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諸葛誕の乱

文欽、母丘倹から始まって、諸葛誕で終わるまでの一連の反乱。
当時の三国の情勢と照らしながら語りましょう!!
(PC)
2 すし
魏諷の乱もありますよね!
(SH901iC/FOMA)
3 ぺろ
>>2魏諷の乱は過去ログにありますよ!あと219年頃のことみたいなのであまり関係ないかと・・・
(PC)
4 ぺろ
レスがつかないのでここで一つ、この一連の反乱は呉、ショク共に最大のチャンスだったはず...が呉は諸葛格が軍を率いて北上してますがショクはどうだったのでしょうか?
(W21H/au)
5 朱家
ちなみに「淮南の三叛」の始まりは王凌です。この年は孫権が死ぬ直前で動けませんし、蜀は姜維が少ない兵で、ちょこちょこしてますけど(笑)
文欽、毋丘倹の時は、すでに諸葛恪は死んでるので動いてませんし、孫峻の専横で魏を倒すなんて大志はないと思いますよ。蜀は姜維が侵攻してます。
諸葛誕の時は、呉は侵攻ではなく、救援です。姜維も呼応する形で侵攻してますが、この時はトウ艾がすでにいますから苦しいですね。
諸葛誕は頑張りましたけど、呉が撃退されるというふがいなさ(笑)ほかの二つはあっさり鎮圧されてますからね。
この中で王凌の動機が違うんですよね。他は司馬氏に対する反乱ですけど、王凌は皇帝を代えようとしてますから。これも同じような感じかもしれませんが、質が大きく違うように思います。
(EZ)
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王凌が最初でしたか、確か司馬イの晩年くらいに反乱を起こしてますよね?皇帝をかえるとありましたが曹爽の専横の後なので既に司馬氏による台頭を防ごうとした忠臣ととってもよいのでしょうか?あと文欽、母丘倹の反乱の際の時は生きてましたっけ?
(W21H/au)
7 ぺろ
文欽、母丘倹の際生きてましたっけ?→諸葛格のことですm(_ _)m
(W21H/au)
8 朱家
毋丘倹の時に、孫峻が侵攻してました。失礼しました。記憶はあてにならん(笑)反省します。
諸葛恪は、孫権が死んで僅か一年半で殺されてます。この間に、権力握って、魏を撃退し、魏に侵攻してる。なんと忙しい事か(笑)ちなみに、毋丘倹の乱が255年で、恪の死は253年です。
王凌は、若くて帝を担えないから代えようとしてます。曹爽、司馬懿の影響もあるでしょうが、これは筋が通らないでしょう。注釈で、子の王広は正論で反対してる(裴松之は作者の創作だろうと言ってるが)
忠義の反乱と言えば、聞えが良いでしょうが、司馬氏は良い政治を行ってますから、取って代わる野心が無ければ反乱出来ないと思いますね。諸葛誕は違いますけど…子飼いではないですが、この人は曹爽派の人間ですからね。
(EZ)
9 ぺろ
>>8王凌は帝をすげ替えようとしてたのですか、しかし時期、賛同者(もしかして一人)を見てもかなり中途半端な感じがしますが何か彼を駆り立てるような出来事があったのでしょうか?それとも曹爽派?
(W21H/au)
10 ストラップ
先程辞典で曹休の項目
http://ip.tosp.co.jp/Jisyo/TosiJ100.asp?I=359gi&P=0&SPA=2&SSL=&K=&Nid=5964387&C=150&Ud=6282245&MD=
を見ていてなるほどなぁと改めて思ったので。
(PC)
11 ストラップ
呉の人気上昇を狙って、先程>>>73-15に誕の息子を紹介してきました☆
(PC)