1 李克用
三国志につながる他の時代
まずは、初めまして('ε')ちょくちょく来るかもしれないのでよろしくね(^-^)それでは、本題に。 三国志関連の本をみるとたまに他の時代がごっちゃになってることがありますよね。たとえば、曹操が官トの終わりに袁紹側の文書を全部焼き払ったのは光武帝のお話ですし諸葛亮が赤壁で船にわら人形を置いて矢を手に入れたのも別の時代の話です。他にもあったと思うけど結構ありますよね(・。・)
(P900i/FOMA)
2 天草
李克用殿、お初です!
悲しいかな、三国志以外の歴史に全く疎い(三国志も大した事ないんですが…)私には全然分かりません。李克用殿の文さえ初めて聞いたくらいです。
でも確かに正史でも演義でもこの頃の人は歴史の故事を引き合いに出して、それを口にしたりしてますよね。歴史に重きを置いていたという事なのかな?
悲しいかな、三国志以外の歴史に全く疎い(三国志も大した事ないんですが…)私には全然分かりません。李克用殿の文さえ初めて聞いたくらいです。
でも確かに正史でも演義でもこの頃の人は歴史の故事を引き合いに出して、それを口にしたりしてますよね。歴史に重きを置いていたという事なのかな?
(PC)
3 李克用
そうですね…昔の中国人は歴史の書物がやはり勉強道具なのでそういうところがあるかもしれません。思い出しましたが曹操の「隴を得てショクを望む」も光武帝のことばですね。 天草さん>中国で魅力的な時代はたくさんありますよ。とりあえずお薦めな本があります。田中芳樹さんの「中国武将列伝上・下巻」(中公文庫)田中さんが選んだ春秋〜清までの九十九人の武将がかかれてますので好きな武将が何人か見つかるかもしれないし全体的な流れは分かると思います(・ω・)ノ読んでみてはいかがでしょうか。
(P900i/FOMA)
5 趙
春秋戦国時代を簡潔に知るには安能務氏の春秋戦国志という小説、お薦めです。分かりやすくおもしろいです。そして興味をもたれた人物を描いた宮城谷昌光氏の作品を読めば、あなたはもう春秋戦国時代の虜です。
以上、趙の小説案内でした。
以上、趙の小説案内でした。
(N900i/FOMA)
6 李克用
三国志ではないですが物凄いことをした人がいるのでこの場を借りて一人紹介します(゚_゚)(。_。)
中国は南北朝の中期ぐらい。年代は五百四十年ちょっと。南朝の梁に北朝の魏から権力争いに負けた皇族の北海王が亡命してきました。そこで梁の武帝という皇帝が北海王を帝位につけようとします。そこで陳慶之という人を将にして北魏におくりだします。
ここからが本題、何を思ったか武帝は七千騎の兵しかあたえませんでした。相手は少なめにみても三、四十万はくだらない。しかし、陳慶之は負けませんでした。七万の兵を破り、十五万の兵を破り、そして北魏の都洛陽を占拠する離れ業をします。どこから攻めたか知らないのですが諸葛亮が四回攻めて長安すら落とせなかったのにくらべ圧倒的な強さでした。
北海王はどうやらダメな人間だったみたいで酒と女に溺れます。再起した北魏軍と一戦しただけでまけます。それには陳慶之は参加してませんが、彼は帰ろうとします。その時、彼に惚れた北魏の役人がたくさんついていったという話があります。帰る途中北魏軍に襲われ全部追い払うが半分に兵士が減っていましたがそれでも四千ぐらいはいたのでやはりすごい人なんです。
ちなみに彼は武将タイプ出はなく知将といえます。
梁に帰ってくるのは九ヵ月後くらいでしたがその間に戦った回数、なんと!六十回近くでほぼ負けなしです(たぶん一度も負けてない)。
三国志に関係なくしかもくそ長くてすいませんノ(-_-;)
中国は南北朝の中期ぐらい。年代は五百四十年ちょっと。南朝の梁に北朝の魏から権力争いに負けた皇族の北海王が亡命してきました。そこで梁の武帝という皇帝が北海王を帝位につけようとします。そこで陳慶之という人を将にして北魏におくりだします。
ここからが本題、何を思ったか武帝は七千騎の兵しかあたえませんでした。相手は少なめにみても三、四十万はくだらない。しかし、陳慶之は負けませんでした。七万の兵を破り、十五万の兵を破り、そして北魏の都洛陽を占拠する離れ業をします。どこから攻めたか知らないのですが諸葛亮が四回攻めて長安すら落とせなかったのにくらべ圧倒的な強さでした。
北海王はどうやらダメな人間だったみたいで酒と女に溺れます。再起した北魏軍と一戦しただけでまけます。それには陳慶之は参加してませんが、彼は帰ろうとします。その時、彼に惚れた北魏の役人がたくさんついていったという話があります。帰る途中北魏軍に襲われ全部追い払うが半分に兵士が減っていましたがそれでも四千ぐらいはいたのでやはりすごい人なんです。
ちなみに彼は武将タイプ出はなく知将といえます。
梁に帰ってくるのは九ヵ月後くらいでしたがその間に戦った回数、なんと!六十回近くでほぼ負けなしです(たぶん一度も負けてない)。
三国志に関係なくしかもくそ長くてすいませんノ(-_-;)
(P900i/FOMA)
7 大伴
天草さん史記ですか!!!
私の敬愛する中島敦の「李陵」という作品は、陵という悲劇の主人公の物語なのですが、同時に史記を綴る司馬遷の物語でもあるのです。陵の名は、史記<李将軍列伝>で捜してみて下さい。
ちなみに陵の祖父、広は、漢の飛将軍とあだ名されていた人物で、呂布の飛将という呼び名は、この名将の名に起因しています。
私も中国史は知らない事が多いので、近いうちに勉強したいですね。
私の敬愛する中島敦の「李陵」という作品は、陵という悲劇の主人公の物語なのですが、同時に史記を綴る司馬遷の物語でもあるのです。陵の名は、史記<李将軍列伝>で捜してみて下さい。
ちなみに陵の祖父、広は、漢の飛将軍とあだ名されていた人物で、呂布の飛将という呼び名は、この名将の名に起因しています。
私も中国史は知らない事が多いので、近いうちに勉強したいですね。
(F2102V/FOMA)
9 李克用
陳慶之の話は田中芳樹さんの本の受け売りなんでたいしたことないですよヽ(`○´)/
調子に乗って別の話をします。皇帝が死んだ時におくり名というものをつけますがこれには順位と意味があります。一番いいのが、文で二番が武です。逆に最悪なのは幽でその次が霊だったと思います。武はたいてい国のもとを作り戦いによって国を勝ち取った人。例にあげるなら劉邦、曹操など。幽は国を滅亡させた人で例は西周の幽王などです。
調子に乗って別の話をします。皇帝が死んだ時におくり名というものをつけますがこれには順位と意味があります。一番いいのが、文で二番が武です。逆に最悪なのは幽でその次が霊だったと思います。武はたいてい国のもとを作り戦いによって国を勝ち取った人。例にあげるなら劉邦、曹操など。幽は国を滅亡させた人で例は西周の幽王などです。
(P900i/FOMA)
11 くわぁまん
中国史をてっとり早く知りたければ、十八史略を見るのが良いでゃんす。
あちしは、日本の小説家は吉川先生しか認めてませんが、他に中国の陳瞬臣さんが最高だと思っています。
陳先生の十八史略、諸葛孔明は一読の価値あり。
あちしは、日本の小説家は吉川先生しか認めてませんが、他に中国の陳瞬臣さんが最高だと思っています。
陳先生の十八史略、諸葛孔明は一読の価値あり。
(SH900i/FOMA)
14 李克用
私だってそれほど詳しいわけではないです。たぶんここを覗いた人で一番若いほうなのでは?それに三国志あまり詳しくありません(→_→)
三国鼎立について
三国状態になっている時代はたくさんあります。神話の時代にまでさかのぼると炎帝、シ尤、黄帝がたしか三国状態にあったと思います。順番にいくとつぎは、夏、商(殷)、昆吾氏。次が、劉邦、項籍、韓信ですが、実際は三国状態になくカイ通という人が、韓信に『天下を三分し、鼎足(鼎というのは三本足の煮沸器)のごとくして居るにしくはなし。』天下三分の計のはしりともいえることを言ったのであえていれました。そして我らが、魏、呉、ショクです。そして南北朝時代ですが、南と北と言うわりには三国あり国が入れ替わっていたりするので書きません。ほかにもあると思いますが自分が覚えてるのはこれぐらい。
三国鼎立は、バランスがよく中華の乱世では起こりやすいみたいです。
三国鼎立について
三国状態になっている時代はたくさんあります。神話の時代にまでさかのぼると炎帝、シ尤、黄帝がたしか三国状態にあったと思います。順番にいくとつぎは、夏、商(殷)、昆吾氏。次が、劉邦、項籍、韓信ですが、実際は三国状態になくカイ通という人が、韓信に『天下を三分し、鼎足(鼎というのは三本足の煮沸器)のごとくして居るにしくはなし。』天下三分の計のはしりともいえることを言ったのであえていれました。そして我らが、魏、呉、ショクです。そして南北朝時代ですが、南と北と言うわりには三国あり国が入れ替わっていたりするので書きません。ほかにもあると思いますが自分が覚えてるのはこれぐらい。
三国鼎立は、バランスがよく中華の乱世では起こりやすいみたいです。
(P900i/FOMA)
15 大伴
黄帝が炎帝(神農)の子孫と戦争したのは、炎帝の八代後ですよ(黄帝が戦後処理として南方の王としましたが)。又シ尤自身も炎帝の子孫で、黄帝に挑んだ時は、炎帝の勢力との三巴は記録されていない筈です。
が、しかし確かに、三者が互いに影響しあう形というのは、形が変わりにくいものですね。力学の見地からも、三角形は、最も強い構造ですから。項羽と劉邦の争いにも、韓信が動いた事で、流れは大きく動きましたし。
さて話は変わりますが(本題)、霊帝の崩御から(我々の認識する)三国志は始まりますが、当然の事ながらこの霊帝の治世が三国志には大きく影響されています。孔明の友人の催州平の父や、曹操の父曹崇などは、官位を金銭によって得ています。売官制度が漢滅亡の一因である事は間違いないでしょう。官を買った下級の役人達が、元を取る為に人民から過剰に税を取り、そしてそれらを横領した事によって、人々は生活が苦しくなり、年々GNPが低下し、そしてついには、国家自体が破綻、衰退したのですね。
この制度は、霊帝自身が金銭に執着していたからであり、それは又、霊帝自身のおいたちと関連していると思われます。彼は本来、貧しい小貴族だったのです。
が、しかし確かに、三者が互いに影響しあう形というのは、形が変わりにくいものですね。力学の見地からも、三角形は、最も強い構造ですから。項羽と劉邦の争いにも、韓信が動いた事で、流れは大きく動きましたし。
さて話は変わりますが(本題)、霊帝の崩御から(我々の認識する)三国志は始まりますが、当然の事ながらこの霊帝の治世が三国志には大きく影響されています。孔明の友人の催州平の父や、曹操の父曹崇などは、官位を金銭によって得ています。売官制度が漢滅亡の一因である事は間違いないでしょう。官を買った下級の役人達が、元を取る為に人民から過剰に税を取り、そしてそれらを横領した事によって、人々は生活が苦しくなり、年々GNPが低下し、そしてついには、国家自体が破綻、衰退したのですね。
この制度は、霊帝自身が金銭に執着していたからであり、それは又、霊帝自身のおいたちと関連していると思われます。彼は本来、貧しい小貴族だったのです。
(F2102V/FOMA)
16 李克用
まだまだ勉強が足りなかったかな(×_×)炎帝とかは三つ巴になっていたとなんかで読んだんですが間違いでしたか。
売官制度を容認したことから国としてはもうおしまいでしたでしょう。政務を放棄したもどうぜんですから。ただ霊帝だけが悪いわけではないでしょう。十二歳で即位したので宦官の専横が第一の要因ですね。後漢は若い皇帝が続きますので。
売官制度を容認したことから国としてはもうおしまいでしたでしょう。政務を放棄したもどうぜんですから。ただ霊帝だけが悪いわけではないでしょう。十二歳で即位したので宦官の専横が第一の要因ですね。後漢は若い皇帝が続きますので。
(P900i/FOMA)
17 大伴
ええ、飽くまで一因ですよ。
そもそも霊帝が何故帝位に付けたかというと……とやっていけば、商王朝の時代まで遡れそうですね。歴史は続いているのです。我が国でも、幕末の話をする時は、必ず関ヶ原の話まで遡りますものね。
ちなみに炎帝という人は、医神なのですが、この人の死因は……
薬草を捜していて、辺りの草をかたっぱしから喰っていたのですが、誤って毒草を食べてしまい
……というものです。神農という号からもわかりますが、彼は農耕技術の開発に力を注いだ人物の様で、又、市場や経済の発達のきっかけもこの人物だとされています。炎帝の性は「姜」であった様ですね。
もっとも私は、(略)→伏義→女渦→炎帝→(七代不明)→黄帝→(高陽氏等の黄帝の子孫。次まで略)→帝ギョウ→帝舜→禹帝……と続く各皇帝は、ほとんどフィクションだと考えています。三皇五帝と言いますが、モデルとなる人物がいたかも知れない……という程度だと考えますね。
そもそも霊帝が何故帝位に付けたかというと……とやっていけば、商王朝の時代まで遡れそうですね。歴史は続いているのです。我が国でも、幕末の話をする時は、必ず関ヶ原の話まで遡りますものね。
ちなみに炎帝という人は、医神なのですが、この人の死因は……
薬草を捜していて、辺りの草をかたっぱしから喰っていたのですが、誤って毒草を食べてしまい
……というものです。神農という号からもわかりますが、彼は農耕技術の開発に力を注いだ人物の様で、又、市場や経済の発達のきっかけもこの人物だとされています。炎帝の性は「姜」であった様ですね。
もっとも私は、(略)→伏義→女渦→炎帝→(七代不明)→黄帝→(高陽氏等の黄帝の子孫。次まで略)→帝ギョウ→帝舜→禹帝……と続く各皇帝は、ほとんどフィクションだと考えています。三皇五帝と言いますが、モデルとなる人物がいたかも知れない……という程度だと考えますね。
(F2102V/FOMA)
18 李克用
あちらの神様はたいてい人間が大本な場合が多いのですが、黄帝あたりは本当に架空の人物だと思います。日本でもよくわからない天皇とかいますしね。老子も架空の人だったとか言われてますし。
神になったといえば関羽もですが、不運のうちに死んでしまう人が神になるケースとすばらしい人物が神になるケースがありますが、関羽は両方ですね。
神になったといえば関羽もですが、不運のうちに死んでしまう人が神になるケースとすばらしい人物が神になるケースがありますが、関羽は両方ですね。
(P900i/FOMA)