2 天草
魏を安定させてますし、親と違って、戦場にも多く名前が出てきます。
人物辞典にも書いてますが、後継の指名の際唯一の失策を犯したくらいで、曹操に匹敵する良将ではないか?と見てますが、皆さんはいかがでしょうか?
人物辞典にも書いてますが、後継の指名の際唯一の失策を犯したくらいで、曹操に匹敵する良将ではないか?と見てますが、皆さんはいかがでしょうか?
(PC)
4 天草
>>3
よっちサン、よろしくお願いします☆
何せ曹叡が即位したのは彼が弱冠21歳の時。
彼は35歳の早世ですから、それだけ考えても、かなりの勢いで駆け抜けた事が分かりますよね?
しかし、実際は諸葛亮が死んだあたりから蜀の脅威が弱まり、彼の生活は酒や余興などの堕落したものになっていってしまいました。ここが残念!!
結果的にこの堕落した時期に公孫淵の反乱を司馬懿が見事に治めるなどして、司馬懿の名声が高められる結果になりました。
諸葛亮が死んだのは234年ですから、曹叡は前半8年間で活躍し、後半5年間で司馬懿
の暗躍を許すきっかけを作った・・・ということですね。
彼が堕落していったのには、非常に人間臭さを感じませんか?
よっちサン、よろしくお願いします☆
何せ曹叡が即位したのは彼が弱冠21歳の時。
彼は35歳の早世ですから、それだけ考えても、かなりの勢いで駆け抜けた事が分かりますよね?
しかし、実際は諸葛亮が死んだあたりから蜀の脅威が弱まり、彼の生活は酒や余興などの堕落したものになっていってしまいました。ここが残念!!
結果的にこの堕落した時期に公孫淵の反乱を司馬懿が見事に治めるなどして、司馬懿の名声が高められる結果になりました。
諸葛亮が死んだのは234年ですから、曹叡は前半8年間で活躍し、後半5年間で司馬懿
の暗躍を許すきっかけを作った・・・ということですね。
彼が堕落していったのには、非常に人間臭さを感じませんか?
(PC)
5 よっち
天草さん》そうですよねぇ。束の間の休息のつもりがいつのまにか曹叡自身が厭戦気分になってしまったんでしょうかね?笑
諸葛亮が死んで魏には司馬懿がいたから安心したのでしょうか?曹叡は人を信じやすいタイプだったんでしょうかね?
諸葛亮が死んで魏には司馬懿がいたから安心したのでしょうか?曹叡は人を信じやすいタイプだったんでしょうかね?
(N900iS/FOMA)
6 朱家
孔明が優秀な皇帝に育ててしまったかも(笑)
曹操が死んだ後は、本気で統一を目指した人物は一人もいないと思うんですよ。曹丕も父と張り合ってるだけのような…三国ともある程度、安定しちゃってますしね。孔明が侵攻してきたから、それに対応しただけと思います。敵がいる状態は国がまとまり易いですからね。晩年が本来の姿かもしれません。
曹操が死んだ後は、本気で統一を目指した人物は一人もいないと思うんですよ。曹丕も父と張り合ってるだけのような…三国ともある程度、安定しちゃってますしね。孔明が侵攻してきたから、それに対応しただけと思います。敵がいる状態は国がまとまり易いですからね。晩年が本来の姿かもしれません。
(EZ)
7 天草
なるほど…それは確かにあるかも知れませんね。
本気で中華統一を狙っていたのは、曹操・劉備くらいで、その後はもう司馬炎くらいまで行かなければいけないのかも…。
本題に戻しますが、明帝記以外の記述で、曹叡の人となりが分かる面白い記述はどこかにないでしょうか?
本気で中華統一を狙っていたのは、曹操・劉備くらいで、その後はもう司馬炎くらいまで行かなければいけないのかも…。
本題に戻しますが、明帝記以外の記述で、曹叡の人となりが分かる面白い記述はどこかにないでしょうか?
(N900i/FOMA)
8 伯影
明帝といえばあれがありますね、曹ヒと狩りに行き曹ヒが母鹿を射ると明帝に子鹿を射るよう命じて
「母鹿は殺しても構いませぬが子鹿はやがて親になる務めがございます」
と射なかったエピソードが
演義の創作でしたかね?
「母鹿は殺しても構いませぬが子鹿はやがて親になる務めがございます」
と射なかったエピソードが
演義の創作でしたかね?
(PENCK/au)
11 ストラップ
話はそれますが>>10を見て思い出したので。この人も謎の多い人物ですよね。
裴松之が問題にしていますが、曹叡は>>4にある様に、景初三年(239年)の一月朔日に三十六歳で亡くなっていますよね。ここから逆算すれば、曹叡は建安九年(204年)の生まれ。建安九年といえば、曹操が袁尚を破り冀州を平定した年です。つまり、曹丕がギョウで甄氏と会う年に生まれている事になります。
本当に曹丕の子なのでしょうか?
実にミステリーですねぇ。
裴松之が問題にしていますが、曹叡は>>4にある様に、景初三年(239年)の一月朔日に三十六歳で亡くなっていますよね。ここから逆算すれば、曹叡は建安九年(204年)の生まれ。建安九年といえば、曹操が袁尚を破り冀州を平定した年です。つまり、曹丕がギョウで甄氏と会う年に生まれている事になります。
本当に曹丕の子なのでしょうか?
実にミステリーですねぇ。
(F2102V/FOMA)
14 天草
(PC)
15 ストラップ
>>14
景初三年というのは、>>>205でも根拠にしていますし、天草さんが言われる様に同時代の陳寿の記述ですから、間違ってもらっては困りますね。
三十六歳というのが三十四歳なら計算が合うのですが……(正月に死んでいるので、三十五歳では計算に合わない)。
景初三年というのは、>>>205でも根拠にしていますし、天草さんが言われる様に同時代の陳寿の記述ですから、間違ってもらっては困りますね。
三十六歳というのが三十四歳なら計算が合うのですが……(正月に死んでいるので、三十五歳では計算に合わない)。
(F2102V/FOMA)
16 よっち
久しぶりに書き込みます♪自分正史をまだ見たことがないんですが…
正史の記述には曹叡は曹否とシン氏(読み方シンでしたっけ?)との間に生まれた子になっているのでしょうか?
正史の記述には曹叡は曹否とシン氏(読み方シンでしたっけ?)との間に生まれた子になっているのでしょうか?
(N900iS/FOMA)
17 天草
>>16
明帝記より抜粋。
明皇帝は諱を叡、字を元仲といい文帝の太子である。〜中略〜
黄初三年には平原王となった。その母が誅殺されたために、まだ跡継ぎの太子に立てられるには至らなかった。
〜中略〜
生母の甄夫人に文昭皇后を追贈した。
〜後略〜
つまり、曹丕の正妻である郭后は子宝に恵まれず、側室の子である彼が、郭后の養子という形で太子になります。
一方、甄夫人の方はその後悲劇(ここでは語りませんが…)によって、死んでしまい、失意のうちに彼は皇帝になるのです。
長文になりましたが、>>16の答えは、その通りです(笑)
明帝記より抜粋。
明皇帝は諱を叡、字を元仲といい文帝の太子である。〜中略〜
黄初三年には平原王となった。その母が誅殺されたために、まだ跡継ぎの太子に立てられるには至らなかった。
〜中略〜
生母の甄夫人に文昭皇后を追贈した。
〜後略〜
つまり、曹丕の正妻である郭后は子宝に恵まれず、側室の子である彼が、郭后の養子という形で太子になります。
一方、甄夫人の方はその後悲劇(ここでは語りませんが…)によって、死んでしまい、失意のうちに彼は皇帝になるのです。
長文になりましたが、>>16の答えは、その通りです(笑)
(PC)
18 よっち
>>17、ご説明ありがとうございますm(__)m
良くわかりました(^^ゞ
うーむ・・・謎ですな!
意外と陳寿が間違えて書いたとかが有力だったりしませんかね?
それとも曹否の血が流れていないのでしょうかね?
実は郭氏の子だったとか・・・?
自分この程度しか浮かびません(汗)
良くわかりました(^^ゞ
うーむ・・・謎ですな!
意外と陳寿が間違えて書いたとかが有力だったりしませんかね?
それとも曹否の血が流れていないのでしょうかね?
実は郭氏の子だったとか・・・?
自分この程度しか浮かびません(汗)
(N900iS/FOMA)
19 崇英
帝が崩御した場合、年齢が一つ加算される…
なんてことは無いですよね。矢張り。
明帝の出生については、昔から疑問を投げかける意見があったように記憶しています。
なかなか太子に立てられなかったのも、その疑念を増長した様です。
文帝が甄后と出会ったのは、ギョウの陥落時(建安九年の八月)と云う事になります。
この年に生まれたのだとすれば、この時点で甄后の腹は大きくなっているはずで、
寵愛をかけた文帝が気づかない事はないでしょう。
更にギョウを曹軍が包囲しているうちに、袁譚が袁尚を攻撃し
袁尚は中山から逃亡し、故安の袁煕のもとへ身を寄せたとあります。
これが事実なら、袁煕には明帝をつくる事は出来ないと考えます。
なんてことは無いですよね。矢張り。
明帝の出生については、昔から疑問を投げかける意見があったように記憶しています。
なかなか太子に立てられなかったのも、その疑念を増長した様です。
文帝が甄后と出会ったのは、ギョウの陥落時(建安九年の八月)と云う事になります。
この年に生まれたのだとすれば、この時点で甄后の腹は大きくなっているはずで、
寵愛をかけた文帝が気づかない事はないでしょう。
更にギョウを曹軍が包囲しているうちに、袁譚が袁尚を攻撃し
袁尚は中山から逃亡し、故安の袁煕のもとへ身を寄せたとあります。
これが事実なら、袁煕には明帝をつくる事は出来ないと考えます。
(PC)
20 朱家
文帝紀…220年曹叡を武徳侯にとりたてた。
明帝紀…15才の時、武徳侯に封じられた。
年齢の矛盾はないんですよ。36才だと、上記の記述と、甄夫人に会った年の二つを否定する事になります。
あと、解釈の違いだと思いますが、曹叡が側室の子というのは、抵抗がありますね。
明帝紀…15才の時、武徳侯に封じられた。
年齢の矛盾はないんですよ。36才だと、上記の記述と、甄夫人に会った年の二つを否定する事になります。
あと、解釈の違いだと思いますが、曹叡が側室の子というのは、抵抗がありますね。
(W32K/au)
21 ストラップ
>>20の内容を調べてみました。
文帝紀での記述は、
「(元年)五月戊寅(略)封王子叡為武徳侯」
ですね。まだ建安二十五年であるので、「王子」なのでしょう。
明帝紀での記述は確かに、
「年十五、封武徳侯、黄初二年為斉公、三年為平原王」
と書かれています。
建安二十五年は220年です。この計算だと、206年(建安十一年)生まれで、239年に34歳で死んだ事になりますね。
又、裴松之の注に因ると、
「時改正朔、以故年十二月為今年正月」
と、239年の正月は238年の12月だと述べており、こうなると>>20とも撞着します(裴松之は建安十年(205年)生まれ説)。
こうなるとやはり明帝紀の
「三年春正月丁亥(略)即日、帝崩于嘉福殿」
に続く
「時年三十六」
と、どれを信用して良いか判りませんね。
文帝紀での記述は、
「(元年)五月戊寅(略)封王子叡為武徳侯」
ですね。まだ建安二十五年であるので、「王子」なのでしょう。
明帝紀での記述は確かに、
「年十五、封武徳侯、黄初二年為斉公、三年為平原王」
と書かれています。
建安二十五年は220年です。この計算だと、206年(建安十一年)生まれで、239年に34歳で死んだ事になりますね。
又、裴松之の注に因ると、
「時改正朔、以故年十二月為今年正月」
と、239年の正月は238年の12月だと述べており、こうなると>>20とも撞着します(裴松之は建安十年(205年)生まれ説)。
こうなるとやはり明帝紀の
「三年春正月丁亥(略)即日、帝崩于嘉福殿」
に続く
「時年三十六」
と、どれを信用して良いか判りませんね。
(PC)
22 朱家
裴松之は、205年生まれを主張してるのではなく、どう計算しても没年36才にはならない、との意味合いだと思います。仮に206年生まれだとしても、204年以前の生まれでないなら、注釈との矛盾はないと思います。裴松之も、年齢を裏付ける史料を探せなかったのでしょう。というか、無かったと思いますが…
陳寿、もしくは写しの間違いだと考えます。
若干気になるのは、おそらく30才より前に養子を取ってる事ですね。娘はいて(記述だと1人?)性的不能ではないはずで、皇帝だと普通なんですかね?養子関係で意図的に年齢を改竄された可能性はないですかね?
陳寿、もしくは写しの間違いだと考えます。
若干気になるのは、おそらく30才より前に養子を取ってる事ですね。娘はいて(記述だと1人?)性的不能ではないはずで、皇帝だと普通なんですかね?養子関係で意図的に年齢を改竄された可能性はないですかね?
(W32K/au)
23 赤龍
>>22
裴松之は、注の該当箇所を見る限りは建安十年(205)生まれを主張してますよ。素直に読む限り、そうとるべきでしょう。205年生まれの立場だから、どう計算しても36歳にはならないといっているのです。
とりあえず、景初三年正月に死んだということは、さすがに間違いじゃないはず。皇帝陛下の崩御の日ですからね。あとはどこが正しいんだろう?
てか、こういう年齢やら暦やらの計算は苦手です…。頭が痛くなってくる(笑)
裴松之は、注の該当箇所を見る限りは建安十年(205)生まれを主張してますよ。素直に読む限り、そうとるべきでしょう。205年生まれの立場だから、どう計算しても36歳にはならないといっているのです。
とりあえず、景初三年正月に死んだということは、さすがに間違いじゃないはず。皇帝陛下の崩御の日ですからね。あとはどこが正しいんだろう?
てか、こういう年齢やら暦やらの計算は苦手です…。頭が痛くなってくる(笑)
(PC)
24 ストラップ
>>23
「景初三年正月丁亥朔、帝甚病」
と、239年の正月一日に病気になったと「三帝紀 斉王紀」でも書いてありますし、こちらは間違いなさそうですね。
>>22
養子の件は同じく「三帝紀 斉王紀」の冒頭にありますね。
「明帝無子、養王及秦王ジュン」
この後、青龍三年の記事が続きますから、235年以前の事柄という事でしょうね。
今更ながら心配になったのですが、>>21の計算、あってますよね?とりあえず、206年生まれ説を。
206:1歳
207:2歳
208:3歳
209:4歳
210:5歳
------
215:10歳
220:15歳
235:30歳
239:34歳
「景初三年正月丁亥朔、帝甚病」
と、239年の正月一日に病気になったと「三帝紀 斉王紀」でも書いてありますし、こちらは間違いなさそうですね。
>>22
養子の件は同じく「三帝紀 斉王紀」の冒頭にありますね。
「明帝無子、養王及秦王ジュン」
この後、青龍三年の記事が続きますから、235年以前の事柄という事でしょうね。
今更ながら心配になったのですが、>>21の計算、あってますよね?とりあえず、206年生まれ説を。
206:1歳
207:2歳
208:3歳
209:4歳
210:5歳
------
215:10歳
220:15歳
235:30歳
239:34歳
(PC)
25 朱家
日本語は難しい…
注釈は「204年に結婚したんだから、205年生まれで……」であってますよね?
205年生まれの根拠がないですし「205年生まれだから、没年36才にならない」ではなく「204年に生まれるはずがないから、没年36才にならない」と解釈してます。
例えばですが、皇帝として、若くして養子を取る事は、不名誉みたいな感覚があったとか…もしくは、皇帝の体調が優れない事を公表してるような感じになるとか…
まあ、近い時代の裴松之が計算しても、36才にならないのであれば、誤記、もしくは何らかの理由で改竄されたと思います。204年生まれは、もっと肯定しづらいですからね。
注釈は「204年に結婚したんだから、205年生まれで……」であってますよね?
205年生まれの根拠がないですし「205年生まれだから、没年36才にならない」ではなく「204年に生まれるはずがないから、没年36才にならない」と解釈してます。
例えばですが、皇帝として、若くして養子を取る事は、不名誉みたいな感覚があったとか…もしくは、皇帝の体調が優れない事を公表してるような感じになるとか…
まあ、近い時代の裴松之が計算しても、36才にならないのであれば、誤記、もしくは何らかの理由で改竄されたと思います。204年生まれは、もっと肯定しづらいですからね。
(W32K/au)
26 ストラップ
>>25
あの部分の原文を書いて見ましょうか。
臣松之按、魏武以建安九年八月定ギョウ、文帝始納甄后、明帝応以十年生、計至此年正月、整三十四年耳。時改正朔、以故年十二月為今年正月、可彊名三十五年、不得三十六也。
「明帝応以十年生」の解釈ですが、「応」の字が有りますから、「明帝はまさに十年に生まれた」とすべきなのではと思います。
尚、ちくま訳では
「明帝は建安十年に生まれたはずであり」
となっていますよ。
あの部分の原文を書いて見ましょうか。
臣松之按、魏武以建安九年八月定ギョウ、文帝始納甄后、明帝応以十年生、計至此年正月、整三十四年耳。時改正朔、以故年十二月為今年正月、可彊名三十五年、不得三十六也。
「明帝応以十年生」の解釈ですが、「応」の字が有りますから、「明帝はまさに十年に生まれた」とすべきなのではと思います。
尚、ちくま訳では
「明帝は建安十年に生まれたはずであり」
となっていますよ。
(PC)
27 赤龍
>>25
裴松之の意見と御自分の意見をわけてよく考えてください。
裴松之の注は、あくまで裴松之の意見であり、彼は205年生まれと考えている。それは>>26の原文からも明らか。
朱家さんは、204年8月に結婚したから、205年に生まれたというのは根拠に欠ける。裴松之の文章は205年以降に生まれたとする根拠にしかならないと考える。
それはそれで最もなご意見ですが、だから裴松之は205年説ではないというのは論の飛躍。もしくは、自説に都合のいいように読みすぎです。まず自説ありきが強すぎると、史料がそうとしか読めなくなることはよくあることなので要注意ですね。
裴松之の意見と御自分の意見をわけてよく考えてください。
裴松之の注は、あくまで裴松之の意見であり、彼は205年生まれと考えている。それは>>26の原文からも明らか。
朱家さんは、204年8月に結婚したから、205年に生まれたというのは根拠に欠ける。裴松之の文章は205年以降に生まれたとする根拠にしかならないと考える。
それはそれで最もなご意見ですが、だから裴松之は205年説ではないというのは論の飛躍。もしくは、自説に都合のいいように読みすぎです。まず自説ありきが強すぎると、史料がそうとしか読めなくなることはよくあることなので要注意ですね。
(PC)
28 ストラップ
整理してみましょう。
説としては、
・「三年春正月丁亥(略)即日、帝崩于嘉福殿。時年三十六」に基づく204年生まれ説。
・>>26に原文を書いた裴松之の205年生まれ説。
・>>20-21の「武徳侯」に封じられた年齢に関する記述を根拠にした206年生まれ説。
と三つある訳ですね。
204年生まれ説は何度も言う様に奇妙な点が多い様に思います。
205年説は、裴松之のソースが不明なだけに、これも信用するにはちょいと足りない。
今一番信頼できそうなのは、206年生まれ説かなぁとは印象持っていますが、どうなのでしょうか。
裴松之が205年生まれを主張するソースがどなたか解りますか?
説としては、
・「三年春正月丁亥(略)即日、帝崩于嘉福殿。時年三十六」に基づく204年生まれ説。
・>>26に原文を書いた裴松之の205年生まれ説。
・>>20-21の「武徳侯」に封じられた年齢に関する記述を根拠にした206年生まれ説。
と三つある訳ですね。
204年生まれ説は何度も言う様に奇妙な点が多い様に思います。
205年説は、裴松之のソースが不明なだけに、これも信用するにはちょいと足りない。
今一番信頼できそうなのは、206年生まれ説かなぁとは印象持っていますが、どうなのでしょうか。
裴松之が205年生まれを主張するソースがどなたか解りますか?
(PC)
30 朱家
誤解されるような書き方で、申し訳ないです。
この注釈は、曹叡の年齢に対するもので、205年以降の生まれであれば、結論に矛盾は生じないとの意味です。裴松之は、没年36才ではない事を主張したい訳ですよね?裴松之が205年説というのは異論がありませんが、結論が「36才ではない」であって「205年生まれである」ではないですよね。私の国語力不足でしょうか?
裴松之は205年生まれを証明してる訳ではないので、計算は参考にすべきですが、曹叡の年齢を議論する上で、必要ないのでは?と言いたかったのです。
とりあえず、証明になりませんが、現代の一般的な書だと、205年生まれと記載するか、生年を記載しないで没年36才ですね。前期のほうが多いように感じます。
この注釈は、曹叡の年齢に対するもので、205年以降の生まれであれば、結論に矛盾は生じないとの意味です。裴松之は、没年36才ではない事を主張したい訳ですよね?裴松之が205年説というのは異論がありませんが、結論が「36才ではない」であって「205年生まれである」ではないですよね。私の国語力不足でしょうか?
裴松之は205年生まれを証明してる訳ではないので、計算は参考にすべきですが、曹叡の年齢を議論する上で、必要ないのでは?と言いたかったのです。
とりあえず、証明になりませんが、現代の一般的な書だと、205年生まれと記載するか、生年を記載しないで没年36才ですね。前期のほうが多いように感じます。
(W32K/au)
31 赤龍
>>30
ややこしくなりそうなので、裴松之のいっていることをまとめますね。
明帝は205年にうまれたはずだから、34歳、もしくは無理に数えると35歳である。そのため、36歳にはならない。
これが、裴松之の考え。「205年以降の生まれであるので、36歳ではない」という主張ではありません。
裴松之の意見と、その考えの根拠や、是非、どこまで参考にすべきか?というのはまた別の問題。そこら辺をはっきり分けなければ、読む者に誤解を生むものになります。
ややこしくなりそうなので、裴松之のいっていることをまとめますね。
明帝は205年にうまれたはずだから、34歳、もしくは無理に数えると35歳である。そのため、36歳にはならない。
これが、裴松之の考え。「205年以降の生まれであるので、36歳ではない」という主張ではありません。
裴松之の意見と、その考えの根拠や、是非、どこまで参考にすべきか?というのはまた別の問題。そこら辺をはっきり分けなければ、読む者に誤解を生むものになります。
(PC)
32 赤龍
もう一度>>25をまとめますと、
「205年生まれだから、没年36才にならない」というのが裴松之の意見。
一方、205年に生まれたというのは根拠に乏しく、ここから言えることは「204年に生まれるはずがないから、没年36才にならない」でしかない。というのが裴松之の注に対する朱家さんの意見。
ここを明確に分けずに議論を進めているあたりが混乱を生む原因でしょうね。
ところで、明帝の子の話題もあがってましたが、大和五年七月に生まれた「皇子殷」はどうなったんでしょうね。この後の消息が不明ですから。夭折したのか、何らかの原因で太子にするのに不適当だったのか?
「205年生まれだから、没年36才にならない」というのが裴松之の意見。
一方、205年に生まれたというのは根拠に乏しく、ここから言えることは「204年に生まれるはずがないから、没年36才にならない」でしかない。というのが裴松之の注に対する朱家さんの意見。
ここを明確に分けずに議論を進めているあたりが混乱を生む原因でしょうね。
ところで、明帝の子の話題もあがってましたが、大和五年七月に生まれた「皇子殷」はどうなったんでしょうね。この後の消息が不明ですから。夭折したのか、何らかの原因で太子にするのに不適当だったのか?
(PC)
33 赤龍
連続ですいません。
『三国志集解』調べてたら、またもや困った記事が。
魏志常林伝の注の『魏書』に、吉茂という人物が武徳侯の庶子(官名だそうです)になり、建安22年(217)一族の吉本の事件に連坐して逮捕されたと書かれています。これを信じると曹叡は建安22年すでに武徳侯であったことになり、206年生まれの根拠である、220年に15歳で武徳侯に封ぜられたというのも怪しくなってしまいます。
さらに、吉本らの反乱は武帝紀によると建安23年(218)正月。もしこの年の頭武徳侯になり、同時に常林がその庶子となり、直後吉本の反乱とすれば、かなりのハードスケジュールですが、ぎりぎり204年生まれで、15歳に武徳侯というのが辻褄があってしまう。
なにが正しいのかどんどん分からなくなってくる。いったいこの人なんなんでしょうね(笑)
『三国志集解』調べてたら、またもや困った記事が。
魏志常林伝の注の『魏書』に、吉茂という人物が武徳侯の庶子(官名だそうです)になり、建安22年(217)一族の吉本の事件に連坐して逮捕されたと書かれています。これを信じると曹叡は建安22年すでに武徳侯であったことになり、206年生まれの根拠である、220年に15歳で武徳侯に封ぜられたというのも怪しくなってしまいます。
さらに、吉本らの反乱は武帝紀によると建安23年(218)正月。もしこの年の頭武徳侯になり、同時に常林がその庶子となり、直後吉本の反乱とすれば、かなりのハードスケジュールですが、ぎりぎり204年生まれで、15歳に武徳侯というのが辻褄があってしまう。
なにが正しいのかどんどん分からなくなってくる。いったいこの人なんなんでしょうね(笑)
(PC)
34 ストラップ
(F2102V/FOMA)
35 朱家
赤龍さんありがとうございます。
「206年は武徳侯の根拠があるが、裴松之の205年は根拠がない」これだけで良かった…気を付けなければなりませんね。
曹殷は翌年に死んでます。232年だと確か娘も死んでましたね。ダメージが大きそうです。
さて、218年に武徳侯だとすると、与えたのは曹操ですよね?曹叡が20才ぐらいや、次期継承権を持ってるなら不思議ではありませんが、若年での爵位は有り得るのでしょうか?与えるなら曹丕だろうとの先入観があって、否定できるとすれば15才の方だろうと思ってたので、ちょっと驚きですね。
「206年は武徳侯の根拠があるが、裴松之の205年は根拠がない」これだけで良かった…気を付けなければなりませんね。
曹殷は翌年に死んでます。232年だと確か娘も死んでましたね。ダメージが大きそうです。
さて、218年に武徳侯だとすると、与えたのは曹操ですよね?曹叡が20才ぐらいや、次期継承権を持ってるなら不思議ではありませんが、若年での爵位は有り得るのでしょうか?与えるなら曹丕だろうとの先入観があって、否定できるとすれば15才の方だろうと思ってたので、ちょっと驚きですね。
(W32K/au)
36 赤龍
>>35
あ、ほんとうだ。曹殷の事次の頁見たらちゃんと書いてありました。ご指摘感謝です。
当時の曹氏がどれぐらいの歳から侯に封ぜられたかはよくわかんないですが、216年の魏王就任にともなってか、この年と翌年にかけて曹操の子供たちのほとんどが、諸侯に取り立てられるか、国がえを行なうかされており、曹氏の一族に大量に爵位が与えられていることがわかります。しかも曹丕は217年に太子に定められ、曹叡はその長子。この時期の人事で曹叡も一緒に侯に封ぜられた可能性もあるかもしれないと推測もできます。
あ、ほんとうだ。曹殷の事次の頁見たらちゃんと書いてありました。ご指摘感謝です。
当時の曹氏がどれぐらいの歳から侯に封ぜられたかはよくわかんないですが、216年の魏王就任にともなってか、この年と翌年にかけて曹操の子供たちのほとんどが、諸侯に取り立てられるか、国がえを行なうかされており、曹氏の一族に大量に爵位が与えられていることがわかります。しかも曹丕は217年に太子に定められ、曹叡はその長子。この時期の人事で曹叡も一緒に侯に封ぜられた可能性もあるかもしれないと推測もできます。
(PC)
37 赤龍
曹叡の生年に関する問題について、勝手にブログの方にこれまでの話をまとめてみました。
途中で腹へって後半やや適当になっちゃいましたが(笑)
かなり私の考えに偏ってるとは思いますが、これから討論に参加される方に参考になればと。
途中で腹へって後半やや適当になっちゃいましたが(笑)
かなり私の考えに偏ってるとは思いますが、これから討論に参加される方に参考になればと。
(PC)
38 天草
>>37
ブログの場所を知らない方の為に、誘導しておきます。
三国志博物館集解
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/
私も彼の年齢の件で少し乗り遅れてましたが、今回の赤龍サンの記事で、ようやく分かってきました。
ブログの場所を知らない方の為に、誘導しておきます。
三国志博物館集解
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/
私も彼の年齢の件で少し乗り遅れてましたが、今回の赤龍サンの記事で、ようやく分かってきました。
(PC)
39 朱家
確かに太子指名は引っ掛かりますね。
武徳侯の等級って分かりますか?曹操だと、実子と同格は無いと思うんですよね。功臣と同格も無いかなと…
まあ、感覚的なものでしかありませんが。
私的には、没年36才は否定したくないんですよ。ほとんどの人物が没年を基準としてますからね。
注釈無視ですが、蘇由あたりが甄夫人を連れて降伏してないかなと…袁尚は不在ですしね。まあ手土産なら、劉夫人も連れてくはずで、それだと本文に残ると思いますし、無理矢理ですね(笑)
武徳侯の等級って分かりますか?曹操だと、実子と同格は無いと思うんですよね。功臣と同格も無いかなと…
まあ、感覚的なものでしかありませんが。
私的には、没年36才は否定したくないんですよ。ほとんどの人物が没年を基準としてますからね。
注釈無視ですが、蘇由あたりが甄夫人を連れて降伏してないかなと…袁尚は不在ですしね。まあ手土産なら、劉夫人も連れてくはずで、それだと本文に残ると思いますし、無理矢理ですね(笑)
(W32K/au)
(PC)
41 珠樹
一つ申し上げたいのですが、ここは「明帝の事績を語るスレッド」ではないのですか?
明帝を語る際に生年の問題が出るのは仕方のないことですが、スレッド内容が指定されている以上、それから外れて延々と議論が続くのは、いかがなものでしょうか。
生年については、別にきちんと項目を立て、そこで討論なさって下さい。
さて、「遼東遠征は司馬懿の名声を高めただけだった」というのは、少々(後代から見た)結果論にすぎるのではないでしょうか。
そもそも遼東制圧の遠因は、公孫淵が呉と誼を通じようとしたことにあります。
華北を統一した魏にとって、もはや遼東は同盟価値がなく、目障りになっていたと考えられます。魏が遼東を攻めるのは、必然だったのではないでしょうか?
『魏志』明帝紀や『晋書』宣帝紀では、明帝が廷臣たちの反対を押し切って遠征の準備・継続を命じ、「司馬公は自在に兵を用いる人だ。彼に任せておけば心配ない」とまで言っています。(重臣たちの遠征反対の理由は、明帝の造作による出費にあったのですが…)
画餅の故事もありますが、明帝は実際に能力を目にしてから信任するタイプのようです。
明帝を語る際に生年の問題が出るのは仕方のないことですが、スレッド内容が指定されている以上、それから外れて延々と議論が続くのは、いかがなものでしょうか。
生年については、別にきちんと項目を立て、そこで討論なさって下さい。
さて、「遼東遠征は司馬懿の名声を高めただけだった」というのは、少々(後代から見た)結果論にすぎるのではないでしょうか。
そもそも遼東制圧の遠因は、公孫淵が呉と誼を通じようとしたことにあります。
華北を統一した魏にとって、もはや遼東は同盟価値がなく、目障りになっていたと考えられます。魏が遼東を攻めるのは、必然だったのではないでしょうか?
『魏志』明帝紀や『晋書』宣帝紀では、明帝が廷臣たちの反対を押し切って遠征の準備・継続を命じ、「司馬公は自在に兵を用いる人だ。彼に任せておけば心配ない」とまで言っています。(重臣たちの遠征反対の理由は、明帝の造作による出費にあったのですが…)
画餅の故事もありますが、明帝は実際に能力を目にしてから信任するタイプのようです。
(F902i/FOMA)
42 しす
>>41
珠樹さん、はじめまして。
このスレに限ったことではありませんが、この討論場では各人物のスレはその人物全般を扱うものとして扱っていただくようにお願いしています。
ですので曹叡の生年に関しても、皆さんがこちらで議論されることをご理解ねがいたいと思います。
珠樹さん、はじめまして。
このスレに限ったことではありませんが、この討論場では各人物のスレはその人物全般を扱うものとして扱っていただくようにお願いしています。
ですので曹叡の生年に関しても、皆さんがこちらで議論されることをご理解ねがいたいと思います。
(PC)
43 飛燕
>>41
はじめまして☆
こういうのもなんですが、いまいち何を言わんとしてるかわかりません(僕の国語能力の無さかもしれませんが・汗)
遼東遠征が"司馬懿の名声を高めただけ"でないなら、珠樹さんはどういう風に受け取っているのですか?
必然ではよくわかりませんし、それだけでは上記の見解を否定するには至らないのでは?
公孫氏が目障りなら、曹操・曹丕で征伐すると僕は思います。いずれ征伐すると思っていても、積極的ではなっかたはず。「公孫度伝」では、曹丕は即位するとすぐ公孫恭に使者を送ってます。同盟も魏から進んで、という形では?
必然、といってもそんなに強い必然ではないかと(細かいですが・汗)
はじめまして☆
こういうのもなんですが、いまいち何を言わんとしてるかわかりません(僕の国語能力の無さかもしれませんが・汗)
遼東遠征が"司馬懿の名声を高めただけ"でないなら、珠樹さんはどういう風に受け取っているのですか?
必然ではよくわかりませんし、それだけでは上記の見解を否定するには至らないのでは?
公孫氏が目障りなら、曹操・曹丕で征伐すると僕は思います。いずれ征伐すると思っていても、積極的ではなっかたはず。「公孫度伝」では、曹丕は即位するとすぐ公孫恭に使者を送ってます。同盟も魏から進んで、という形では?
必然、といってもそんなに強い必然ではないかと(細かいですが・汗)
(PC)
44 バンビ
前のスレで武徳侯の庶子という官職があると書いてありましたが、ただ単に曹叡の庶子になっただけで実は武徳侯の爵位を曹叡がなる前なのに書いてしまった又は書いたって事はないですかね(汗)
それか、正史の記述を見てないので違うと思いますが誤記で吉本の反乱自体が二一七年ではなく二二七年とかってのはありえませんかね?笑
駄文で長々と只の仮説で根拠は全くないスレ失礼。
それか、正史の記述を見てないので違うと思いますが誤記で吉本の反乱自体が二一七年ではなく二二七年とかってのはありえませんかね?笑
駄文で長々と只の仮説で根拠は全くないスレ失礼。
(W54T/au)
45 諏訪
>>44
庶子は諸侯王につく官ですから、爵位をもらう前の曹叡に庶子がつくことはありません。
また吉本は後漢の大医令でしたから、乱を起こしたのが後漢滅亡後の227年というのもありえません。『三国志』武帝紀や『後漢書』献帝紀に従って218年と考えるべきでしょう。
庶子は諸侯王につく官ですから、爵位をもらう前の曹叡に庶子がつくことはありません。
また吉本は後漢の大医令でしたから、乱を起こしたのが後漢滅亡後の227年というのもありえません。『三国志』武帝紀や『後漢書』献帝紀に従って218年と考えるべきでしょう。
(W51S/au)
46 諏訪
常林伝注の『魏略』には、吉茂が武徳侯庶子になったという記述の後に「(建安)二十二年(217)、一族の吉本らが乱を起こしたのに連座して逮捕された」と記されていることから、曹叡が武徳侯に封じられたのが吉本の乱以前のようにもみえますが、はたしてこの記述はどこまで信用できるでしょうか。
まず吉本の乱が217年のことになっていますし、また後に吉茂が武陵太守に任命されたことが記されていますが、この頃劉備または孫権領になっているはずの武陵郡の太守に任命されるのもおかしな話です。
吉茂が武徳侯庶子になったという記述も、たまたま吉本の乱の前に紛れ込んでしまったのではないかとも考えられます(こういった時系列の混乱は時々みられます)
曹操の時代に太子の子である曹叡が侯に封じられるのも考えにくいですし、曹叡が武徳侯に封じられたのは「文帝紀」の220年5月とするのが妥当なのではないかと私は思います。
まず吉本の乱が217年のことになっていますし、また後に吉茂が武陵太守に任命されたことが記されていますが、この頃劉備または孫権領になっているはずの武陵郡の太守に任命されるのもおかしな話です。
吉茂が武徳侯庶子になったという記述も、たまたま吉本の乱の前に紛れ込んでしまったのではないかとも考えられます(こういった時系列の混乱は時々みられます)
曹操の時代に太子の子である曹叡が侯に封じられるのも考えにくいですし、曹叡が武徳侯に封じられたのは「文帝紀」の220年5月とするのが妥当なのではないかと私は思います。
(W51S/au)