1 くわぁまん

呉の老将軍

ちわです。久しぶりにスレでも立てましょうかね…。(笑)

自分は始め蜀将フリークになり、次に魏、今は呉将フリークになってしまいました。

んで思ったのが赤壁の戦いの立役者黄蓋将軍なんですが、何故か演義やゲームでは白髪の老将扱いです。でも本当の処、諸将の中で最年長だったのは程普だったのですよね?

これって何らかの意図が在っての事でしょうか。
皆様のご意見お待ちいたします。
(F901iC/FOMA)
2 バイン
初めましてm(_ _)m
現在ゲーム内では『切れ痔の男』を名乗ってます。
よろしくです♪

さて、黄蓋ですが、赤壁時、韓当・程普・黄蓋の3人は間違いなくジジイだったんではないでしょうか?
もともと、零陵の郡吏で地方をよくまとめてた人物で、孫堅の義兵に応じて加わったようです。
確かに年齢に関する記述ないですね…(^_^;)没年215年しかわからない(汗)
予想ですが、孫パパよりも年上なのではないでしょうかね?
あとは、威厳のある風貌というのからジジイキャラに結び付いたのでしょうかね♪
さらに言えば、老黄忠に対抗出来るような功績あるジジイが演義的に欲しかったのかもしれないです…。

長文失礼しましたm(_ _)m
(W21T/au)
パインさんの意見と被りますが、黄蓋のみならず程普も大抵は白髪の老人として登場してるわけですし、孫堅が存命ならば確か50代半ばくらいでしょうから黄蓋がジジイキャラになってもさほど不思議ではないと思いますよ。
ただ敢えてそこに理由を求めるならば周瑜との年齢差を強調するため。
あるいは苦肉の策を演じるにあたって文字通り「老骨にむち打つ」姿を印象づけたかったとは考えられないでしょうか。

>>2
パインさん、はじめまして。
どうぞヨロシクお願いします。
もしよろしければ>>>292にもカキコお願いできないでしょうか?
自己紹介代わりのスレッドになってますので。

>>1
このような単発の質問でスレを立てるのは控えた方がいいと思いますよ。
この手の質問は>>>254などで充分代用できると思います。
(PC)
4 バイン
しす殿、初めましてm(_ _)m
スレ紹介ありがとうございます♪
(W21T/au)
5 くわぁまん
しすサン、パインサンどうも、どうも…(陳謝)

ちょっと説明しずらいのですが、肝心の話はこれからこれから…。(笑)
年齢は近いとしても年功序列、黄蓋より程普の方が上官だったはずです…。

なのに赤壁の戦い、対魏主戦論派の筆頭が黄蓋だったのは何故でしょう?。

本来ならば程普が筆頭たるべきだと思いますが、物語上抗戦派、降参派のどちらにも出て来ないのは何故か?

また、赤壁の策略として、黄蓋より右都督の程普が魏に降伏した方が策としては面白いと思いますね。

周瑜と程普は犬猿の仲だったと言うのは有名な話ですから…。
(F901iC/FOMA)
6 しす
>>5
主戦派の筆頭として黄蓋が登場するのは、赤壁の戦いの功労者を印象づけるための演出でしょう。
少なくとも正史でも黄蓋が偽りの降伏、火計による攻撃を進言し実行したことが記されているのに、なぜ程普に役者をスリ変える必要があるのでしょうか?
(PC)
7 バイン
う〜ん、あの戦いでは周瑜と程普がもっとも高い地位にあり、程普ほど下に人を抱える武将が降ってしまうと今度は火計が成った後、指揮を執る人間がいなくなってしまうと思います。
そういう点からも黄蓋くらいのポストの人が降っていったのがベストなのかと。
(W21T/au)
8 ぺろ
バインさん初めまして!!前レスで黄蓋のポストとありますが、当時の黄蓋は何の役職についていたのですか?確か演義だと軍需省的な役職についていたような感じで書いてありました。
(W21H/au)
9 バイン
ぺろさん初めましてm(_ _)m
すいません、黄蓋の具体的なポストは僕の持ってる資料には載ってないんです(汗)ただ、周瑜の部下であったことは確かで、曹操と戦うよう進言したのはロシュクと周瑜であり、火計の策を進言したのは黄蓋とあります。
最前線のトップ二人(周瑜、程普)のうちの一人が降ると、間違いなく指揮系統に問題が発生するかと…。そういう点から、周瑜の一武将であった黄蓋が降ったほうが…という上の推論になりました。
(W21T/au)
10 くわぁまん
ぺろサンいらっしゃいまそ☆

黄祖討伐後、黄蓋は主にに内政活動に従事していたようです。十数県の県知事を任され善政を行ったと記録されています…。

さて、孫堅四天王と言えば程普、黄蓋、韓当、祖茂の四人。祖茂は他界してるとして、もう一人韓当がいますが彼もまた主戦論派だったのですから老体に鞭を打たれる役は韓当でも良かったんですよね?(笑)
(F901iC/FOMA)
11 ぺろ
バインさん、しすさんレスありがとうございました!黄蓋の役職が周ユより下とのことでしたが、当時の儒教思想で年下より下の役職つまり今の成果主義と同じ発想だと思っているのですが、よく当時名士層に支持を得られたなと思います、あと確かに韓当でもよいですよね笑黄蓋がドSで進んで苦肉の計を計らったとかってあり得ないことを考えた今日この頃です笑
(W21H/au)
12 しす
黄蓋の偽降を曹操に信じ込ませるために苦肉の計を用いるのに、韓当じゃダメじゃないですか。
(PC)
13 ぺろ
>>10すいません、くわぁまんさんとしすさんの名前間違えてました汗~~
(W21H/au)
14 バイン
正史には、三国志最大の戦いである赤壁についての記述が案の定少な過ぎますね(-.-;)

余談ですが、韓当は赤壁時中郎将の地位にありますね。僕は地位や位に関してはまったくわからないので比べれませんが…orz

さて。
黄蓋が言い出した計略を他人にやらせるということは、すなわち手柄を人にやるということになるのではないでしょうか?
毎回、長文ですいませんm(_ _)m
(W21T/au)
15 赤龍
黄蓋の地位ですが、9県の県令(県長?)を歴任の後、丹陽の都尉に昇進。赤壁時はこの地位でしょうか。赤壁の功績で武鋒中郎将となります。
ちなみに、ちくま和訳では黄蓋伝中においてしばしば県の「知事」という記述がみられますが、当時の県のトップは県令・県長。知事という役職が置かれるのはもっと後のことです。もしかしたら、現代日本人に分かりやすく意訳したのかもしれませんが、誤解を生みかねない、ちょっと問題ある訳だと思います。
(PC)
16 赤龍
さて、演義の苦肉の計ですが、正史で火計を進言し、投降を偽装したのが黄蓋である以上、特にその役割を程普や、韓当に代える理由もないでしょう。程普も、韓当も、演義でそこまで注目されてる人物でもないですし。
演義は、あれで基本は結構歴史に忠実な小説ですしね。
(PC)
17 くわぁまん
余談ですが、黄蓋爺さんってそんなに魅力的ですかね?(笑)

人材コレクターの曹操からすれば同年代のガンコな親父さんとしか思えない存在、将士としての魅力は皆無でしょう…。(爆)

ただ、一つ気が付いたのですが、呉は荊州出身者の有名どころは黄蓋だけのようです。

赤壁戦当時、荊州の南部はまだ曹操は手に入れてませんから零陵出身の黄蓋は気になる存在に変わった?と思いますね。
(F901iC/FOMA)
18 しす
で、結局ここは黄蓋スレってことでいいんですか?
単純に呉の老将ってことだと呂岱の話なんかもしていいのかな?
(PC)
19 くわぁまん
呉将でしたら誰でも構わないですよ。(笑)

別に、蜀、魏編のスレ立てますかね…(爆)

しす殿>呂岱もじじいだったのですか?知りませんでした。彼はどんな人物だったのですかね?ご教示お願いしますm(._.)m

はてさて、自分が次に考えてしまったのが張爺こと張昭です。数々の献策により呉は強国となりましたが、赤壁戦降参派の筆頭となったが為に以後、孫権との仲は険悪化してしまった。

孫権としては処罰したかったと思いますが、張昭の名声は世間に広まっていますし、兄孫策が三顧の礼を行った人物ゆえ処断できなかったのでしょう…。

目の上のタンコブ的存在かな?(ニャリ…)
(F901iC/FOMA)
20 しす
呂岱は劉備と同年の161年の産まれで亡くなったのは256年。
数え96で亡くなっていますので、正史に独立した伝が立てられ、かつ生没年がハッキリしている人の中では蜀の来敏に次ぐくらいのご長寿さんです。
基本的に対魏、対蜀戦線にはほとんど参加していないため演義には僅かしか登場しませんが、山越などの異民族討伐や、内乱鎮圧に活躍した模様。
私が無知なだけかもしれませんが、若い頃の活躍はあまり見られず、具体的な活躍が目立つようになるのが50歳以降なので紛れもなく呉の老将であると言えるでしょう。
特に239年廖式の叛乱を鎮圧した時には既に齢80ですからそのバイタリティには恐れ入ります。
(PC)
21 赤龍
呂岱については、だいぶ前にここのブログにも投稿させて頂きました。「人物紹介 呉」のとこで。よろしければ参考にどうぞ。
(J-SA05)
22 ストラップ
「三国志 呉書 周瑜魯肅呂蒙伝第九」の注に引く「江表伝」に因ると、黄蓋は兵士に
「降焉」
と叫ばせ、
「北軍を去ること二里余りで(船を)時を同じくして発火」
させた様です。

という事は、「降焉」と兵達が叫んだのは二里に達したか、達する前と考えるべきですよね?(「軽利艦十舫」とあるので、叫んだのは二里に達しない頃だと思います)。そして北軍は曹操の陣。
>>>403-5で書きましたが、一里≒414.72m若しくは一里≒434.16mならば、黄蓋の兵達は、800m以上の距離を叫んだという事になりますね。
(PC)
23 ストラップ
すいません。
>>22は赤壁での事です。

黄蓋の出番って、基本的にここしか無いからつい省略してしまって(汗)
申し訳無い。
(PC)
24
 お初にお目にかかります。五、と申します。
張昭ですか。確かに孫権にしてみれば目の上のたんこぶだったでしょうね。 ただ、張昭亡き後の孫権の道の踏み外しかたを見ていくと(陸遜を流罪にしたり)張爺そのものの存在が孫権に対するストッパーの役割をはたしていたのも事実のようです。それを薄々感じていた周りの家臣達も、二人の間に何か事あるごとに、処断しようとする孫権に対して、張昭処断反対の意を訴えていたのではないかと思われます。私は、張昭は陸遜と並ぶ、呉の『社稷の臣』であったのだろう、と思う今日この頃です。
(P902i/FOMA)
25 寿君
>>>198-92
の話題ですが、私が諏訪さんに問い、それが198のスレのテーマから逸脱すると考慮したので、諏訪さんには事後承諾の無礼ありとは思いましたが、誘導の上、このスレをageました。
諏訪さん、もし黄蓋伝の件でしたら、続きはこちらで。m(__)m
(P905i/FOMA)
26 寿君
以前、諏訪さんと黄蓋が210年代に武陵太守になった事の疑問を論じ、不審な点が見つかりました。内容は>>25のアンカーの先にある通りです。
で、この黄蓋の武陵太守拝命の件に関してなんですが、劉備は赤壁戦後に南征して湖南四郡を獲得し、公安に本拠地を定めました。
で、趙雲が桂陽太守、廖立が長沙、ほんで名前忘れましたが、呂蒙が215年に三郡を占領した時に降伏した人が零陵を治めたはずで、諸葛亮は軍師中郎将として上記三郡を統治したとあります。
で、今まで見落としていたのですが武陵だけ太守がいないんですよね。
武陵蛮が居たからにしては、それまでは金旋と言う太守が居ました。

とすると黄蓋が武陵太守をしているのは確かに正解なのは正解なんですが、諏訪さんがおっしゃったように、武陵蛮を追い払った事件で関連する「蜀の勢力」と言うのは、蜀漢(季漢)の事であり、普通に考えるなら、夷陵戦で蜀に呼応した武陵蛮を黄蓋が鎮圧したと見るべきです。ところが、黄蓋は死んで孫咬(蒼天では関羽に殺られて晒し者にされたあの人)が部曲を引き継いだとあります。
これでは話が滅茶苦茶です。
ちくま訳本は時折誤訳があると聞きます。この黄蓋伝の記述は全体的な歴史の流れと違います。
それとも、陳寿が呉書編纂時に参考にしたイ昭の呉書の記述が誤っているのでしょうか?。
これは黄蓋の没年、経歴のみならず、劉備と孫権の荊州問題に異論が生じる事ではないかと思い、書いてみました。
乱文になりました。申し訳ありません。
(P905i/FOMA)
27 諏訪
>>25-26
寿君さん、せっかくスレ移動していただいたのに、忙しくて書き込めませんでした。申し訳ありません。

さて、寿君さんが>>26で誤訳の可能性をご指摘されたので、『黄蓋伝』の原文を調べてみました。問題の箇所は以下の通りです。

「自春訖夏,寇亂盡平,諸幽邃巴、醴、由、誕邑侯君長,皆改操易節,奉禮請見,郡境遂清.」

これを、ちくま訳では以下のように訳しています。

「春から夏までの間に、反乱はすべて平定され、僻遠の地の巴・醴・由・誕などの部落長や酋長たちも、みなこれまでの蜀に対する忠誠を改めて、鄭重な礼を執って目通りを求めてくるようになり、武陵郡領内は、このようにして平穏になった。」

ちくま訳の「みなこれまでの蜀に対する忠誠を改めて」の部分、原文では「皆改操易節」とあります。
漢文の読解力には自信がありませんが、この文は「皆操ヲ改メ節ヲ易エ」と読むのだと思います。
「操ヲ改メ」も「節ヲ易エ」も同じような意味で、ようするに心を入れ替えたということだけで、武陵郡の異民族がそれまで蜀に対して忠誠を誓っていたというのは、ちくま訳の訳者の意訳ではないでしょうか。
従って、この文章から、黄蓋が関羽攻略後に武陵太守であったとは考えられないと思います。
(W51S/au)
28 寿君
>>27
なるほど、違約ならば確かにそうだと思うし、私も関羽攻略後と言うのは、その黄蓋伝の記述からするとありえないとなります。
ただ、何度も言いますが武陵郡に黄蓋が太守として赴任してるのは、ありえないと思います。
呉書にすら、215年に、湘水を境に荊州を分割したとありますし、劉備が本拠地とした公安も後背に武陵郡があります。
ただ、劉備領であるはずの武陵に黄蓋が赴任するとなると、こうしかあり得ません。
「劉備が蜀を獲るまでは、劉備と孫権は連立政権」って奴で、荊州と揚州は一体と言う物です。
これならば、全て話は合致し、荊州に劉備、孫権両陣営から官吏が赴任されていても、不思議ではないと思われます。
孫夫人の離婚に関しても、蜀書后妃伝(王欣太も着目してたが)の記述をまんま受け取れば、「孫権の親族から離脱して独立の意思表明」、法正伝の書かれ方からしたら「荊州に居たらヤバいと思っていたが、法正の手柄で、他人の干渉を受けずに済む土地を手にいれた」みたいなニュアンスの話を諸葛亮がしている。
こう考えると、孫権と劉備の関係は通説とは少し違うのかも知れませんね。
(P905i/FOMA)
29 諏訪
私も215年の時点では、武陵郡は劉備のものだったと思います。
しかし、『江表伝』に「劉備は(中略)孫権から、さらに荊州の数郡を借りうけた」とあり、また『魯粛伝』にも「魯粛だけが、荊州の土地を劉備に貸し与え、協同して曹公を拒けるのがよいと、孫権に勧めた」とありますから、劉備は209〜210年頃に孫権から荊州の数郡(おそらく湖南四郡)を借りたわけで、そうすると、それ以前は孫権のものだったということではないでしょうか。
つまり、黄蓋が武陵太守だった期間は、武陵郡が劉備領となる前だと推測します。
この頃、劉備は周瑜と共同戦線をとっていますから、公安の後背の武陵郡の太守が黄蓋であっても、不思議ではないでしょう。

劉備と孫権の関係は、>>>198-83で述べたように、劉備は孫権の客将のような存在だったと考えています。
ただし劉備にしてみれば、いつまでも孫権の客将でいるつもりはなく、荊州を返すつもりもなかったでしょうから、孫権に対抗する力をつけるためにも、蜀を奪いたかったのでしょう。よって、「蜀を奪い自立」というのは、予定通りの行動だったのだと思います。
(W51S/au)
30 赤龍
横から質問失礼いたします。

非常に興味深い議論だと思いつつ読ませて頂いてますが、諏訪さんの仮説の場合、劉備が武陵太守金旋を攻めた件は、どのように位置づけられるのでしょうか?
(PC)
31 諏訪
>>30
赤龍さんが仰られたいのは、劉備が攻略した武陵郡が何故孫権のものになるのか、ということでしょうか(違っていたらすみません)
私は逆に、劉備が攻略したのだから劉備のものになるはずだというような単純な構図なのかという疑問があります。

劉備の湖南四郡攻略は、孫権軍との共同作戦の一環だと私は考えています。そして攻略できたのは、周瑜が曹仁と江陵で対峙していたからでしょう。
そのような状況で、劉備が、自分達で攻略したのだから自分達のものだと主張しても、孫権にしてみれば納得できるものではなく、逆に孫権から荊州は自分達のものだと強硬に主張されれば、当時の力関係からしても、劉備としては孫権に従わざるをえないでしょう。
もちろん孫権にしても、曹操と敵対している状況で劉備を敵に廻すことはできず、魯粛の説得などもあって、劉備に荊州を貸すという形で落とし所をつけたということではないでしょうか。

以上述べたことは、私の推測でしかなく、正直それほど自信があるわけではありません。
ただ、孫権が劉備に荊州を「貸した」という記述、黄蓋が武陵太守になっていることなどから、こういう推測も成り立つのではないかと思います。
(W51S/au)
32 赤龍
>>31
その場合、劉備は自力で攻め取った四郡を、全て孫権に譲り渡したのでしょうか?それとも武陵郡のみ?
どちらにせよ、孫権側にとってえらく都合のよすぎる話で、劉備もせっかく得た地盤をそっくり渡すとは、随分気前よすぎだなあ、というのが私の感想です。
劉備も、孫権側に荊州を譲らないために、劉キを御輿としていたわけですし。
(PC)
33 寿君
こうなると、天下三分の計と言うのも、陳寿の諸葛亮賛美から来る意図的な捏造だったかも知れませんね。
むしろ、劉備からすれば、状況の変化の中で、四川、漢中、南郡を保有できていれば御の字であり、呉からすれば、かつて曹操が劉備に徐州で独立されてしまったのと同じ感覚なのかも知れません。
観点を変えて見てみると、かなり様相が変わってくる事に気づかされた気がします。
確かに、呉書や蜀書の記述を読むと、孫権が劉備の盟主としての地位にいるように見えます。実際、劉備が孫権の本拠地を訪問してますしね。
むしろ、荊州分割時に「改めて対等な立場で同盟した」と言うべきなんでしょうかね?。
(P905i/FOMA)
34 赤龍
もう一つ気になることが。
黄蓋は「在官のまま死んだ」とされていますが、これは武陵太守在官になるのでしょうか?
すると、210年頃に死んだことになりますが、それでは孫コウ伝の記述とどうも辻褄合わなくなるようように思えます。
(PC)
35 諏訪
>>32
黄蓋が長沙郡の反乱も平定していますから、四郡全て孫権に譲られたのだと思います。

劉備が自力で攻め取ったといっても、>>31で述べたように、周瑜がいればこそですし、孫権が曹操と戦わなければ、劉備は地盤を手に入れるどころか、曹操に滅ぼされていたかもしれません。
周瑜が曹仁相手に苦戦している間に劉備が手に入れた四郡の領有を素直に認める方が、よっぽど劉備にとって都合のいい話だと思います。
後に孫権が、周瑜が手に入れた南郡まで劉備に貸したのは、気前がよかったからでしょうか。そうする方が都合がよいと判断したからでしょう。
同様に、劉備が四郡を譲ったのも、単に気前がいいということではなく、情勢上仕方なかったのだと思います。

>>34
どこが辻褄が合わないのか、具体的に教えていただけませんか。
(W51S/au)
36 赤龍
>>35
>>32でも触れてますが、四郡侵攻とほぼ同時期に、劉表の子劉キを荊州刺史とし、荊州領有の名分を立ててますよね。孫権に対して荊州の領有権を主張する意味もあったと思えるこの方策も、全く意味をなさなかったのでしょうか?
また、先主伝の直後の文の、盧江の雷緒の帰順も、おそらく劉備がおとなりでそれなりの実力を身につけたからですよね。
得たばかりの勢力基盤を、さっさと孫権に譲るしかなかった劉備に、わざわざ楊州の勢力まで帰順するだろうか?という疑問も感じます。
(PC)
37 赤龍
孫コウ伝の記述の順は
○濡須の対曹操戦
○程普にかわり夏口の督に
○黄蓋、孫瑜の死後、その配下の兵を指揮

諏訪さんの説では、黄蓋の武陵太守の期間は210年以前。
濡須での戦いはその後であり、程普が死ぬのも、荊州分割後とすれば215年頃。
孫瑜の死も215年。

「在官のまま死」というのが武陵太守を指せば、黄蓋の死から、孫コウに兵を与えられるまで、空白期間が長すぎませんか?孫瑜との並列からも、孫瑜と近い時期に死んだと考える方が自然に感じます。
(PC)
38 諏訪
>>36
孫権は、周瑜・程普をそれぞれ南郡太守・江夏太守にしています。劉備が劉キを担いだからといって、おめおめと荊州の領有権を劉キ(劉備)に渡したりはしないでしょう。
それでは劉キを担いだことは全く意味をなさなかったのかといえば、そうではなく、荊州の士人が劉備のもとに集まっていますから、荊州人に対する影響力という点では効果はあったと思います。
そもそも、劉備に地盤がないからといって、実力がないということではないでしょう。劉備はそれまでも、地盤を持たずに各勢力を渡り歩き、その実力を認められてきました。
孫権も、劉備の軍事力や名声、さらに荊州での影響力といった「実力」を認めたからこそ、妹を与え、土地を貸したのでしょう。

また、雷緒についてですが、何故、近くて勢力の大きい孫権に帰順しなかったのでしょうか。孫権に帰順できない事情があったのだとすれば、曹操に降ることも孫権に降ることも自立することもできない雷緒が、地盤は持たないが実力はある劉備に帰順しても、不思議ではないと思います。
(W51S/au)
39 諏訪
>>37
『孫皎伝』の記述に関しては、必ずしも時系列の順に記してあるとは限らない、としかいえないですね(汗)他の伝でも、時系列が混乱している箇所はありますし…
あくまで文脈上不自然だという程度で、黄蓋の武陵太守就任時期に対する明確な否定にはならないと思います。

なんだか苦しい反論ですが…(汗)
(W51S/au)
40 寿君
確かに諏訪さんの説には、納得する点があるが、赤龍さんのおっしゃるようなツッコミ所はあります。私もそう疑問は抱いてる。
ところが、反復するけど、黄蓋伝には
「建安年間(一九六〜二二〇)、周瑜に従って赤壁で曹公(曹操)を防ぎ、策略を立てて火攻めを行った。記載は『周瑜伝』にある。[一]武鋒中郎将を拝命した。武陵の蛮民どもが反乱を起こして城邑を攻め取ったので、黄蓋に太守を領させた。このとき郡兵はわずかに五百人しかおらず、敵対できないと思われたため、城門を開き、賊軍の半数が侵入したところで攻撃をかけて首級数百を挙げた。」(むじんさんちから抜粋転載しました)
と厳然とした記事がある。
これを否定するならば、この事績自体が編纂の段階か、テキストとなった韋昭の呉書の段階で、他者の事績と間違われた。
としか言えないと思います。
それを判断するのは推測の域を出ない以上、「謎の記述」のまま、答えは出ないと思います。
(P905i/FOMA)
41 赤龍
私も、今のとこ黄蓋の武陵太守の期間については、よくわからない、という以上の答えがだせません。

諏訪さんの「荊州南四郡が、劉備の侵攻後、一旦孫権に帰属した」という仮説。通説に異を唱える大胆な仮説で興味深いのですが、その根拠となるのが、黄蓋伝のはっきりしない武陵太守の任期を「赤壁の後、劉備が金旋を攻めた直後だろう」という仮説に基づいているわけですよね。それ以外の積極的な証拠が見つからない。
つまり、決定打に欠ける仮説の上に成り立った仮説。現時点ではどうしても説得力が弱いのが残念です。難しい話ですが、何かもう一押しの根拠が欲しいんですよね(笑)
(PC)
42 赤龍
このことに関連して、当時の荊州南四郡について目の届く範囲で調べていますが、一つ気になる点が。

諸葛亮が治め、賦税を調達した地域。
劉巴が曹操の命で帰順を呼びかけた地域。
呂蒙が侵攻し蜀から奪い取った地域。

いずれもそろって「長沙・零陵、桂陽の三郡」であり、武陵の名が出てこないんですよね。これには何か特別な理由があるのでしょうか?異民族の反乱が多いとか?
この武陵の特異に感じる扱いに何らかのヒントがあるかもしれないなあ、と思いつつ、結局私にはよくわからないままです(笑)
(PC)
43 諏訪
黄蓋の武陵太守就任時期については、ひとまず謎のままでいいとしても、『先主伝』『呉主伝』『魯粛伝』などに「劉備が蜀を手に入れると、孫権は長沙・零陵・桂陽の返還を求めた」という記述がある以上、少なくとも長沙・零陵・桂陽の三郡は、以前は孫権のものであったという考えを捨て切れないんですよね。
確かに現段階では、疑問点も多くありますが…
もう一押しの根拠ですか…難しいですね(笑)

ともあれ、寿君さんと赤龍さんに色々と指摘されたおかげで、自説を見つめ直すことができて、非常に有意義でした。
(W51S/au)
44 赤龍
>>43
ちくま訳では「返還を求めた」とありますが、原文を確認しますと
「求荊州諸郡」(呉主伝)
「求長沙零桂」(魯粛伝)
「欲得荊州」(先主伝)
というように、明確に「返還」という表現ではないようです。
もっとも、諏訪さんがあげられた3箇所しか調べてませんので、他ではどう書かれているか確認してませんが。
(PC)
45 寿君
>>44
劉備、孫権の要求に答えて曰く
「須得涼州,当以荊州相与」
とあります。
これもどう解釈するかですね。
(P905i/FOMA)
46 寿君
「武陵の蛮民どもが反乱を起こして城邑を攻め取ったので、黄蓋に太守を領させた。」
この記事なんですが、よく読み返すと、武陵の太守とは確定できないし、武陵の蛮族が武陵を攻めたとは言えないようにも思えます。
黄蓋は215年没で確定的なんですか?。
孫皎が兵を継いだのも、単に孫瑜と並記してるだけで、黄蓋は218年ぐらいと言うのはないのでしょうか?。
だとしたら、分割後に黄蓋は長沙に入り、武陵から来た蛮族を鎮圧したと言えます。
この頃なら、関羽がしきりに呉領にちょっかい出してるので、「蜀の勢力」と言うのも、辻褄が合わないでしょうか?。
ましてや孫皎伝は時系列があやふやな感が否めない。
もう一回、黄蓋伝読み直してみますが、これぐらいが一番無難な気がします。
(P905i/FOMA)
47 巫俊(ふしゅん)
黄 龍 三 年 , 以 南 土 清 定 , 召 岱 還 屯 長 沙 {シ区} 口 .[一]会 武 陵 蛮 夷 蠢 動 , 岱 与 太 常 潘 濬 共 討 定 之 .
(『三国志』呉書、呂岱伝)
潘濬伝も確認していませんが、こんなのありました。貼り付けておきます。
(PC)
48 寿君
巫俊さん、質問なんですが、黄蓋伝の原文にもあるのですが、
「武陵蛮夷」と言う言葉は、固有名詞なんでしょうか?。それとも地名と名詞なんでしょうか?。

確か、後漢書に「長沙武陵蛮」と言う民族の名前が記載されてるような話をネットで見たのですが…。
もし、武陵蛮と言う固有名詞だと、必ずしも武陵での事件とは言い切れない気がしてきたんです。
原文は
武陵蛮夷反乱,攻守城邑,乃以蓋領太守。
なんで…。>>46の訳文はむじん書院さんから転用させていただきましたが…。
(P905i/FOMA)
49 巫俊(ふしゅん)
武陵郡の蛮であるから武陵蛮であると思います。ただし長江の支流の更に支流の山谷にひしめいているのだと思いますから、もともと郡の境に沢山いるんじゃないですかね?
私はブログで四川から雲南への入り口の金沙江沿いの歴史を調べて書いたことがありますけど、金沙江という雲南の中でも大きい河川沿いではかえって郡県の成長が遅れていました。
蜀の時代は郡の外れという感じで、唐の時代になってようやく増え始めてきた感じです。
だから諸葛亮も南征の際は山越えの道を多様したみたいですね。舟もつかったかもしれませんが。

それから、私たちは大きな渓谷から開発が進んでいくだろうと思いがちなんですが、大規模な水利、土木の開発の遅れがち、というよりそんなことしなくても豊かに暮らせる耕せる山沿いの小さな渓谷の小河川や泉のあるところで蛮夷の農耕(焼畑ふくむ)は規模を増やしていったようです。
武陵郡あたりは幾らでも小さい谷があるでしょう?山脈というのは地球の皺ですから、そこに水が流れると皺が彫られてV字の谷になります。『山海経』などに乗る羌の古い神話でも禹が谷を埋めたり彫ったとあり、集落をつくって耕すに丁度いい深さの谷を選ぶのに苦労したということを反映する神話らしいです。

それから渓谷の大きな河川だと、集落をつくるような平地よりも川が随分下の谷の下を流れているんですよ。これでは相当の上流から取水して蜀の桟道みたいな木製の岸壁をゆく水路をつくらねばなりません。

余談ですが、ここに私の撮影した写真がありまして、
ttp://W三つ.panoramio.com/photo/8179709
私の住む三重県名張市(旧伊賀国)の西南隅にも蜀の桟道なんて規模ではない小さなものですが、似たような崖沿いの川があり、そこに木製の水路を崖に棚をつくって渡していました。それは宇陀川という一級河川から水のない荒地に水を引く為の村人の努力です。その村の名前を矢川村といい、合併を重ねて今は名張市ということです。
(PC)
50 エビィー@必殺
>>49
写真見ました。見事に桟道跡ですね。
見た所、中国ほどではないですが、参考になりますね。

またお話の内容、大変勉強になりました。

すなわち、人が住める所には武陵蛮の人々は住んでいる可能性は高い。
なるほど地図を見ても、郡境付近にも見られる。

とすると、この話はどちらにでも、取れる可能性があり、黄蓋が鎮圧したから終わりではなく、叩いても叩いてもどこからも襲ってくる。

うーん、やっぱり謎は深まるばかりですね。
(P905i/FOMA)
51 巫俊(ふしゅん)
>>50
エビィー@必殺さん。

ありがとうございます。
川の上流の長瀬村(室生村に合併、のち宇陀市と合併)へは熊岩を撮影した側、つまり川の対岸から街道が伸びているのですが、そこも険しいところで桟道があったという話は聞かないですけれど、崖沿いをツタにつかまりつつ崖に這うようにして移動していたらしいですね。今は道路も鉄道も通っていますが、それはダイナマイトの力で爆破したことによります。
昔は山中ならこういうところは普通にあったんだと思います。
あと、戦後までは木馬(キンマ)といって山奥で伐った材木を運ぶのに一工夫するのですが、その際に紀伊山地の吉野川の写真だったかと思いますが桟道のようなものを部分的につくってありました。
(PC)
52 寿君
すいません
エビィー@必殺は私です。
他のサイトで使ってるから、誤ってしまいました。
以後気を付けます…(たぶん機種と内容で判ったと思いますが・汗)
(P905i/FOMA)
53 巫俊(ふしゅん)
>>52
いや、まったく分からず(笑)
まあこういうことはよくあることです。
私なんて新調した服を着たまま雑木林の中に突入して破いてしまったばかりですって。あははは(苦笑)
世の中何かを優先すれば何かが緩んでしまうものです。やっぱり服は汚れても何とかなるようなものじゃないと着れないかも。今の洋服って汚さないことを前提につくられていて、あんまり見栄えが悪くなると民度の低い人間みたいに見られそうですから、両立するのが大変ですよん。
(PC)
54 寿君
あっ!そう…(苦笑)
確かに言われて見れば、さほど共通性もなさそうですね。俺も中々…(コラコラ)

余談ですが、この黄蓋のじいさんで、赤壁以外の業績で人様とお話するとは、思ってもなかった。
赤壁じゃ、もう少しで放置死されるとこだったのに。

それにしても、呉書の人物は、人間臭いエピソードばかりですな。(時々笑えない事もありますが…)
韋昭の段階で書かれてただろうし、その韋昭にしても「呉を賛美してる」のは間違いない。そのフィルターすり抜けても、この手の話題が多い。
軍人達の素行の悪さとかに対する韋昭自身の嫌悪感を示してるんでしょうが、生々しいですよね。
(P905i/FOMA)
55 巫俊(ふしゅん)
>>54
ハンドルネームは私の場合「巫俊」ひとつに収斂していきましたね。

>黄蓋のじいさんで、赤壁以外の業績で人様とお話するとは、思ってもなかった

そうですか(笑)私は赤壁以外の話をしてこそ黄姓の蓋という人の人生について語れると思っていましたが(笑)私にとって黄蓋はどちらかというと陽の当たらない人で(笑)
あんまり優先して語ってやろうと思ったことはなかったです。
(PC)
56 しす
>>5
今さら読み直していて壮絶なツッコミ所に気付いたのですが…
周瑜と程普の確執って現在に於いてもさほど有名だと思わないし、演義が書かれた時代にそんな話が浸透していたとは到底考えられないような。
(912T/SB)