2 天草
まず気になったのは、食べ物についてです。
この時代の人々は何をたべていたのでしょうか?
それを考えるきっかけになったのは、戦争(遠征)時の補給活動に関して、彼らがもし米を運んでいたのならば、これは想像以上の重労働になります(農家の息子談w)
食文化に関わる記載に気が付いた方は教えてください。
尚、人食系のグロイ話しは勘弁を(笑)
この時代の人々は何をたべていたのでしょうか?
それを考えるきっかけになったのは、戦争(遠征)時の補給活動に関して、彼らがもし米を運んでいたのならば、これは想像以上の重労働になります(農家の息子談w)
食文化に関わる記載に気が付いた方は教えてください。
尚、人食系のグロイ話しは勘弁を(笑)
(PC)
4 黒耀竜
討論場では初めて書き込みさせていただきます。
以前、「三国志の時代の社会」についてのHPを作るつもりで、食文化その他の資料を集めておりましたので、わかったことを少々書かせていただきます。
陳寿『三国志』や『後漢書』『四民月令』などの記載・後漢(東漢)時代の画像石(磚)などから当時の食事について考えますと、
主食は、北方では粟や麦(小麦粉の加工品)、南方では米になります。品種的には、ジャポニカとインディカが栽培されていたそうです。
副食としては、豚肉や鶏肉、魚(主に淡水魚)、野菜は葱・瓜・蕪など、他にレンコン・サトイモなど。
果物は、桃・すもも・棗・杏・栗(いわゆる五果)などです。
陳寿『三国志』に食事に関するさまざまな記載がありますが、少し変り種としては、王祥伝に鯉を食用としたこと、呉書 三嗣主伝注の孟宗伝にフナズシを作ったことや筍を食べたこと、士燮伝に(孫権に)バナナや椰子の実を献上したことなどがあります。
もちろん、これらは一例であって、居住地域や身分・貧富の差などによって違いがあることはお含み置きください。
また、一言いらぬことを書き添えますが、戦争(遠征)時の補給活動というのは、運ぶものが米であれ何であれ途轍もない重労働に変わりはないというのが兵站萌えの私の意見ですが、如何?
以前、「三国志の時代の社会」についてのHPを作るつもりで、食文化その他の資料を集めておりましたので、わかったことを少々書かせていただきます。
陳寿『三国志』や『後漢書』『四民月令』などの記載・後漢(東漢)時代の画像石(磚)などから当時の食事について考えますと、
主食は、北方では粟や麦(小麦粉の加工品)、南方では米になります。品種的には、ジャポニカとインディカが栽培されていたそうです。
副食としては、豚肉や鶏肉、魚(主に淡水魚)、野菜は葱・瓜・蕪など、他にレンコン・サトイモなど。
果物は、桃・すもも・棗・杏・栗(いわゆる五果)などです。
陳寿『三国志』に食事に関するさまざまな記載がありますが、少し変り種としては、王祥伝に鯉を食用としたこと、呉書 三嗣主伝注の孟宗伝にフナズシを作ったことや筍を食べたこと、士燮伝に(孫権に)バナナや椰子の実を献上したことなどがあります。
もちろん、これらは一例であって、居住地域や身分・貧富の差などによって違いがあることはお含み置きください。
また、一言いらぬことを書き添えますが、戦争(遠征)時の補給活動というのは、運ぶものが米であれ何であれ途轍もない重労働に変わりはないというのが兵站萌えの私の意見ですが、如何?
(PC)
5 赤龍
当時の調理法としては、生で食べる他は、主に蒸す、焼く、煮る、乾す、あと漬物に分類できます。
炒め物・揚げ物といった現在の中華料理で一般的に見られる調理法はずっと後の話。当時はまだありませんでした。
調味料は塩・醤・酢・山椒・ショウガなどが使われていたそうです。
炒め物・揚げ物といった現在の中華料理で一般的に見られる調理法はずっと後の話。当時はまだありませんでした。
調味料は塩・醤・酢・山椒・ショウガなどが使われていたそうです。
(PC)
7 天草
>>3
文学はそちらで、衣食住を中心にした文化はこちらでいきましょうか?
>>4-5
情報感謝♪
やっぱり詳しい方はいるんですね。
では当初の目的に戻りますが、遠征時の補給体制はどのような感じでやっていたのでしょうか?
馬だけじゃかなり辛いですよね?
車?
こうやって考えた場合、いまさらですが官渡などで、補給戦線が勝敗を大きく左右したことが、容易に分かりますね。
文学はそちらで、衣食住を中心にした文化はこちらでいきましょうか?
>>4-5
情報感謝♪
やっぱり詳しい方はいるんですね。
では当初の目的に戻りますが、遠征時の補給体制はどのような感じでやっていたのでしょうか?
馬だけじゃかなり辛いですよね?
車?
こうやって考えた場合、いまさらですが官渡などで、補給戦線が勝敗を大きく左右したことが、容易に分かりますね。
(PC)
8 黒耀竜
えぇと、このスレッドでは「衣食住を中心とした文化」について取り上げていくということだったと思いますが。軍事(補給)に関してであれば、別にスレッドを立てていただければ有り難く思います。
補給活動については、ハードウェア(兵糧の保管方法や輜車など)については多少存じておりますが、ソフト(組織など)については恥ずかしながらさっぱりです。・・・なので、其の辺りのこともお話できれば良いですね。
補給活動については、ハードウェア(兵糧の保管方法や輜車など)については多少存じておりますが、ソフト(組織など)については恥ずかしながらさっぱりです。・・・なので、其の辺りのこともお話できれば良いですね。
(PC)
9 子竜
横から失礼します。
「衣」のことで質問なのですが、この頃に裁縫技術ってあったのでしょうか?また、衣装に関してはどのようなものを着ていたのでしょうか?分かる方、どうか教えてください。
「衣」のことで質問なのですが、この頃に裁縫技術ってあったのでしょうか?また、衣装に関してはどのようなものを着ていたのでしょうか?分かる方、どうか教えてください。
(W31SA/au)
11 赤龍
「衣」に関しては、当時の衣類の種類は、主に平民に用いられた麻織物。高貴な人が用いる絹織物。主に特定の地方で作られるイメージの毛織物に大きく分類できると思います。
漢代は織物の技術が非常に発達した時代のようです。足ふみ式の機織機も漢代に発明されたそうです。刺繍もすでに存在し、染色技術も、絹織物の色は39種もあったそうです。
高級な絹織物である錦が蜀の名産というのは有名な話ですね。
漢代は織物の技術が非常に発達した時代のようです。足ふみ式の機織機も漢代に発明されたそうです。刺繍もすでに存在し、染色技術も、絹織物の色は39種もあったそうです。
高級な絹織物である錦が蜀の名産というのは有名な話ですね。
(PC)
12 赤龍
生活史に関する記述、『図説中国文明史4 秦漢』(創元社、2005)から調べていますが、面白い内容を見つけました。以下引用します。
「前漢武帝期の五シュ銭の貨幣価値」
錦布1疋:224銭。絹布1疋:500銭。穀物1石:500銭。良馬1頭:5000〜20万銭。役牛1頭:1800銭。鶏1羽;23銭。ウサギ1羽:29銭。豚1頭:300銭。犬1匹:120銭。羊1頭:150〜500銭。関中地区の良田1畝:1万銭。関中地区の邸宅:20万銭。
三国時代とはちょっと離れますが、漢代の物価を知る目安になるかな?と。
「前漢武帝期の五シュ銭の貨幣価値」
錦布1疋:224銭。絹布1疋:500銭。穀物1石:500銭。良馬1頭:5000〜20万銭。役牛1頭:1800銭。鶏1羽;23銭。ウサギ1羽:29銭。豚1頭:300銭。犬1匹:120銭。羊1頭:150〜500銭。関中地区の良田1畝:1万銭。関中地区の邸宅:20万銭。
三国時代とはちょっと離れますが、漢代の物価を知る目安になるかな?と。
(PC)
15 黒耀竜
>>10
私の方こそ管理人のかたに向かって生意気を申しまして、たいへん失礼しました。
>>12
貨殖列伝なども書かれたように経済が活況を呈していた前漢武帝期と貨幣経済が機能しなくなった後漢末とでは、参考にするのは適当でないと思うのですがいかがでしょうか。
>>9
素材に関しては、赤龍様が書いておられる通りです。服の構成は、褌(日本のものとは違い、筒のような形)やモモヒキのようなズボン状の下着を履き、その上に袍または深衣(のちには衫)というツナギの着物を着ました。また、日常でも巾(帽子状のかぶり物)などを頭に着け、何もかぶらないのは恥ずかしいことだと考えられたようです。
ただし、上記は比較的ラフな格好であり、礼服や朝服・戎衣(軍服)などの仕事着についてはもちろんこの限りではありません。
私の方こそ管理人のかたに向かって生意気を申しまして、たいへん失礼しました。
>>12
貨殖列伝なども書かれたように経済が活況を呈していた前漢武帝期と貨幣経済が機能しなくなった後漢末とでは、参考にするのは適当でないと思うのですがいかがでしょうか。
>>9
素材に関しては、赤龍様が書いておられる通りです。服の構成は、褌(日本のものとは違い、筒のような形)やモモヒキのようなズボン状の下着を履き、その上に袍または深衣(のちには衫)というツナギの着物を着ました。また、日常でも巾(帽子状のかぶり物)などを頭に着け、何もかぶらないのは恥ずかしいことだと考えられたようです。
ただし、上記は比較的ラフな格好であり、礼服や朝服・戎衣(軍服)などの仕事着についてはもちろんこの限りではありません。
(PC)
16 赤龍
>>15
当然経済状況も違うし、約300年も離れているし、直接には参考にできないことは承知しております。
しかし、ある程度の漢代の物の価値の比較の参考にはなると思いますし、なによりなかなかわかりづらい当時の物価の一覧というのを見つけたので、面白い資料だと思い、三国時代ということにこだわらず紹介してみたわけです。
>>13
蝗で有名なのは、武帝紀にある「蝗が湧き起り、人民はたいそう飢餓に苦しんだ。呂布の食糧も尽き果てたので、両者とも引き上げた」という記述でしょう。両軍戦争継続が困難になるほどの激しい被害だったようです。
横山三国志の蝗の場面も多分この箇所ではないでしょうか?
当然経済状況も違うし、約300年も離れているし、直接には参考にできないことは承知しております。
しかし、ある程度の漢代の物の価値の比較の参考にはなると思いますし、なによりなかなかわかりづらい当時の物価の一覧というのを見つけたので、面白い資料だと思い、三国時代ということにこだわらず紹介してみたわけです。
>>13
蝗で有名なのは、武帝紀にある「蝗が湧き起り、人民はたいそう飢餓に苦しんだ。呂布の食糧も尽き果てたので、両者とも引き上げた」という記述でしょう。両軍戦争継続が困難になるほどの激しい被害だったようです。
横山三国志の蝗の場面も多分この箇所ではないでしょうか?
(PC)
19 子竜
>>19
服の作りの種類として…
1、布を縫いあわせたもの(今私達が着ている服もその一つ)
2、布を体に巻きつけて帯などで固定するもの(日本の着物など)
3、大きな布に一ヶ所穴を開け、そこに首を通し、帯みたいなもので固定する(これは2と同じかな?)
何の本で読んだかは忘れましたが、私の知る限りではその3パターンです。
服の作りの種類として…
1、布を縫いあわせたもの(今私達が着ている服もその一つ)
2、布を体に巻きつけて帯などで固定するもの(日本の着物など)
3、大きな布に一ヶ所穴を開け、そこに首を通し、帯みたいなもので固定する(これは2と同じかな?)
何の本で読んだかは忘れましたが、私の知る限りではその3パターンです。
(W31SA/au)
20 赤龍
>>19
2は横幅衣、3は貫頭衣といわれる、どちらも1枚の布から作られたとされるものですね。
子竜さんが質問されているのは、それに対し複数の布を縫い合わせて服を作ることですよね。当然当時の中国には存在しており、それどころか当時の日本を含む周辺諸国(いわゆる蛮夷)でもその技術はありました。
前述した貫頭衣、実は当時の日本の技術では大人が着れるほどの幅の広い一枚布を作るほうが困難なようです。そのため、2枚の布を縫い合わせて作ったと推測されているようです。
2は横幅衣、3は貫頭衣といわれる、どちらも1枚の布から作られたとされるものですね。
子竜さんが質問されているのは、それに対し複数の布を縫い合わせて服を作ることですよね。当然当時の中国には存在しており、それどころか当時の日本を含む周辺諸国(いわゆる蛮夷)でもその技術はありました。
前述した貫頭衣、実は当時の日本の技術では大人が着れるほどの幅の広い一枚布を作るほうが困難なようです。そのため、2枚の布を縫い合わせて作ったと推測されているようです。
(PC)
23 天草
当時の一夫多妻制はどのあたりの人物にまで許されていたのでしょうか?
そもそも結婚というのは特に何か証拠を残すようなもの(戸籍謄本のようなもの)があったのでしょうか?
だれでも気まぐれに何人とも結婚できたりして…。
そもそも結婚というのは特に何か証拠を残すようなもの(戸籍謄本のようなもの)があったのでしょうか?
だれでも気まぐれに何人とも結婚できたりして…。
(PC)
24 黒耀竜
三国志博物館集解で食物が取り上げられたので、私もひとつ・・・。
ちょっとソースを忘れたのですが(漢方か事典のサイトだったかと)、紫蘇の葉について。
東漢末、ある人が蟹を生で食べたところ顔が紫色になり死にかけたそうです。そこで、華陀(やっぱりか)が診察し、シソ(それ以前の名称は調べていません)の葉を煎じたものを飲ませるとたちどころに蘇生したとか。以来、「紫蘇」と呼ぶようになったんだそうです。
諸葛亮の饅頭と同じで信憑性は乏しい話ですが、参考までに。
ちょっとソースを忘れたのですが(漢方か事典のサイトだったかと)、紫蘇の葉について。
東漢末、ある人が蟹を生で食べたところ顔が紫色になり死にかけたそうです。そこで、華陀(やっぱりか)が診察し、シソ(それ以前の名称は調べていません)の葉を煎じたものを飲ませるとたちどころに蘇生したとか。以来、「紫蘇」と呼ぶようになったんだそうです。
諸葛亮の饅頭と同じで信憑性は乏しい話ですが、参考までに。
(PC)
26 黒耀竜
連カキ失礼。
三国志食彩浪漫祭り(?)第3段。
呉の孟宗(人名)が由来の孟宗竹(モウソウチク)を挙げておきます。これは確信に近い確率で、三国志に由来すると言えるでしょう。
もうひとつ野菜関係で有名なのがありますが、詳しい方に譲ります。
三国志食彩浪漫祭り(?)第3段。
呉の孟宗(人名)が由来の孟宗竹(モウソウチク)を挙げておきます。これは確信に近い確率で、三国志に由来すると言えるでしょう。
もうひとつ野菜関係で有名なのがありますが、詳しい方に譲ります。
(PC)
30 黒耀竜
>>28
おっしゃる通り、まさに「それ」です。以前は「どうせ作り話だろ」と思っていたのですが、本当に蕪のことを諸葛菜と呼ぶそうですね。孟宗竹と同じく、確信に近い確率をもって「三国志に由来する食物」といえるでしょう(←間違いないとは思いますが)。
余談ながら、日本で諸葛菜と呼ばれるのはハナダイコン(食用不可)なのだそうで。なんで間違えたんでしょうね?
>>29
「説だけ」なら、やはり諸葛亮がダントツだと思うのですが、諸葛亮が発明(あるいは改良)したと言われるものはどれも根拠に乏しい(あるいは実用性に疑問がある)という気がします。・・・まぁ、人物批評には関わりたくありませんので、この話はこの辺で。
華佗の医学への貢献は、文句なしにすばらしいと思います。彼の理論や技術は、その多くが失われたと言われていますが、王熙(魏〜西晋の太医令)が収集を試みたようです。
おっしゃる通り、まさに「それ」です。以前は「どうせ作り話だろ」と思っていたのですが、本当に蕪のことを諸葛菜と呼ぶそうですね。孟宗竹と同じく、確信に近い確率をもって「三国志に由来する食物」といえるでしょう(←間違いないとは思いますが)。
余談ながら、日本で諸葛菜と呼ばれるのはハナダイコン(食用不可)なのだそうで。なんで間違えたんでしょうね?
>>29
「説だけ」なら、やはり諸葛亮がダントツだと思うのですが、諸葛亮が発明(あるいは改良)したと言われるものはどれも根拠に乏しい(あるいは実用性に疑問がある)という気がします。・・・まぁ、人物批評には関わりたくありませんので、この話はこの辺で。
華佗の医学への貢献は、文句なしにすばらしいと思います。彼の理論や技術は、その多くが失われたと言われていますが、王熙(魏〜西晋の太医令)が収集を試みたようです。
(PC)
31 黒耀竜
食物とは関係ないのですが、ついでにもう1件。
宣伝するつもりではないのですが(こればっかり)、「中国古美術 太田」という古美術屋さんのサイトで、漢代の建築物の模型の写真がけっこう多く掲載されています。どうしても豪族・富農層に偏っていることや出土地域が書いてないことなど物足らない点もありますが、博物館のパンフレット一冊分以上の価値はあるかと。
地域別交流板に書かせていただいた「中国古代の暮らしと夢−建築・人・動物−」もありますし、当時の建築・土木関係の資料も増えることを願います。
宣伝するつもりではないのですが(こればっかり)、「中国古美術 太田」という古美術屋さんのサイトで、漢代の建築物の模型の写真がけっこう多く掲載されています。どうしても豪族・富農層に偏っていることや出土地域が書いてないことなど物足らない点もありますが、博物館のパンフレット一冊分以上の価値はあるかと。
地域別交流板に書かせていただいた「中国古代の暮らしと夢−建築・人・動物−」もありますし、当時の建築・土木関係の資料も増えることを願います。
(PC)
33 天草
(PC)
34 削除済
35 ピヨひこ
衣食住と関係ないですが、歌と踊りについて質問です。
三国志中の歌というと詩みたいな感じのしかないですが、戦争時に歌う応援歌はなかったのでしょうか?
留略?は戦争前に兵士を鼓舞する合唱をしてませんでした?
それと踊りも、優雅なものじゃなく、戦時中に踊る鼓舞目的の踊りはないですかね?
三国志中の歌というと詩みたいな感じのしかないですが、戦争時に歌う応援歌はなかったのでしょうか?
留略?は戦争前に兵士を鼓舞する合唱をしてませんでした?
それと踊りも、優雅なものじゃなく、戦時中に踊る鼓舞目的の踊りはないですかね?
(EZ)
36 赤龍
>>35
軍中で歌われる歌として「鼓吹曲」というものがあるそうです。伴奏が主に太鼓と笛なのでこう呼ぶそうです。
三国時代の鼓吹曲の内容は、それぞれ自国の歴史を題材にしたものだそうです。それを歌うことにより、敵味方に自国の正統性をアピールする効果を狙ったようです。
これについても、度々紹介している『中国の歴史4 三国志の世界』(金文京著、講談社)に書かれています。
軍中で歌われる歌として「鼓吹曲」というものがあるそうです。伴奏が主に太鼓と笛なのでこう呼ぶそうです。
三国時代の鼓吹曲の内容は、それぞれ自国の歴史を題材にしたものだそうです。それを歌うことにより、敵味方に自国の正統性をアピールする効果を狙ったようです。
これについても、度々紹介している『中国の歴史4 三国志の世界』(金文京著、講談社)に書かれています。
(PC)
37 赤龍
踊りについては、>>35で紹介した本に「中国の軍隊の中に芸人がいたことは、後世多くの史料がある」と書かれてますが、具体的なことは、私にはよくわかりません。
ただ、時代がさかのぼりますが、『史記』に有名な鴻門の会で剣舞を行う場面がありますね。『三国志演義』でも剣舞を舞う場面がいくつかありますし。三国時代にも、やはり軍中で剣舞が舞われることもあったと思います。
ただ、時代がさかのぼりますが、『史記』に有名な鴻門の会で剣舞を行う場面がありますね。『三国志演義』でも剣舞を舞う場面がいくつかありますし。三国時代にも、やはり軍中で剣舞が舞われることもあったと思います。
(PC)
39 赤龍
鼓吹曲は魏、呉、晋のものが残されていますが、蜀のものだけが伝わっていません。しかし、蜀だけ存在しないとも考えにくく、どの国も用いていただろうと思われています。
鼓吹曲なんかを用いたであろう例はピヨひこさんが紹介されてる留賛(留略は彼の子です)のものの他、合肥で張遼の奇襲を受けたとき、甘寧が茫然とする軍楽隊を叱りつけ、演奏を再開させ士気をたかめた記述があります。この場面は『蒼天航路』にもありましたね。
鼓吹曲なんかを用いたであろう例はピヨひこさんが紹介されてる留賛(留略は彼の子です)のものの他、合肥で張遼の奇襲を受けたとき、甘寧が茫然とする軍楽隊を叱りつけ、演奏を再開させ士気をたかめた記述があります。この場面は『蒼天航路』にもありましたね。
(PC)
40 赤龍
鼓吹曲の作詞は、魏はビュウ襲、呉は韋昭、晋は傅玄がつくったものが残されているそうです。一流の文人に作らせていることからも、各国で力を入れてたであろうことが推測されています。
私にわかるのはこれくらいです。あんまし質問の答えになってなくてすいません。
私にわかるのはこれくらいです。あんまし質問の答えになってなくてすいません。
(PC)
41 黒耀竜
皆様お久しぶりです。
私も赤龍様とは少し違う情報を持っているので書き込みさせていただきます。
中国には「腰鼓」という演奏と踊りが一体になった芸能があります。秦漢時代に黄土高原西方で始まったらしく、もとは「戦に行く人を励ます」ためのものだったようです。NHKの『そのとき歴史が動いた』では、たしか始皇帝が軍楽に採用していたようなことを言っていました。
私は腰鼓をTVでしか見たことがないのですが、リズムも動きも単調ながらも楽しそうで、また別番組で見たものは足を垂直に蹴り上げながら1回転するなどたいへん躍動的な踊りでした。いろいろバリエーションがあるとは思いますが、三国志の時代より前から現代まで伝わっているのは確かですので、軍楽に取り入れられていても不思議はないでしょう。
ちなみに、佐賀県多久市に「孔子の里」という施設があって、そこで年に何回か中国式の腰鼓を実演してくれるそうです。
それから、陳寿『三国志』に軍楽隊についての記述が散見されます。名称はやはり「鼓吹」で、功績のある人物に恩賞として与えられたりしていました(諸葛亮伝・周瑜伝など)。また、劉封と孟達が仲違いした原因として劉封が孟達の楽隊を取り上げたことが挙げられています。
楽隊も直接の戦力にはならないものの、重要性は高かったのでしょうね。
久しぶりなので、ちょっと頭がこんがらがっていますが、ご容赦ください。
私も赤龍様とは少し違う情報を持っているので書き込みさせていただきます。
中国には「腰鼓」という演奏と踊りが一体になった芸能があります。秦漢時代に黄土高原西方で始まったらしく、もとは「戦に行く人を励ます」ためのものだったようです。NHKの『そのとき歴史が動いた』では、たしか始皇帝が軍楽に採用していたようなことを言っていました。
私は腰鼓をTVでしか見たことがないのですが、リズムも動きも単調ながらも楽しそうで、また別番組で見たものは足を垂直に蹴り上げながら1回転するなどたいへん躍動的な踊りでした。いろいろバリエーションがあるとは思いますが、三国志の時代より前から現代まで伝わっているのは確かですので、軍楽に取り入れられていても不思議はないでしょう。
ちなみに、佐賀県多久市に「孔子の里」という施設があって、そこで年に何回か中国式の腰鼓を実演してくれるそうです。
それから、陳寿『三国志』に軍楽隊についての記述が散見されます。名称はやはり「鼓吹」で、功績のある人物に恩賞として与えられたりしていました(諸葛亮伝・周瑜伝など)。また、劉封と孟達が仲違いした原因として劉封が孟達の楽隊を取り上げたことが挙げられています。
楽隊も直接の戦力にはならないものの、重要性は高かったのでしょうね。
久しぶりなので、ちょっと頭がこんがらがっていますが、ご容赦ください。
(PC)
43 巫俊(ふしゅん)
この時代は切腹の習慣すらないですからね〜。
そもそも日本じゃないし。
日本人はそういうの好きなので、劉備の遺言とかの人気の秘訣なのかもしれないな〜と思います。
死を覚悟した武将たちは「はやく殺せ」「はやく殺せ」と自身の処刑を急ぐようせがむようですけど。
そもそも日本じゃないし。
日本人はそういうの好きなので、劉備の遺言とかの人気の秘訣なのかもしれないな〜と思います。
死を覚悟した武将たちは「はやく殺せ」「はやく殺せ」と自身の処刑を急ぐようせがむようですけど。
(PC)
44 黒耀竜
>>42
習慣とか風習とまで言わずとも、死に臨んで気持ちを誰かに伝えようとすることは洋の東西を問わず、人として当然の心理でしょうね。三国志の時代の人物もいろいろと遺言を残しています。
細かに挙げていくときりがないので、私の好きな遺言をひとつ。
「わしは将軍であったから、将軍なんてたいしたものでないことを知っているし、わしはたびたび墓をあばいてその木を取り出して武器を作ったから、手厚い埋葬が死者にとって何の役にも立たないことも知っている。(中略)(わしの遺体を埋めるのはどこでも)おまえの都合のよいようにせよ」(魏のカク昭の遺言)
↑『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーもかくや、・・・てか、妙に人間くさくて気に入っています。
魏の人間の遺言は、葬儀を簡素にしろとか墓は目立たぬようにしろとか、死後のことに妙に淡白な気がするのですが、そういうお国柄なんですかね?
習慣とか風習とまで言わずとも、死に臨んで気持ちを誰かに伝えようとすることは洋の東西を問わず、人として当然の心理でしょうね。三国志の時代の人物もいろいろと遺言を残しています。
細かに挙げていくときりがないので、私の好きな遺言をひとつ。
「わしは将軍であったから、将軍なんてたいしたものでないことを知っているし、わしはたびたび墓をあばいてその木を取り出して武器を作ったから、手厚い埋葬が死者にとって何の役にも立たないことも知っている。(中略)(わしの遺体を埋めるのはどこでも)おまえの都合のよいようにせよ」(魏のカク昭の遺言)
↑『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーもかくや、・・・てか、妙に人間くさくて気に入っています。
魏の人間の遺言は、葬儀を簡素にしろとか墓は目立たぬようにしろとか、死後のことに妙に淡白な気がするのですが、そういうお国柄なんですかね?
(PC)
45 礼文
>>43
確かに劉備の遺言は日本人に人気のでそうな遺言ですね〜相手の性格を読みきって発した言葉ともとれるかも知れない、という指摘もどこかで語られていましたけど(^^;そこでは孫策の遺言も一緒に語られていましたね。
>>44
質問した時から曹操やカク昭の遺言は頭に浮かべましたが、言われてみれば確かにそうかも。リアリストが集まるお国柄…なんか暮らしにくそう(笑)
劉備は善玉で曹操は悪役というイメージがあったのも、リアリストの曹操より義や情の人間である劉備の方が人々に受け入れやすかったということなんでしょうか。
確かに劉備の遺言は日本人に人気のでそうな遺言ですね〜相手の性格を読みきって発した言葉ともとれるかも知れない、という指摘もどこかで語られていましたけど(^^;そこでは孫策の遺言も一緒に語られていましたね。
>>44
質問した時から曹操やカク昭の遺言は頭に浮かべましたが、言われてみれば確かにそうかも。リアリストが集まるお国柄…なんか暮らしにくそう(笑)
劉備は善玉で曹操は悪役というイメージがあったのも、リアリストの曹操より義や情の人間である劉備の方が人々に受け入れやすかったということなんでしょうか。
(EZ)
46 赤龍
魏では、カク昭も遺言で自白してますが、曹操自身も担当の役人まで置いておおっぴらに盗掘やってますから、厚葬の無駄というか、立派な墓つくるほど盗掘に狙われやすいことを強く実感してたのかもしれませんね。
それに、曹操、曹丕自身も、薄葬にするよう命じてますから、皇帝の陵墓が簡素な以上、臣下も立派な墓をつくりづらいかもしれませんね。
それに、曹操、曹丕自身も、薄葬にするよう命じてますから、皇帝の陵墓が簡素な以上、臣下も立派な墓をつくりづらいかもしれませんね。
(PC)
47 天草
昨日の博物館ブログ、三国志博物館集解http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50322016.htmlの記事に出た、当時の中国の文化(常識)である、『同姓不婚の原則』、興味深く思いましたので、他にも情報・意見を募集しておきます☆
(PC)
48 朱家
劉備は、劉氏の未亡人(呉氏)を妻としてます。劉禅は、姉(張飛の娘)を妻とし、その後、妹を妻とするタブーですが、姉を妻、妹を側室にした時点で、すでにタブー。
曹操は丁氏を妻とし、父の正妻も丁氏で、これもタブー。曹操が丁氏を側室にした時点で、すでにタブーなのかな?
孫権、呉は、同姓レベルでないので、やめときましょう。
ある人の見解ですが「三国君主ともに、タブーをしており、言わば、ならず者国家である。崩壊の一因であり、司馬懿はタブーを嫌う人物である」
是非はともかく、側室が否定される現代では不毛ですが、孫権の配下にはなりたくないかなと思いますね。
曹操は丁氏を妻とし、父の正妻も丁氏で、これもタブー。曹操が丁氏を側室にした時点で、すでにタブーなのかな?
孫権、呉は、同姓レベルでないので、やめときましょう。
ある人の見解ですが「三国君主ともに、タブーをしており、言わば、ならず者国家である。崩壊の一因であり、司馬懿はタブーを嫌う人物である」
是非はともかく、側室が否定される現代では不毛ですが、孫権の配下にはなりたくないかなと思いますね。
(PC)
49 うさぎ
三国時代の婚姻について詳しく知りたいです。
@三国時代に限らずある程度裕福な家(商家より上)は自我が確立するよりも、言葉を話すよりも先に家同士親同士が勝手に結婚相手を決めていたそうですが、弊害はなかったのでしょうか。
A有名な三国志の登場人物の実際の歴史の記録からわかる結婚に至るまでの経緯
B三国時代の婚姻関係豆知識
Cエジプトでは外部より優れた者を取り入れ後継者とできるお姫様の方が重要視されていました。たしかにこれは現代でも考えると効率的だと思いました。例えは悪いけれど開業医の家で跡をつぐ能力のない息子と娘が居た場合、息子をどうにかしようとするより娘と病院を餌に優秀な婿を迎えた方が、また土地持ち旧家の場合は家全体を考えたら自分の息子は家止まりですが娘は婚姻により行き先は未知数なので。三国時代はエジプトの考えで娘重視という風習はあったのでしょうか
D恋愛結婚のエピソードは三国時代名の残った人にはあったのでしょうか
現代に生まれても八ツ墓村のような家庭に育った自分にはとても興味深い問題です。詳しい方よろしくお願いします。
@三国時代に限らずある程度裕福な家(商家より上)は自我が確立するよりも、言葉を話すよりも先に家同士親同士が勝手に結婚相手を決めていたそうですが、弊害はなかったのでしょうか。
A有名な三国志の登場人物の実際の歴史の記録からわかる結婚に至るまでの経緯
B三国時代の婚姻関係豆知識
Cエジプトでは外部より優れた者を取り入れ後継者とできるお姫様の方が重要視されていました。たしかにこれは現代でも考えると効率的だと思いました。例えは悪いけれど開業医の家で跡をつぐ能力のない息子と娘が居た場合、息子をどうにかしようとするより娘と病院を餌に優秀な婿を迎えた方が、また土地持ち旧家の場合は家全体を考えたら自分の息子は家止まりですが娘は婚姻により行き先は未知数なので。三国時代はエジプトの考えで娘重視という風習はあったのでしょうか
D恋愛結婚のエピソードは三国時代名の残った人にはあったのでしょうか
現代に生まれても八ツ墓村のような家庭に育った自分にはとても興味深い問題です。詳しい方よろしくお願いします。
(SH702iD/FOMA)
50 Barbal
ウソかホンマかわかりませんが、湖北省の後漢遺跡からキセル(煙管)が発見され
recordchina.co.jp/group/g25089.html
「1900年前に喫煙の習慣があったか?」と騒ぎになっているようですね。
個人的にはこれも「晋代のアルミニウム」みたいなオチじゃないかと思いますが、もしかすると阿片や香草(アロマセラピー)みたいなものだった可能性もあるわけで、詳しい調査結果が待たれます。
ガセだろうと思いつつも事実であってほしいという想いもあり、複雑です ^^;
やさぐれてヤニ喰ってる曹操なんてのも絵になりますが・・・・・・。
いつも通り酔っ払っておりますので、乱文失礼。
recordchina.co.jp/group/g25089.html
「1900年前に喫煙の習慣があったか?」と騒ぎになっているようですね。
個人的にはこれも「晋代のアルミニウム」みたいなオチじゃないかと思いますが、もしかすると阿片や香草(アロマセラピー)みたいなものだった可能性もあるわけで、詳しい調査結果が待たれます。
ガセだろうと思いつつも事実であってほしいという想いもあり、複雑です ^^;
やさぐれてヤニ喰ってる曹操なんてのも絵になりますが・・・・・・。
いつも通り酔っ払っておりますので、乱文失礼。
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