1 ストラップ

劉備軍、益州侵略作戦

意外と今まで無かった益州侵攻スレッド。知らない事ばかりなので、質問の為に立てますね。

>>>56 劉備
>>>189 ホウ統
>>>41 法正
>>>136 黄忠
>>>32 魏延
>>>306 費詩
>>>140 天下三分の計

※張松は現在スレッド無し。
※劉璋スレッドも現在は存在しない。劉璋については、>>>37-30-35を参照の事。
(F2102V/FOMA)
2 ストラップ
関羽、張飛、趙雲、孔明の四人は、荊州にお留守番した様ですが……この作戦に参加したのは、結局誰が判明していますか?
(F2102V/FOMA)
3 元歎
益州攻略には卓膺も参加してますよ。『黄忠・卓膺が云々』とあるので、黄忠と同格ぐらいか、すこし下程度なんでしょうね(といっても、黄忠もそんなに高くないはずですが)。『魏延は一隊長として』ということですから、この時は魏延より上だったのかもしれませんね。まあ、卓膺はこの時しか名が出ませんけど。
他には…?
(PC)
4 赤龍
他には簡雍も同行してますね。また、後詰としてカ萌関を守備した霍峻にも注目。
詳しいことは不明ですが、季漢輔臣賛には「先主に随行して蜀に入った」人物として、ケ方、輔匡、劉ヨウ、張存、習禎、馮習、張南の名があげられています。いずれも荊州出身の人物。劉備の荊州支配後に臣従し、劉備軍の主力となっていた人達と思われますが、記録が少ないのが残念ですね。黄忠、魏延もこうした中にいて、出世したため名が残ったのではと思います。
(PC)
5 赤龍
ちなみに、張存はホウ統を嫌ってたようで、ホウ統戦死の際、その死を悼む劉備にむかってホウ統の悪口を言い、劉備の怒りを買いクビにされています。
習禎は、ホウ統に次ぎ、馬良より上の名声があったといわれる人物。
劉封、宗預は後の増援組の方に参加してますね。
(PC)
6 しす
手元に正史があるわけではないので確証はありませんが、確か陳震も同行してませんでしたっけ?
あと記録にはなさそうだけど劉エン【王炎】あたりも同行してそう…。
(PC)
7 無問題
寝返り組の孟達や法正も入らないでしょうか?法正はわりと最初から劉備に合流してますが、孟達はいつ合流したのですかね?
(EZ)
8 赤龍
寝返り組ですが、法正の活躍もわすれちゃいけないですね。
で、孟達はというと、劉封伝には「先主はそのまま孟達にその軍勢をまとめて指揮させ、江陵に駐屯することを命じた。蜀が平定されたあと、孟達を宜都太守に任命した」とあるので、早々に荊州の守備にまわされ、益州侵略戦自体には参戦してなさそうです。
(PC)
9 無問題
赤龍さん・お久しぶりです。自分は法正が劉障に送った手紙がかなり印象的ですね。今まで冷遇された恨みやらあんたにはその土地はもったいないから早く降れとも受け取れる内容ですよね…。孟達は荊州に回されたんですね。ついつい劉備に同行しているものだと思いました。
(EZ)
10 朱家
ソース覚えてませんが、孟達人質説は説得力あります。法正と一緒に行動させるのは危険ですからね。法正も信頼されるためには、孟達を置いてくしかなかったでしょうから。
(EZ)
11 ストラップ
>>>306-10
先主伝及び李厳伝によると、当時緜竹の軍自体を管理していたのは李厳みたいですね。費詩伝に因ると、緜竹の令費詩は、
先んじて城をあげて降伏した
様ですから、費詩の言動が、軍の人々に大きな影響を与えたのかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
12 赤龍
改めて、益州侵略軍のメンバーを見ると、側近的な簡雍や寝返り・降将組を除けば荊州人(それも、劉表死後に仕えたと思われる)ばっかですね。古参は居残り・増援組。なぜこのような編成にしたのでしょうか?
それにしても、新参の荊州軍を組織しての初の本格的な外征。劉備も勝手が違って結構大変だったのではないでしょうか。
ほんとに『蒼天航路』の「簡雍、古顔のおめえがいてほんとよかったぜ」な心境だったかもしれないですね。
(PC)
13 ストラップ
>>12
>>2に書きました様に、僕は誰が従軍したのか知りません(例えば麋芳は?)が、劉備自身が荊州の重要性を知っていた様には感じます。
ただそれは、益州侵攻が失敗した時の為の消極策で主だった人達に任せたのか、益州侵略を長期戦と考えて、補給の為に守らせたのか、はたまた益州制圧の後に、すぐ様曹操、孫権を攻撃する積極的攻勢策の為か。どこにウエイトがあったのかは、僕には判じかねますね(汗)
(F2102V/FOMA)
14 ウィチロー
はじめまして♪
ちょっと前から拝見させてもらってます。

私の個人的見解ですが、荊州に古参の武将を残していたのは新参の武将に手柄をたてさせるためだと思います。人材にそれなりに自信があって、負けるとは考えてなかったと思いますよ。予想外にもホウ統の死や、一年ぐらい頑張った孝行息子がいましたが…
(EZ)
15 朱家
少し疑問を…
@孔明が軍を発したのは士元の死後?前?
A何故霍峻を攻めた?(1万あれば本隊急襲したほうが…)
B増援組は単純に劉備の援軍?霍峻の進言による挟撃を防ぐため?
こんなとこでしょうかね。
(EZ)
16 元歎
@軍を発したのは劉備が引き返して、劉璋を攻撃した時(楊懐を斬った時?)。ということは、ホウ統がまだ生きている時でしょう。
A急襲しても、劉備軍本隊には負けると思ったんじゃないでしょうか? それより、霍峻の守っている葭萌(一時的な本拠)を落として、本隊の士気を下げてから攻撃するとか、兵糧攻めにするとか、できるだけ被害を少なくしようとしたとしか考えられません。ところで、劉備軍本隊の兵力ってどのくらいだったのでしょう?
B劉備の援軍でしょう。多分…。ところで、進言とは何でしょうか? 見つけられなかったもので…(汗)
(PC)
17 朱家
注に引かれてると思ってました。すいません。『華陽国志』(注に出てくる書)で、霍峻が背後を襲われる危険があるので注意せよと言ってます。霍峻だけでなく、成都急襲策を退けた時点で、東部守備の薄さは誰もが危惧する事だと思います。本文にないですけど、万全の守備だとは思えないのです。このために孔明を呼んだと思ってます。しかし到着までに一年半もかかってます。それだけの戦いがあったなら、もう少し記述があってもいいし、降した(討った)将が厳顔ぐらいなのも不思議です。これが士元の死後かもしれない推測ですが、遅くなれば単純に援軍の可能性が高くなります。劉備は劉璋軍をなめきってたのでしょうか?これによっては士元の評価も変わると思います。
ラク城で一年以上戦ってますので、拠点はこちらだと思います。記述だと霍峻は一年ぐらい包囲されてます。それほどの価値があったのか?劉備(士元?)もラク城に固執してるように感じます。救援にも行ってないと思うし、士元も死んじゃうし…この価値感の違いは何故でしょうか?
(EZ)
18 ひーたん
あまり正史に詳しくないんですが、劉璋が張魯の抑えに劉備は招かれたんでは?
なんであんまり劉備本隊にそうそうたる人物を連れてたら侵略の疑惑を抱かれるって事で本隊は有名どころを控えたってのはどうでしょうか?
(SH900i/FOMA)
19 しす
age
(PC)
20 元歎
>>17
『ラク城で一年以上戦ってますので、拠点はこちらだと思います。』一年以上戦ってますが、戦、特に篭城されたら一年って普通じゃないですか? それに、城がないので拠点とは言えないと思います。この時の拠点(あくまで一時的)は葭萌であると思います。
『霍峻は一年ぐらい包囲されてます』自分も>>16書いてる時に思いました^^ 無理やり理由を考えるなら、劉備本隊が救援に向かえばラク城から劉循が出撃して京劇されると考えたからとか…張飛らの援軍もこっちには向かってませんしね…。
『到着までに一年半もかかってます』う〜ん、行く先々で篭城されて時間がかかったのではないですか? ただ、小さい城だったのですぐに陥ち、戦闘はなかったと。そして厳顔が先導役を買って出たのが異端だったから、厳顔だけ史書に名が残った…? と、三国志も開かずに書き込みしちゃいましたf^_^;
(PC)
21 ストラップ
>>>155から察するに、当時のメン竹は重要な軍事拠点であったのでは無いかと推察します。これが以下の出発点です。

後の劉備の陣営には、「荊州組」と「益州組」の二派があった様に考えますが、李厳が劉表、劉璋に重用されていたとするならば、彼が二派に顔が利いたとも推測できます。僕自身は後の蜀が李厳に甘いのは、彼が両派閥の調整役が出来たからでは無いかと考えているのですよね。

参考>>>359
(PC)