1 司馬散人

統一失敗の理由

はじめまして!
過去スレに滅亡についてはありましたが、魏・呉・蜀各国の統一戦略が結果的に実現しなかった原因に付いてご意見をお願いします。私的には、
魏:郭嘉の死、赤壁の敗戦呉:孫策と周瑜の夭折とその後の軍師リレーによる戦略のブレ、南郡制圧ミス
蜀:関羽の死、荊州の喪失あえて人の死も入れてみました。
魏以外の戦略は、実現性が低いのを承知でお願いします。
(J-SH53_a)
2 じた
呉・蜀は論外では??人材・兵力・領土で魏に圧倒的に差つけられてんですから。曹操が袁紹を倒した時点で他国の中国統一は限りなく0に近い状態になったと思います!! あと呉・蜀が争った(曹操・孫権VS関羽)の時点で決定的に統一できなくなったとッ↓↓僕はそ〜思います(>_<)
(W32SA/au)
3 じた
連続ですみません(>_<)

統一できなくなったとッ←←←は呉・蜀の事です(*_*)
(W32SA/au)
4 司馬散人
ご意見ありがとうございました。
やっぱりそうですね。事実南から統一した例は明朝しかありませんから。
当時の華中・華南を考えると、天下二分も天下三分も統一を目指す戦略というより割拠を前提とした生き残り戦略と見たほうがよさそうですね。
私としては曹操が統一出来なかったのが口惜しいですが。
(J-SH53_a)
5 無問題
はじめまして、無問題というものです。う〜ん…、魏との国力差があるから呉蜀での統一は難しいですな〜…。蜀については盾の役割を果たしている山岳地帯がネックになり、しかも以外と反乱が多く孔明の苦労をみたら分かると思います。呉の場合は、なんといっても山越の反乱でしょう。いつどこで反乱をおこすか分からず、地方ごとにそれなりの兵力を置かなければならず、なかなか大規模な遠征ができませんでした(最近あまりうってでなかったのは孫権の方針だったのかなと思いますが)まあ、呉が一代飛躍する最大の好機は赤壁の後だと思います。あの時、孫権が欲張らず他方面に侵攻しなかったら…。
(W32SA/au)
6 司馬散人
無問題さんのおっしゃる通り地政学的に長江と秦嶺山脈の存在が大きいということどしょうか。
私はSLGから三国志に入ったので、あれって多少無茶な戦略でもクリア出来ますからね。
今度は曹操に付いてなのですが、孫権と対峙する前に馬騰→張魯→劉璋と攻略する選択肢は無かったのでしょうか?
中国史的に北方勢力が巴蜀を押さえると南方勢力は手詰まりに成るみたいなので。劉表の死から赤壁への流れはある程度必然なのでしょうか?
(J-SH53_a)
7 巫俊(ふしゅん)
はじめまして。
とりあえず曹操には馬騰たちを攻撃する理由がなかったはずです。
だって馬騰は曹操の配下だったんですから。
正確には曹操の配下というより許都の朝廷の臣下で、それもゆるやかで名目的な臣従です。

ただ馬騰は袁尚攻撃に参加していますしね。
曹操が甘い態度をとっている限りは親曹操といった感じです。

当時の曹操勢力は何年もの歳月をかけて袁尚を討ち果たしたばかりなので、長征するとしたらもっとも弱点のある群雄荊州刺史の劉ソウでしょう。

劉表が長生きした上で孫権に隙があったら、曹操に忠実な英才・陳登を使って、長江以南に兵を進めたかもしれません。
ただ陳登は若くして死んでしまったので。

人の死は偶然ですし、赤壁の戦いが起こったのも原因が重なったからですね。
(PC)
8 司馬散人
巫俊さんご意見ありがとうございます。
馬騰は漢室に帰順してましたね。馬超が反乱を起こさなければ、兵を向ける気は無かったのかな?
そうなると、孫権に対しても武力平定よりなるべく無血で帰順させるつもりだった可能性が高くなりますね。
河北平定後の曹操は、漢室の威光と圧倒的戦力で[戦わずして勝つ]つもりだったということですか。
(J-SH53_a)
9 飛燕
初めまして。司馬散人さん、フ俊さん
馬超達の討伐理由云々については、>>>43を参考にしてください。
孫権と戦う前に、馬騰→張魯…という計画を持って、曹操は南下したと思います。荊州を獲ったら、その地を安泰・水軍の強化をしながら、馬超達を討伐、って感じではなかったのではないかと。孫権と戦ったのは、本来の計画には無かったと思います。また、無血 is Best!は、いつの時代も同じだと思います(笑)
(F900iC/FOMA)
10 ピヨひこ
領土云々より蜀・呉は君主の後継が情けなかったかと…
劉禅は言うまでもなく、孫皓に至っては何人忠臣を殺し、人望が堕ちた事か…

魏は曹叡までは名君でしたが、早死と後継者の不信から晋に取られましたが魏=晋の国力ですから大変はなかったですよね。
蜀は黄皓の仕官から滅亡へのカウントダウンで、董允の死で終了(^_^;)
呉は諸葛恪、陸抗、張悌、魯叔等良将と長江の地の利で十分守れましたが、羊コが襄陽を守り、合肥には新城と魏の層の厚さと戦略の高さで崩すのは難しいですがねf^_^;
(W21SA/au)
11 司馬散人
皆様レスありがとうございます。実は生まれて初めてのスレたてだったので、レス来なかったらどうしようと思ってました(笑)

ピヨひこさんのご意見はごもっともです。私も三国供に、だらし無い後継者が多いと感じ、それで特に曹操の戦略に統一失敗の原因が無いか?と今思っているところです。(Jr.達を責めるのは、あまり期待出来ないだけに可哀相かなと)

飛燕さんもご意見ありがとうございます。馬超スレも大変参考になりました。
やはり、曹操は劉ソウの降伏後、孫権と決戦するつもりはあまり無かったのかな?荊州に付いては孫権・劉備の勢力が侵食する前に押さえた方が楽だし、江南に対するクサビに成りますからね。
ただ、大軍を率いて来た理由が解りませんね。
どうしても劉備を仕留めたかったのかな?
つまり、孫権に圧力をかけて劉備を孤立させ仕留めるまでが南征の目的で、その後は関中方面に行くつもりだったとか。
(J-SH53_a)
12 無問題
合肥城は正に呉の疫病神的な難攻不落の要塞でした。この城の補足をしたいと思います。まだ、曹操が袁紹と官渡で睨みあいをしている時期に曹操は合肥に劉馥を派遣。この地方は袁術の痴政により散々荒れ果てていました。合肥城も所々崩れているところがありとても戦に使えるシロモノではありませんでした。彼は赴任すると学校を作ったり、治水を整え地元を嵐まわっていた雷諸らと和睦したりとまず行政体制をととのえ、合肥城の修復をはじめます。しかし、完成した頃にはおそらくしんでいたものと思います。多分、自分の補足だと不充分だと思いますが、一応ここに合肥城についてかきました。張遼の活躍の影に隠れて劉馥の功績はどうしても地味になってしまいますが、彼のやった事はかなり重大だと思います。
(W32SA/au)
13 エイ
司馬殿、初めまして。

魏朝に関しては、後の統一王朝・晋朝へと
移行している訳ですから、穿った見方をすれば統一を失敗しているとは云えないと考えます。
あくまで、曹孟徳の覇業としての完遂を見なかった理由と
して考察するのであれば、仰るように郭奉孝の死と、赤壁の敗戦が大きな理由
だと思います。
私としては、更に曹孟徳自身の年齢も無視出来ない要素と考えます。

呉国に関しては、孫伯符の死で可能性は摘み取られたと感じています。
その後は孫仲謀の思惑なのか、はたまた若年ゆえになのか……。
政権の支配力≧揚州豪族の発言権の構図が少しずつ崩れ、
守勢には強くとも、攻勢には積極的ですらなくなっていった様に感じています。

蜀漢に関しては……、
これに関して、私は最近ようやく考えを改めつつあるのですが、
劉玄徳と云う人は、大志(野望)を抱きつつも、それを実現する手段が極端に限られていた気がしてきています。
劉玄徳が何らかの手段を講ずるに際しては、『対曹』を明確に打ち出すことが、
大事だったのではないかと思うようになって来たのです。
もし、そうだとすると常に『後の先』的な方策を主にすることになるわけで、最初から統一の可能性は
なかったのではなかろうかと…このように考える訳です。
(PC)
14 司馬散人
無問題さん》合肥城に付いてありがとうございます。つい忘れがちになるのですが、建業をにらむあの城がどれだけ呉に圧力をかけていたか改めて考え直しました。

エイさん》ご意見ありがとうございます。
私が曹操の覇業にこだわる理由の一つは、曹操が統一出来なかったが為に、後に司馬懿が武功を上げるチャンスが生まれ、結果的に司馬氏による簒奪を招いたと思えるからです。

そこで、曹操は劉備があれほど早く巴蜀を征圧して統治できるとは思っていなかったのかと思っています。年齢もありますが、せめて蜀まで取ってれば、曹丕も楽だったろうと思えてなりません。
(J-SH53_a)
15
>>12
劉馥の功績は素晴らしいものですよね。蒼天で初めてその存在を知り、曹操らが劉馥について語り合うシーンは泣けました…。話しはズレましたが、この合肥城ホント呉にしてみればいくら登っても先が見えない山と一緒ですね。さらに張遼ら猛将の存在。最悪ですね"笑、
(W32SA/au)
16 無問題
え〜、実は合肥城は改修を受けてます。確か、老朽化が進んだ合肥城を改修するため満寵の考案で合肥城の後ろに城壁を築いたそうです。王凌らが見栄えが悪くなるという理由で反対しますが、満寵は意見を押し通し改修をしました。(王凌と満寵は不仲だったらしいです)後ろかどうかうろ覚えですが、これにより只でさえ難攻不落だった合肥城が更に堅固になり、ますます呉が攻めにくくなりました…。それなのに、諸葛恪は反対意見が多くでたのにもかかわらず侵攻を強攻し大失敗しています。もはや、あの方面からの呉の侵攻は不可能といってよかったのではないでしょうか…。
(W32SA/au)
17 ピヨひこ
話ズレるかもしれませんが、呉―魏間の長江越しでの戦場は合肥、濡須しかなかったんですかね?
僕はそこの地形分からないので何とも言えませんが、呉側の長江沿いにも合肥新城的な城を築き、別ルートで北上する手はなかったんですかね?
(W21SA/au)
18 飛燕
>>11
レス遅くなってすいません(汗)初めから劉備を仕留めるつもりだったかは解りませんが、民を引き連れて江陵へ向かう劉備を、仕留めるつもりであったとは思います。孫権への圧力も考えてたと思います。
正史を持ってないんで、確認できないんですが、荊州には10万ぐらい兵がいたんでしたっけ?そのうえ、曹操軍より強いであろう水軍もいますし、荊州軍は弱いわけじゃないと思います。それに籠城等の持久戦も避けたかったんじゃないですかね。曹操としては、無難にかつ素早くけりをつけるため、大軍を率いていったんじゃないでしょうか?
>>16
無双でいう、合肥新城でしょうか。確か、旧城後方に築いたと思います。
結構気になってたんですが、「合肥」って、「がっぴ」と「ごうひ」のどっちが正しいんですか?(汗)

>>17
徐州方面(具体的な地名忘れました)と荊州方面(江夏・ジョウ陽)への進攻もあったと思います。あと、呂蒙が長江南岸に砦築いたような…うろ覚えです(汗)
(F900iC/FOMA)
19 朱家
魏公就任は非常に難しい事だったと思いますよ。前例とすれば、王莽でしょうが(他は賓客としての公就任)質が全く違います。
私的に赤壁は、孫権は侮れないと認識できた程度の戦いだと思ってますので…まあ、降伏勧告して敗れてますから、兵の損失なんかより、そっちのほうが痛い。
曹操配下ではなく、漢の臣の曹操配下も多くいますから、この状況では、孫権らと戦いにくいって感じでしょう。漢という強力な味方を得てますが、足枷もついてますからね。
(W32K/au)
20 司馬散人
恥ずかしながら、今手元にあるまともな三国志本は、金文京著・中国の歴史04『三国志の世界』しか無く昨日から読み返してましたが、三国鼎立の立役者として魯粛の存在が高く評価されてました。
と言うことは、曹操からみればその覇業を大きく邪魔されたわけですが、劉・孫同盟の魯粛の意図、目的が少し解りずらい。
孫権側にどれほどのメリットが有ったのでかな?
(J-SH53_a)
21 無問題
飛燕さん・はい、合肥新城です。後方に城壁を築いた事により水路よりの攻撃ができなくなったのだとか…。ちなみに、自分はがっぴと読んでますが…、なんかでごうひという読みも聞いたことがあります。
司馬散人さん・魯粛は外交的、政治手腕にたけた人です。確かに、彼の頭のなかには三国県立の考えがありました。孫権への進言の中にも『漢室の復興は不可能だから呉の地で力を蓄えいずれは皇帝を名乗られるのがよろしいでしょう』とありますね。
(W32SA/au)
22 巫俊(ふしゅん)
漢音では、こうひ、と訓むようです。
呉音では、ごうび。

がっ、は慣用ですね。
日本語ではそっちの、がっぴ、の方が口に出して話しやすいんじゃないでしょうか。

私はがっぴ派です^^
(PC)
23 司馬散人
前レスで書いた金文京氏の著書では(ごうひ)でしたが、私は(がっぴ)と読んでました<笑>

また魯粛ですいませんが、彼が劉備を利用しようとした背景に、荊州を孫権勢だけで占領・統治し尚且つ、曹操の進攻を防ぐのに何か不安要素があったのでしょうか?
当時(赤壁前後)の荊州豪族達はアンチ孫権?
(J-SH53_a)
24 無問題
確か、関羽と魯粛が会合した『単刀赴会』で関羽の将の一人が(演義では周倉が言ってますが、正史では誰が発言したか不明です。)いってましたが、『土地とは人徳厚い人物の物だ。誰のものと決まったわけではないぞ!』という発言から勝手に推測してみますが、劉備はかなり荊州で人気があったようにみえますね?長坂の戦いの時も多くの民衆や劉表の配下がつきしたがってますよね?荊州の人々は孫呉が荊州を治めるより劉備が統治したほうが都合がよかったのではないでしょうか?
(W32SA/au)
25 司馬散人
劉表と孫権は不倶戴天の間柄でしたから、アンチ曹操の人達には孫権よりも劉備のほうがよかったかもしれませんね。
劉備自身も、8年近く荊州に居たわけなので、その間に人望を集める努力をしていた可能性も有りですね。
貧乏性の私には、周瑜の戦略の方が理解しやすいのですが、孫権配下の中でもあまり理解されなかった様ですね。
(J-SH53_a)