4 岳飛
お初です。岳飛ともうします。名脇役かは分かりませんが、私は張既を推します。
確か官渡の戦い辺りから従軍しており目立つ活躍こそないものの失敗は全くなく、馬超の反乱を退けた後も火種くすぶる擁州(涼州だったかも)で軍政をしき、反乱を力を使わずに押さえこんだ柔軟な対応は評価されても良いと思います。
確か官渡の戦い辺りから従軍しており目立つ活躍こそないものの失敗は全くなく、馬超の反乱を退けた後も火種くすぶる擁州(涼州だったかも)で軍政をしき、反乱を力を使わずに押さえこんだ柔軟な対応は評価されても良いと思います。
(W31T/au)
5 しす
一応今までのまとめ
●魏
閻行
閻忠
王朗
賈逵
カク昭
牽昭
鐘ヨウ >>>156
任峻
棗祗 >>>178
曹真
孫礼
仲長統
張既
田豫
杜襲
文鶯
毛カイ
楊阜
劉馥
李通 >>>375
●呉
于詮
顧雍
張悌
潘濬
●蜀
霍峻
霍弋
諸葛瞻
張裔
張嶷
張遵
張翼
陳到 >>>343
馮習
羅憲
李厳
●その他
何ギョウ
麹義
皇甫嵩
張機
禰衡 >>>19 >>>238
傅燮
演義での活躍武将、および充分評価されてんじゃないかなって人は独断で端折りました。
間違っていたら訂正よろしく。
●魏
閻行
閻忠
王朗
賈逵
カク昭
牽昭
鐘ヨウ >>>156
任峻
棗祗 >>>178
曹真
孫礼
仲長統
張既
田豫
杜襲
文鶯
毛カイ
楊阜
劉馥
李通 >>>375
●呉
于詮
顧雍
張悌
潘濬
●蜀
霍峻
霍弋
諸葛瞻
張裔
張嶷
張遵
張翼
陳到 >>>343
馮習
羅憲
李厳
●その他
何ギョウ
麹義
皇甫嵩
張機
禰衡 >>>19 >>>238
傅燮
演義での活躍武将、および充分評価されてんじゃないかなって人は独断で端折りました。
間違っていたら訂正よろしく。
(PC)
8 ストラップ
>>6-7
士燮自身の属性でしょうが、交州には劉煕、許慈、許靖、荀イクのお友達の袁徽といった学者が集まっていますね。程秉と同じ「呉書第八」に収められた薛綜も交州に避難していますね。
許慈と薛綜は劉煕の弟子で、鄭玄の学問を学んだ様ですが、劉煕という人は鄭玄に直接教えを受けた事はあるのですかね?
士燮自身の属性でしょうが、交州には劉煕、許慈、許靖、荀イクのお友達の袁徽といった学者が集まっていますね。程秉と同じ「呉書第八」に収められた薛綜も交州に避難していますね。
許慈と薛綜は劉煕の弟子で、鄭玄の学問を学んだ様ですが、劉煕という人は鄭玄に直接教えを受けた事はあるのですかね?
(PC)
9 赤龍
劉煕の師は不明で、鄭玄との直接の関係もわかりませんが、劉煕の出身は北海郡であり、鄭玄と同郷。許慈が劉煕から学んだのも鄭玄の学問であり、鄭玄となんらかの関係があった可能性は極めて高いと思います。
この劉煕、弟子が数百人もいたといい、交州の学術文化の中心的人物の一人であったと思われます。
彼らを保護した士燮自身も、また一流の経学者ですね。
この劉煕、弟子が数百人もいたといい、交州の学術文化の中心的人物の一人であったと思われます。
彼らを保護した士燮自身も、また一流の経学者ですね。
(PC)
11 五
お初にお目にかかります。五、と申します。
私は蜀の車騎将軍、呉懿を押したいと思います。 諸葛亮亡き後、王平と共に漢中を守り、戦功多く、博愛の情を持つ人物であるにもかかわらず(皇帝の外戚でもある)情報が少ないため個別の伝が立てられなかった、というのが、なんとも私の趣味をくすぐります。
私は蜀の車騎将軍、呉懿を押したいと思います。 諸葛亮亡き後、王平と共に漢中を守り、戦功多く、博愛の情を持つ人物であるにもかかわらず(皇帝の外戚でもある)情報が少ないため個別の伝が立てられなかった、というのが、なんとも私の趣味をくすぐります。
(P902i/FOMA)
13 阿吐
初めまして☆
俺は向寵を推挙します☆
出師の表に書かれているように公明な人物だと思うので(^-^)
しかし他の記述がまったくと言っていいほど見つかりませんm(__)m
例えば戦や軍事での功績など。
どんな細かいことでも良いので御存じの方は教えて頂けないでしょうか?
できればソースも知りたいです♪
いきなりで申し訳ないですがヨロシクお願いします☆
俺は向寵を推挙します☆
出師の表に書かれているように公明な人物だと思うので(^-^)
しかし他の記述がまったくと言っていいほど見つかりませんm(__)m
例えば戦や軍事での功績など。
どんな細かいことでも良いので御存じの方は教えて頂けないでしょうか?
できればソースも知りたいです♪
いきなりで申し訳ないですがヨロシクお願いします☆
(N902i/FOMA)
14 しす
最近気になるのが劉虞の従事だったという鮮于輔という人物。
知名度は低いものの、公孫サン伝他、結構端々に名前の出てくる人です。
派手な活躍こそありませんが、それなりに有能な人物だったと思えるのですが。
ところで鮮于って姓は変わってますけど(と言っても三国志の中に何人か名前は見えますが)いったい何処の人なんでしょうか?
韓国には鮮于という姓があるけど関係あるのですかね?
知名度は低いものの、公孫サン伝他、結構端々に名前の出てくる人です。
派手な活躍こそありませんが、それなりに有能な人物だったと思えるのですが。
ところで鮮于って姓は変わってますけど(と言っても三国志の中に何人か名前は見えますが)いったい何処の人なんでしょうか?
韓国には鮮于という姓があるけど関係あるのですかね?
(PC)
15 巫俊(ふしゅん)
>>14
ええ、関係あるみたいです。
鮮于氏は後漢時代の文献だったか墓誌だったかに由ると、殷の紂王の叔父の箕子を祖先と称する一族です。
鮮于とは、戦国時代に中山国を建国した北方系の民族の鮮虞のことであるとする説もあります。
どちらにしろ北方ないし東方の民族に関係のある一族でしょうね。
ええ、関係あるみたいです。
鮮于氏は後漢時代の文献だったか墓誌だったかに由ると、殷の紂王の叔父の箕子を祖先と称する一族です。
鮮于とは、戦国時代に中山国を建国した北方系の民族の鮮虞のことであるとする説もあります。
どちらにしろ北方ないし東方の民族に関係のある一族でしょうね。
(PC)
16 しす
>>15
ありがとうございます。
何となく気になってモヤっとしていたのが、スッキリしましたw
箕子という人物は残念ながら『封神演義』作中の創作の中でしか知りませんが(汗)
ただ私が調べた中で三国志絡みの鮮于氏が…
劉虞に仕えた鮮于銀。
劉虞、曹操に仕えた鮮于輔。
魏に仕え帯方郡に派遣された鮮于嗣。
孫権に仕えた鮮于丹。
と四人中三人が北方、及び東方関係者だったので自力で調べようとしましたが無理でした(苦笑)
ホント、感謝感謝です。
ありがとうございます。
何となく気になってモヤっとしていたのが、スッキリしましたw
箕子という人物は残念ながら『封神演義』作中の創作の中でしか知りませんが(汗)
ただ私が調べた中で三国志絡みの鮮于氏が…
劉虞に仕えた鮮于銀。
劉虞、曹操に仕えた鮮于輔。
魏に仕え帯方郡に派遣された鮮于嗣。
孫権に仕えた鮮于丹。
と四人中三人が北方、及び東方関係者だったので自力で調べようとしましたが無理でした(苦笑)
ホント、感謝感謝です。
(PC)
17 赤龍
鮮于氏について、>>15にちょっと補足を。
『三国志集解』で鮮于輔を調べていたところ、『姓譜』という書に鮮于氏の由来について
「鮮于は子姓である。周の武王が箕子を朝鮮に封じ、支子の仲という者が于に食采を与えられた。そのため鮮于を氏としたのである」
とあると紹介されています。朝鮮の于という土地の領主様になったから「鮮于」なのだと。
『三国志集解』で鮮于輔を調べていたところ、『姓譜』という書に鮮于氏の由来について
「鮮于は子姓である。周の武王が箕子を朝鮮に封じ、支子の仲という者が于に食采を与えられた。そのため鮮于を氏としたのである」
とあると紹介されています。朝鮮の于という土地の領主様になったから「鮮于」なのだと。
(PC)
18 しす
>>17
更に細かい部分までありがとうございます。
朝鮮でも2字姓というのは珍しいと思ってましたが、朝鮮古来の姓ではないんですね。
巫俊さん共々ありがとうございます。
しかし>>>152-67で挙げた牽招(前回漢字間違えてましたね…)や田豫なんかもそうですが呉蜀と絡みのない人達は功績とは裏腹に知名度が低いのが残念ですね。
田豫は劉備との絡みがないわけじゃないですけどね。
更に細かい部分までありがとうございます。
朝鮮でも2字姓というのは珍しいと思ってましたが、朝鮮古来の姓ではないんですね。
巫俊さん共々ありがとうございます。
しかし>>>152-67で挙げた牽招(前回漢字間違えてましたね…)や田豫なんかもそうですが呉蜀と絡みのない人達は功績とは裏腹に知名度が低いのが残念ですね。
田豫は劉備との絡みがないわけじゃないですけどね。
(PC)
19 ストラップ
(F2102V/FOMA)
20 赤龍
(PC)
22 ストラップ
>>19
崔烈について、>>>448-20に少し書いておきました。
正史では、孝霊帝紀第八に
「(185年)三月、廷尉崔烈を司徒と為す」
「(187年)夏四月(中略)太尉張温免じ、司徒崔烈を太尉と為す」
「(187年)十一月、太尉崔烈罷め、大司農曹崇を太尉と為す」
とある人物ですね。
つまり曹操の父親の前任者です。
崔烈について、>>>448-20に少し書いておきました。
正史では、孝霊帝紀第八に
「(185年)三月、廷尉崔烈を司徒と為す」
「(187年)夏四月(中略)太尉張温免じ、司徒崔烈を太尉と為す」
「(187年)十一月、太尉崔烈罷め、大司農曹崇を太尉と為す」
とある人物ですね。
つまり曹操の父親の前任者です。
(F2102V/FOMA)
23 しす
惜しいというか、もうちょっと注目されてもいいのではないかと思う人物…
>>>28-50-54で触れられている衛茲はなんかどうでしょうか。
演義はおろか他の創作にも登場せず、正史でも曹操挙兵直後に戦死しているので知名度はものすごく低い。
でも曹操挙兵で彼が為した役割は大きく、またその死後も曹操自身はその恩義を忘れなかったこと云々…
個人的には「なぜ誰も注目しないんだ」と不思議でならない人物です。
>>>28-50-54で触れられている衛茲はなんかどうでしょうか。
演義はおろか他の創作にも登場せず、正史でも曹操挙兵直後に戦死しているので知名度はものすごく低い。
でも曹操挙兵で彼が為した役割は大きく、またその死後も曹操自身はその恩義を忘れなかったこと云々…
個人的には「なぜ誰も注目しないんだ」と不思議でならない人物です。
(PC)
25 削除済
26 しす
>>>154-29-33
で董昭の話題が出ていましたのでこちらで引継ぎましょう。
董昭がマイナーであるかどうかに関しては>>>154-33で挙げられた名前よりは確かにマイナーですね。
ただ董昭伝と並んで立伝されている人達…程c、郭嘉、董昭、劉曄、蔣済、劉放と比べてみると蔣済、劉放よりは知名度上ですよね。
程c、郭嘉には圧倒的に負け、劉曄と比べるとやや落ちるという程度でしょうか。
やはり演義の影響力というのが知名度には大きく関わっていると思います。
やはり「ごますり男」と言われた人物を郭嘉と同列に扱うのは抵抗があったのでしょうか。
で董昭の話題が出ていましたのでこちらで引継ぎましょう。
董昭がマイナーであるかどうかに関しては>>>154-33で挙げられた名前よりは確かにマイナーですね。
ただ董昭伝と並んで立伝されている人達…程c、郭嘉、董昭、劉曄、蔣済、劉放と比べてみると蔣済、劉放よりは知名度上ですよね。
程c、郭嘉には圧倒的に負け、劉曄と比べるとやや落ちるという程度でしょうか。
やはり演義の影響力というのが知名度には大きく関わっていると思います。
やはり「ごますり男」と言われた人物を郭嘉と同列に扱うのは抵抗があったのでしょうか。
(PC)
27 諏訪
>>26
やはり、曹操の魏公就任の際に積極的に活動したことが、後世の評判を悪くしたのでしょうが、かといって演義においてさほどひどい扱いを受けるわけでもなく、扱いが中途半端なところがマイナーな感じがします。
やはり、曹操の魏公就任の際に積極的に活動したことが、後世の評判を悪くしたのでしょうが、かといって演義においてさほどひどい扱いを受けるわけでもなく、扱いが中途半端なところがマイナーな感じがします。
(W51S/au)
28 バンビ
何処に書こうか迷いスレ立てするのもという事でここに書きます。
顧ヨウが軍を率いて又は従軍して大きな戦に出陣した事はあるのでしょうか?
何処かの太守の時に賊か何かをすぐさま鎮圧したみたいな事は書いてあった様な気がするのですが顧ヨウが参戦した戦を教えてもらいたいです。
顧ヨウが軍を率いて又は従軍して大きな戦に出陣した事はあるのでしょうか?
何処かの太守の時に賊か何かをすぐさま鎮圧したみたいな事は書いてあった様な気がするのですが顧ヨウが参戦した戦を教えてもらいたいです。
(W54T/au)
29 元歎
>>28
顧雍ということで返信(笑)
顧雍の戦に関することですが、大きな戦に関する記述は『三国志』にはありません。
>何処かの太守の時に
会稽郡の丞の時ですね。顧雍は寇賊を掃討しています。顧雍伝より。
孫權領會稽太守,不之郡,以雍為丞,行太守事.討除寇賊,郡界寧靜,吏民歸服.
(ちくま訳)孫権は会稽太守の職務に当たることになると、みずからは会稽郡には赴かず、顧雍を軍の丞に任じて、太守の仕事を代行させた。(顧雍は会稽郡にあって)武装して反抗する勢力を掃討して、郡内は平穏となり、役人も民衆も彼に心服した。
西暦200年のことです。この寇賊というのは山越のことでしょうね。(漢民族も含まれていたかもしれません。)
この討伐の数年後、顧雍は討虜将軍(孫権)の左司馬になっています。ただ、この職にあって何をしたのか記述が全くなく、顧雍の様子はよくわかりません。
顧雍ということで返信(笑)
顧雍の戦に関することですが、大きな戦に関する記述は『三国志』にはありません。
>何処かの太守の時に
会稽郡の丞の時ですね。顧雍は寇賊を掃討しています。顧雍伝より。
孫權領會稽太守,不之郡,以雍為丞,行太守事.討除寇賊,郡界寧靜,吏民歸服.
(ちくま訳)孫権は会稽太守の職務に当たることになると、みずからは会稽郡には赴かず、顧雍を軍の丞に任じて、太守の仕事を代行させた。(顧雍は会稽郡にあって)武装して反抗する勢力を掃討して、郡内は平穏となり、役人も民衆も彼に心服した。
西暦200年のことです。この寇賊というのは山越のことでしょうね。(漢民族も含まれていたかもしれません。)
この討伐の数年後、顧雍は討虜将軍(孫権)の左司馬になっています。ただ、この職にあって何をしたのか記述が全くなく、顧雍の様子はよくわかりません。
(PC)
30 バンビ
元歎殿待ってました☆
返信ありがとうございます!
やっぱないですよね。でも、左司馬に就いたって事は多少軍事に関与するって事ですよね?
でも、記述がないとは。
他に将軍か何かの左司馬又は司馬になって在職時に活躍して勲功あげた人っていますか?
返信ありがとうございます!
やっぱないですよね。でも、左司馬に就いたって事は多少軍事に関与するって事ですよね?
でも、記述がないとは。
他に将軍か何かの左司馬又は司馬になって在職時に活躍して勲功あげた人っていますか?
(W54T/au)