1 しす

魏延 文長 第2幕

>>>32の続きです。
引き続き叛将?忠臣?
魏延について語りませう。
(PC)
2
第2章になっちゃいましたねぇΣ(・□〇)あと、関係無いんですが他のスレと>>1←このようにつなげるためにはどうすればよいのでしょうか???
魏延好きには忠臣だと見えるのですんよねぇ(≧д≦)陳寿の評は悪くないんですよね?
(EZ)
3 ぺろ
>>2陳寿評はギ延の反乱は楊儀を取り除こうとしての反乱なのでショクに向けての反乱ではなかった=演義で言う反骨の相ではなかったということです。ちなみにぺろ評は諸葛亮死後なのでいやでも楊儀の命令に従って五丈原から撤退してれば反逆者としての烙印を押されることはなかったのでは...ということです。
(W21H/au)
4
やはり嫌いな人にはつきたくなかったのでしょうね↓そこら辺、よほど魏延はプライドが高かったのでしょう。そう見てしまうとプライドだけで動いてしまった…、いやAきっとそうじゃない!"笑
(EZ)
5 赤龍
魏延に対する陳寿評自体は、勇猛ではあるものの、同じ巻に伝を立てられた人達をまとめて「災いを招き罪を得たのは、すべて身から出たさび」というように、あまり好意的なものではありません。
魏延の最期についても、あくまで国に対する反逆ではなかった事を説明しただけで、その行為にあまりよい印象をもっていなかったように感じます。
私的にも、逆臣ではないが、かといって忠臣というほどの人ではないと思っています。
(PC)
6 ピエール
僕は魏延好きなんで忠臣だったと信じたいですね。
将エンや費イ、董允まで楊義の肩をもってしまっているので本人は相当辛かったんじゃないすか?
(W21SA/au)
7 ストラップ
>>5を補う意味で、同じ「三国志巻四十 蜀書十 劉彭廖李劉魏楊伝第十」に収められた人を挙げておきます。

劉封
彭ヨウ(この人の列伝の半分は、弁明文)
廖立
李厳(>>>359
劉琰
魏延
楊儀
(PC)
8
孔明が初めて魏延を見た時どう評したのでしょう?やはり演義みたいなこと言われてしまったのでしょうか???
(EZ)
9
いやぁ皆さん忙しいのでしょうなぁ↓ですか、一人で発言してますよぉヽ(>□<#)
またふと思ったのですが、魏延は漢中を一度預るほど信任されていたのですよね?それは、益州侵攻戦、漢中の戦いによって戦功を挙げていたはずですよね。けど、関羽・張飛・張雲・馬超・黄忠…、次いで魏延だと思うのですが、魏延が黄忠の代わりに入ってもいいような…。黄忠もまた益州・漢中などで戦功を挙げていますが、漢中を任されるほどに信任されるなら黄忠の代わりになってもいいはずでは?
てなことを考えていたのですが、反対に黄忠に漢中を任せる方がいいって意見になってしまいますよね↓
黄忠と魏延の戦功について誰かご教授頂けますでしょうか?
(EZ)
10 子竜
>>8
初見での評価ではありませんが、「諸葛亮は魏延、楊儀の能力をそれぞれ評価していたが、二人がいがみあっているのを大変残念に思っていた」とあります…確か(蜀書魏延伝だったかな?)。よって、魏延の実力自体はそれなりに評価していたと思います。
>>9については、過去のログをさかのぼれば出てくると思います。確認はしておりませんが。
(W31SA/au)
11
過去の物に魏延の戦功についてよく書かれていませんでした。益州侵攻から北伐までの戦功についてご教授願います!
(EZ)
12 子竜
>>11
とりあえず簡単に…
劉備に随行して入蜀、しばしば戦功を立てる。(具体的な記述見付からず)
219年…漢中太守に抜擢される
230年…羌中に侵入し、郭淮、費瑶と陽谿で戦い、これを大いに破り昇進する
…以上が、蜀書後主伝、諸葛亮伝、魏延伝を見ての彼の戦功です。大まかに見たので抜けている箇所があるかもしれませんが。ちなみに、爵位、役職に就いただけの記述については漢中太守以外は省きました。
(W31SA/au)
13 朱家
魏延の漢中太守起用は、劉備が才を認めたのもありますが、新しい国である蜀、人材への意欲向上の目的があったと思われ、黄忠は後将軍で、関羽らと同格ですから、大抜擢にならない。功績なら張飛、大抜擢なら魏延、黄忠だと中途半端(笑)つまり功績の大小ではないです。
ちなみに演義の「五虎将」に魏延が入るとすれば、外れるのは格下の超雲です。黄忠は夏侯淵を討ったのが蜀にとって大きな功績ですので、比べるなら魏延と超雲です。官職が功績の全てを示してるとは思いませんが、超雲はちょっと格下すぎますね。
(EZ)
14 寿君
 魏延も最期の事件がなければ、「関張馬黄趙伝」は「関張馬黄魏伝」になってたかも知れないし、三国演義であんな風に書かれる事もなかったでしょうね。
 ある本の西暦219年の勢力図を見て、荊州に関羽、漢中に魏延の名が書かれてるのを見て、改めて魏延の凄さを認識してしまいました。
(P901iS/FOMA)
15 くわぁまん
久々に…、孔明と魏延の関係はよく取り上げられますが、劉禅と魏延の仲はどうだったのでしょうね?

仮にも劉禅は帝であり、魏延が自分の保身を考えるのであれば皇帝側にも何らかのモーションかけると思うのですが、如何でしょ?
(F901iC/FOMA)
16
>>12どうもです(^-^ゞ
やはり益州
(EZ)
17
>>12どうもです(^-^ゞ
やはり益州侵攻戦での活躍が大きいのでしょうね。
それより朱家の話しがスゴく気になる…、代わるなら趙雲ってのはびっくり。古参の将だし、それまでの功績は素晴らしい物なはずなのに…。
(EZ)
18
すいません>>16は間違えました↓
(EZ)
19 すし
>>12呼び捨て?
(SH901iC/FOMA)
20
>>19
私ですかσ(^_^;)?
(EZ)
21
再び激論ができることを願いage"笑
(W32SA/au)
22 元歎
久しぶりに書きこみます^^

劉さんは魏延好きですね〜。僕も好きですが^^;
>>9
魏延の代わりに黄忠…ということですが、黄忠では力不足だと思います。黄忠が評価されたのは勇猛であることで、その指揮能力は期待されていなかったかと。文臣が二つに分けられるように、武臣も大きく二つに分けられると思います。一つは関羽・曹仁・呂蒙などで、総大将タイプ。もう一つが趙雲・楽進などの部将タイプ。魏延はどちらかと言うと前者に、黄忠は後者になると思います。まあ、確信はありませんが。

すいません、またこの話にしちゃいましたね(汗)
(PC)
23
>>22
元歎さんもお好きでいらっしゃる"笑、
そうかもしれませんねぇ。漢中は蜀の要所であり、それを任せられる魏延は総大将タイプでしょうね!
(W32SA/au)
24
再びアゲ↑
魏延を好きになって、孔明が嫌いになった"笑、三国志図書館の作品の中に魏延がらみの作品ありましたよね?
(W32SA/au)
25 天草
図書館でも名作中の名作
『漢中平話』
ですね

http://359tosyo.michikusa.jp/kantyuuheiwatop.html
(PC)
26
>>25
エイ殿失礼いたしました。漢中平話ですか!ついA読んでしまいましたが、あんな作品創れたらいいなぁ…。読んで思いましたが、やはり魏延はいい死に方できなかったでしょうね↓
(W32SA/au)
27 天草
ガイシュツなら、スンマソン。

何気に荊州南郡の事を調べていたら、魏延が韓玄に仕えていたという事がどこにも見つかりません。これはもしかして演義の創作?

今まで当然の様に思い込んでましたが…。
(PC)
28
私も今調べてみましたが、どうやら演義の創作のようです。魏延は身分の低い出身だったようですから、兵卒から叩き上げの将だったのでしょう。それなら、劉備の厚い信頼も分かる気がします。
(P902i/FOMA)
29 巫俊(ふしゅん)
「低い身分」「兵卒」という記述はないはずです。
さっきまで別のサイトで魏延の話をしていましたので、そうだと分かるだけなんですけど。
(PC)
30 しす
>>28-29
巫俊さんの仰るとおり、「低い身分」という記述はありませんね。
解るのは蜀攻略で功をあげ、一部隊長から牙門将軍にとりたてられたことぐらいでしょうか。
この人もとにかくいきなり歴史の表舞台に登場した感のある人ですよね。
通さんお仰るとおり、兵卒からの叩き上げの可能性は充分にあるとは思いますが、蜀というお国柄?を考えると単純に出自に関する記録が残っていなかっただけで、それなりの身分であった可能性も否定はできないと思います。
(PC)
31 天草
本当だ…。

私も今まで身分の低い成り上がりだと思ってました。
特に蜀の人間は良い風に書かれてますから、先入観には注意しないといけませんね。
(PC)
32 赤龍
魏延の伝のはじめを読むと
「義陽郡の出身。一隊長(原文「部曲」)として先主に随って蜀に入り、たびたび戦功を立て牙門将軍になった」
まず、義陽郡というのはおおよそ荊州の南陽郡の南半分を分割して作られた郡(義陽郡自体は魏の景初元年、つまり魏延の死後つくられた郡)晋代の地図を見ると新野も含まれており、早ければ劉備の新野時代から、劉備が荊州支配を進めるあたりの時期にかけての間に仕えたと考えられます。
(PC)
33 赤龍
また、部曲(劉備の私兵に属し、特別官職についた形跡なし)から戦功を重ね将軍に昇進したこと。伝の内容を見るに生粋の軍人タイプで、士太夫階級に属するタイプではないことなどから、出自はそれほどよく無かったことが推測されます。少なくとも、名士と呼ばれるような階層出身ではないだろうと。
つまり「低い身分」という直接的な記述は無いものの、それほど的外れな推測ではないと思われます。
入蜀戦の現場で劉備に見出された、それ以前はほとんど無名の叩き上げの軍人というイメージです。
以前もどこかに書きましたが、この入蜀戦の第一陣の陣容、荊州での新参の将士の実力を見極める意味も兼ねてたのではないかと思っています。
(PC)
34 天草
ふむふむ…その一部曲というのをどう見るか?ですよね。

もしかしたら入蜀の時には既におおきな軍の隊長だった可能性も棄てきれないんじゃないでしょうか?
(PC)
35 巫俊(ふしゅん)
李典も部曲を率いていましたが、曹操の私兵という風に表現はしないですよね。
魏延の場合は、魏延自身が劉備に目をかけられていたことと相まって部曲(私兵集団)と強調されるのですが、

劉備の私兵という意味
部曲は私兵という意味

このふたつは別個の意味概念ですよね。
(PC)
36 ストラップ
>>34-35
「以部曲隨先主入蜀」
というのは、
「部曲ヲ以ツテ先主ニ隨ヒ入蜀ス」
とでも訳すのでしょうか?
>>35で言われているのは、「部曲」が劉備の「部曲」という意味では無く、魏延の「部曲」という意味に捉え、>>33
「部曲(劉備の私兵に属し」
に反論されているのかな?
(PC)
37 天草
>>36

スト氏の書かれた通り、
部曲=劉備の私兵
と捉えるなら、諸葛亮が率いても、関羽が率いてもいても、結局この時点では劉備の私兵のわけですから、その記述で出自を予測できるか?という意味です。

またその一部曲が数百人規模なのか、数万人規模なのかも分かりませんよね?

魏延が『抜擢された』と書かれているのは漢中大守になった時であって、これは魏延の最初の人事ではありません。

これを考えると、魏延が本当にイメージ通りの『家柄の良くない生粋の軍人』であるのか?疑問を持つ必要があるな、と考えてます。
(N902i/FOMA)
38 TS
原文の「以部曲」は、魏延が部曲の兵(もちろんものすごく低い身分。奴隷とあまり変わらない)なのか、彼が自前の部曲を手土産に劉備に従ったのか、どっちとも取れるような感じです。
ただ、自前の部曲を率いていたとしても、下士官となり戦場をかけずり回るところから始まるのは知識人階級ではない証拠で、楊儀なんかに言わせれば野粗な田舎者、または成金野郎、みたいな感じでしょう。
その意味では身分が低いと言っても差し支えはないと思います。
(PC)
39 赤龍
私の「以部曲」の原文の読みがいいかげんなせいで、余計ややこしくなりましたね。申し訳ないです。
たしかにこの部分の読みは>>38でTSさんが言われるように、どのようにとるか悩むとこです。その部曲の規模も特定できるだけの記述がありませんし。
ただ言えるのは、生涯通じて彼は生粋の軍人タイプ、士大夫階層ではまずないだろうということ。TSさんも言われているように、極端に言えば、軍人=知識人階級からすれば下賎なもの。気位の高い人になると、劉巴のように「軍人なんかと口がきけるか」とか言い出すほどです。
そうした意味で>>33
「出自はそれほどよくなかっただろう。少なくとも名士と呼ばれるような階層ではない。」
という結論を出し、身分が低いというのはあながち間違いでない。と言いました。兵卒なのか、部隊長クラス、あるいは自前の軍を持ってたか?という軍人としての身分の問題に触れていたわけではありません。
(PC)
40 赤龍
ちなみに、演義などのイメージから、魏延は黄忠と共に入蜀第一陣のメインというイメージですが(実際そういう書き方をされがち)、これまでの話のように魏延はこれ以前の記述が全く無く、当時はせいぜいその他大勢の武将の一人に過ぎなかったと思います。頭角をあらわしたのがこの入蜀戦だろうと。
最終的に大物だったから、最初から大物だったと錯覚してしまうのはよくありがちな間違い。少なくとも、個人の伝を持つほどの人物で、黄忠のようにこの陣容の中で、抜きん出た実績や経歴があったわけではない(記述がない)ということで、演義のイメージより割り引いて見たほうがいいように感じます。
(PC)
41 朱家
話の流れが違うけど…
魏延の首が届けられて、楊儀が踏み付け、(原文)「庸奴!…」と言った。
これは、馬鹿な奴と訳すの?馬鹿な奴隷とかじゃないのかな?後記だと思ってたから、奴隷とは言わないものの、極めて身分の低い階級だと思ってたんですけどね。
(PC)
42 赤龍
>>41
「庸奴」を手元の漢和辞典(新字源)で調べると、「下男、使用人」という、まあ字面のままの意味に加え「ばかな野郎。人をののしることば」とありました。人を侮辱する言葉として定着してたのであり、ここでは実際の魏延の出自は関係無いと思います。「お前のかあちゃんでべそ」って言っても、別にほんとにでべそか確認したわけじゃないのと同じ事かな。
(PC)
43 天草
ちょっと分かりづらいので、まとめてみますね。

今回、議題として取り上げているのは
『魏延は本当に低い身分からの叩き上げなのか?』
という事です。

当然、私が抱いているイメージはこういう魏延で、恐らく大多数の皆さんも、そうでしょう。

ところが、魏延が韓玄の配下ではなかった事が判明し(正確には記述がない)、もともとの彼の身分が低いという事を表わす記述も、伝の冒頭にある、問題の記述しかなさそうだという話しです。

たぶん、身分が低いのかは分からないが、高くはないのだろうというのを、皆さんは言われているのだと思いますが(違う?w)、私はそれさえ疑問に思っています。
なぜなら、この時(入蜀時)率いていたのが立派な兵かも知れませんし、劉備配下になる前は劉表配下にいた可能性だってあります。
もし、問題の記述の『部曲』というのが、誰かが書いている通り、奴隷の兵という意味なら、納得しますが、残念ながら学のない私に原文の理解はできません(笑)

分かりづらかったので、長文で説明しました。
引き続き意見を聞かせて下さいm(__)m
(N902i/FOMA)
44 赤龍
三国志の時代(中国史)を考える上でも重要な問題なので、ちょっと長くなりますが、詳しく説明します。
まず、魏延の経歴・記述を見るに、彼は前線で実際に軍を動かして戦う軍人さんであり、文人・士大夫的な活動は(記録上では)見られない。ここは問題ないですよね。
その肝心の軍人という仕事、まともな文人士大夫がやるべき仕事ではない。賤しい仕事とでもいうべきものだったのです。
でも、それなら諸葛亮や曹操、文句無しの名家の袁紹も軍を率いて戦争してますね。しかし、かれらはあくまで全軍を指揮する将。平時は国の政に携わり、戦時には軍を指揮するのが士大夫のたしなみ。前線で刀を振り回したり、直接部隊を動かしたりするわけではありません。
そういうことは格下の軍人・武人のすること。そういう立場に魏延がある以上、彼はまず間違いなく士大夫層ではなく、一等低く見られていたはず。
なので、仮に軍人としての地位が高くとも、どれほどの部隊を率いていようと、軍人は軍人。
こういう意味で、魏延は士大夫層には属さない、良い出自の人物だったといえるだろうということです。
(PC)
45 赤龍
つまり、魏延が軍人として特に身分が低いといってるのでなく、関羽だろうが張飛だろうが、軍人やってるという時点でその出自がたいしたことが無いと知れてしまうということです。
>>39で触れた、劉巴が「軍人なんかと口がきけるか」と言った相手は、あの劉備の股肱の重臣である張飛。彼にしてこの扱い。魏延程度の軍人への蔑視は推して知るべしです。
>>38の「奴隷とあまり変わらない」という表現。これも部曲の兵が特別卑しいということでなく、兵士やってる時点で極端な話奴隷レベルみたいなもんだということです。
(PC)
46 巫俊(ふしゅん)
三国時代に至るきっかけになった山東で反董卓の兵を挙げた人たちはすべて知識人だったと思うんですけど、結構剣を手にもって直接指揮するのも普通のことで、憚るようなことじゃないんじゃないでしょうか。

伝統的に中国史では、士大夫が武官を蔑視していたと説明されていますし、一概に否定する訳ではないんですが、

「そう通説的に説明されてるけど、根拠があるんだろうか疑ってみる」
ことが魏延を考える上で重要で、
そう考えてみると第一、漢制では文官と武官を峻別していましたっけ?
文官と武官を峻別していないなら、魏延は漢中大守なのだし、文武の官を兼ねている訳です。
官職としての文武の官と、劉巴の言い放った観念というか社会の通念は、これも別個のものの概念だと思いますよ。

「でべそ」と同じで士大夫であっても、軍人と馬鹿にされたりするんじゃないでしょうか。
そうなると、魏延は士大夫の可能性が依然として残ります。

あと参考程度に書くと後漢の南陽郡って名士の産地でしたよね。
それと士大夫と士大夫でないものを峻別するものは、この時代制度化されてなかったはずですよ。
峻別は南北朝時代以降に強化されていきますから、演義のつくられた時代の背景にある科挙官僚=士大夫の空気とは別なんです。
(PC)
47 巫俊(ふしゅん)
つまり劉巴が行っているのは制度じゃなくて空気。
だから爵位のある張飛でも空気には困ってしまったんです。
(PC)
48 巫俊(ふしゅん)
>>47
× 行っている
〇 言っている
重ねて失礼・・・
(PC)
49 赤龍
>>46
まず、山東諸侯は一軍の将で、前線の一部隊長ではない。これは説明済み。同列の例えには不適当ですね。
士大夫の区別は制度的なものではないですが、軍人とかとはっきり区別できるぐらいの存在ではありますよ。それこそ、社会の気風や常識で。
士大夫の軍人蔑視を疑うなら、それを否定できるだけの史料をいくつか提示しなければいけませんね。
職場なんで、雑な返答で失礼
(J-SA05)
50 巫俊(ふしゅん)
>>49
ということは、空気や常識であって制度ではないということでは共通項があるのですね。
(PC)
51 巫俊(ふしゅん)
・一軍の将と一部隊長の区別
・士大夫と軍人の区別
・名士と名士に非らざるものの区別

そうしたものは制度的なものではないし、空気的でともすれば常識的なものです。
そういうものは三国時代の個々人の中でそれぞれ別なように認識されていたものに過ぎず、魏延が相対的に高い地位の士大夫では無かったという証拠ではないですよ。
(PC)
52 巫俊(ふしゅん)
一軍の将が蔑視されなくて、部隊長が蔑視されるという論理もよく分かりません。
(PC)
53 朱家
>>42
つまり、出自を罵った訳ではないのですね。
楊儀が奴隷って言ってなかったかな?と思って、筑摩訳を見てたら、馬鹿野郎となってて驚いたんですよ(笑)ありがとうございました。

>>46
「可能性が低い」に対して、「いや、可能性はある」って印象をうけるんですが…これは議論になってないと思いますよ。
(PC)
54 巫俊(ふしゅん)
>>53
そういう展開になってるのはよく分かるんですが、魏延非名士説は中国史の伝統的な名士解釈に拠ったもので、
実証的なものでは(今のところ聴いている限りですが)ありませんので、同意することができません。
魏延関係の史料が他にないのですから、名士解釈をもっと検討しない限りは魏延論の断定にはできないということです。
(PC)
55 天草
かなりレベルが高くなって、私では理解できないところに行きつつあります(;^_^A

>>45の文を読む限り、赤龍サンも魏延は軍人としての立場自体が、低く見られているだけで、出自・家柄が良くないと書かれてるわけではない、という意見で間違いないです?
だったら私も同意見です。

巫俊サンの言われている件は、難しすぎて良く分かりませんが、>>54の意見に関しては、まさに私の意見と同じです。

はっきりとした記述がない以上、大部分が他の記述からや時代背景からの推測となってますので、それを意識した上での発言をお願いします。
(N902i/FOMA)
56 赤龍
>>55
はい、私の意見も記述にははっきりとしたことが明記されていないので不明だが、その限られた記録と、当時の背景から考察して(今のとこ)最も可能性が高いであろうと思われる推測を行なっているわけです。当然これが絶対正しいなんてわけはないです。
はっきりした記述が無いので、不明。以上。ではなんの考察にもならないし、討論場の意味もないですから。
つまり、私の意見は、軍人としての立場が低く見られているので、そうした地位にある以上は、出自・家柄が良いという可能性は非常に低いだろうと。
(PC)
57 赤龍
>>52
後方で軍全体を指揮する人と、実際にその指示にしたがい現場で動く兵卒や、それを動かす部隊長クラスの軍人さんの違いといえばわかります?
士大夫は戦時には前者を兼ねることもあったが、後者の立場になることは基本的にはないということです。

通説に常に疑問をもつというのは非常に大事な姿勢です。しかし、この場合それなりの史料の記述や研究から導かれた通説。それをただ信じないと言われても、その先の議論のしようがありません。通説を否定しようとするなら、まずそれだけの根拠を探す努力が必要になります。
また、魏延士大夫説を主張されたいのであれば、士大夫じゃないと断言できないから、という消極的な理由ばかりでなく、士大夫層であったことを推測させる積極的な理由を探す必要もあります。でないと、限りなく低い幾つかの可能性の一つ以上にはなりえませんよ。私が魏延は士大夫層でないと推測するのはそうしたわけです。
(PC)
58 赤龍
連書き失礼。
>>57は、前半が>>52へのレスで、後半は巫俊さんの意見全体への感想です。それぞれ別の話なんで、わかりにくくてすいません。
(PC)
59 朱家
>>54
名士解釈って実証できます?解釈って言ってますし、考古学で証明できるものでもないし、名士、非名士と列伝に記述がある訳でもない。いつまでたっても推測だと思うんですけど。
少なくとも私には、実証方法が分かりません。
(PC)
60 巫俊(ふしゅん)
>>56
>>57
>>58
>>59

私の書こうとしていることと、読み手の皆さんの受け取られた「巫俊さんの意見」は違うようです。
魏延について議論する以前に、前提となる歴史を考察する姿勢について誤解があるようですから、そちらから話した方が分かりやすいように思います。
(PC)
>>60
僕も巫俊(ふしゅん)さんの意見は聞きたいですし、>>>395あたりで述べて戴けないでしょうか?

それと僕には、巫俊(ふしゅん)さん自身が
「私の書こうとしていることと、読み手の皆さんの受け取られた「巫俊さんの意見」は違うようです。」
と書かれている様に、巫俊(ふしゅん)さんの書き込みの論旨(何を問題にしているのか)がわから無い事が多いので、わかりやすく書いて戴けるとありがたいです。
(PC)
62 天草
集解で、私なりに検証した結果を記事にしてみました。

良かったら見てみて下さい。

感想はあちらで構いませんが、引き続き議論はこちらで進めていきましょう。
(PC)
63 孫伯麗(みらう)
楽しそうな話がありました
私も後程に参加させて頂きます
ログ見るのでまずはいっぱいっぱい(笑
思うところと記述をそろえてからいざ鎌倉(何
よろしく
(P700i/FOMA)
64 孫伯麗
というわけでネタ揃えて出直してきました
1の話 魏延は忠か反かですが、漢室(劉の血筋)には忠だったような気はします
以下の文章からの最終的な判断です

私の所見
蜀全体の話から入る必要があります
蜀の構成として、初期から劉備に付き従っていた者達
荊州で従属するようなった者達
益州に佩いてから従った者達の大まかなグループです
魏延は荊州で付き従ったグループに属していると考えます

このグループは絶望的な状況であえて劉備に助力した荊州・南陽の士人(才能や名望、血族などで身をを立てたり志を持っている者)で構成されているとします
それだけに劉備への信頼に対する報いとして厚遇されている者が多いのでしょう
実際に新野周辺からの士人での高官採用者に簡単に数えただけでも
魏延、ケ芝、宗預、来敏、黄権など 明らかな枢軸メンバーが名を連ねます
しかも同郷が多数、これは意図的以外で説明するには中華が広すぎます
地理的にも新野から20キロ圏内の県城が多かったです
魏延はそれらの中の部曲将として(なぜ部曲将かというと、劉備に従う部下なら司馬などの官職が与えられれていただろうけど、一部隊長と表記されていたので、部将と考えた)新野逃亡から益州攻略にかけて功績を積んだと見ています
部曲を抱えていたからには地方の豪族と見るのが良いのでしょうが、他に同姓の将が出ていないようなので、そんなに大規模な部曲ではなかったという考察にいたりました
劉備が牙門将軍に任命したということは旗本の一部として信頼を寄せていた証と言えます(あまり信用しない人物に要の牙門は任せないでしょうから)
後に督漢中・鎮遠将軍・漢中太守(漢中軍事監督者・雑号将軍・政務、軍務責任者。魏延には漢中地方太守軍以外に駐屯していた軍団、独立部隊、豪族、その他の集団に対する責任者まで兼務)にしたのは、劉備らが初期の従属舎のみで固めすぎると身内贔屓と見られるなど、様々体裁を整える意味の政治的な対応も含んだ人事だったのではないかと考えます
(PC)
65 孫伯麗
鎮北将軍への昇進は建国時の人員整理のためであって功績に対するものではないと思います
都亭侯への封爵は二年後、つまり劉備が倒れた事による恩恵(死去して離反しないようになどの含みなども多々あるのでは…)
丞相司馬・涼州刺史を兼任に督前部になる
諸葛亮の完全な支配下に置かれる前衛大将にされています、3年間
前軍師・征西大将軍・仮節・南鄭侯となる
これは諸葛亮、キ山に進出した時ですね
仮節(上奏しての判決待ちなどしないで独自判断で法務執行可能な権限の一つ)を与えられているということは人格的に認められていたのでしょう
新野での逃亡時に辛酸を舐めたのでしょうか、軽々しく他人を罰することはない、公正な判断を下せるとの任命と思います
同じように同郷のケ芝が仮節を受けているあたりもその話を思いついたネタ元です
でも、劉禅になってから漢室(劉王室、後漢)の意志が薄弱になってきたのだろうか
結局、抜き差しならない状態になったとき、自害ではなく逃亡したので忠の対象を見失っての死去となったのかもしれない
そう思うと悲しい人物なのね
劉禅に対して壮烈な忠誠心を持っていれば(劉禅もそれだけの器を示して)魏延と楊儀が反目激突したときに>以下妄想
魏延は楊儀らの叛乱との発言に対し「忠義はここにあり!」と言い憤死した
楊儀らは自らの発言を深く悔い、魏延を忠義の士として称え大将軍・漢中王を追贈し、子を都亭候に封じた
などと締め括られるとかね(笑
本筋はずれる箇所もありましたが、魏延 真面目で直情的だけど話せば良い奴ぢゃん
て評価にしておきたいです♪
(PC)
66 朱家
魏延は、牙門将軍となるだけの功績があったと考えるのが妥当で、信頼してたかもしれませんが、優先ではないでしょう。
仮節とは基本的に、配下で軍規違反した者の処刑権で、>>65では説明不足でしょう。軍の高官ですから、仮節は職務遂行に必要ですし、節が与えられると、目付が同行しますので、独断ではありません。
「魏延は士卒をよく養成し」とあり、軍規を厳守する(できる)人物として、仮節を与えたと思います。こういう点の性格は評価されてたと思います。
蜀は、楊儀と魏延とか、個人的な対立が多い。結局二人とも死ぬし、派閥の権力争いのほうがマシかもしれない(笑)
(PC)
67 孫(みらう)
確かに 仮節は軍務従事者に限定です
監がいても執行するかどうかは役目次第(なくても執行してたのはいたろうけど)
魏姓で登場している人物 割りかし少ないような?
(P700i/FOMA)
68 孫(みらう)
朗報!士大夫の意味が見つかりました!
結論 士だったり大夫だったりする人 またはそれ以上の人
名士とは士である人でも有名とか名(明るい人、素敵って意味でね)
士とは1〜4等の爵位を帯びている人
大夫とは5〜8等の爵位を帯びている人
8等までが民間での爵位(民爵)であり、9〜20等が官爵とされる
ちなみに9等には黄門令とか平準令、県令があたるそうな
19等がいわゆる関内侯
20等が列侯

官職が高くても爵位を帯びていないものは位階が低く、太守などより侯の方が上級とされていたために、伝などでは幼くして太守の座を継承した○○は都郷侯に登った。とか掛かれるんですね
それは太守むりだから昇格させて太守やめてもらいましょうって温情措置ですね
南鄭侯になったのが231年なので、それまでは士大夫ではなかったというわけでしょうか?
それ以前に士大夫になっていないという事もないのでしょうが・・・どうでしょうね(汗
(PC)
69 赤龍
>>68
ここで問題になっている「士大夫」とは、そういう意味の言葉ではありません。
大雑把に説明すると、(主に儒教的な)教養を身につけた文人階級の人々を広く指す言葉です。
その中でも、世間(主に名士間から)から高い評価を得ている者が名士と思えばいいでしょうか。なので、当然無位無官の名士だって普通に存在するわけです。
ですから、軍人がいくら出世して爵位をもらっても、軍人は軍人。それだけで士大夫と呼ばれることなどはないのです。
(PC)
70 孫(みらう)
士大夫層の出身ではなく、軍で身を立てたから言われているだけでしょう?
皇帝や侯の家系だったら、多少暗くてもまともに接していたのだから
劉璋に寄った劉巴が劉璋のために意見したりしているあたりからの話ですが。
(PC)
71 朱家
ふと明帝紀を見て思ったのですが、孔明の最初の北伐は、曹叡が長安に着いた2月17日には、すでに撤退していて、一ヶ月ちょいの戦いなのね。馬禝は数日で壊滅してるかも…孔明は祁山に出て、兵を街亭と襄武に派遣して、敵とぶつかったら、もう終わりって感じの期間ですね(笑)

張コウは2月上旬には街亭に着いていて、孔明が意図的に出兵の情報を流したとはいえ、曹真とともに五万の兵が動くには、不可能とは思えないものの、かなり速い。ヘトヘトの張コウ軍に数日で壊滅されたとしたら、馬禝は…(涙)
もしかすると、長安には結構な兵が駐屯していて、曹真と張コウは、軍を率いてない可能性があるかと。
そうなると、魏延のルートは、どうやっても長安に十日で着く距離ではないから、魏延はともかく、孔明の動きは察知されますので、魏延が長安に着く頃には、ギリギリかもしれないけど、すでに曹真と交代してる?曹真は逃走なんてしないね(笑)
(PC)