2 天草
これは良い議題ですね!!
類似スレはないですか?
なければちょっと調べてみます。
こういう場合、史書に残されている日にちをそのまま信じても良いのかな?
それとも現代の日にちで考えた方が良いのかな?
類似スレはないですか?
なければちょっと調べてみます。
こういう場合、史書に残されている日にちをそのまま信じても良いのかな?
それとも現代の日にちで考えた方が良いのかな?
(W31SA/au)
4 赤龍
一応、史書にみえる日にちは旧暦のほうで考えたほうがいいと思います。
なので、孔明の冥福を祈りたい方は(笑)、カレンダーの8月23日でなく、旧暦の8月23日にしたほうが本格派になりますよ。
ここで調べる分には、そのままの記述で問題ないとおもいますが。
時々困るのが「甲子の日」みたいな感じで干支で日付が書かれてるとき。これは何日なのか調べるのがめんどくさいです。
なので、孔明の冥福を祈りたい方は(笑)、カレンダーの8月23日でなく、旧暦の8月23日にしたほうが本格派になりますよ。
ここで調べる分には、そのままの記述で問題ないとおもいますが。
時々困るのが「甲子の日」みたいな感じで干支で日付が書かれてるとき。これは何日なのか調べるのがめんどくさいです。
(PC)
6 明烏
はじめましてm(__)m
私は、命日もですが、誕生日も気になりますね(笑)
以下、ネットでざっと調べたもので、没年月日まで記されていたものです。
曹穆…太和三年六月癸卯。(明帝紀)
曹髦…甘露五年五月己丑。(高貴卿公穆紀)
甄氏…黄初二年三月丁卯。(文帝紀)
董卓…初平三年四月。(董卓伝)
四月辛巳(「後漢書」孝献帝紀)
呂布…建安三年。(呂布伝)
十二月癸酉。(「後漢書」孝献帝紀)
公孫淵…景初二年八月壬午(公孫度の附伝、公孫淵伝)
夏侯惇…黄初元年四月庚午。(文帝紀)
曹休…太和二年九月庚子。
(明帝紀)
()内はソースらしい。
↑らしいというのは、まだネットで漁り中で、ソースが正しいかを確認できていないからです(汗)
没年月までは、割と記されているようですが、日となると少ないようです。
私は、命日もですが、誕生日も気になりますね(笑)
以下、ネットでざっと調べたもので、没年月日まで記されていたものです。
曹穆…太和三年六月癸卯。(明帝紀)
曹髦…甘露五年五月己丑。(高貴卿公穆紀)
甄氏…黄初二年三月丁卯。(文帝紀)
董卓…初平三年四月。(董卓伝)
四月辛巳(「後漢書」孝献帝紀)
呂布…建安三年。(呂布伝)
十二月癸酉。(「後漢書」孝献帝紀)
公孫淵…景初二年八月壬午(公孫度の附伝、公孫淵伝)
夏侯惇…黄初元年四月庚午。(文帝紀)
曹休…太和二年九月庚子。
(明帝紀)
()内はソースらしい。
↑らしいというのは、まだネットで漁り中で、ソースが正しいかを確認できていないからです(汗)
没年月までは、割と記されているようですが、日となると少ないようです。
(P901i/FOMA)
7 ストラップ
>>6を調べる為、「孝献帝紀第九」を見ていて、三国志との相違に気付きました。
後漢書 孝献帝紀第九:
「三年夏四月、遣謁者裴茂率中郎将段煨討李カク、夷三族」
三国志 魏書 董二袁劉伝第六:
「建安二年、遣謁者僕射裴茂率関西諸将誅カク、夷三族」
李カクの死が一年ズレてますね。
後漢書 孝献帝紀第九:
「三年夏四月、遣謁者裴茂率中郎将段煨討李カク、夷三族」
三国志 魏書 董二袁劉伝第六:
「建安二年、遣謁者僕射裴茂率関西諸将誅カク、夷三族」
李カクの死が一年ズレてますね。
(PC)
8 明烏
>>7
ストラップさん、調べていただいてありがとうございますm(__)m
李カク、ほんとに1年ズレてますね。
そういうズレてる関連の検証は苦労しそう…(汗)
以下、さらにネット検索より(また未確認/すいません)。
曹彰…黄初四年六月甲戌。(文帝紀)
曹幹…景元二年八月戊寅。(陳留王奐紀)
曹霖…嘉平二年十二月甲辰。(斉王芳紀)
孫休…永安七年 癸未。(孫休伝)
※ネタ元が月を記載し忘れたか、原文がこうなのか未確認。
まだ、出てきそうです。
ストラップさん、調べていただいてありがとうございますm(__)m
李カク、ほんとに1年ズレてますね。
そういうズレてる関連の検証は苦労しそう…(汗)
以下、さらにネット検索より(また未確認/すいません)。
曹彰…黄初四年六月甲戌。(文帝紀)
曹幹…景元二年八月戊寅。(陳留王奐紀)
曹霖…嘉平二年十二月甲辰。(斉王芳紀)
孫休…永安七年 癸未。(孫休伝)
※ネタ元が月を記載し忘れたか、原文がこうなのか未確認。
まだ、出てきそうです。
(P901i/FOMA)
10 ストラップ
>>6
董卓、呂布、夏侯惇に関しては、
>>>287-19
>>>266-34
>>>107-79
にそれぞれ原文を引用しておきました。>>8も含め、まだ投稿者自身が確認されていない様ですから、先ずは確認作業から始めましょうか。
董卓、呂布、夏侯惇に関しては、
>>>287-19
>>>266-34
>>>107-79
にそれぞれ原文を引用しておきました。>>8も含め、まだ投稿者自身が確認されていない様ですから、先ずは確認作業から始めましょうか。
(PC)
11 赤龍
『三国志』の方の干支が何日かは、ちくまの和訳にカッコ書きであるはずなので、そちらを調べていただくとして、私は『後漢書』関係を。
董卓の初平三年四月辛巳は四月二十三日。
呂布の建安三年十二月癸酉は十二月二十四日。
多分……。間違ってたらごめんなさい。
董卓の初平三年四月辛巳は四月二十三日。
呂布の建安三年十二月癸酉は十二月二十四日。
多分……。間違ってたらごめんなさい。
(PC)
12 ストラップ
>>6
明帝紀を調べていたついでです。
曹休
これに関しては、
「(太和二年)庚子、大司馬曹休薨」
とあります。この文の前に「秋九月、曹休率諸軍至皖、與呉将陸議戦於石亭、敗績」とあり、直後に「冬十月」とありますから、九月という意味で書かれたのだろうとは思いますが、ちくま訳では「十月十四日?」と、感嘆符付きで書かれています。
曹穆
「((太和)三年)六月癸卯、繁陽王穆薨」
ちくま訳に「六月癸卯」は二十一日だとあります。又この文の前には、
「三年夏四月、元城王礼薨」
と、曹礼の死が書かれていますね。
おまけ:鍾ヨウ、太皇皇后
「((太和)四年)夏四月、太傅鍾ヨウ薨、六月戊子、太皇太后崩」
ちくま訳では「六月戊子」は「十一日」。
董昭
「((青龍)四年)五月乙卯、司徒董昭薨」
ちくま訳で「五月乙卯」は「十三日」。
現在確認が済んでないのは、>>6の
曹髦
甄氏
公孫淵
>>8の
曹彰
曹幹
曹霖
の六名ですね。
近い内に。
明帝紀を調べていたついでです。
曹休
これに関しては、
「(太和二年)庚子、大司馬曹休薨」
とあります。この文の前に「秋九月、曹休率諸軍至皖、與呉将陸議戦於石亭、敗績」とあり、直後に「冬十月」とありますから、九月という意味で書かれたのだろうとは思いますが、ちくま訳では「十月十四日?」と、感嘆符付きで書かれています。
曹穆
「((太和)三年)六月癸卯、繁陽王穆薨」
ちくま訳に「六月癸卯」は二十一日だとあります。又この文の前には、
「三年夏四月、元城王礼薨」
と、曹礼の死が書かれていますね。
おまけ:鍾ヨウ、太皇皇后
「((太和)四年)夏四月、太傅鍾ヨウ薨、六月戊子、太皇太后崩」
ちくま訳では「六月戊子」は「十一日」。
董昭
「((青龍)四年)五月乙卯、司徒董昭薨」
ちくま訳で「五月乙卯」は「十三日」。
現在確認が済んでないのは、>>6の
曹髦
甄氏
公孫淵
>>8の
曹彰
曹幹
曹霖
の六名ですね。
近い内に。
(PC)
14 赤龍
>>12
曹休の件について、暦の問題はややこしいですが、簡単にいうと庚子の日は大和二年九月にはなかったということでしょう。
干支は60日で一週します。ということは、庚子の日なり、特定の干支の日は2ヶ月に一度しかまわってこないということになります。そういうわけで、大和二年の九月に庚子の日はありません。なので、庚子の日という記録が正しいとすれば、前後の八月か十月の庚子の日ではないか?となります。
しかし、九月には曹休はいきているのだから、八月はありえないはず。そのため、十月の庚子の日、すなわち14日のことなのではないだろうか?と推測されるというわけで、ちくまの和訳では?つきでああいう書き方がされています。
曹休の件について、暦の問題はややこしいですが、簡単にいうと庚子の日は大和二年九月にはなかったということでしょう。
干支は60日で一週します。ということは、庚子の日なり、特定の干支の日は2ヶ月に一度しかまわってこないということになります。そういうわけで、大和二年の九月に庚子の日はありません。なので、庚子の日という記録が正しいとすれば、前後の八月か十月の庚子の日ではないか?となります。
しかし、九月には曹休はいきているのだから、八月はありえないはず。そのため、十月の庚子の日、すなわち14日のことなのではないだろうか?と推測されるというわけで、ちくまの和訳では?つきでああいう書き方がされています。
(PC)
16 ストラップ
とりあえず、>>6を片付けてしまいましょう(笑)
曹髦
「三少帝紀 高貴卿公紀」に確かにありますね。「五月己丑」は「七日」とちくま訳にあります。遂に司馬氏の簒奪が顕在化してきました。
甄氏
文帝紀に因れば、これは三月ではなく、六月の出来事ですね。ちくま訳では、「丁卯」を「二十八日」と記してあります。
公孫淵
「二公孫陶四張伝第八」に因ると、
「景初二年八月壬午」は、公孫淵の軍が総崩れになった日であり、一時逃れた事が書いてありますので、これは命日では無い様です。
曹髦
「三少帝紀 高貴卿公紀」に確かにありますね。「五月己丑」は「七日」とちくま訳にあります。遂に司馬氏の簒奪が顕在化してきました。
甄氏
文帝紀に因れば、これは三月ではなく、六月の出来事ですね。ちくま訳では、「丁卯」を「二十八日」と記してあります。
公孫淵
「二公孫陶四張伝第八」に因ると、
「景初二年八月壬午」は、公孫淵の軍が総崩れになった日であり、一時逃れた事が書いてありますので、これは命日では無い様です。
(PC)
17 ストラップ
>>16
気になったので、もう一度公孫淵について調べてみました。尚「壬午」はちくま訳に因ると二十三日。
「壬午、淵眾潰、與其子脩将数百騎突囲東南走、大兵急撃之,当流星所墜処、斬淵父子」
これ、逃げた日に殺されているんでしょうか?
ちなみに「眾」の字はどういう意味?
気になったので、もう一度公孫淵について調べてみました。尚「壬午」はちくま訳に因ると二十三日。
「壬午、淵眾潰、與其子脩将数百騎突囲東南走、大兵急撃之,当流星所墜処、斬淵父子」
これ、逃げた日に殺されているんでしょうか?
ちなみに「眾」の字はどういう意味?
(PC)
20 明烏
>>6の者です。
皆様、未確認物を投下してしまい申し訳ありませんでしたm(__)m
まだ、残りがあったのですが今度は自分でちゃんと確認を取ってから投稿します。
結果として、面倒な事をやらせてしまったようで、すいません(汗)
皆様、未確認物を投下してしまい申し訳ありませんでしたm(__)m
まだ、残りがあったのですが今度は自分でちゃんと確認を取ってから投稿します。
結果として、面倒な事をやらせてしまったようで、すいません(汗)
(P901i/FOMA)
21 ストラップ
(F2102V/FOMA)
22 天草
>>20
私もその件は良くストサンから注意されますか(笑)気にしないで下さい。
誕生日と命日、また日にちのハッキリした出来事などは、ある程度溜ったら、一覧にして、データベースにでも展示しましょうか?
『(仮)毎日三国志記念日』なんて感じで(笑)
せっかく良い企画スレを立てられたのに、>>1はいづこへ…(^_^;)
私もその件は良くストサンから注意されますか(笑)気にしないで下さい。
誕生日と命日、また日にちのハッキリした出来事などは、ある程度溜ったら、一覧にして、データベースにでも展示しましょうか?
『(仮)毎日三国志記念日』なんて感じで(笑)
せっかく良い企画スレを立てられたのに、>>1はいづこへ…(^_^;)
(W31SA/au)
23 ストラップ
>>8
曹彰ですが、近所に書いてある人も纏めて三人。
「((黄初)四年)(三月)丁未(十九日)大司馬曹仁薨」
「((黄初)四年)六月甲戌(十七日)、任城王彰薨於京都。甲申(二十七日)、太尉賈ク薨」
残りは
曹幹
曹霖
孫休
の三人ですね。
手元にちくま訳があって確認できる方は、ご参加下さい。
>>22
それを言ったら僕も原文に当たらないで良く失敗していますから(汗)
曹彰ですが、近所に書いてある人も纏めて三人。
「((黄初)四年)(三月)丁未(十九日)大司馬曹仁薨」
「((黄初)四年)六月甲戌(十七日)、任城王彰薨於京都。甲申(二十七日)、太尉賈ク薨」
残りは
曹幹
曹霖
孫休
の三人ですね。
手元にちくま訳があって確認できる方は、ご参加下さい。
>>22
それを言ったら僕も原文に当たらないで良く失敗していますから(汗)
(PC)
24 元歎
>>23
曹幹『(景元)二年…八月戊寅,趙王幹薨。』
これ、ちょっとおかしいみたいですね。ちくまでは『八月戊寅の日(九月八日?)』とあります。>>14の赤龍さんの説明から考えると、戊寅は景元二年八月にはなくて、九月にあるということですね。
曹霖『(嘉平)二年…十二月甲辰,東海王霖薨。』(斉王紀)
十二月甲辰は12月27日。ただ、彼の伝である東海定王霖伝には『嘉平元年薨。』とあり、249年か250年かよくわかりません。
孫休『七年春正月,大赦。二月…夏四月…秋七月…壬午,大赦。癸未,休薨,』(孫休伝)
こう見ると、七月癸未(25日)のようですね(大赦のあった壬午は24日)。孫晧の即位も七月のようですから。ちなみに即位による大赦もありますから、呉では264年に三回も大赦がありますね。
曹幹『(景元)二年…八月戊寅,趙王幹薨。』
これ、ちょっとおかしいみたいですね。ちくまでは『八月戊寅の日(九月八日?)』とあります。>>14の赤龍さんの説明から考えると、戊寅は景元二年八月にはなくて、九月にあるということですね。
曹霖『(嘉平)二年…十二月甲辰,東海王霖薨。』(斉王紀)
十二月甲辰は12月27日。ただ、彼の伝である東海定王霖伝には『嘉平元年薨。』とあり、249年か250年かよくわかりません。
孫休『七年春正月,大赦。二月…夏四月…秋七月…壬午,大赦。癸未,休薨,』(孫休伝)
こう見ると、七月癸未(25日)のようですね(大赦のあった壬午は24日)。孫晧の即位も七月のようですから。ちなみに即位による大赦もありますから、呉では264年に三回も大赦がありますね。
(PC)