1 しす
魏の名将、徐晃スレ
魏の五将軍でまだこの人のスレが残ってましたので立ててみました。
曹操から「前漢の名将、周亜夫の風格あり」と讃えられ、やや地味ながらも魏の中軍の要として活躍した徐晃について語りましょう。
>>>46 楽進〜!(涙)
>>>78 張遼について
>>>305 魏の名将張コウ!
>>>319 名誉回復!于禁スレ
曹操から「前漢の名将、周亜夫の風格あり」と讃えられ、やや地味ながらも魏の中軍の要として活躍した徐晃について語りましょう。
>>>46 楽進〜!(涙)
>>>78 張遼について
>>>305 魏の名将張コウ!
>>>319 名誉回復!于禁スレ
(PC)
2 元歎
徐晃ですか。関羽と仲が良かったんですよね(敵将と仲良くなる前に、味方と仲良くして欲しいもんだ>関羽)。
徐晃の地位や実力ってどんなものだったんでしょう? 実力はともかく、地位が気になりますね…。
徐晃の地位や実力ってどんなものだったんでしょう? 実力はともかく、地位が気になりますね…。
(PC)
3 朱家
確か陳寿評は、張遼とともに、評判を裏付ける功績(資料だっけ?)と言ってますね(他の三人は評判が上)
淡々と戦の功績が記載されてて「おまえはロボットか!」って思った記憶がありますね(笑)
淡々と戦の功績が記載されてて「おまえはロボットか!」って思った記憶がありますね(笑)
(EZ)
5 無問題
武骨で厳格なひとですよね?演義ではけっこう被害を受けているひとで最後はあの孟達に射殺されちゃいますよね(涙)彼はあまり他人と交流を深めなかったとありますが、関羽だけは仲がよかったようですね?いつごろ知り合ったのでしょうかね?
(EZ)
7 しす
徐晃の最終的な官位は右将軍、陽平侯(平陽侯の誤り?)。
曹、夏侯一族を除けば張遼に次ぐ地位という記述は観たけど、私自身は官位に関してはあまりというか全くダメなので他の方の意見を聞きたいところです。
関羽との交流はたぶん関羽が曹操陣営に居た頃なんでしょうが、白馬に出陣した頃なのかな…と勝手に妄想してます。
>>3で朱家さんが触れてますが、この人って淡々と任務をこなしていく職人気質なイメージがあって、あまり人間味に溢れるエピソードってないですよね。
私はそれはそれで好きだったりしますが。
>>4の件は龍丸さん自身が仰ってるように演義の話しだと思います。
確か正史では降ったという事実のみが記載されているだけで、理由までは記されていなかったと思いますがうろ覚え。
曹、夏侯一族を除けば張遼に次ぐ地位という記述は観たけど、私自身は官位に関してはあまりというか全くダメなので他の方の意見を聞きたいところです。
関羽との交流はたぶん関羽が曹操陣営に居た頃なんでしょうが、白馬に出陣した頃なのかな…と勝手に妄想してます。
>>3で朱家さんが触れてますが、この人って淡々と任務をこなしていく職人気質なイメージがあって、あまり人間味に溢れるエピソードってないですよね。
私はそれはそれで好きだったりしますが。
>>4の件は龍丸さん自身が仰ってるように演義の話しだと思います。
確か正史では降ったという事実のみが記載されているだけで、理由までは記されていなかったと思いますがうろ覚え。
(PC)
8 朱家
「関羽を退け、曹操は出迎え、大宴会を催し、徐晃を労った。皆、見物に出ていたが、徐晃軍だけは整然とし、動いてなかった」
私の最も苦手なタイプ(笑)なんか「命に従っただけで、大した事はしてない」と言ってるようで鳥肌が…凄いと思うし嫌いではないが、仲良くなれそうにない(笑)関羽は、そういうとこを尊敬し、親交したと思いますが。
官職は詳しくないですが、張遼が征東将軍で別格ですね。しかし文帝になると、前将軍で降格?(任地変更ですが)爵位はどんどん上がりますけどね。次は右将軍の楽進で、徐晃と張コウは同格(于禁も)だと思いますが、配下になった時期が大きく違いますからね。曹操時代の比較ですけど、凄いのは一兵卒スタートの楽進だと思いますね。陳寿の評価だと徐晃は二番目のような気がしますけど。
私の最も苦手なタイプ(笑)なんか「命に従っただけで、大した事はしてない」と言ってるようで鳥肌が…凄いと思うし嫌いではないが、仲良くなれそうにない(笑)関羽は、そういうとこを尊敬し、親交したと思いますが。
官職は詳しくないですが、張遼が征東将軍で別格ですね。しかし文帝になると、前将軍で降格?(任地変更ですが)爵位はどんどん上がりますけどね。次は右将軍の楽進で、徐晃と張コウは同格(于禁も)だと思いますが、配下になった時期が大きく違いますからね。曹操時代の比較ですけど、凄いのは一兵卒スタートの楽進だと思いますね。陳寿の評価だと徐晃は二番目のような気がしますけど。
(EZ)
10 ピヨひこ
天草さん〉解答&スレご指摘感謝ですm(_ _)mあれは消しときました(^_^;)
後、銅雀台の武闘(披露?)会で曹操の景品を許チョと奪い合いになって大喧嘩した…
というのは本当ですか?何かの本でみたんですがf^_^;
後、銅雀台の武闘(披露?)会で曹操の景品を許チョと奪い合いになって大喧嘩した…
というのは本当ですか?何かの本でみたんですがf^_^;
(W21SA/au)
11 しす
>>>393-2
>>9
大斧ですが斧、鉞系の武器はかなり歴史が古いもので商(前16〜前11世紀頃)に使われていたようですが、周代には矛や戈が主流となったために廃れました。
その後、斧、鉞系の武器が復活するのは三国志の時代より後のこと。
晋書の石季龍載記に「武器がなかったので百姓の使う斧に長柄を付けて武器にしたら非常に役に立つものになった」という記述があり、このことから三国の時代には使用されていなかったと考えるのが妥当です。
ちなみに大斧が本格的に使われだすのは宋の時代になってから。
遼や西夏の重装騎兵が登場すると共に通常の剣や刀ではダメージを与えられなくなり、大斧や大刀、鉄鞭のような超重武器が使われるようになったと思われます。
演義でこれらの武器がよく描かれるのは>>>54-88-93で触れられているように演義が書かれた時代背景に関係があると思われます。
で、その徐晃の武器ですが、演義が手元にないので確証はありませんが、演義で彼は大斧を使っていたはず。
連環画や横光三国志でも彼は大斧を使っており、徐晃=大斧は無双以前に確立していましたよ。
>>9
大斧ですが斧、鉞系の武器はかなり歴史が古いもので商(前16〜前11世紀頃)に使われていたようですが、周代には矛や戈が主流となったために廃れました。
その後、斧、鉞系の武器が復活するのは三国志の時代より後のこと。
晋書の石季龍載記に「武器がなかったので百姓の使う斧に長柄を付けて武器にしたら非常に役に立つものになった」という記述があり、このことから三国の時代には使用されていなかったと考えるのが妥当です。
ちなみに大斧が本格的に使われだすのは宋の時代になってから。
遼や西夏の重装騎兵が登場すると共に通常の剣や刀ではダメージを与えられなくなり、大斧や大刀、鉄鞭のような超重武器が使われるようになったと思われます。
演義でこれらの武器がよく描かれるのは>>>54-88-93で触れられているように演義が書かれた時代背景に関係があると思われます。
で、その徐晃の武器ですが、演義が手元にないので確証はありませんが、演義で彼は大斧を使っていたはず。
連環画や横光三国志でも彼は大斧を使っており、徐晃=大斧は無双以前に確立していましたよ。
(PC)
12 赤龍
しすさんの言われるように、徐晃は演義で大斧を使っています。
まず、楊奉配下時代に郭シ配下の崔勇を斬った場面。
文醜との一騎討ちの場面。
樊城での関羽との一騎討ち。
私の確認した限り、以上の場面で大斧を使っています。
まず、楊奉配下時代に郭シ配下の崔勇を斬った場面。
文醜との一騎討ちの場面。
樊城での関羽との一騎討ち。
私の確認した限り、以上の場面で大斧を使っています。
(PC)
13 天草
>>11-12
すいません。。。
手元に演義系の作品が何もないもので…。
>>10
それも恐らく何かの創作だと思われます。
徐晃伝にはただひたすらと彼の武勲が書かれ(これが凄い功績なのですが…)彼の性格や人格についての説明は他の伝に比べると少なく思えます。
慎ましく、慎重そのものの性格で、軍を率いているときは、いつも遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てない場合の配慮をしておき、その後で戦った。逃走する者を追い、勝利を争う時には、兵士は食事の暇もなかった。
とにかく真面目な人間だったのでしょうね。
彼が赴いた戦地を見る限り、北へ、西へ、南へと…どこかに赴任したというより、常に前線に駆り出された事が伺えます。
ここからも彼の信用度が垣間見えますよね。
すいません。。。
手元に演義系の作品が何もないもので…。
>>10
それも恐らく何かの創作だと思われます。
徐晃伝にはただひたすらと彼の武勲が書かれ(これが凄い功績なのですが…)彼の性格や人格についての説明は他の伝に比べると少なく思えます。
慎ましく、慎重そのものの性格で、軍を率いているときは、いつも遠くまで物見を出し、あらかじめ勝てない場合の配慮をしておき、その後で戦った。逃走する者を追い、勝利を争う時には、兵士は食事の暇もなかった。
とにかく真面目な人間だったのでしょうね。
彼が赴いた戦地を見る限り、北へ、西へ、南へと…どこかに赴任したというより、常に前線に駆り出された事が伺えます。
ここからも彼の信用度が垣間見えますよね。
(PC)
15 天草
>>10
それは確かに考えられますね。残念ながら親が有名だったのかどうかは分かりません。少なくとも高名な人物ではなかったのでしょう。
>>5
良く見たら、関羽と徐晃は同郡の出身ですね。
古い知人である可能性もありますね。
ただ出身地の場所は地図で調べたら、かなり離れてるみたいです(汗)
それは確かに考えられますね。残念ながら親が有名だったのかどうかは分かりません。少なくとも高名な人物ではなかったのでしょう。
>>5
良く見たら、関羽と徐晃は同郡の出身ですね。
古い知人である可能性もありますね。
ただ出身地の場所は地図で調べたら、かなり離れてるみたいです(汗)
(PC)
16 寿君
>>5 >>15 から考えたんですが、徐晃が関羽と深い交遊があったのは、関羽が自分と人物が似ていて(まあ関羽は欠点が失敗に繋がりましたが)、同じ郡出身と言う事で親近感を抱いたのではないでしょうか?。
また確かに故郷は離れていますが、関羽は塩商人だったって言う説があり、故郷で人を斬り出奔してますんで、幽州に逃れる途中に知り合ったって事も考えられませんでしょうか?。まあ、推測にしかすぎませんが…(汗)
また確かに故郷は離れていますが、関羽は塩商人だったって言う説があり、故郷で人を斬り出奔してますんで、幽州に逃れる途中に知り合ったって事も考えられませんでしょうか?。まあ、推測にしかすぎませんが…(汗)
(P901iS/FOMA)
18 天草
>>17
徐晃伝の冒頭
河東郡の役人となり、車騎将軍・楊奉に従って賊を討伐し功績を立て、騎都尉に任命された。
騎都尉というのは警察署長みたいなもの(でしたよね?)ですから、恐らくこの時にはもう既に兵を率いていたでしょう。
この後、楊奉に天子の奉戴を提案し、楊奉もこれに従い、都亭侯に取り立てられます。
素朴な疑問ですが…『侯』というのは役職と考えていいのかな?
だとしたら、この時点でもしかすると徐晃は曹操より格上なのでは?
徐晃伝の冒頭
河東郡の役人となり、車騎将軍・楊奉に従って賊を討伐し功績を立て、騎都尉に任命された。
騎都尉というのは警察署長みたいなもの(でしたよね?)ですから、恐らくこの時にはもう既に兵を率いていたでしょう。
この後、楊奉に天子の奉戴を提案し、楊奉もこれに従い、都亭侯に取り立てられます。
素朴な疑問ですが…『侯』というのは役職と考えていいのかな?
だとしたら、この時点でもしかすると徐晃は曹操より格上なのでは?
(PC)
19 赤龍
騎都尉というのは、後漢書百官志によると、羽林(近衛兵みたいなもの)の騎兵をつかさどる官らしいです。ですので、警察署長とはちょっと違いますね。ちなみに、黄巾討伐の時の曹操の官職として有名です。
「侯」は役職ではなく爵位です。役職(官職)が騎都尉です。
「侯」は役職ではなく爵位です。役職(官職)が騎都尉です。
(PC)
20 天草
>>19
なるほど…爵位ですか。ちょっと考えれば分かりそうなものですなw
基本的に名誉的なものと考えていいんですね。
>>18にあるように、立場的に曹操に帰順した(?)際の徐晃が曹操より上だったという可能性はないですか?
なるほど…爵位ですか。ちょっと考えれば分かりそうなものですなw
基本的に名誉的なものと考えていいんですね。
>>18にあるように、立場的に曹操に帰順した(?)際の徐晃が曹操より上だったという可能性はないですか?
(PC)
21 赤龍
>>20
まず、徐晃が曹操に帰順した時期を確認してみましょう。
徐晃伝には「太祖は梁にいた楊奉を討伐し、徐晃は結局太祖に帰服した」一方武帝期を見ると、建安元年(196)「天子が東(許)に向かうや、楊奉は梁から出てこれをさえぎろうとしたが、間に合わなかった。冬十月楊奉を征伐した」とあり、この建安元年十月の楊奉征伐の時のことになります。
この時の曹操は大将軍、武平侯(すぐに大将軍を袁紹に譲り、司空に)であり、徐晃との地位の差は既に歴然としたものになっています。
まず、徐晃が曹操に帰順した時期を確認してみましょう。
徐晃伝には「太祖は梁にいた楊奉を討伐し、徐晃は結局太祖に帰服した」一方武帝期を見ると、建安元年(196)「天子が東(許)に向かうや、楊奉は梁から出てこれをさえぎろうとしたが、間に合わなかった。冬十月楊奉を征伐した」とあり、この建安元年十月の楊奉征伐の時のことになります。
この時の曹操は大将軍、武平侯(すぐに大将軍を袁紹に譲り、司空に)であり、徐晃との地位の差は既に歴然としたものになっています。
(PC)
24 晏隆
どうも晏隆です。
周亜夫という人は前漢の武将で劉邦に付き従った周勃の子で文帝の時に匈奴を征し、景帝の時に呉楚七国の乱を平らげ、丞相になった人です。しかし讒言に遭い絶食して死にました。
周亜夫という人は前漢の武将で劉邦に付き従った周勃の子で文帝の時に匈奴を征し、景帝の時に呉楚七国の乱を平らげ、丞相になった人です。しかし讒言に遭い絶食して死にました。
(EZ)
25 ピヨひこ
晏隆さん〉解答感謝ですm(_ _)m
周勃ならうろ覚えですが名前は知ってます♪
徐晃は酒を飲まなさそうな印象を受けますが実際どうなんでしょ?仲謀とは絶対仲良くなれなさそう(笑)
周勃ならうろ覚えですが名前は知ってます♪
徐晃は酒を飲まなさそうな印象を受けますが実際どうなんでしょ?仲謀とは絶対仲良くなれなさそう(笑)
(W21SA/au)
27 ピヨひこ
蒼天航路見てて、「負けずの徐晃」とありましたが、官渡で顔良に退けられてた気がしますが、あれは一騎討ちでの撤退?
それとも徐晃は大局では負けなしでも局地戦では負けはあると言うことですか?
それとも徐晃は大局では負けなしでも局地戦では負けはあると言うことですか?
(W21SA/au)
28 天草
>>27
そう言えば「負けずの徐晃」ってありましたね。あれは何か出典があるのかな?
どなたか見つけた方がいれば教えてください。
袁紹との一連の戦いの中では徐晃が一騎打ちで敗れたという記述はありません。
それどころか、顔良・文醜を続けて撃ち破ったーとありますから、あの白馬・延津の戦いにおいて前線で勝っていることがあります。
徐晃は確かに敗戦の記録がない様に思えます。
唯一可能性があるとすれば、
「荊州征伐に付き従い別軍として樊に駐屯し…」
とありますから、赤壁の戦いに絡んでいた可能性かな?
わざわざ別軍に…って書いてますから、その可能性も低いかも?
そう言えば「負けずの徐晃」ってありましたね。あれは何か出典があるのかな?
どなたか見つけた方がいれば教えてください。
袁紹との一連の戦いの中では徐晃が一騎打ちで敗れたという記述はありません。
それどころか、顔良・文醜を続けて撃ち破ったーとありますから、あの白馬・延津の戦いにおいて前線で勝っていることがあります。
徐晃は確かに敗戦の記録がない様に思えます。
唯一可能性があるとすれば、
「荊州征伐に付き従い別軍として樊に駐屯し…」
とありますから、赤壁の戦いに絡んでいた可能性かな?
わざわざ別軍に…って書いてますから、その可能性も低いかも?
(PC)
29 寿君
徐晃伝の曹操が荊州を討伐した時の徐晃の動きですが、
「從征荊州,別屯樊,討中廬、臨沮、宜城賊。又與滿寵討關羽於漢津,與曹仁?周瑜於江陵。」(?は文字化で判りません)
とあります。>>28で天草さんが触れてるように、「別屯樊」とあり、その後に、中廬、宜城、臨沮の賊を討ち、満寵と共に漢津に関羽を討ち、ほんで曹仁と江陵に居残って周瑜と戦ってます。
漢津の関羽討伐が賊討伐が先にある為に、劉備が南に逃げた時の物とは思えず、赤壁戦のいつの段階で発生したか判らないし、関羽を破ったにしては江夏郡への進行がない。
思うに、江陵を落とされた事も書いてない所を見ると、漢津に関羽を攻めたが破れなかったのではないでしょうか?。
中廬や臨沮にいる賊を討伐してから、関羽を追いかけるのは変だし…。
個人的に解釈に迷ってます。
「從征荊州,別屯樊,討中廬、臨沮、宜城賊。又與滿寵討關羽於漢津,與曹仁?周瑜於江陵。」(?は文字化で判りません)
とあります。>>28で天草さんが触れてるように、「別屯樊」とあり、その後に、中廬、宜城、臨沮の賊を討ち、満寵と共に漢津に関羽を討ち、ほんで曹仁と江陵に居残って周瑜と戦ってます。
漢津の関羽討伐が賊討伐が先にある為に、劉備が南に逃げた時の物とは思えず、赤壁戦のいつの段階で発生したか判らないし、関羽を破ったにしては江夏郡への進行がない。
思うに、江陵を落とされた事も書いてない所を見ると、漢津に関羽を攻めたが破れなかったのではないでしょうか?。
中廬や臨沮にいる賊を討伐してから、関羽を追いかけるのは変だし…。
個人的に解釈に迷ってます。
(P905i/FOMA)
30 諏訪
>>29
まず中廬・臨沮・宜城の賊討伐は、赤壁戦前、劉ソウ降服後も従わない荊州の反抗分子を討ったのだと思います。
その後の関羽討伐についてですが、『李通伝』に「劉備は周瑜とともに曹仁を江陵に包囲し、別に関羽に命じて北道を絶ち切った」とあります。
おそらく赤壁戦後、劉備と周瑜は長江を遡って追撃し、関羽は漢水を遡って江陵と北方の連絡を絶ち、曹仁を孤立させようとしたのでしょう。
この動きに対抗するために、徐晃らは漢津で関羽と戦ったのだと思います。
まず中廬・臨沮・宜城の賊討伐は、赤壁戦前、劉ソウ降服後も従わない荊州の反抗分子を討ったのだと思います。
その後の関羽討伐についてですが、『李通伝』に「劉備は周瑜とともに曹仁を江陵に包囲し、別に関羽に命じて北道を絶ち切った」とあります。
おそらく赤壁戦後、劉備と周瑜は長江を遡って追撃し、関羽は漢水を遡って江陵と北方の連絡を絶ち、曹仁を孤立させようとしたのでしょう。
この動きに対抗するために、徐晃らは漢津で関羽と戦ったのだと思います。
(W51S/au)
31 寿君
なるほど!
そうなると徐晃は漢津で関羽と戦闘後に、江陵に敗走(戦術的には)、関羽は規定通り、李通伝の如く作戦を実施。
李通が関羽の防衛陣を突破して、江陵から退却する曹仁を拾って襄陽・樊に引き上げたって事になりますかな?。
ただ、不思議なのは、曹仁と共に江陵に残ったはずの徐晃の活躍が、江陵戦で見られないんですよね。
曹仁の超人的活躍や牛金や陳矯の話は聞くのに…。
満寵と一緒だったのも気になる。後の樊城戦の記事とダブって記述された可能性もあるような気がしてなりません。
関羽が樊城から撤退時の記述の後に、入ってもおかしくないと思うし、書き写す時に、間違えたかも知れないし…まあ、推測でしかありませんが…(苦笑)
そうなると徐晃は漢津で関羽と戦闘後に、江陵に敗走(戦術的には)、関羽は規定通り、李通伝の如く作戦を実施。
李通が関羽の防衛陣を突破して、江陵から退却する曹仁を拾って襄陽・樊に引き上げたって事になりますかな?。
ただ、不思議なのは、曹仁と共に江陵に残ったはずの徐晃の活躍が、江陵戦で見られないんですよね。
曹仁の超人的活躍や牛金や陳矯の話は聞くのに…。
満寵と一緒だったのも気になる。後の樊城戦の記事とダブって記述された可能性もあるような気がしてなりません。
関羽が樊城から撤退時の記述の後に、入ってもおかしくないと思うし、書き写す時に、間違えたかも知れないし…まあ、推測でしかありませんが…(苦笑)
(P905i/FOMA)