1 天草

世継ぎ問題

どの世の中、どの国でも、やはりこの問題は勢力自体の反映に関わってます。

袁紹・劉表はこれに失敗した見本の様なケースでしょう。
逆に孫家は孫権まで突然の世代交代が続きながら、繁栄してます。
またあの曹操さえもこの問題には一時手を焼きました。
各国の世継ぎ問題に対する意見や疑問をお待ちしてます。

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袁紹一族のその後
劉キ
劉ソウ
(PC)
2 あべ
新参者ですが、失礼しますm(__)m
劉表が劉ソウびいきなのは理由が分かりましたが、袁紹はなぜ袁尚びいきだったのでしょうか?
あと、袁紹軍の誰が袁譚派で誰が袁紹派だったのかも気になります。
(N900i/FOMA)
3 あべ
すいません。誤字でした。
袁紹派→×
袁尚派→◎
(N900i/FOMA)
4 天草
袁尚を読んでもらえば分かるかと思いますが、『その美貌を愛し…』なんて言ったら、つい気持ち悪い感じがしてしまうのは私だけ?(笑)同人ホムペの方が喜ぶ仲だったのかは別にして、こういう理由だけなのでしょうかね?

袁譚派・袁尚派についてはもう少し調べてみます。他の事実をご存知の方もお願いします。
(PC)
5 さく
こんにちわ!
劉備の跡継ぎで…
天草殿の辞典には出て着てないけど…
劉封だったら…蜀はどうなってたかな?って思います。劉禅よりは劉備の苦労も知ってるし…
(PC)
6 大伴
劉備の後継者問題には疎いので、そちらはより詳しい方に譲るとして……後取り問題といえば、曹丕と曹植の兄弟でしょう。
曹操が後継者問題を賈クに相談した際賈クは、
「袁昭、劉表の親子を考えておりました」
と問いに答え、曹丕を推した話はあまりにも有名ですね。
(F2102V/FOMA)
7 ヤスシ
やはり、長男またはそれに準じる人が継ぐのが無難…?
逆にそれ以外で上手く行った例ってあるのですかね?
(J-SH53_a)
8 エイ
『家を継いだ』と云うのは苦しいかもですが、
漢の高祖・劉邦は末っ子だったような覚えがあります。
(P2102V/FOMA)
9 天草
長男に後を継がせるというのは、儒学の思想の一つみたいで、それが当たり前だったようです。日本にも似たような考え方は根強くありますしね。

劉備が漢中王に就いたのは彼が59歳の時、劉禅はこの時まだ12歳でした。劉邦はもう良い歳だっただろうと考えられますが、後継者候補になってたのかな?一説には養子である彼を諸葛亮は世継ぎ問題の危険と考えていた、というのもあります。

しかし彼は関羽の援軍要請を断り、英雄を戦死させた事で最悪の立場に追い込まれます。ついには劉備に死を命ぜられるわけですな。いわゆる『切腹』です。

まぁ魏に走った孟達、呉に寝返った博士仁・ビ芳よりはマシですけど…。
(PC)
10
長男以外が国を継いだ例としては劉璋もそうですね。うまくいってませんが(苦)
ちなみに劉邦は四男で末っ子ではありませんよ。
(N900i/FOMA)
11 天草
劉璋はまぁうまくいったほうですよね。
曹否も平穏に継いだわけではないですけど、曹沖という人物を皆さんは知ってますか?かなりの人物だと聞いてますが、詳細を希望します!!
(PC)
12 エイ
ぬぁぁぁ!カッコワリィ!
趙殿、ご指摘感謝です。
でも中途半端で間違った発言も、こうして正しい知識の呼び水となるなら
無駄では無かったカモ?

で、スレの主旨から外れるので恐縮ですが、五男より下にも『伯・仲・叔・季』の様な法則があるのでしょうか?
八逹・淵の息子・五常で共通する文字なら『幼』ですが……。
是非ご教授下さいm(_ _)m


天草閣下>曹倉舒は夭折してしまった人物ですよね。
しかもその際、父・曹孟徳に「倉舒の死は儂には不幸だが、他の兄弟(つまり後継者)にとっては幸運だ」
と言わせた程の才能をもっていたと記憶しています。(←これもうろ覚えっす)
蛇足ながら、彼の名前はニスイの『冲』じゃなかったでしたっけ?
(PC)
13 エイ
↑スイマセン、最後の一行は間違いです。
(PC)
14 天草
閣下などではなく平民ですが(笑)
曹沖で良かったですかね?
やはりかなりの人物だったんですね。ちょっと調べてみよう!

エイ殿、感謝です!
(PC)
15 大伴
兄は父の身代わりとなって戦死し、天才児の弟の死に接しては、「お前には幸いだ」と、父に後継者候補では無かった、ともとれる発言をされる。以後も文学的才能に優れた弟と、後継者争いをしなければならなかった。
曹丕という人は、干禁へのしうちといい、曹植への態度といい、とにかく陰湿なのですが、それを彼一人の責任にするのは、何だか可哀相な気がする環境ですね。
(F2102V/FOMA)
16 天草
曹丕も確かに評価が分かれる人物ですよね。

対曹植問題に関しては、確かに陰湿だったようですけど・・・。
人材の使い方や見る目は父親譲りだったような感じですね。
(PC)
17 くわぁまん
結局の処、世継ぎの能力と言うよりも、その取り巻き連中の派閥争いが最大の原因だと思います。

彼等にすれば出世の糸口になるかならないか、死活に係わる大問題ですからね。
(SH900i/FOMA)
18 天草
確かに。。。

大体こういう問題に関わる人間っていうのは、自分の実力に自信がない人間が多いんですけどね。ほら、皆さんの周りにも必ずいるでしょ?(笑)
そして最後は必ず評判を落とすと言う罠。。。
(PC)
19 大伴
孫権スレッドで思いだしましたが、孫権の三男孫和と、四男孫覇が争っていましたね。陸遜は孫権に、孫覇を推すのを止めろと忠告し、その為問責されています。陸遜の死は、この問責に対する憤りによる、とされています。
(F2102V/FOMA)
20 きいち
孫家が力を失ったのには、確かに相続争いとその取り巻きの争いはありますね。孫権までの三代はよかったのですが・・・
魏の方は、ちょっと議題と離れますが、親戚に冷たかった為に、司馬一族との権力抗争で、曹家を守る力のある親族がいなかったということがあったと思います。それを見て学習した司馬炎は、各地に王を配置して・・・七王の乱。後継者の失敗というのは良く見ますが、バランスを取るのは非常に難しく、強敵がいる間だけ皆が危機感ある為団結する・・・のかも!?
(PC)
21 大伴
呉の面白いところは、結局二代目の皇帝になったのは、和でも覇でも無く、争わなかった亮だった事でしょうか。

ここでふと、劉禅の事を思い出しましたが、それは劉禅スレッドがありましたので、繰り返しを避けます。
(F2102V/FOMA)
22 大伴
最初の話題に戻りますが、譚派と尚派の人物は判明しましたか?
(F2102V/FOMA)
23 天草
おぉ!
そうでしたね。
今週末にも調べてみます。
(PC)
24 くわぁまん
意外に知られてないのが、劉備は袁譚派でゃんす。ってかかなり親しい間柄、もし袁譚が後継ぎになっていたら話は変わっていたかもね。
(SH900i/FOMA)
25 しす
そういえば袁譚って正史の記述を見る限りでは演義のようなマヌケには思えないのですが。
田楷、孔融を破って版図を拡げてるし、青州入りした際には民衆から歓迎されたみたいな記述もあるらしい。
それに黄巾残党に官位を授けて手なずけるなど、組織のトップとしては及第点のような気がします。
跡目争いでお茶を濁すようなことをしていなければ、もっと高く評価されてもいい人物だと思います。

>くわぁまん殿
確か袁譚を青州刺史にと上奏したのが劉備でしたよね。
(PC)
26
話を変えてしまいますがすいませんm(_ _)m

なぜ劉表の跡継ぎは劉ソウだと失敗なんです?私的にはオッケーだとおもうのですが…。バックにはサイボウさん他、荊州有力豪族がつくわけですし。
(W11K/au)
27 しす
>飛殿
劉ソウがダメというよりも、長子である劉キではダメだという理由がないから問題なのだと思います。
劉キの才覚に関しては正史からは読み取れませんが、少なくとも孝や容姿では問題は全くないですからね。
(PC)
28 大伴
もっとも曹操にカクが語った内容は、災いの種になるまで放っておくなという事でしょう。
下地を無くす為、さっさと一人に(兄の方に)決めろという事だと思いますよ。
(F2102V/FOMA)
29
しすさん大伴さん>分かりやすい説明ありがとうございます!
(W11K/au)
30 くわぁまん
あちしチョット気が付いたのでゃんすが、劉璋って劉焉の四男でしょ?

三男の劉瑁は早死にしたのは解りましたが、その上の二人はどうしたのかなぁ?
(SH900i/FOMA)
31 大伴
劉範と劉誕は長安にいて、献帝に従っていました。劉範は馬騰の挙兵に呼応し失敗。劉誕もこの時処刑されたと記憶しています。
(F2102V/FOMA)
32 ユウキ
そんな人物がいたんですか…挙兵に呼応するという事はなかなかの決断力をもっていた??
(P900i/FOMA)
33 大伴
調べてきました。蜀書劉二牧伝第一から要約しましょう。

範は左中郎将、誕は治書御史、璋は奉車都尉として、献帝に従い長安にいた。ただ三番目の息子、別部司馬の瑁だけが焉の傍に従っていた。献帝は焉をたしなめる為璋を使いに出したが、焉はそのまま留め置き、都に帰さなかった。この頃ビに駐屯していた馬騰は、朝廷に反逆した。焉と範も協力したが失敗。範は直ちに殺され、誕も捕われて処刑された。焉はこの後、悪性の腫瘍の為死んだ。人々は璋の人柄が温厚な事を自らの利益と考え、共同して璋を刺史とする様上書した。(中略)曹操が荊州を征し漢中を平定したと聞き、敬意を表した。曹操は璋とその兄瑁に位を贈った。


瑁は璋が刺史となった後に死んでいますし、そもそも相続では無い様です。人々が璋ならば操り易いと、刺史に推した節がありますね。
(F2102V/FOMA)
34 くわぁまん
と言う事は、操りやすい…親劉璋派とはあまり良い者達の集まりで無いとも言えますなぁ…。
(SH900i/FOMA)
35 赤龍
操りやすいというと、表現が悪いですが、益州の豪族達にとって、自分達に望ましい(都合のいい)主を求めるのは当然の事と思います。特に劉焉は自己の権力を確立するため、益州豪族への迫害を行っており、これにこりた豪族達が 温厚な(自分達の権益を害しない)璋を求めたと考えます。
(J-SA05)
36 大伴
こういった議題があると、何気なく読んでいた箇所に目が止まる事がありますね。先程孫和伝を眺めていましたところ、孫和派の一部が列挙されていましたので書いておきます。

陸遜、諸葛恪、顧譚、トウ胤、施績、丁密、張休、吾サン、朱拠、屈晃。
(以下は太傅、少傅、お相手役)カン沢、薛綜、蔡頴、張純、封フ、厳維

特に諸葛恪はかなり推していた様で、その為に恪の謀殺後、孫和は孫峻から自殺させられた様です。

尚孫覇派には、
歩シツ、呂岱、全ソウ、呂拠、孫弘、全奇、呉安、孫奇、楊竺
といった名が挙げられています。
(F2102V/FOMA)
37 天草
なるほど…
こんな風に書けば、分かりやすいですね!

この週末中に私も袁紹の後継者争いをまた調べます!


誰か、曹丕・曹植派閥も調べてみません?(笑)
(PC)
38 赤龍
それぞれの人物の出身地や出自(身分、階層等)、血縁関係などを加えて表にしたりすると、さらに両派閥の特徴が見えてきますよ。
(J-SA05)
39 大伴
赤龍さん又難しい要求を(汗)

しかし孫和派には、基本的に二つの区分がありそうですね。
@諸葛恪、張休、カン沢の様に、利害が絡む人々。
A陸遜、顧譚の様に、道理を説いた人々。

とはいえ、陸凱の弟、陸胤などは、Aかつ@の様です。彼の頼みで陸遜は動いた(陸遜に頼んだ為に、陸胤は拷問される)様ですし、Aのポーズをとっている人々も、利益を求めてその格好をしていたのかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
40 天草
朝から調べまくり!!

袁紹残党の派閥を紹介

袁譚派   郭図・辛評・辛ピ・王脩・管統

袁尚派 審配・逢紀・呂曠・呂翔・郭援・高幹・馬延・張ギ

こんな感じです。

ちなみに…
袁煕派(そんなのあったのか?)   焦触・張南・韓コウ


殆んどの武将を辞典に追加しておきました(更新状況確認)
(PC)
41
曹植派、楊修、丁儀、丁翼、カンタンジュン、楊俊、ジュンウン、孔桂あたりだそうで

曹ヒ派、曹真やカクら重臣とありますね

この後継者争いは当人どうしというより
側近らの争いだったようです
(F900i/FOMA)
42
割り込み申し訳ない!後継者問題で思ったが、孫権の後継者問題で陸遜が関わってから悪化したのは何故だろうか。まあ、孫権が悪いのだろうが、かえって煽る形になったのでは?正論を貫くよりも、派閥争いを収拾できなかったのだろうか?陸抗のスレ見て思ったが、陸氏は孫家に対し忠義はなかったのではないだろうか。
(N900iS/FOMA)
43 大伴
陸遜は、後々の為の悪例を残さぬ為(太子で無いものが帝位につく前例は、後の世に相続争いを認める事になる)に、発言したのでしょう。その一瞬を上手く乗り切って後に大きな災いを残すよりも、今苦しんだ方が良い場合はありますから。

又、参考資料が陸抗のスレッドの様ですが、あそこは大雑把にしか書いてありませんし、一度呉主伝、陸遜伝、呉主五子伝、潘濬陸凱伝の関連箇所あたりだけでも読んでみて下さい。孫引きは怠慢ですよ。特に陸胤について書かれた箇所は、陸遜がこの問題に関わる経緯が書かれていますし、是非。
(F2102V/FOMA)
44 赤龍
陸遜は、当時の人士の多くが、子弟を孫和、覇の役所に送り込んでいる事を知り、朋党の害を生むのでやめるよう、全ソウにやめるよう意見しています。このように派閥抗争もやめさせようとしています。
(J-SA05)
45 天草
荊州の派閥問題が盛り上がってましたが、こんなスレもありました。
(N902i/FOMA)
46 赤龍
ここを見ると、袁紹、曹操、孫権の後継者争いは、両派の支持者がある程度はっきりしているのに、劉表のとこは劉キの支持者が全く記されてないのも、やはり他所みたいな大きな問題が起きなかったことを示してるのではないかと思います。

ところで、世継ぎ問題というと、霊帝の子劉弁と劉協のことも忘れちゃいけませんね。
(PC)
47 朱家
上がってきたので呉の事を…
孫権が寵愛してたのは、歩夫人、次が王夫人(孫和の母)で、歩夫人の娘である魯班が、王夫人と仲が悪いのは当然です。238年に歩夫人が亡くなり、王夫人が一番になり、孫和は15才で、すでに孫権の寵愛を受けてます。孫登が241年5月に死亡し、242年正月に孫和が太子となります。僅か7ヶ月ですが、もちろん孫覇も寵愛されてたでしょうから、この時点で争いがあっても不思議ではないですよね。争いがあったなら、こんなにも早く太子を決めるものでしょうか?太子決定後に争いが起こる事が、たとえ同じ待遇を与えたとしても、珍しく思います。魯班は王夫人を排除したい訳で、孫和の太子指名を止めないとならないですよね?
孫覇が王夫人の子だとする現代の書が結構あるんですが、根拠があるんですかね?これだと魯班が孫覇を支持しても、王夫人の皇太后の地位は変わらない。とにかく、いろんな裏がありそうで面倒くさくなって、考えないようにしてました(笑)
(W32K/au)
48 山壱
初めまして!山壱と申します。劉キと劉ソウのことですがもともと後継ぎは劉ソウだったのではないでしょうか。
劉ソウのソウという字は王+宗で宗という字には一族の中心という意味があるので…
ただ漢字を分けてよいのかわかりませんし…劉禅の子の劉ソウは太子になっていないので確信はできませんが…
長々と愚見すいません。
(PC)
49 バンビ
今、正史の劉璋のトコを見ていて、>>30>>35に劉璋の話題があったのでここに書き込みます。
自分の手元にある正史では兄劉瑁の死因が精神病で死んだと書いてあります。
そして、原文には『瑁狂疾物故』と書いてあります。
訳としては正確には発狂って事ですか?
(W54T/au)
50 魏延
新字源によりますと狂疾の意味は精神異常の病気、精神障害と書かれてます。そして「発」にはおこす、ひきおこすという意味があり、また、「狂」には気が狂う、常イキを逸するという意味があります。なので発狂という訳でもあってると思います。
(812SH/SB)
51 バンビ
魏延さんありがとうございますm(_ _)m
(W54T/au)