2 瑞兆
二人の記述は周瑜伝に何業かあるだけで、それ以外は演義とコーエーの創作です。
扇子を持って戦ってるわけでもないし、クルクル回って空を飛んでた可能性は低いです。
てか、単発の質問なら、ココの上にある質問板の方が望ましいと思いますよ。
扇子を持って戦ってるわけでもないし、クルクル回って空を飛んでた可能性は低いです。
てか、単発の質問なら、ココの上にある質問板の方が望ましいと思いますよ。
(N900i/FOMA)
7 天草
じょ〜さんのコメントage
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50189360.html#comments
週明けまで帰れないので、手元に資料がありませんが、周循からの推測、お見事です♪
他にも意見求む!
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50189360.html#comments
週明けまで帰れないので、手元に資料がありませんが、周循からの推測、お見事です♪
他にも意見求む!
(PC)
9 削除済
10 削除済
13 周
まず周ユに他に妻がいたと言う話は聞いた事も読んだ事もありません。というより側室を迎える身分でもありません。
周ユと小喬が町を歩いていると美男美女 で周りも羨んだと何かの本に書いてありました。今はもう手元にありませんが、しっかりした本でしたよ。
周ユと小喬が町を歩いていると美男美女 で周りも羨んだと何かの本に書いてありました。今はもう手元にありませんが、しっかりした本でしたよ。
(SH001/au)
14 しす
>>13
他に妻女の記録がない=側室がいないというのは根拠薄弱じゃないですか?
側室を持つ身分でないという根拠も解りません。
あくまでも可能性であって、断言するには弱いんじゃないでしょうか。
それと「何かの本で読んだ」「ちゃんとした本だった」はソースにはならないですよ。
何に書かれているのかすら解らないのですから、有名ではないですし、それも可能性の一つですよね。
他に妻女の記録がない=側室がいないというのは根拠薄弱じゃないですか?
側室を持つ身分でないという根拠も解りません。
あくまでも可能性であって、断言するには弱いんじゃないでしょうか。
それと「何かの本で読んだ」「ちゃんとした本だった」はソースにはならないですよ。
何に書かれているのかすら解らないのですから、有名ではないですし、それも可能性の一つですよね。
(912T/SB)
15 諏訪
大橋・小橋に関する記述は、「周瑜伝」の
〈頃之,策欲取荊州,以瑜爲中護軍,領江夏太守,從攻皖,拔之.時得橋公兩女,皆國色也.策自納大橋,瑜納小橋.〉
及び注の『江表伝』の
〈策從容戲瑜曰:「橋公二女雖流離,得吾二人作壻,亦足爲歡.」〉
これだけだと思います。
ほかにあるとすれば、それは後世創作された民間説話の類ではないでしょうか。
〈頃之,策欲取荊州,以瑜爲中護軍,領江夏太守,從攻皖,拔之.時得橋公兩女,皆國色也.策自納大橋,瑜納小橋.〉
及び注の『江表伝』の
〈策從容戲瑜曰:「橋公二女雖流離,得吾二人作壻,亦足爲歡.」〉
これだけだと思います。
ほかにあるとすれば、それは後世創作された民間説話の類ではないでしょうか。
(W51S/au)
18 しす
そういえば演義では姉妹の父は喬国老と呼ばれて重鎮扱いされているので、物語上は姉妹は正室扱いって事なのでしょうか。
しかしこの「演義」の喬玄なる人物も名前のせいで混乱させる人物ですよね。
姉妹共々「橋」姓から「喬」姓に変えられたのがまず意味不明。
正史では諱が不明であるとは言え、「玄」にしたのも橋玄と混同してしまいそうで意図がよく解りません。
かと言って橋玄と曹操の絡みが演義では描かれていないので、橋玄と橋公を物語上同一人物として描く理由もない気がしますし。
しかしこの「演義」の喬玄なる人物も名前のせいで混乱させる人物ですよね。
姉妹共々「橋」姓から「喬」姓に変えられたのがまず意味不明。
正史では諱が不明であるとは言え、「玄」にしたのも橋玄と混同してしまいそうで意図がよく解りません。
かと言って橋玄と曹操の絡みが演義では描かれていないので、橋玄と橋公を物語上同一人物として描く理由もない気がしますし。
(912T/SB)
19 諏訪
>>18
『三国志集解』によると、「橋玄」を「喬玄」とする史料があるそうです。
袁術配下の将の橋ズイも、「武帝紀」や「袁術伝」では「橋ズイ」となっていますが、「孫策伝」では「喬ズイ」となっているように、「橋」と「喬」はしばしば通用されています。
晩唐の詩人杜牧の『赤壁』でも「銅雀春深鎖二喬」となっており、杜牧の時代(9世紀前半)には、既に「喬」姓として認識されているようです。
また二人の父の橋公を橋玄とする説も、はっきりとはわかりませんがかなり以前からあるようで、演義が成立する頃には、橋公=橋玄という認識が一般的になっていたと思われます。
『三国志集解』によると、「橋玄」を「喬玄」とする史料があるそうです。
袁術配下の将の橋ズイも、「武帝紀」や「袁術伝」では「橋ズイ」となっていますが、「孫策伝」では「喬ズイ」となっているように、「橋」と「喬」はしばしば通用されています。
晩唐の詩人杜牧の『赤壁』でも「銅雀春深鎖二喬」となっており、杜牧の時代(9世紀前半)には、既に「喬」姓として認識されているようです。
また二人の父の橋公を橋玄とする説も、はっきりとはわかりませんがかなり以前からあるようで、演義が成立する頃には、橋公=橋玄という認識が一般的になっていたと思われます。
(W51S/au)
20 諏訪
ちなみに、杜牧の『赤壁』を全文引用すると、
折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郎便
銅雀春深鎖二喬
東風が勝因となったこと、曹操の目的が二喬を得ることであったことなど、既に演義の原形が存在していることが窺えます。
折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不與周郎便
銅雀春深鎖二喬
東風が勝因となったこと、曹操の目的が二喬を得ることであったことなど、既に演義の原形が存在していることが窺えます。
(W51S/au)
22
ふと疑問に思った事だが、二喬は美人で有名だったそうだけど、当時の女子の結婚適齢期は15ぐらいなので二喬の結婚時に姉の大喬の年齢が15だとして
果たして豪族の娘とは言え10そこそこの子供が美人で有名になるって有り得るのかな
もしかしたら15より上、下手したら未亡人ってのもあるかも
果たして豪族の娘とは言え10そこそこの子供が美人で有名になるって有り得るのかな
もしかしたら15より上、下手したら未亡人ってのもあるかも
(iPhone6 iOS10.3.2/bbtec)