でもできますし。
赤龍さんや巫俊さんは数少ない大家の方々です。自分の知識がお二方に及ばないのを嘆くよりも、自分の勉強のために吸収してみてはどうですか?

長文&スレ違い&赤龍さん・巫俊さん、失礼(汗)
(PC)
28 皇澪桜
>>27
そうですね。アドバイス感謝ですm(__)m
正史購入したらまずは好きな張遼から勉強したいと思ってます。
(W52CA/au)
29 ストラップ
「三国志―正史と小説の狭間」の著者である満田剛氏は劉表が専門なのでしょうか?
ブログで書かれている「劉表政権論」面白く読みました。
(PC)
30 ストラップ
彼の時代の荊州って七郡ですよね?
八郡?
(F2102V/FOMA)
31 しす
>>30
江夏郡
南陽郡
南郡
零陵郡
桂陽郡
長沙郡
武陵郡
の七つじゃないですかね?
違ってたらすいません。
(PC)
32 ストラップ
>>31
劉表伝の「荊州八郡」と書かれた部分の注を見つけました(汗)

漢官儀曰、荊州管長沙、零陵、桂陽、南陽、江(陵)[夏]、武陵、南郡、章陵等是也。

]いう謎の郡があった様ですね。
(PC)
33 ストラップ
章陵という、ですね。剥落スイマセン。


「袁紹劉表列伝第六十四下」の「‥‥‥北守襄陽、荊州八郡可伝檄而定‥‥‥」の注です。
(PC)
34 諏訪
『後漢書』郡国志では>>31の七郡ですが、『漢官儀』では章陵を加えて八郡としているのですね。
『魏志』「武帝紀」に「南陽・章陵の諸県はふたたびそむいて張繍に味方した」とありますから、劉表の時代には章陵郡は存在していて、合計八郡ではないでしょうか。
章陵はもともと南陽郡の県名ですから、南陽郡を分割してできた郡でしょう。
(W51S/au)
35 赤龍
武帝紀建安十八年の魏公任命の詔にも「八郡」と書かれています。後漢末に謎の章陵郡を含めて八郡だった時期があったのは間違いなさそうです。

章陵郡の太守として確認できるのが
黄射(後漢書、デイ衡伝)
カイ越(魏志、劉表伝注の傅子)
趙ゲン(魏志、趙ゲン伝)
後漢末に集中してる事がわかります。
また、晋書の地理志にも、荊州に章陵郡の記述なし。

いつできて、いつ廃止されたか不明な郡ですが、おそらく後漢末に一時的に作られた郡だと推測されています。
(PC)
36 赤龍
そういえば、漢官儀の著者応ショウも、後漢末の人ですね
(PC)
37 Barbal
 ご無沙汰しております。黒耀竜からハンドル変えました、Barbalです。

 webサイト『三國大本營』の月旦群英では《三國郡縣表‧考證》よりの引用として
東漢荊州刺史部原有七郡,分別為南陽、江夏、南郡、長沙、零陵、武陵及桂陵,獻帝初年搨u章陵郡,共為八郡。
(意訳)後漢では7郡やったけど、献帝期の初期に章陵郡を増やして8郡にしましたんや。
 とあります。《三國郡縣表‧考證》の信憑性は不明ですが。
 なお、続けて
建安十三年曹操接收荊州之時,又分置南鄉、襄陽及臨江三郡,共十一郡。
 と書かれており、やたらに増えているようです。孫権・劉備への対抗措置でしょうか。
(PC)
38 バンビ
ご無沙汰です☆
皆さんの会話についていけず話せませんでしたが章凌郡って上庸とかを統合した時になくなったトカってのは違いますかね
(W54T/au)
39 雲畜斎
上庸周辺が統合されたのは、劉表の死後ですから、ちと辻褄が合わないかと。
南陽周辺から漏れ落ちたと考えるのが自然でわ?
(N906imyu/FOMA)
40 Barbal
>>38
 未確認で申しわけないですが、『水経注』によれば章陵郡は春陵のことらしいので、襄陽の東(南陽郡と江夏郡の境界あたり)ですね。上庸とは無関係です。


 「劉表スレ」とズレますが、流れをまとめると

もともとは7郡

献帝即位時(または劉表入部時)に章陵郡設置?

曹操が荊州をとってから襄陽など3郡を追加。曹丕が魏興・新城を追加、曹叡も上庸郡を設置。

劉備も宜都郡を設置

孫権も武昌郡・臨賀郡などを設置



晋の時代には、荊州だけで22郡に達する

作り過ぎだ ノー"ー)ノ ┫ ゜・∵

 まあ、人口が増えてくれば新しい行政区分が必要になるのは仕方ないですが。
(PC)
41 赤龍
>>40
後漢書地理志に
「章陵故春陵、世祖更名」
(章陵県はもとは春陵県、世祖光武帝の時に名をかえた)
と書かれています。

いつ郡に昇格したかは、断定はできないものの、献帝年間の始め頃が有力。
(PC)
42 赤龍
武帝紀の建安十八年の魏公就任の詔に「八郡」とあり、後漢書百官志注にも、建安十八年に章陵の記述あり。
この年はまだ章陵郡が存在していたことがほぼ確実

水経注によると、魏の黄初二年章陵県が安昌県に改名(『集解』の記述より)
この年には、章陵という郡名も県名も消滅したと考えられる。

というわけで、魏建国直後の行政区分再編により、章陵という郡名も県名も消滅したようです。
(PC)
43 Barbal
>>40
 「『水経注』によれば章陵郡は春陵のこと」なんて書きましたが、むじんさん(『むじん書院』)のブログで、
春陵ではなくて舂陵ですね。
との指摘を受けました。読んでいただいたかたには申しわけありません。
(PC)
44 赤龍
>>43
ブログの記事読んできましたが、こちらのブログに投稿した私の記事にも、色々ご指摘を頂いてました。
情報ありがとうございます。
(PC)
45 赤龍
というわけで、>>43の章陵郡の下限の時期も間違いのようでした。
曹拠の伝に、黄初3年に章陵王に封じられた記述があり、章陵はこの時まで存在してたようです。

スレの本題から脱線になるんで、あんまり追及するのもなんですが、もう、どの史料が正しいやらちんぷんかんぷんです(笑)
(PC)
46 削除済
47 猫のダヤン
カイリョウ、カイエツ兄弟は優秀だったのかな。

黄祖を見殺しにできなかった点はどう評価されるのか?
カイリョウの言うことを聞いていればと思いますが。
エンジュツと組んだのが
運のつきか?
(SH903i/FOMA)
48 ストラップ
蔡ボウって劉表の軍師なんですよね? 意外と知られていませんが。

>>42
三国志演義では、荊州九郡あるみたいですね
(F2102V/FOMA)
49 削除済