1 景文

ショウエンと費示韋

孔明亡き後、ショクの舵取りを任された二人。某ゲームなどではかなりの能力ですがどれ位の実績等あったのか…そこそこ有名な割りに今一つ見えにくいのですが…特にショウエンは。どなたか御教授お願いしますm(__)m
(P900i/FOMA)
2 ストラップ
先ず蒋琬ですが、霊陵郡の人だった様です。
蜀の人材は主に、荊州出身者と、益州出身者でなりたっていたのですが、荊州は呉に奪われており、実際は益州出身者の発言が強かったのでは無いかと推測されます。彼が大将軍・録尚書事と、軍と内政の責任者になったのは、荊州組の中から地位の高い者を出し、バランスを取る為だったのかも知れませんね。
仕事をサボって泥酔していた為、劉備が処刑しようとした事もありますが、孔明は買っていた様でこれを救っています。
建興五年三月、孔明は漢中に進出しますが、丞相府の事務処理を担ったのが、蒋琬と張裔でした。その時の仕事振りから察するに、軍政家として優れていた様です。孔明も高く評価し、劉禅に自分の後継だとこの時伝えています。

68-3も参照の事。
(PC)
3 景文
ストラップさんどうも!今後この二人がクローズアップされる事があればいいですね。
(P900i/FOMA)
4 子竜
景文さん初めまして!どうぞよろしくお願いします!
このスレに便乗して、費イについて疑問に思っていることをひとつ…
253年正月、彼は魏の降伏者、郭循によって、刺殺されています。
ここで疑問。何故費イは白昼、公の場所であるにも関わらず殺されたのでしょうか?一応、私なりにいくつか考えを…
一、郭循の酒席の上での衝動的な犯行。
二、郭循一人による計画的な犯行。
三、費イを煙たがっていた対立派閥の組織的な犯行。

…以上の三つです。一については、一番分かりやすいですが、費イが刺されるまで誰もが傍観していたとは考えられません。二については、一よりはまだ考えることができますが、郭循と費イが対立していたとは考え難いです。もっとも、郭循についての記述が「魏の降伏者」としか記されていないので、何とも言えませんが。三については、一番可能性が高いし、筋が通ると思います。この件に関する記述が少なすぎるのも、この考えの裏付けになるのではないでしょうか。
長々と書きましたが、以上が私の考えです。皆さんはどうお考えになるでしょうか?また、私の情報源は、ちくま訳の正史五巻だけですので、他に何か情報があればお教えください。長文失礼しました。
(W31SA/au)
5 景文
子竜サン、どうもです。私は費イの死については魏の刺客(郭循)による暗殺と思っていました…魏からの投降者を簡単?に信じて殺された…案外お人好しというか間抜けな所があったのではと考えています。そういう意味では子竜サンの三番の意見が近いかも。味方が設定した酒宴なら疑わずほいほい出席し…しかしそんな人間を孔明は推していたんですかね?
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6 よっち
子竜さんどうもです!まだ全てのスレへの発言なかで二回目の発言の僕ですが僕なりの考えを言わせてください!
確かに子竜さんや景文さんの言うとおり、1は考えにくいと思います。
2も考えとしては郭循がそんなに費イを嫌っているとは考えにくいですね。
やはり最も考えられるのは3ではないでしょうか?とゆうより犯行にいたるまでの行動、費イ反対派と郭循との間で練られた計画が考えやすいとゆうことですかね?反対派が費イを消したいならば、郭循はうってつけの実行者なわけですし。郭循はこの反対派に脅迫、または買収され、犯行にいたったと考えました!
以上長々としてしまいましたが、これが僕なりに考えた意見です!他の皆様はどうでしょうか?
(N900iS/FOMA)
7 赤龍
私は、皆様と違って、郭循の単独犯行と考えています。
その理由などは、長くなりますので、ブログ「三国志博物館集解」の方に「費イ殺害事件」と題して書かせて頂きました。
よろしければ、そちらも御参照ください。
(PC)
8 景文
赤龍サン、どうも!早速「博物館集解」拝見しました。成程、費イの性格と郭循の人間性から導きだした説で非常に説得力のある内容ですね。自分は元々魏による暗殺説でしたが姜維に偶然捕えられたのでは厳しいデスネ。しかし、もし姜維が黒幕だったら…姜維も元は魏将。出身地も郭循と同じく西方で話してみると意気統合。実は費イにいつも兵の動員を制限されて孔明先生の遺志を成し遂げれない、奴さえいなければ…(笑)事実費イ亡き後、姜維の軍事行動を制止する人物はいなくなった…んっ?姜維を下手人にしてしまったちょっとズレましたね
(P900i/FOMA)
9 よっち
赤龍さん》『博物館集解』読ませていただきました!非常に信憑性のある推理だと思います!それに魏から賞賛されたとゆうのは初耳でしたので、そうなると独断なのかなと思い始めました!でも景文さんの『姜維が黒幕だったら』説も考えてみると話つながりますよね!いやぁ面白いですね!もっと深く調べてみたいと思いました!
(N900iS/FOMA)
10 子竜
>>7
ブログ、拝読させて頂きました。郭循の記述ってあったんですね…。ここ数日、単独計画犯行説を覆せないか、頭を捻っておりましたが、魏氏春秋の記述を考慮すると、それが一番的を射ているかなと思います。よって私もその説を擁護しようと思います。三の派閥犯行説を擁護してくださった景文さん、よっちさん、申し訳ありません。
ところで、まだ疑問が残るのですが、魏氏春秋では郭循についてそれなりに記録が残っているのに、何故蜀書では極端にこの事件の記述が少ないのでしょうか?費イは当時大将軍、録尚書事と高い役職についており、事件としては大きい部類に入るでしょうし、陳寿、裴松之もまたこの事件については深く掘り下げていません。以上のような点を踏まえて、私は派閥犯行説を特に推していました。派閥が証拠、記録を極力揉み消したと考えたからです。尚、対立していた派閥には黄皓ら内官、派閥ではありませんが軍事活動を抑制されていた姜維を挙げます。皆さんはどうお考えになるでしょうか?
長文失礼しました。
(W31SA/au)
11 よっち
どうもです!自分も対立している派閥を挙げるなら内官組と姜維組が挙げられると思います。軍事派と内政派と行ったところでしょうか?
(N900iS/FOMA)
12 赤龍
景文さん、よっちさん、子竜さん、ブログの方の私の駄文を読んでいただきありがとうございます。
私も、実は派閥犯行説なら姜維ではないか?とも考えながら書いていました。費イが死ぬことで一番得をする人物は?と考えると、やはり思う存分戦争ができるようになった姜維が浮かぶんですよね。
しかし、郭循にとって自分の故郷を侵略した、最も憎む相手であり、『魏氏春秋』にも姜維の脅迫に屈しなかったと、姜維を憎んでいたと感じられる記述があります。そして、彼の魏への忠義を考えると、最も魏への侵攻を主張する姜維と手を組むことは考えにくいだろう。
そう考えて、姜維黒幕説の可能性は低いと判断しました。
(PC)
13 よっち
赤龍さん》なるほど、確かに赤龍さんの考えは筋が通りますね!
ところでスレ違いかもしれませんが、郭循はなぜ姜維ではなく費イを殺したのでしょうか?やはりショクを任された重臣のなかで一番近付きやすかったからでしょうか?費イは北伐反対してたのですから、姜維を殺せば軍事面では魏は安泰ですし。それとも費イを殺して姜維に全力で攻め込ませて、疲弊させようと思ってたんですかね?その辺はどうでしょうか?
(N900iS/FOMA)
14 景文
個人的に「姜維」スレにカキコした様に自分は姜維好きなんですが…今一度、姜維+郭循の可能性を…郭循は品性等申し分なく魏の忠臣とか…ならば残された家族や名誉の為に迷わず死を選ぶのでは?関羽、ホウ徳、張任達の様に…そこで・・捕えられた郭循に近郷の姜維が話し掛けその忠義に感服する。しかし貴殿の死は唯の犬死だ。不忠は免れるが無能な将と烙印される…所詮家族の待遇もそれなりだ。同じ死なら一つ博打を打たないか?…結果姜維は大将軍、郭循は魏で名声を得た…利害は一致シテイマスヨネ?そして味をしめた姜維は後に鍾会も…(笑)
(P900i/FOMA)
15 景文
連書き失礼m(__)m
そしてよっちサンの何故費イなのか?当然、姜維から費イは投降者に寛大で近付き易く成功率は高い…さらに自分は姜将軍は気に入らないが費将軍なら話しても良いと言っている旨、費イの耳に入る様しむける位の事してくれるでしょうし…
まぁでも単独説でもやっぱり費イでしょうね。姜維とは仲悪いので警戒されるし、一司令官やるより大物の方が箔が付くし、まして警戒薄いなら
(P900i/FOMA)
16 子竜
ふと思ったのですが、姜維が黒幕って安直過ぎる気がしませんか。自分で姜維を黒幕に挙げておいてこんなこと言うのは何ですが。そこで、私は姜維とは別の路線で考えてみたいと思います。あくまでこれは推論にすぎないのであしからず…

>>10で、私は姜維とは別に黄皓を黒幕の候補に挙げました。何故なら、この時黄皓は佞臣の陳祇と共に政治の実権を握りつつあったからです。更に「四相」と呼ばれた諸葛亮、蒋エン、費イ、董允の内、費イ以外は鬼籍に入っております。そうなれば黄皓にとって目の上のコブとなるのは費イ、姜維の両者のみとなります。何故ならこの二人は蜀国内において非常に影響力のある二人だからです。そこで、黄皓は両者を政治の中枢から排除しようと画算する。それが「費イ殺害計画」です。すなわち、邪魔者である費イを殺害し、それを軍事面で対立していた姜維に被せようとする計画です。これが成功すれば費イは死に、姜維は罪人に身を落とします。また、姜維を罪人に落とせなくても、積極的に北伐を行いたがっていた姜維のことですから、率先して政治の中枢から遠ざかっていきます。郭循には「これが成功すれば姜維の一族に罪人の汚名を着せることができ、あわよくば処刑もできる」と説明すれば乗ってくれるのではないでしょうか。
…以上が私の推論ですが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?
長文失礼しました。
(W31SA/au)
17 朱家
姜維は権力掌握できてませんし、劉禅が戦争を許可する保証もないし、暗殺する前に、権力掌握に動いてないと…それができる人物なら、もう少し器用に生きた気がします。費イが死んで一年後に軍事を任され、三年後に大将軍になってます。この時すでに陳祗の権力が大きくなってます。
孔明なら別ですが、暗殺候補者としての費イは、劉禅に劣ると思います。劉禅暗殺なら郭循も乗るかもしれませんが、それこそ姜維の動機がなくなります。
黒幕が姜維なら、郭循は費イを殺して、計画の証拠を出して、姜維も排除しようとするでしょう。費イを殺しても代わりが出るだけで、その筆頭である姜維と手を組む事は考えにくいと思います。
陳祗を強引に出世させてくれたのは費イですし、黄皓も陳祗のおかげで表舞台に出てこれましたし、自分の才を評価してくれる人物を殺す理由がないです。この時点で具体的に動くとは思えないですね。
(EZ)
18 赤龍
>>14
私が気になるのは「忠義の人=迷わず死を選ぶ」べきだというよくありがちな発想。これは于禁の件の時にも触れました。
たしかに、そういう潔さはかっこよく見えますけど、忠義の現し方というのはそれだけではないと思います。
あえて虜囚の辱めを受けながらも、生き延びて敵国の重臣を殺し、一矢を報いる。これもまた郭循なりの魏への忠義ととれませんか?そして、その功によって、魏の皇帝からも賞賛され、我が身を犠牲にし一族の繁栄もつかんだ。これが、捕虜となった時点でさっさと死んでれば、潔くかっこいいが、魏にとってなんら益もなく、そのまま歴史にうずもれた犬死になってしまってます。
話がそれてしまいますが、卑怯といわれても生き延びて、主君のために働く場を見つける。これも忠義というもの。こういう形の忠義があんまり認識されてないような気がします。
(PC)
19 よっち
忠義か孝行か、はたまた己の使命のためなのかは分かりませんが、司馬遷もそのような感じですかね?世の物笑いになってでも、父の偉業を継ぐために宦官の道を選び史記を完成させた!すみませんm(__)mスレ違いどころか時代すら違いますね(;^_^A
(N900iS/FOMA)
20 よっち
連書きすみませんm(__)m
>>16
とても良い見方だと思いました(^O^)私、黄晧がそこまで爵位が高いとは存じてませんでした(;^_^A私もこの間よりずっと考えていたんですが、独断の犯行なのかなと思い始めました。自分自身、赤龍さんのブログを見て、それ以上の推察が思い浮かびませんでした。郭循の忠義、頭に浮かぶようですな(^-^)やはり三国志は奥が深い♪
(N900iS/FOMA)
21 皇澪桜
前回は呉将でしたので今回は蜀漢を盛り上げようキャンペーンで(^O^)/
先程、満田剛氏著「三国志 正史と小説の狭間」を読んでいて蒋エンによる北伐(上庸から荊州に到り呉と共同戦線を張って荊州を落とし、涼州方面には姜維を派遣)が計画されてた事を知り大変興味を持ちました。
結局は蒋エンが病気の為断念してますが…
戦略としては面白いと思います。…が、私は軍事に関する学が無いのでよく分かりません。
皆様は荊州あるいは涼州を落とせたと思います?
(W52CA/au)
22 皇澪桜
同書には諸葛亮は涼州方面のシルクロードによる国力の増強を図っての北伐であったと推察されております。
北伐は防衛的要素が強いと押されてる方も多いと思いますが、こちらの方がより諸葛亮らしいと私は感じました。
しかし姜維がこれらを考慮してたかは微妙ですね…
蒋エンの強襲策は三分計+北伐には欠かせない荊州狙い。これらを奪取できたとすれば三国志も大きく変わってたのではないでしょうか?
呉との取り合いになるかな…戦略としては面白いですが実行はかなり困難そうです…。
(W52CA/au)
23 朱家
亀レスですが。
著書の前提に多少の疑問はありますが…

劉禅の勅命は、公孫淵乱時「……呉の行動を待って呼応し、敵の隙に乗じよ」で、断定できないけど、まあ、蒋エンの考えでしょう(笑)
後の上表で「呉と連携すれば、すぐに目的を成せずとも、ジワジワと侵略する事ができるはずだが、呉は度々、約束を違えた」とありますが、蒋エンも、姜維に指揮させた小規模な攻撃はともかく、侵攻した記述がなく、呉との連携を前提としてる感じがします。

『漢晋春秋』で呉将、殷礼が「大規模な展開(蜀も含め)をしないと、ジリ貧です」と言っていて、最もな意見だけど、孫権は、その考えを理解してても、その方向性ではないだろうし、所詮、敵の敵は味方なだけで、蜀も敵ですからね。

蜀に外交の天才がいなかったのでしょうが、蒋エンがすべき事は、蜀は頼りになる国である事を、呉に見せ付ける必要があったと思います。
(PC)
24 皇澪桜
>>>23
なるほど…。まぁ呉は呉の戦略があって動いている訳でしょうし、なかなか蜀漢の思う通りにはいかなかったでしょうね。
蜀漢と魏の国力差を思えば、大規模侵攻を度々するのは難しいでしょうし慎重になるのが当然でしょう。
劉備や孔明といった大物が少なくなった蜀漢(ま、人材不足ですね)では得意分野でなくともやらなければならない職務もあったでしょうし、しかも皆が最高の成績を出したとして、やっと対等に戦争出来るかどうか…
荊州を取れたとしても維持はかなり難しいかな…
長文失礼しましたm(__)m
(W52CA/au)
25 皇澪桜
すみません…
>>>23 でなく
>>23 ですm(__)m
(W52CA/au)
26 朱家
再び亀ですが…
孔明が死ぬと、呉は、蜀の援護を建前として、巴丘の軍備を強化し、そこで、蜀も永安の軍備強化する、そんな関係(笑)

襄陽の事であれば、孫権が皇帝になった時、魏の領土を分割していて、荊州の記述はないものの、さすがに襄陽は、呉の取り分だと思います。
私見ですが、史料を見る限り、上庸あたりは意外と(?)人口が多く、上表文も考えると、こちらが主かなと思ってますね。
(PC)
27 雲畜斎
更に言うなら、呉は蜀が滅亡した際、蜀領土であった永安を攻撃してますしね。

上庸近辺については単純に考えても、孟達が魏に降った後に、房陵、西城、上庸の三郡を併合して新城という新しい郡を設立したくらいですから、この方面の軍・政共に重要都市だったのでは?三郡を併せたくらいですから、人口も相応に多かったのでわ?
(N906imyu/FOMA)
28 朱家
249年の戦いでは、さすがに、費イは本気で出陣してるはずですよね。
姜維が涼雍の軍事責任者である郭淮と、中央から総指揮官として司馬昭が費イとで、具体的な記述はなく、牽制的かもしれないけど、クーデター直後の司馬氏はそんな余裕がないと思うけが。
それまでは、費イも北伐の意欲はあって(蒋エン程度?)、この時の対応の早さ、防衛体制などから、殻に入ったのかなと…力の差を感じたか?

要は「姜維に一万の兵しか…」は、これ以降の事ではないかと。
(PC)