3 赤龍
関中というと、長安周辺の胃水盆地。周囲を函谷関、散関、武関、蕭関といった関でかこまれた土地であることからこうよばれます。守るに適した地と言われますね。
後漢時代では辺地ぽいイメージもありますが(董卓以降の荒廃も大きいでしょうね)、前漢では立派な首都圏。本来は割と重要な地であるはずです。
後漢時代では辺地ぽいイメージもありますが(董卓以降の荒廃も大きいでしょうね)、前漢では立派な首都圏。本来は割と重要な地であるはずです。
(PC)
4 劉
>>3
"始まりの都"ってことですよね???なんかの本で読んだ覚えがあるのですが…、"前漢国都の長安周辺は土地が痩せており(塩を多く含み稲作が難しい)、周りに燃料となる資材が少ないために洛陽へ…"
みたいな文を読んだことがあるのですが…
"始まりの都"ってことですよね???なんかの本で読んだ覚えがあるのですが…、"前漢国都の長安周辺は土地が痩せており(塩を多く含み稲作が難しい)、周りに燃料となる資材が少ないために洛陽へ…"
みたいな文を読んだことがあるのですが…
(W32SA/au)
5 よっち
初めまして!以後よろしくですm(__)m
劉さんの言ってたことは、横山三国志で書いてありますよ!
確かホウ徳が馬超に土が固くて水も塩辛い、あとは周りの山は木が少なく常に燃料不足になります。って言ってた気がします!
違ったら申し訳ないです(;^_^A
劉さんの言ってたことは、横山三国志で書いてありますよ!
確かホウ徳が馬超に土が固くて水も塩辛い、あとは周りの山は木が少なく常に燃料不足になります。って言ってた気がします!
違ったら申し訳ないです(;^_^A
(N900iS/FOMA)
7 赤龍
張魯伝調べてて気付いたんですが、馬超の反乱に参加した関中諸将のうちの程銀、侯選、李堪は河東出身のようです。
つまり、ドウ関以東の豪族だったのです。
彼ら一般にはみんな涼州の人というイメージですが、これは完全に涼州の人ではないですね。
馬超の反乱に呼応した関中の諸将というのはかなり広い範囲に分布してたということになりますね。
つまり、ドウ関以東の豪族だったのです。
彼ら一般にはみんな涼州の人というイメージですが、これは完全に涼州の人ではないですね。
馬超の反乱に呼応した関中の諸将というのはかなり広い範囲に分布してたということになりますね。
(PC)
9 巫俊(ふしゅん)
曹操と馬超は最初「関外」で戦っているんですよね。
関中は四方を峻険な山々によって隔てられているんですが、狭い出入り口を通して外の四方と結びついているんです。
それで馬超は黄河の渡し場の付近で曹操を襲撃した許猪大活躍の故事がありますけど、もし曹操を挟撃するとしたら、河東郡の帰属が重要になってきますね。
このときの太守ってだれでしたっけ?
(河東は黄河の東の地という意味で山西省の南部。)
あと馬超たちは袁尚戦争のときに河東郡で曹操軍の一員として働いていますね。
曹操軍というより朝廷軍の一員というニュアンスなんでしょうけど。
あと河東には匈奴の軍勢も何万といますし。
関中は四方を峻険な山々によって隔てられているんですが、狭い出入り口を通して外の四方と結びついているんです。
それで馬超は黄河の渡し場の付近で曹操を襲撃した許猪大活躍の故事がありますけど、もし曹操を挟撃するとしたら、河東郡の帰属が重要になってきますね。
このときの太守ってだれでしたっけ?
(河東は黄河の東の地という意味で山西省の南部。)
あと馬超たちは袁尚戦争のときに河東郡で曹操軍の一員として働いていますね。
曹操軍というより朝廷軍の一員というニュアンスなんでしょうけど。
あと河東には匈奴の軍勢も何万といますし。
(PC)
10 赤龍
>>8
河東郡はドウ関以東ですが、地理的には渭水盆地とひとつづきの土地であり、函谷関以西でもあり、関中の範囲に含めて考えてもいいんじゃないでしょうか?
つまり、関中といっても結構広いということです。馬超の連合軍は涼州から河東まで、その広い範囲の豪族が集まった混成軍だったのでしょうね。
そうした中小勢力の連合ですから、挟撃するにもしっかりした連携がとれるか疑問ですし、個々の勢力はさほど大規模でないため、逆に各個撃破されることも容易に考えられます。
河東郡はドウ関以東ですが、地理的には渭水盆地とひとつづきの土地であり、函谷関以西でもあり、関中の範囲に含めて考えてもいいんじゃないでしょうか?
つまり、関中といっても結構広いということです。馬超の連合軍は涼州から河東まで、その広い範囲の豪族が集まった混成軍だったのでしょうね。
そうした中小勢力の連合ですから、挟撃するにもしっかりした連携がとれるか疑問ですし、個々の勢力はさほど大規模でないため、逆に各個撃破されることも容易に考えられます。
(PC)
11 赤龍
>>9
馬超反乱時の河東郡太守は杜畿です。杜畿伝を見ますと、河東を関西といっており、やはり関中に含まれる地域と認識されてたようです。
杜畿伝によると、馬超の反乱の際に弘農郡でも県や邑を挙げて呼応するものが多かったと書かれています。もっとも、その直後に書かれた「河東郡は賊と境を接していたけれども二心をもつ人民はいなかった」というのは>>7で見たように怪しいですね。
馬超反乱時の河東郡太守は杜畿です。杜畿伝を見ますと、河東を関西といっており、やはり関中に含まれる地域と認識されてたようです。
杜畿伝によると、馬超の反乱の際に弘農郡でも県や邑を挙げて呼応するものが多かったと書かれています。もっとも、その直後に書かれた「河東郡は賊と境を接していたけれども二心をもつ人民はいなかった」というのは>>7で見たように怪しいですね。
(PC)
12 劉
>>10
なるほど!たしかに離れてたら、連携なんてとれませんからね。なんか惜しい事だったかもしれませんね。長安辺りまで引き付け、河東の軍勢で兵糧を奪い取り、長安より馬超本隊…、まぁそんなことは曹操予測済みなんでしょう。孫権を上手く使う事はできなかったんでしょうかね?天下二分の計みたいな感じに。
なるほど!たしかに離れてたら、連携なんてとれませんからね。なんか惜しい事だったかもしれませんね。長安辺りまで引き付け、河東の軍勢で兵糧を奪い取り、長安より馬超本隊…、まぁそんなことは曹操予測済みなんでしょう。孫権を上手く使う事はできなかったんでしょうかね?天下二分の計みたいな感じに。
(W32SA/au)
13 赤龍
>>12
孫権との連携、それこそ離れすぎていて難しいんじゃないでしょうか?
また、周瑜の天下二分の計が天下を見据えた戦略のもとにあるものに対し、馬超の反乱は曹操の関中への進出を危険視しての反抗であり、眼前の問題への対応。こちらはそんなに広い視野の戦略は持ちえてなかったと思います。
孫権との連携、それこそ離れすぎていて難しいんじゃないでしょうか?
また、周瑜の天下二分の計が天下を見据えた戦略のもとにあるものに対し、馬超の反乱は曹操の関中への進出を危険視しての反抗であり、眼前の問題への対応。こちらはそんなに広い視野の戦略は持ちえてなかったと思います。
(PC)
15 天草
>>14
涼州の猛将の名ばかり…
もしかしたら、これも我々の思い込みかも知れませんよね?
彼らが猛将だったとかいう内容はあまり見られない様に思えます。
確かに、関中や涼州の人間は勇猛なイメージがありますよね。
武闘派集団的イメージは董卓の影響なのかな?
涼州の猛将の名ばかり…
もしかしたら、これも我々の思い込みかも知れませんよね?
彼らが猛将だったとかいう内容はあまり見られない様に思えます。
確かに、関中や涼州の人間は勇猛なイメージがありますよね。
武闘派集団的イメージは董卓の影響なのかな?
(N902i/FOMA)
16 劉
>>15
よく三国志関連の本には、涼州の武将は蛮勇かつ、血の気が多い人物として書かれますが、なにがそうさせているんでしょうか?天草さんが言われている、童卓の影響をモロに受けているからかな。それとも、涼州=駿馬だから?
よく三国志関連の本には、涼州の武将は蛮勇かつ、血の気が多い人物として書かれますが、なにがそうさせているんでしょうか?天草さんが言われている、童卓の影響をモロに受けているからかな。それとも、涼州=駿馬だから?
(W32SA/au)
17 赤龍
もともと、「山東は相を出し、山西は将を出す」といわれ、関中は武勇に優れた人を多く輩出することで有名でした。
また、特に関中でも天水、安定などの六郡は異民族とも接し、武勇に優れたことで知られていました。そのため、漢代では皇帝の近衛兵的存在の羽林の兵をこの六郡の良家の子弟から選抜していました。
ちなみに、あの董卓も羽林郎に選ばれてます。
当時の人達にとっても、関中・涼州=勇猛というイメージはあったでしょうね。
また、特に関中でも天水、安定などの六郡は異民族とも接し、武勇に優れたことで知られていました。そのため、漢代では皇帝の近衛兵的存在の羽林の兵をこの六郡の良家の子弟から選抜していました。
ちなみに、あの董卓も羽林郎に選ばれてます。
当時の人達にとっても、関中・涼州=勇猛というイメージはあったでしょうね。
(PC)
18 五
イメージってのはあるでしょうね。ただ実際は頭のいい人も一杯いましたから、涼州出身だからってみんながみんな勇猛ってわけじゃないと思いますよ。董卓そのものも、頭が悪いわけじゃありませんからね。暴君ってのは、人一倍狡猾でそれなりに知恵が回らないとなれませんから。それに、確か曹操幕下の賈クも涼州出身のはずです。
(P902i/FOMA)
19 巫俊(ふしゅん)
後漢時代の涼州は羌族との抗争が長く続いていましたから、勇気によって立身する人たちが雨後の筍のように生まれても自然ですよね。
県で変事が起こったりして、若い者が否応なく武器を手にとり、その結果成功した人たちが県令に功績を認められたり、衆望を集めたりして、官吏出世コースに入ったりします。
馬騰とかがそうだったような。
県で変事が起こったりして、若い者が否応なく武器を手にとり、その結果成功した人たちが県令に功績を認められたり、衆望を集めたりして、官吏出世コースに入ったりします。
馬騰とかがそうだったような。
(PC)
21 赤龍
馬超の反乱の際、曹操は「関西の兵は精悍」と言っており、また多くの人も「関西の兵は強く、長矛の扱いに習熟し」と言っています。
当時の人たちにとっても、やはり関中の兵は全国的にもトップクラスの強さと認識されてたようですね。
ところで、わざわざ「長矛」とあげられてるのは、この地の兵の特徴だったんでしょうか?
なお、よく読み返したら説明無しで使ってましたが、関中=関西=山西と、ほぼ同じ地域を指している言葉です。
当時の人たちにとっても、やはり関中の兵は全国的にもトップクラスの強さと認識されてたようですね。
ところで、わざわざ「長矛」とあげられてるのは、この地の兵の特徴だったんでしょうか?
なお、よく読み返したら説明無しで使ってましたが、関中=関西=山西と、ほぼ同じ地域を指している言葉です。
(PC)
23 五
まあ、物心つくころから馬に接していた人達と、馬なんか普通は競馬場でしか見ない私達を比較してもあまり正確な答えは得られないとは思いますが、やっぱり馬上での武器(槍や長矛)の使用はかなり厳しいでしょうね。
(P902i/FOMA)
24 しす
>>22-23
長矛は西洋で言えばパイク、日本で言えば長柄槍。
端から騎乗で使用する武器ではありませんよ。
>>21
飽くまで個人的な意見ですが、それって個々が長矛に習熟していたというよりも、古代ギリシャのファランクスのような長兵器による密集陣形による戦術が確立していた…という意味で捉えられないでしょうか。
長矛は西洋で言えばパイク、日本で言えば長柄槍。
端から騎乗で使用する武器ではありませんよ。
>>21
飽くまで個人的な意見ですが、それって個々が長矛に習熟していたというよりも、古代ギリシャのファランクスのような長兵器による密集陣形による戦術が確立していた…という意味で捉えられないでしょうか。
(PC)
27 赤龍
私も気になって少々調べて見ました。
発端は50年くらい前のイギリスの学者さんが発表した説だそうです。
カルラエの戦いでパルティアの捕虜となった者の中に、脱走したものがおり、その消息が不明である。
一方、陳湯伝に「歩兵百餘人夾門魚鱗陳」(魚鱗陣=ローマの亀甲隊形らしい)とか「土城外有重木城」(陣地を二重に囲むローマの戦術らしい)とかあることから、これが問題のローマ人脱走兵が東方に逃れたものだ。だそうで。
確かに相当胡散臭い、というか無茶な説ですね(笑)当然発表字は全く相手にされなかったらしい。
でも、現地では大事な観光資源ということで大々的にアピールしており、また田中芳樹なんかが自分の著作の中で紹介したりして、一部に広まってしまったらしいです。要は「青森にキリストが来た」レベルの話のようです。
発端は50年くらい前のイギリスの学者さんが発表した説だそうです。
カルラエの戦いでパルティアの捕虜となった者の中に、脱走したものがおり、その消息が不明である。
一方、陳湯伝に「歩兵百餘人夾門魚鱗陳」(魚鱗陣=ローマの亀甲隊形らしい)とか「土城外有重木城」(陣地を二重に囲むローマの戦術らしい)とかあることから、これが問題のローマ人脱走兵が東方に逃れたものだ。だそうで。
確かに相当胡散臭い、というか無茶な説ですね(笑)当然発表字は全く相手にされなかったらしい。
でも、現地では大事な観光資源ということで大々的にアピールしており、また田中芳樹なんかが自分の著作の中で紹介したりして、一部に広まってしまったらしいです。要は「青森にキリストが来た」レベルの話のようです。
(PC)
28 しす
>>25-27
ああ、私がファランクスなんて言葉を使ってしまったために余計な議論に巻き込んでしまいました。
申し訳ない(汗)
と言うか、私はそのファランクスを使うギリシャ人が降伏したという話すら知らなかったのですが(滝汗)
ああ、私がファランクスなんて言葉を使ってしまったために余計な議論に巻き込んでしまいました。
申し訳ない(汗)
と言うか、私はそのファランクスを使うギリシャ人が降伏したという話すら知らなかったのですが(滝汗)
(PC)
29 赤龍
私も初めて知った話です。胡散臭くてつい興味津々で(笑)
話をもどしますと「長矛の扱いに習熟し」というのが、長矛の使用がその地の兵の特徴だったのか?それとも「武器の扱いが巧み=戦なれした強兵」ということを示す表現なのかも?ということを考えて悩んでいます。
話をもどしますと「長矛の扱いに習熟し」というのが、長矛の使用がその地の兵の特徴だったのか?それとも「武器の扱いが巧み=戦なれした強兵」ということを示す表現なのかも?ということを考えて悩んでいます。
(PC)
30 巫俊(ふしゅん)
ギリシャ人じゃなくてローマ人説だったんですね。それもカエサルのいた時代のローマ兵だったという説。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/
ここで特集されてるみたいです。
別のページには長矛の集団使用説の紹介もある様子。
驪軒(漢字はこれとは少し違うけど)という甘粛省にかつてあった漢代の県はローマ人の集落だという説だそうですが、
驪軒(ローマという意味だとその説はいう)という言葉の謎は残ってしまうし、それとは全然関係ないにしても、魚鱗の陣を使う歩兵集団や木製の城を構築する技術など、断片的だしローマ人だとする必要もないのですが、
そういう記述からすると、西域には匈奴のような遊牧民だけでなく、漢人と同じ農耕をする民がいるという衝撃が漢側にあったものと思われます。
技術力ではトップクラスと漢人が思っているだけに、西方世界に何か別のものを発見するとそれはやっぱり衝撃でしょう。
漢とローマの関係と聞いてググッと心を動かされるのは、両方の歴史に通じている現代日本人だからですけど(笑)
大秦国(ローマ)とか大夏国(バクトリア、現在のウズベキスタン)とか、何故か中国王朝の名前で呼ばれていることにも留意した方がいいと思います。
そして他ならぬ大夏国というのが、ギリシャ人の建国した国家ですから。
アレキサンドロス大王(中国の戦国時代のときの人)が制圧して代官を置いたのがバクトリアで、もちろんバクトリアのギリシャ人は現地の民族と混交が進むのですが、考古学の発掘によって列記としたギリシャ文化の数々(神殿やゼウス像、文物、生活道具など)が中央アジアのこの地より見つかっています。
そして秦の時代、甘粛省一帯を支配していた月氏という遊牧民集団は、東は甘粛から西はバクトリアまでを勢力範囲にしていたと考えているのが小谷仲男氏(東方選書『大月氏』の著者)です。
槍や矛の類のものの新しい使い方が西方から伝わっても別段おかしなことではないと思うんです。
だって涼州の西部ってそもそも西方の月氏や匈奴の支配する地域だったんですから、漢人は入植する側だったわけです。
甘粛には前漢時代、国営の開発政策が積極的に振興されていました。
結局のところ、長矛とファランクスの関係なんて夢物語に過ぎないんですけど。
ほかならぬ剣自体が、かつて西方から中国に伝わったものですからね、ちょっと気になってしまうんです。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/
ここで特集されてるみたいです。
別のページには長矛の集団使用説の紹介もある様子。
驪軒(漢字はこれとは少し違うけど)という甘粛省にかつてあった漢代の県はローマ人の集落だという説だそうですが、
驪軒(ローマという意味だとその説はいう)という言葉の謎は残ってしまうし、それとは全然関係ないにしても、魚鱗の陣を使う歩兵集団や木製の城を構築する技術など、断片的だしローマ人だとする必要もないのですが、
そういう記述からすると、西域には匈奴のような遊牧民だけでなく、漢人と同じ農耕をする民がいるという衝撃が漢側にあったものと思われます。
技術力ではトップクラスと漢人が思っているだけに、西方世界に何か別のものを発見するとそれはやっぱり衝撃でしょう。
漢とローマの関係と聞いてググッと心を動かされるのは、両方の歴史に通じている現代日本人だからですけど(笑)
大秦国(ローマ)とか大夏国(バクトリア、現在のウズベキスタン)とか、何故か中国王朝の名前で呼ばれていることにも留意した方がいいと思います。
そして他ならぬ大夏国というのが、ギリシャ人の建国した国家ですから。
アレキサンドロス大王(中国の戦国時代のときの人)が制圧して代官を置いたのがバクトリアで、もちろんバクトリアのギリシャ人は現地の民族と混交が進むのですが、考古学の発掘によって列記としたギリシャ文化の数々(神殿やゼウス像、文物、生活道具など)が中央アジアのこの地より見つかっています。
そして秦の時代、甘粛省一帯を支配していた月氏という遊牧民集団は、東は甘粛から西はバクトリアまでを勢力範囲にしていたと考えているのが小谷仲男氏(東方選書『大月氏』の著者)です。
槍や矛の類のものの新しい使い方が西方から伝わっても別段おかしなことではないと思うんです。
だって涼州の西部ってそもそも西方の月氏や匈奴の支配する地域だったんですから、漢人は入植する側だったわけです。
甘粛には前漢時代、国営の開発政策が積極的に振興されていました。
結局のところ、長矛とファランクスの関係なんて夢物語に過ぎないんですけど。
ほかならぬ剣自体が、かつて西方から中国に伝わったものですからね、ちょっと気になってしまうんです。
(PC)
31 巫俊(ふしゅん)
>>10
河東が関中の範疇に入るというのは、考えたことがなかったです。
あまり現在の地理区分としても使いませんしね。
「関中」で二十四史を検索すると泡を吹くことになるので、試してませんが、関西はたしかに河東を包括するみたいです。
さて関中とか、関西とかの「関」とは函谷関という、関中平野と河南の洛陽地域を結ぶ山中の街道に設けられた関なわけです。
そこから「東」にある河東の郡治の位置がどうして関西になるのは長らく謎でしたが、2008年、タイムマシンの発明によってついに明らかになった...
じゃなくて(笑)違う違う。
要するに河東郡が設置されたのは、戦国時代後期の秦の政権によって、戦国魏の河東地域が制圧されたことにはじまりますが、明らかな関外なわけです。
司馬遷も、「河東と河内と河南は王者のいたところ」と書いているように、河東地域を河南地域といっしょに三晋地域として叙述しています。
どちらかというと、河東は広義の中原に入るんじゃないでしょうか?
で、本題ですが、漢代のいつか忘れましたが、なんと函谷関がほぼ112キロメートル前後東方に移動したという事実が発覚(笑)。生半可に古代の知識があるだけに騙されてました(笑)
まさかこんなに移動していたとはね。
河東郡のほとんどが、いつの間にか関西に化けているではないですか。
たまたま私の手元に、『中国歴史地図集』の、戦国魏韓のページと西晋司州のページのコピーがあるんですが、
定規で計測してみました。
戦国時代の時点の函谷関は、西晋時代における弘農郡の郡治の置かれた位置とほほ同じ地点なんですが、
西晋時代の函谷関は、112キロ前後東方に移動していて、ほとんど洛陽のすぐ手前の山中に置かれていたことが分かります。
おそらく曹操も移動した函谷間はこの洛陽の近くの位置の函谷関であって、
老子が函谷関の関守に老子経を伝授したりとか、孟嘗君が食客の鶏鳴狗盗の能力で函谷関を脱出したりとか、そういう漢代以前のエピソードに出てくる函谷関は別ということです。
故の函谷関とか呼ばなければいけないのかな、、、
河東が関中の範疇に入るというのは、考えたことがなかったです。
あまり現在の地理区分としても使いませんしね。
「関中」で二十四史を検索すると泡を吹くことになるので、試してませんが、関西はたしかに河東を包括するみたいです。
さて関中とか、関西とかの「関」とは函谷関という、関中平野と河南の洛陽地域を結ぶ山中の街道に設けられた関なわけです。
そこから「東」にある河東の郡治の位置がどうして関西になるのは長らく謎でしたが、2008年、タイムマシンの発明によってついに明らかになった...
じゃなくて(笑)違う違う。
要するに河東郡が設置されたのは、戦国時代後期の秦の政権によって、戦国魏の河東地域が制圧されたことにはじまりますが、明らかな関外なわけです。
司馬遷も、「河東と河内と河南は王者のいたところ」と書いているように、河東地域を河南地域といっしょに三晋地域として叙述しています。
どちらかというと、河東は広義の中原に入るんじゃないでしょうか?
で、本題ですが、漢代のいつか忘れましたが、なんと函谷関がほぼ112キロメートル前後東方に移動したという事実が発覚(笑)。生半可に古代の知識があるだけに騙されてました(笑)
まさかこんなに移動していたとはね。
河東郡のほとんどが、いつの間にか関西に化けているではないですか。
たまたま私の手元に、『中国歴史地図集』の、戦国魏韓のページと西晋司州のページのコピーがあるんですが、
定規で計測してみました。
戦国時代の時点の函谷関は、西晋時代における弘農郡の郡治の置かれた位置とほほ同じ地点なんですが、
西晋時代の函谷関は、112キロ前後東方に移動していて、ほとんど洛陽のすぐ手前の山中に置かれていたことが分かります。
おそらく曹操も移動した函谷間はこの洛陽の近くの位置の函谷関であって、
老子が函谷関の関守に老子経を伝授したりとか、孟嘗君が食客の鶏鳴狗盗の能力で函谷関を脱出したりとか、そういう漢代以前のエピソードに出てくる函谷関は別ということです。
故の函谷関とか呼ばなければいけないのかな、、、
(PC)
32 赤龍
函谷関の東遷は、漢の武帝の時ですよ。
『中国歴史地図集』は非常に便利な資料ですが、これの欠点は等高線が書かれていないこと。つまり、実際の地形がイメージできない。そのため、そうした地理・地形に基づいた理解がしづらいということです。
等高線のある地形図を参照すると、函谷関の位置云々以前の問題で、河東郡の中心地域が関中盆地とひとつづきの場所に位置することがわかります。そして、河南、河内とは山によって隔てられていることが。
河東郡の豪族達が、馬超ら関中諸将と行動を共にしたことは、単純な行政区分や地図の平面的理解でなく、実際の地形・地理の問題をふまえなくてはいけません。
『中国歴史地図集』は非常に便利な資料ですが、これの欠点は等高線が書かれていないこと。つまり、実際の地形がイメージできない。そのため、そうした地理・地形に基づいた理解がしづらいということです。
等高線のある地形図を参照すると、函谷関の位置云々以前の問題で、河東郡の中心地域が関中盆地とひとつづきの場所に位置することがわかります。そして、河南、河内とは山によって隔てられていることが。
河東郡の豪族達が、馬超ら関中諸将と行動を共にしたことは、単純な行政区分や地図の平面的理解でなく、実際の地形・地理の問題をふまえなくてはいけません。
(PC)
33 巫俊(ふしゅん)
>>32
いや、衛星写真を見てるので別段困らないですよ。
その論法でいくと、洛陽は四方のほとんどを山で囲まれているんで、中原ではないことになりますね。
グーグルマップのサテライトをよ〜く見てください。洛陽の東・南・西はもちろんのこと、北の黄河沿いさえも、少しの隙間をのぞいて山で仕切られていますよ。
いや、衛星写真を見てるので別段困らないですよ。
その論法でいくと、洛陽は四方のほとんどを山で囲まれているんで、中原ではないことになりますね。
グーグルマップのサテライトをよ〜く見てください。洛陽の東・南・西はもちろんのこと、北の黄河沿いさえも、少しの隙間をのぞいて山で仕切られていますよ。
(PC)
34 赤龍
>>33
洛陽は、一般的な地図を見ても、確かに周囲に山で囲まれてますが、東方はしっかり河北平原とつながってますよ。河北平原の西端という感じはしますが。
どうして、私の関中盆地と河東郡のつながりの話から、洛陽は中原でないという結論に達するのでしょうか?
洛陽は、一般的な地図を見ても、確かに周囲に山で囲まれてますが、東方はしっかり河北平原とつながってますよ。河北平原の西端という感じはしますが。
どうして、私の関中盆地と河東郡のつながりの話から、洛陽は中原でないという結論に達するのでしょうか?
(PC)
35 赤龍
一応、紹介されているグーグルの地図も見てみましたが、一応衛星写真では山にはなってますが、山のレベルが河東の例とははるかにちがいますね。
衛星写真は雰囲気つかみにはいいかもしれませんが、実際の標高などがはっきりわからないのが欠点でしょうか。
それに、河川による連続性も見落としてはいけません。この面でも、洛陽は河北平原とつながっていることは明白ですし、河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられると思います。
衛星写真は雰囲気つかみにはいいかもしれませんが、実際の標高などがはっきりわからないのが欠点でしょうか。
それに、河川による連続性も見落としてはいけません。この面でも、洛陽は河北平原とつながっていることは明白ですし、河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられると思います。
(PC)
36 赤龍
あ、衛星写真の問題に触れて、等高線の問題に触れないのはフェアじゃないので、こちらも説明を。
等高線の問題は、等高線の間隔をどの程度に設定するか?ということです。小さい遺跡を測量するのに、1m単位の等高線では遺跡の形がさっぱり伝わらないし、広い範囲の地形を見るのに25cm間隔では煩雑すぎて実態がつかめない。
なので、現場・用途に応じてそれに適した等高線が必要になるということ。逆にいえば、等高線の間隔を操作することで、自分に都合のいい地図さえ作ることができるということ。これについては、衛星写真のほうがごまかしはきかないという長所もありますね。
で、現在の河東郡と関中のような、広い範囲の地域のつながりを論じる場合は、やはりある程度広い間隔の等高線を使う事が有効となる。あまり細かく設定すると、断絶性ばかりが強調され「洛陽は中原では無い」というような結論に達してしまいますから。
ちなみに、学術的な資料では衛星写真を使わず、等高線の実測図が一般的なのは、>>35であげたように衛星写真ではあくまでアバウトな雰囲気しか伝えられない事があるためでしょう。勿論、そういう視点からも得られるものもあるでしょうが。
以上、余談でした。
等高線の問題は、等高線の間隔をどの程度に設定するか?ということです。小さい遺跡を測量するのに、1m単位の等高線では遺跡の形がさっぱり伝わらないし、広い範囲の地形を見るのに25cm間隔では煩雑すぎて実態がつかめない。
なので、現場・用途に応じてそれに適した等高線が必要になるということ。逆にいえば、等高線の間隔を操作することで、自分に都合のいい地図さえ作ることができるということ。これについては、衛星写真のほうがごまかしはきかないという長所もありますね。
で、現在の河東郡と関中のような、広い範囲の地域のつながりを論じる場合は、やはりある程度広い間隔の等高線を使う事が有効となる。あまり細かく設定すると、断絶性ばかりが強調され「洛陽は中原では無い」というような結論に達してしまいますから。
ちなみに、学術的な資料では衛星写真を使わず、等高線の実測図が一般的なのは、>>35であげたように衛星写真ではあくまでアバウトな雰囲気しか伝えられない事があるためでしょう。勿論、そういう視点からも得られるものもあるでしょうが。
以上、余談でした。
(PC)
37 巫俊(ふしゅん)
・中原について
「中原」という単語で全文検索してみて気付きましたが、この中原という言葉を具体的な区間をもって地理区分する言説はあまり見られないようですね。
主に古代の典籍ばかりを検索しましたので、穴は沢山あるでしょうが。
洛陽の例で分かるように、中原という言葉は遮るもののない平原として定義しようとすればするほど、東の方にずれていきます。
考えてみると、中原という言葉は、殷の甲骨文や西周の青銅器銘文には存在しない言葉なので、たぶんに後年になってつくられた言葉という気配がありますね。
具体的にいえば、春秋時代の中原の諸侯などがそれに該当するはずですが、左伝に一例だけある中原という言葉は、晋楚の決戦場を暗示する言葉として登場し、どうも河南の平原一帯を指しているようです。
先秦時代の研究では、洛陽以東を中原と呼ぶことがありますし、戦国の三晋も中原諸侯と呼ぶことも事実です。
「中原」という単語で全文検索してみて気付きましたが、この中原という言葉を具体的な区間をもって地理区分する言説はあまり見られないようですね。
主に古代の典籍ばかりを検索しましたので、穴は沢山あるでしょうが。
洛陽の例で分かるように、中原という言葉は遮るもののない平原として定義しようとすればするほど、東の方にずれていきます。
考えてみると、中原という言葉は、殷の甲骨文や西周の青銅器銘文には存在しない言葉なので、たぶんに後年になってつくられた言葉という気配がありますね。
具体的にいえば、春秋時代の中原の諸侯などがそれに該当するはずですが、左伝に一例だけある中原という言葉は、晋楚の決戦場を暗示する言葉として登場し、どうも河南の平原一帯を指しているようです。
先秦時代の研究では、洛陽以東を中原と呼ぶことがありますし、戦国の三晋も中原諸侯と呼ぶことも事実です。
(PC)
38 巫俊(ふしゅん)
>>36
私は等高線を使った研究は試したことがないのですけど、研究上の地域の区分なのは、まさしく断続か連続かの選択の連続でした。
河東地域と関中地域の関係についてもそれがいえますね。
『漢書』溝洫志の本文と注には、河東郡を関外として扱っているように感じますけど、水利の用語は煩雑でよく釈読できません。
どうやら河東郡を経由して関中の長安に穀物を移送するという話のようですが。
年号を確認したところ、武帝の元鼎年間より以前のようですね。
最初は関外だったということもお分かりいただけると思いますし、
『漢書』地理志では、河東と河内は魏地と書いてあります。
『史記』貨殖列伝では、三河の地は世界の中心であると書いてありますし、第一河東郡は帝堯の都の故地とされています上に、夏王朝の発祥の地でもありますから(もちろん伝承上の発祥地)、夏王朝を中原王朝と呼ぶ場合は、この河東の地も包括することは明確だと思います。
新石器時代の土器の研究では、河東と河南は二里頭文化を共有する地域で、土器の形式には密接な関連があります。
つまり、「中原」と河東の間には、インド亜大陸の衝突で形成された華北西部の険峻な地形をも越える人為の関係があったといえるでしょう。
交易は無論のこと、中原王朝や先秦時代の群雄(晋〜魏)は、河東と関中との関係よりも、河東と河内、河南の関係を重視しているのです。
有名な話では、孟子に載っている内容で、河東が食料不足のときは河内に人民を移動させ、河内が食料不足のときは河東に人民を移動させるという、魏の自慢の福祉政策ですね(これは五十歩百歩として孟子に批判されるが)。
私は等高線を使った研究は試したことがないのですけど、研究上の地域の区分なのは、まさしく断続か連続かの選択の連続でした。
河東地域と関中地域の関係についてもそれがいえますね。
『漢書』溝洫志の本文と注には、河東郡を関外として扱っているように感じますけど、水利の用語は煩雑でよく釈読できません。
どうやら河東郡を経由して関中の長安に穀物を移送するという話のようですが。
年号を確認したところ、武帝の元鼎年間より以前のようですね。
最初は関外だったということもお分かりいただけると思いますし、
『漢書』地理志では、河東と河内は魏地と書いてあります。
『史記』貨殖列伝では、三河の地は世界の中心であると書いてありますし、第一河東郡は帝堯の都の故地とされています上に、夏王朝の発祥の地でもありますから(もちろん伝承上の発祥地)、夏王朝を中原王朝と呼ぶ場合は、この河東の地も包括することは明確だと思います。
新石器時代の土器の研究では、河東と河南は二里頭文化を共有する地域で、土器の形式には密接な関連があります。
つまり、「中原」と河東の間には、インド亜大陸の衝突で形成された華北西部の険峻な地形をも越える人為の関係があったといえるでしょう。
交易は無論のこと、中原王朝や先秦時代の群雄(晋〜魏)は、河東と関中との関係よりも、河東と河内、河南の関係を重視しているのです。
有名な話では、孟子に載っている内容で、河東が食料不足のときは河内に人民を移動させ、河内が食料不足のときは河東に人民を移動させるという、魏の自慢の福祉政策ですね(これは五十歩百歩として孟子に批判されるが)。
(PC)
39 巫俊(ふしゅん)
河東は晋の故地であり、秦の故地である関中とは、戦国時代後期に秦が河東地域を蚕食するまで、長らく対立抗争の関係にありました。
秦によって河東郡が設置されてからも、楚漢期の河東は西魏王豹の領地であり、要するに関中とは一線を画しています。
平原が続いているとはいえ、黄河で隔てられていることは大きいですし、戦国時代の河西に魏の長城があって、それで秦の東進が防がれていたことも重要です。
こう書いてきましたように、中国においては、経済原理による自由な交易よりも、国家間の関係による国家に富を集中させる政治原理が優越することが多いのです。
人は気ままに大地を歩いているのではなく、国家の統制を受けているので、国家の事業によって大規模な経済政策が遂行されます。
これはどういうことかというと、戦国時代中期以前は、河東と関中を包括する統一国家が存在しないために、河東の富は魏の中心である中原に向かって流れるようになっていました。
過酷な律令で戦争遂行に人民を駆り立てる秦に対し、三晋の都市民は抵抗し、惨禍が起こりました。
その上に河東郡が設置されたのですから、戦国時代の研究からすると、関中との「断絶」を想定した研究が行なわれています。
一方では秦によって統治され、秦との経済的結びつきが強くなっていくというのも考えられます。
武帝の時代にはなお関外として扱われていた河東郡が、武帝による函谷関の移動によって、関西に組み込まれるのは、戦国時代後期からの連続として研究できると思います。
『史記』貨殖列伝にも、河東と秦の間に交易があると書いていますしね。
河東は両属性のある地域だと私は考えますが。
秦によって河東郡が設置されてからも、楚漢期の河東は西魏王豹の領地であり、要するに関中とは一線を画しています。
平原が続いているとはいえ、黄河で隔てられていることは大きいですし、戦国時代の河西に魏の長城があって、それで秦の東進が防がれていたことも重要です。
こう書いてきましたように、中国においては、経済原理による自由な交易よりも、国家間の関係による国家に富を集中させる政治原理が優越することが多いのです。
人は気ままに大地を歩いているのではなく、国家の統制を受けているので、国家の事業によって大規模な経済政策が遂行されます。
これはどういうことかというと、戦国時代中期以前は、河東と関中を包括する統一国家が存在しないために、河東の富は魏の中心である中原に向かって流れるようになっていました。
過酷な律令で戦争遂行に人民を駆り立てる秦に対し、三晋の都市民は抵抗し、惨禍が起こりました。
その上に河東郡が設置されたのですから、戦国時代の研究からすると、関中との「断絶」を想定した研究が行なわれています。
一方では秦によって統治され、秦との経済的結びつきが強くなっていくというのも考えられます。
武帝の時代にはなお関外として扱われていた河東郡が、武帝による函谷関の移動によって、関西に組み込まれるのは、戦国時代後期からの連続として研究できると思います。
『史記』貨殖列伝にも、河東と秦の間に交易があると書いていますしね。
河東は両属性のある地域だと私は考えますが。
(PC)
40 赤龍
巫俊さんが博識なのは十分理解してますが、議論の際は論点が何であるのかをよく考える必要もあると思いますよ。
私は、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調している事実について注目。河東郡は一般的に>>38のように河内・河南の地とのつながりが重視され、関中地域に含まれるようなイメージはないが、地形図を見ると一目瞭然なように、関中盆地とひとつづきの土地(さらに河川でも結ばれている)である。こうした地理的な要因があり、河東郡の諸豪族が馬超に同調したのであり、この場合関中に含めて考えていいだろうということを述べているのです。
河東と河内の文化的・歴史的なつながりは全く否定した覚えはありません。
さらに、>>33の「だったら洛陽は中原じゃないだろ」と的外れな屁理屈で茶々入れられてるから、私も地図の見方なんてのを説明しなきゃいけなくなりましたし。
もう一度議論の焦点は何かを考え、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したのは、それではどういう理由によるものとお考えですか?
私は、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調している事実について注目。河東郡は一般的に>>38のように河内・河南の地とのつながりが重視され、関中地域に含まれるようなイメージはないが、地形図を見ると一目瞭然なように、関中盆地とひとつづきの土地(さらに河川でも結ばれている)である。こうした地理的な要因があり、河東郡の諸豪族が馬超に同調したのであり、この場合関中に含めて考えていいだろうということを述べているのです。
河東と河内の文化的・歴史的なつながりは全く否定した覚えはありません。
さらに、>>33の「だったら洛陽は中原じゃないだろ」と的外れな屁理屈で茶々入れられてるから、私も地図の見方なんてのを説明しなきゃいけなくなりましたし。
もう一度議論の焦点は何かを考え、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したのは、それではどういう理由によるものとお考えですか?
(PC)
42 巫俊(ふしゅん)
>>40
茶々ではありません。(受けて側には説明不足なレスでしたが)
私は本気で洛陽は何も遮るもののない中原ではないと言っています。
三河の地は「山南山北河内河外」などと総称される複雑な形状の土地ですが、
漢代以前までの人間の生態では、後年の宋代のような大運河があるわけでもなく、山がちで充分だということです。
この山を見て、蜀険のような人の往来が不可能なところと連想すると、古代王朝が何故ここに成立したのか理解できなくなってしまいます。
赤龍さんがスレに忠実なのはいいですが、「函谷関の位置云々以前の問題」「実際の地形・地理の問題をふまえなくてはいけません。」「河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられると思います。」といったお考えが、かならずしも首肯されるとは限らないことを念頭に置いてくださいね。
赤龍さんが間違っているといっているのではなく、そういうレスが帰ってくると、こういう反応が帰ってきて、「誤解を解く」レスでスレが埋まるというのは、私も同じ思いなのですよ。
>>32に限って言えば、私が関外と関内の誤解のもとを取材して説明をしているのに、どうして河東の程銀らの問題にすりかえられて「平面的理解でなく(中略)の問題をふまえなくてはいけません。」とレスがかえってくるのでしょう?
私へのレスではないというのならいいですよ。
まるで函谷関の位置なんて問題ではないと言っているみたいに聞こえます。
茶々ではありません。(受けて側には説明不足なレスでしたが)
私は本気で洛陽は何も遮るもののない中原ではないと言っています。
三河の地は「山南山北河内河外」などと総称される複雑な形状の土地ですが、
漢代以前までの人間の生態では、後年の宋代のような大運河があるわけでもなく、山がちで充分だということです。
この山を見て、蜀険のような人の往来が不可能なところと連想すると、古代王朝が何故ここに成立したのか理解できなくなってしまいます。
赤龍さんがスレに忠実なのはいいですが、「函谷関の位置云々以前の問題」「実際の地形・地理の問題をふまえなくてはいけません。」「河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられると思います。」といったお考えが、かならずしも首肯されるとは限らないことを念頭に置いてくださいね。
赤龍さんが間違っているといっているのではなく、そういうレスが帰ってくると、こういう反応が帰ってきて、「誤解を解く」レスでスレが埋まるというのは、私も同じ思いなのですよ。
>>32に限って言えば、私が関外と関内の誤解のもとを取材して説明をしているのに、どうして河東の程銀らの問題にすりかえられて「平面的理解でなく(中略)の問題をふまえなくてはいけません。」とレスがかえってくるのでしょう?
私へのレスではないというのならいいですよ。
まるで函谷関の位置なんて問題ではないと言っているみたいに聞こえます。
(PC)
このスレ、頭から読みましたが、半時間程かかりました(汗)
論旨が解り辛かったので、ちょっとだけ。
>>10で赤龍さんの言われる事を抜き出すと、
「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」
という事ですよね。
>>40でも繰り返し
「(河東郡を)この場合関中に含めて考えていいだろう」
と述べられております。
これは決して「河東郡は関中である」という主張と同一ではありません(事実河東郡が関中であるか否かは別として)。飽くまで「考える」というところがポイントなのだと思います。
これは、三重県の西側に住む人々が、自分達を近畿の人間だと考えている様な事柄と同じ事を指しているものだと思いますよ。
論旨が解り辛かったので、ちょっとだけ。
>>10で赤龍さんの言われる事を抜き出すと、
「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」
という事ですよね。
>>40でも繰り返し
「(河東郡を)この場合関中に含めて考えていいだろう」
と述べられております。
これは決して「河東郡は関中である」という主張と同一ではありません(事実河東郡が関中であるか否かは別として)。飽くまで「考える」というところがポイントなのだと思います。
これは、三重県の西側に住む人々が、自分達を近畿の人間だと考えている様な事柄と同じ事を指しているものだと思いますよ。
(PC)
44 赤龍
まず「中原」については、お互いの認識が違っていますね。巫俊さんは、厳密に一つながりのだだっ広い平原を指し、私はもっと広い意味の一つの地域の名称を指しています。これが話がかみ合わない原因。まあ、これは話がまたそれるので置いておきましょう。
次に「問題のすりかえ」とか「函谷関の位置なんて問題でないと言っている」とか悪意を込めた解釈をされてますが、違いますよ。
巫俊さんは>>31で、河東が関西と考えられた要因として、函谷関の東遷の問題に終始されており、それ以外の解釈が無い。私には、そういった平面的な、単なる名称の変更といった理由だけでは、当時の関中とのつながりは到底考えられない。そこで地形的な問題を見る必要を提起したのですが。
私の考えが「かならずしも首肯されるとは限らないことを念頭に置」くよう言われてますが、私の一意見であり当然のことです。むしろ、前回の件も含め、巫俊さんにこそ自分の意見を批判されると、悪意を込めて解釈し感情的になる傾向が見られますよ。議論の際はそうしたことを念頭に置き、>>40でも触れたように議論の流れや論点は何かということをよく考えていくといいかと思います。
なんか偉そうな事言って申し訳ないです。
次に「問題のすりかえ」とか「函谷関の位置なんて問題でないと言っている」とか悪意を込めた解釈をされてますが、違いますよ。
巫俊さんは>>31で、河東が関西と考えられた要因として、函谷関の東遷の問題に終始されており、それ以外の解釈が無い。私には、そういった平面的な、単なる名称の変更といった理由だけでは、当時の関中とのつながりは到底考えられない。そこで地形的な問題を見る必要を提起したのですが。
私の考えが「かならずしも首肯されるとは限らないことを念頭に置」くよう言われてますが、私の一意見であり当然のことです。むしろ、前回の件も含め、巫俊さんにこそ自分の意見を批判されると、悪意を込めて解釈し感情的になる傾向が見られますよ。議論の際はそうしたことを念頭に置き、>>40でも触れたように議論の流れや論点は何かということをよく考えていくといいかと思います。
なんか偉そうな事言って申し訳ないです。
(PC)
45 赤龍
>>43
毎度の事ながら、私の下手な文章を纏めてくれてありがとうございます。
>>42
もう一つ指摘しておきますと、私の「河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられる」と思うというのは、>>35の直前の文章を見てわかるように、河川によるつながりについて限定したものです。それをこの部分だけ引用すると、私があたかも全般的に河南・河内とのつながりを軽視した発言をしたような印象を受けます。引用というのは、忠実にその一部を引用したとしても、他の部分を省く事により全く違った印象を感じさせることが可能になります。この場合は、私の文章が稚拙なせいで勘違いされたのだろうと思いますが、引用文というものを考えるときの実は重要な問題なので指摘しておきます。
毎度の事ながら、私の下手な文章を纏めてくれてありがとうございます。
>>42
もう一つ指摘しておきますと、私の「河東は関中盆地とのつながりの方がより強く感じられる」と思うというのは、>>35の直前の文章を見てわかるように、河川によるつながりについて限定したものです。それをこの部分だけ引用すると、私があたかも全般的に河南・河内とのつながりを軽視した発言をしたような印象を受けます。引用というのは、忠実にその一部を引用したとしても、他の部分を省く事により全く違った印象を感じさせることが可能になります。この場合は、私の文章が稚拙なせいで勘違いされたのだろうと思いますが、引用文というものを考えるときの実は重要な問題なので指摘しておきます。
(PC)
46 巫俊(ふしゅん)
>>45
引用文は読者が原文を参照すれば問題はないですね。
三河の関係を軽視なさっていないとのご自覚ですが、正確な判断です。
ご自身に自覚症状はないのですから。
自身は客観的な判断をしている、それに及ばなくてもそう務めている、と判断なさっている以上は自覚できるはずもありません。
人間の思考はそういう風にできていますから、>>44で悪意で解釈されているとご判断なさるのです。
引用文は読者が原文を参照すれば問題はないですね。
三河の関係を軽視なさっていないとのご自覚ですが、正確な判断です。
ご自身に自覚症状はないのですから。
自身は客観的な判断をしている、それに及ばなくてもそう務めている、と判断なさっている以上は自覚できるはずもありません。
人間の思考はそういう風にできていますから、>>44で悪意で解釈されているとご判断なさるのです。
(PC)
47 巫俊(ふしゅん)
仮に赤龍さんが、相対的に軽く考えている部分を「軽視」と、相対的に重く考えている部分を「重視」と便宜上呼ばせて頂きます。
「軽視」部分は、平面的な単なる名称の変更。
「重視」部分は、河川や平野といった自然な地形の問題。
私は地形を重視するのに少しもやぶさかではないですが、平面的な単なる名称の変更という解釈は疑問に思います。
河東地域の地理的位置は、(武帝期以前の故)函谷関・武関・散関・ショウ関を四角で囲んだ線よりも、大幅に東北辺に飛び出していることは明瞭です。
赤龍さんはストラップさんのまとめによりますと、「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」とお考えなのですから、この問題は三国時代のみならず、4世紀の五胡十六国時代の地理的理解から、ひいては7世紀以降の唐代の「唐代長安城与関中平野的生態環境変遷」といった研究にまで、関中の歴史的範囲について再考を求めることになるのかもしれません。赤龍さんはそこまで考えておられないのかもしれないですけれども、立体的な地形の理解と文献上の関中の位置の理解に少しもやぶさかではないですよね?
(三国時代に限ってのことなら)
単なる名称の問題なんてものじゃないですよ。杜畿伝を拝見しましたが、そこで河東は明瞭に関西と定義されていますからね。
「軽視」部分は、平面的な単なる名称の変更。
「重視」部分は、河川や平野といった自然な地形の問題。
私は地形を重視するのに少しもやぶさかではないですが、平面的な単なる名称の変更という解釈は疑問に思います。
河東地域の地理的位置は、(武帝期以前の故)函谷関・武関・散関・ショウ関を四角で囲んだ線よりも、大幅に東北辺に飛び出していることは明瞭です。
赤龍さんはストラップさんのまとめによりますと、「河東郡は(--中略--)関中の範囲に含めて考えてもいい」とお考えなのですから、この問題は三国時代のみならず、4世紀の五胡十六国時代の地理的理解から、ひいては7世紀以降の唐代の「唐代長安城与関中平野的生態環境変遷」といった研究にまで、関中の歴史的範囲について再考を求めることになるのかもしれません。赤龍さんはそこまで考えておられないのかもしれないですけれども、立体的な地形の理解と文献上の関中の位置の理解に少しもやぶさかではないですよね?
(三国時代に限ってのことなら)
単なる名称の問題なんてものじゃないですよ。杜畿伝を拝見しましたが、そこで河東は明瞭に関西と定義されていますからね。
(PC)
48 巫俊(ふしゅん)
現代中国では伝統上、陝西省を親しみをこめて秦と呼び、同じく山西省を晋と呼びます。
河東地域は山西省です。
その起源は唐代にまで遡れ、河東地域をふくむ山西省を河東道と地理区分し、潼関以西の陝西省と寧夏ウイグル族自治区を関内道と区分しています。
以降、元・明・清と当時の地理区分である陝西省(元代は陝西行省)は、すべて潼関以西を指して行政範囲としています。
これすなわち、河東郡をふくむ関西という地理区分が、三国時代を前後とする時代に特有の地理認識である可能性が提議されます。五胡時代以降はまで未確認ですので、あくまで仮定のことですが。
その上で、三国時代(の直前の)関西の武将の去就を論ずるのは、的外れなことでしょうか?
河東地域は山西省です。
その起源は唐代にまで遡れ、河東地域をふくむ山西省を河東道と地理区分し、潼関以西の陝西省と寧夏ウイグル族自治区を関内道と区分しています。
以降、元・明・清と当時の地理区分である陝西省(元代は陝西行省)は、すべて潼関以西を指して行政範囲としています。
これすなわち、河東郡をふくむ関西という地理区分が、三国時代を前後とする時代に特有の地理認識である可能性が提議されます。五胡時代以降はまで未確認ですので、あくまで仮定のことですが。
その上で、三国時代(の直前の)関西の武将の去就を論ずるのは、的外れなことでしょうか?
(PC)
49 赤龍
>>46
言わんとする内容がよくわからないのですが。とりあえず、引用文についてはそういう問題じゃあないですよ。文章を書く人間としては注意しなければいけない重要なことです。
>>47
繰り返しますが、議論の際は論点を明確にすることが大切です。単に自分の知識や調べたことを無秩序に並べられても、読み手としては何が言いたいのか上手くつたわりませんから。
もう一度質問しますが、結局巫俊さんは、後漢末に河東郡が関西に含めて考えられ、河東の豪族が馬超ら関中諸将の反乱に同調しているというような問題についてどういう理由によるものと考えておられるのでしょうか?
もし冷静な議論が出来ないようでしたら、荒れる原因になりますし、この話は打ち切りましょう。
言わんとする内容がよくわからないのですが。とりあえず、引用文についてはそういう問題じゃあないですよ。文章を書く人間としては注意しなければいけない重要なことです。
>>47
繰り返しますが、議論の際は論点を明確にすることが大切です。単に自分の知識や調べたことを無秩序に並べられても、読み手としては何が言いたいのか上手くつたわりませんから。
もう一度質問しますが、結局巫俊さんは、後漢末に河東郡が関西に含めて考えられ、河東の豪族が馬超ら関中諸将の反乱に同調しているというような問題についてどういう理由によるものと考えておられるのでしょうか?
もし冷静な議論が出来ないようでしたら、荒れる原因になりますし、この話は打ち切りましょう。
(PC)
50 巫俊(ふしゅん)
政治動態的アプローチによって、後漢・三国時代の地理認識を論じようと考えています。
地理認識というものは、地形からだけ生まれるものではありません。立体的なだけでなく名称的で政治的な歴史的背景を考える必要があります。
函谷関以西であれ、潼関以西であれ、関西という言葉の起源の追求なくして、河東地域の理解もないでしょう。
程銀を例にすれば、彼は豪族だそうですから、
例えば、董卓がヘイ州刺史や河東太守の印綬を所持していたことがありましたよね。(赴任していない?)
董卓長安政権時代の牛輔の駐屯地が河東郡の安邑です。
そのほか、群雄関連のエピソードの中にもヘイ州と涼州の類似性や関係を論じることのできる材料が揃っているかもしれません。
ヘイ州と涼州を結ぶ経由地が河東ですし、関西人士の性格を論じるには河東郡の考察は有用だと思われます。
河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したのは、地形のこともさることながら、人間関係に起因するものが大きいはずです。利害を同じくする環境・関係といったものですね。人間関係は何がしかの土壌と歴史的背景によって結びつき生まれるものですから。
地理認識というものは、地形からだけ生まれるものではありません。立体的なだけでなく名称的で政治的な歴史的背景を考える必要があります。
函谷関以西であれ、潼関以西であれ、関西という言葉の起源の追求なくして、河東地域の理解もないでしょう。
程銀を例にすれば、彼は豪族だそうですから、
例えば、董卓がヘイ州刺史や河東太守の印綬を所持していたことがありましたよね。(赴任していない?)
董卓長安政権時代の牛輔の駐屯地が河東郡の安邑です。
そのほか、群雄関連のエピソードの中にもヘイ州と涼州の類似性や関係を論じることのできる材料が揃っているかもしれません。
ヘイ州と涼州を結ぶ経由地が河東ですし、関西人士の性格を論じるには河東郡の考察は有用だと思われます。
河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したのは、地形のこともさることながら、人間関係に起因するものが大きいはずです。利害を同じくする環境・関係といったものですね。人間関係は何がしかの土壌と歴史的背景によって結びつき生まれるものですから。
(PC)
51 黒耀竜
ふだん討論場には書き込みしないのですが、あえて一言申し上げます。
お2人の話はたしかにこのスレッドに関係はありますが、だからといってここで論じることが適当なのでしょうか?
>>1にあるように、ここは主に「軍閥について」を議論する場所のはずです。
赤龍さんから打ち切り提案も出たことですし、このへんでドローにされてはいかがでしょうか。
どうしても曖昧なままにできないのであれば、新しいスレッドを立てるべきです。
お2人の話はたしかにこのスレッドに関係はありますが、だからといってここで論じることが適当なのでしょうか?
>>1にあるように、ここは主に「軍閥について」を議論する場所のはずです。
赤龍さんから打ち切り提案も出たことですし、このへんでドローにされてはいかがでしょうか。
どうしても曖昧なままにできないのであれば、新しいスレッドを立てるべきです。
(PC)
52 仲達
初めましてm(__)m 仲達と申します。 いつも先生方のご意見楽しく拝見させていただいておりますm(__)m 私みたいな初心者が意見をさせていただくのも何ですが… こちらの討論の場と言うのは、自分に無い意見を他人が発言した時「なるほど!そう言う意見(考え方)もあるのか!」とお互いを認め合う(向上)させる場ではないでしょうか? 私みたいな初心者が生意気な事を申しましてすみませんm(__)m
(N700i/FOMA)
53 巫俊(ふしゅん)
引用文については道義的なこともありますよね。受け手の解釈によって左右されるところでありますが。
>>49
論点は明確ですよ。関西の歴史的地理的区分の問題です。
関西人士については>>50。
継続するかしないかはお任せします。三国時代に限定して話をするなら、論点が明確になると思います。
>>49
論点は明確ですよ。関西の歴史的地理的区分の問題です。
関西人士については>>50。
継続するかしないかはお任せします。三国時代に限定して話をするなら、論点が明確になると思います。
(PC)
54 ストラップ
>>51
赤龍さんが>>49で述べられているのは「打ち切り提案」では無く、「冷静な議論」を望む声だと思いますよ。
>>47
ちょっと言葉が足らなかったようなので、もう少し書きますね。
張魯伝によると、馬超の反乱に参加した諸将の内には、河東出身者(ドウ関以東の豪族)が含まれている。つまり、「馬超の反乱に呼応した関中の諸将」と言うが、そこには河東郡の者も含まれている。(>>7)
この場合、河東郡の者が置かれていた立場は、関中の諸将に似ているだろう。
故にこの場合、行政的な区分を考えずに、河東郡を関中の範囲に含めて考えるべきではないだろうか。こう考える事で、当時の馬超の軍勢を読み解く事が出来るのではないか?(>>10)
こういう提案が行なわれているのです。
実際の区分としての河東郡を云々と言われている訳ではありませんよ。
赤龍さんが>>49で述べられているのは「打ち切り提案」では無く、「冷静な議論」を望む声だと思いますよ。
>>47
ちょっと言葉が足らなかったようなので、もう少し書きますね。
張魯伝によると、馬超の反乱に参加した諸将の内には、河東出身者(ドウ関以東の豪族)が含まれている。つまり、「馬超の反乱に呼応した関中の諸将」と言うが、そこには河東郡の者も含まれている。(>>7)
この場合、河東郡の者が置かれていた立場は、関中の諸将に似ているだろう。
故にこの場合、行政的な区分を考えずに、河東郡を関中の範囲に含めて考えるべきではないだろうか。こう考える事で、当時の馬超の軍勢を読み解く事が出来るのではないか?(>>10)
こういう提案が行なわれているのです。
実際の区分としての河東郡を云々と言われている訳ではありませんよ。
(PC)
55 ストラップ
>>53
赤龍さんが>>49で書かれた部分で最も大切な部分は、
「もう一度質問しますが、結局巫俊さんは、後漢末に河東郡が関西に含めて考えられ、河東の豪族が馬超ら関中諸将の反乱に同調しているというような問題についてどういう理由によるものと考えておられるのでしょうか?」
という部分だと思いますよ。
赤龍さんが>>49で書かれた部分で最も大切な部分は、
「もう一度質問しますが、結局巫俊さんは、後漢末に河東郡が関西に含めて考えられ、河東の豪族が馬超ら関中諸将の反乱に同調しているというような問題についてどういう理由によるものと考えておられるのでしょうか?」
という部分だと思いますよ。
(PC)
56 巫俊
>ストラップさん
論点の整理感謝です。
それでは提案しますが、関中の諸将に河東出身者がふくまれて史書に書かれるのは、
似ている境遇にあるからではなく(似ているが)、河東郡が関中及び関西に地理的区分されていたからではないですか?トキ伝では曹操自身が河東郡を関西と呼んでいますし、ちくま訳を参照したところ、河東を関西と呼ぶのは馬超の戦役時の特殊な例ではないようです。
論点の整理感謝です。
それでは提案しますが、関中の諸将に河東出身者がふくまれて史書に書かれるのは、
似ている境遇にあるからではなく(似ているが)、河東郡が関中及び関西に地理的区分されていたからではないですか?トキ伝では曹操自身が河東郡を関西と呼んでいますし、ちくま訳を参照したところ、河東を関西と呼ぶのは馬超の戦役時の特殊な例ではないようです。
(N503i)
58 ストラップ
>>56
という事は、>>21にある
「関中=関西=山西」
の否定という事でしょうか?
つまり、>>31に書かれたように、「関中」と「関西」は違うという事ですかね?
しかし「河東郡が関中及び関西に地理的区分されていたからではないですか」ともありますね?僕には巫俊さんの述べられる事の主旨がわからないのですが、結局は何が言いたいのですか?
>>57
これが>>49への答えなのでしょうか?「答えは未だ」とも取れますし、「赤龍さんと同じ」とも取れますが、意味が良くわかりません。
という事は、>>21にある
「関中=関西=山西」
の否定という事でしょうか?
つまり、>>31に書かれたように、「関中」と「関西」は違うという事ですかね?
しかし「河東郡が関中及び関西に地理的区分されていたからではないですか」ともありますね?僕には巫俊さんの述べられる事の主旨がわからないのですが、結局は何が言いたいのですか?
>>57
これが>>49への答えなのでしょうか?「答えは未だ」とも取れますし、「赤龍さんと同じ」とも取れますが、意味が良くわかりません。
(PC)
59 ストラップ
僕が論点を勘違いしているのかな?僕は>>31の
「河東は広義の中原に入るんじゃないでしょうか?」
にばかり注目していたので(汗)
赤龍さんの文章も間違って解釈していた可能性がありますね。
どなたか纏めて下さるとありがたいです。
ちょっと読み返したのですが、矢張り巫俊さんの一連の主張の論点が何処にあるのかわかりません。
巫俊さんの述べられている内容は、
「河東が関西と考えられた要因」
ですか?
「河東は広義の中原に入るんじゃないでしょうか?」
にばかり注目していたので(汗)
赤龍さんの文章も間違って解釈していた可能性がありますね。
どなたか纏めて下さるとありがたいです。
ちょっと読み返したのですが、矢張り巫俊さんの一連の主張の論点が何処にあるのかわかりません。
巫俊さんの述べられている内容は、
「河東が関西と考えられた要因」
ですか?
(PC)
60 赤龍
ストラップさん、議論の沈静化と纏め直しを行なって頂きありがとうございます。
私の意見としましては、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したことについて、関中盆地とのつながりという、その地形的な要因が大きいのではないか。ということです。
巫俊さんが勘違いされてそうですが、河東郡の関東・関西への帰属云々の問題・考察を全否定しているわけではなく、この場合は実際の地形的な要因に最も注目すべきではないか。という主張です。
>>51黒耀竜さん、>>52仲達さん、見かねてこの場を収拾しようとして頂いたこと、及びご忠告感謝いたします。並びに見苦しい議論をお見せした事お詫びいたします。
仲達さん、はじめまして。また何か問題ありましたら遠慮なくご指摘お願いします。
私の意見としましては、河東郡の諸豪族が馬超の反乱に同調したことについて、関中盆地とのつながりという、その地形的な要因が大きいのではないか。ということです。
巫俊さんが勘違いされてそうですが、河東郡の関東・関西への帰属云々の問題・考察を全否定しているわけではなく、この場合は実際の地形的な要因に最も注目すべきではないか。という主張です。
>>51黒耀竜さん、>>52仲達さん、見かねてこの場を収拾しようとして頂いたこと、及びご忠告感謝いたします。並びに見苦しい議論をお見せした事お詫びいたします。
仲達さん、はじめまして。また何か問題ありましたら遠慮なくご指摘お願いします。
(PC)
61 赤龍
読み返して討論の論旨がわかりづらくなった事については、巫俊さんに対し、直接の議論の内容だけでなく、研究の方法、人に読ませる文章の書き方の問題点まで含めて色々と指摘したせいもあるでしょうね。専門に研究をされてる方として留意して頂きたいと思いあえて指摘しましたが、どうやらかえって反感を買ってしまい、余計論旨をつかみにくくしてしまったようです。
巫俊さんへ。
ただ、どれも重要な問題と私が考えたことです。特に、知識は豊富で勉強も私などよりはるかにされてると思いますが、それを文章に書くこと、纏めることについては未熟な面が見られます(いや、人の事とやかく言える程ろくな文章書けないですが)。それを人の批判は聞く耳持たずのスタンスでは、一人よがりの学問になってしまう危険が高く、成長が望めませんよ。
巫俊さんへ。
ただ、どれも重要な問題と私が考えたことです。特に、知識は豊富で勉強も私などよりはるかにされてると思いますが、それを文章に書くこと、纏めることについては未熟な面が見られます(いや、人の事とやかく言える程ろくな文章書けないですが)。それを人の批判は聞く耳持たずのスタンスでは、一人よがりの学問になってしまう危険が高く、成長が望めませんよ。
(PC)
62 天草
少し振り返って読ませていただきましたが(理解しているかは別にしてw)、議論としては特に問題ないと感じました。
いいんじゃないですか?
ところどころで、何人かの皆さんが言われているように、お互いの意見を尊重する気持ちが足りない部分があるような気もしますが、これは知識もあり、ここでの経験も豊かなお二人なら、少し冷静になれば分かる事でしょう。
もちろんこの事については討論場注意事項第二章第一項で謳っていますから、参加する上で当然の事です。
明確な「正解!」というのが難しい約2000年前の事柄についての話しなんですから、柔軟な考え方が常に必要ですよね♪
話を端折りましたが、続きをどうぞ。
いいんじゃないですか?
ところどころで、何人かの皆さんが言われているように、お互いの意見を尊重する気持ちが足りない部分があるような気もしますが、これは知識もあり、ここでの経験も豊かなお二人なら、少し冷静になれば分かる事でしょう。
もちろんこの事については討論場注意事項第二章第一項で謳っていますから、参加する上で当然の事です。
明確な「正解!」というのが難しい約2000年前の事柄についての話しなんですから、柔軟な考え方が常に必要ですよね♪
話を端折りましたが、続きをどうぞ。
(PC)
63 劉
まさに二人は三国志の賢者ですよ。臥龍と鳳スイとでも言うべきでしょうか"笑、議論のズレはスレ主の私から始まってますからね↓赤龍さんには感謝です♪
結局のところ、ハッキリさせることは難しいのでしょうか?三国時代では関中に含まれる?それ以降または、以前は含まれないのでしょうか?
結局のところ、ハッキリさせることは難しいのでしょうか?三国時代では関中に含まれる?それ以降または、以前は含まれないのでしょうか?
(EZ)
64 ストラップ
ちょっと質問です。
>>>329-60からなんですけど、匈奴の土地は、関西と言っても良いんですかね?
オルドスのあたりは、ハンクーコワンよりは西ですし、僕は大丈夫だと考えているのですが‥‥‥。
すいません、浅学で(汗)
>>>329-60からなんですけど、匈奴の土地は、関西と言っても良いんですかね?
オルドスのあたりは、ハンクーコワンよりは西ですし、僕は大丈夫だと考えているのですが‥‥‥。
すいません、浅学で(汗)
(PC)
65 巫俊(ふしゅん)
>>>317-65の周倉の内モンゴル自治区出身説の出所って、『三国志 中国伝説のなかの英雄』に書かれているんでしょうか?
民間伝説って説明だけですか?それともどこどこの〇〇という伝説だと書いてあるとか?
ジュンガル旗ってどんなところか調べてみようと思います。
黄河の北でしたっけ?それとも南?
三国志で有名な北の果ての五原とか雲中とかは、もともと戦国時代の趙の領土です。
五原のあたりが秦に攻略されるのは、戦国時代の後期、それも後期の後半のはずですから、「もともとの秦中=関中」には該当しないことになります。
さらに万里の長城の北であれば・・・
民間伝説って説明だけですか?それともどこどこの〇〇という伝説だと書いてあるとか?
ジュンガル旗ってどんなところか調べてみようと思います。
黄河の北でしたっけ?それとも南?
三国志で有名な北の果ての五原とか雲中とかは、もともと戦国時代の趙の領土です。
五原のあたりが秦に攻略されるのは、戦国時代の後期、それも後期の後半のはずですから、「もともとの秦中=関中」には該当しないことになります。
さらに万里の長城の北であれば・・・
(PC)
66 ストラップ
>>65
>>>317-65の本には>>>329-57の件の様な事柄が、物語りとして記されている為、そういう解説はありません。出典も書かれていませんし、著者殷占堂氏の創作かも知れません。
結局のところ、三国志 中国伝説のなかの英雄の「周倉の出身地は周家湾」と、三国志演義の「周倉は関西人」という記述には、二律背反があるのですか?
>>>317-65の本には>>>329-57の件の様な事柄が、物語りとして記されている為、そういう解説はありません。出典も書かれていませんし、著者殷占堂氏の創作かも知れません。
結局のところ、三国志 中国伝説のなかの英雄の「周倉の出身地は周家湾」と、三国志演義の「周倉は関西人」という記述には、二律背反があるのですか?
(PC)
67 ふしゅん
『内蒙古自治区地図冊』(2005)には、ジュンガル旗に周家湾という地名が載っていないんです。
某家湾という地名は近世以降のもので、某は某姓の人がそこに移り住んだことに由来する村落の名前です。周家湾という地名は他の省にもあるかもしれませんよ。
某家湾という地名は近世以降のもので、某は某姓の人がそこに移り住んだことに由来する村落の名前です。周家湾という地名は他の省にもあるかもしれませんよ。
(N503i)
69 ふしゅん
秦嶺山脈の中を流れるある川の支流沿いに周家湾はあります。
そこは相当な深山で、関中平原と漢中平原をわける分水嶺にもほど近い高所です。
斜谷と子午谷の中間くらいだから、当時はろくな道もなく、もちろん県は設置されていない山林区です。
そこは相当な深山で、関中平原と漢中平原をわける分水嶺にもほど近い高所です。
斜谷と子午谷の中間くらいだから、当時はろくな道もなく、もちろん県は設置されていない山林区です。
(N503i)