1 松永

私は…

呂布配下だった時の高順が好きですね〜陥陣営とよばれる程戦では常勝を誇っていたとかで…最後は陳宮らとともに打ち首にされましたが
(D252i)
2 素人
陳宮は私もここで話しをみるまでは、ただの裏切り者しか思ってませんでした。しかし高順かっこいいですね!何の弁明もなく切られたってとこにサムライの心を感じました笑
(N900i/FOMA)
3 たけと
陳宮ほどの男が先見力がなく単純に裏切ったとは思えないですね。呂布に寝返ったのはやはり曹操のやり方、仕事の与え方が気に入らなかったからでしょうかね〜
(D252i)
4 天草
高順は確かに良い武将だったみたいですね。捕まった時も一言も弁明することなく切られてるみたいですし…あの曹操が彼を簡単に死なせたはずはないと私は考えてます。恐らく何度も臣従を口説いたのではないでしょうか?
また呂布の暴挙を何度も諌めたという記述もあります。その為に呂布からは疎まがられ、配下の兵を魏続に取られてしまうという事もあったようです。
高順
(PC)
5 大伴
高順もそうですが、陳宮、張遼といった優れた人達を抱えていた事からも、呂布を再考する余地がありそうですね。
(F2102V/FOMA)
6 たかひろ
北方謙三三国志をよみなされ。
軍人・呂布が描ききれてますよ。

【そうか、呂布様死なれたか】
赤兎は動かない。溢れ出た涙を成玄固はまた失った左手で拭おうとした。
【英雄だった。お前が馬の中の英雄であるように、呂布様は人の中の英雄だった】
成玄固は波の音と自分の鳴咽を一緒に聞いていた。

正史では呂布は家族愛が強いと書いてあります。
現・学会では呂布や魏延の復権活動が盛んです。
(F2102V/FOMA)
7 天草
張遼と呂布の出会いはどこでどうだったんですかね?
(PC)
8 たかひろ
彼等は丁原配下の同僚(同格)でどうやら最近は主従より盟友ととらえるのが主流ですか。
俺もそう思います。
(F2102V/FOMA)
9 大伴
張遼は、丁原に召されて従事となった、とありますね。その後張遼は、董卓の部下となり、呂布の董卓殺害の後、呂布の部下となっています。
畢竟、張遼の実際は、

丁原→董卓→呂布→曹操

と、三度も主を代えている事になりますね。
(F2102V/FOMA)
10 大伴
呂布伝を読むと、許シ(陳宮と共に曹操から離反した人物。当時は従事中郎。呂布の使者を度々勤める)が荊州牧劉表の前で、劉備と陳登について語っています。

呂布の配下にいた人で、曹操に寝返らなかった人も、案外に生き残ったのでは無いでしょうか?
殺されたとはっきり書いてあるのは三名だけですから。
(F2102V/FOMA)
11 大伴
人気投票スレッドで高順に又一票入ったので、記念してage。


一元さん、呂布ファミリースレッドはここですよ(笑)
(F2102V/FOMA)
12 蛮犬
スレ違いですが、曹操は陳宮の才を惜しみ、残された家族の生活を保障してます。しかし呂布の配下と共に晒し首にされたことはどうも理解に苦しみます。
(W21S/au)
13 八苦
陳宮さんは晒す価値があったんだろうねきっと。辱めないと軍の士気の問題とかがあったのかも。陳宮はカッコイーですね。
(P2102V/FOMA)
14 天草
確かに陳宮の晒し首は矛盾ですね。

敬意を表した晒しだったのかな?
(PC)
15 しす
一応陳宮ファンとしての意見。
私は矛盾しているとは思いません。
まがりなりにも彼は曹操から離反し帰順を拒んだわけですから。
むしろ相手が陳宮であったからこそ、軍法を明らかにし、私情を挟んではならないと判断したとしてもなんら不思議ではないと思います。
ただ家族の扱いに関しては、曹操と古くから親交のあった張バクですら一族を殺されていることを考えれば破格の扱いだと言えると思います。
もっとも子が女子しかいなかったから曹操も驚異になるとは考えていなかった…なんて言う人もいるみたいですけど。
でも娘の嫁ぎ先まで面倒みたというし、やはり陳宮に対し特別な思いはあったような気はします。
(PC)
16 天草
陳宮が人気あるのは、やはりあの潔い死に方ですからね。

そうか!?
陳宮には跡継ぎがいなかったのか…。
(PC)
17 大伴
袁カン伝によると、袁カンも陳羣も、呂布ファミリーだった様ですね。
(D505iS)
18 しす
呂布軍団に栄光あれー!age
(PC)
19 ストラップ
陳宮に関して、 「‥‥‥令其将武陽人陳宮屯東郡‥‥‥」という記述を見つけましたがこれは、陳宮は武陽 という土地の出身という意味でしょうか?注の典 略では、
「 陳宮字公台 ,東郡人也」
と、東郡の出身とあるようですが‥‥‥
(PC)
20 赤龍
確かに、その文章は陳宮の出身は武陽という意味ですね。しかし、武陽県は私が知る限り益州のケン意郡。東郡とはまったく違う。謎ですね。
(PC)
21 赤龍
『後漢書』地理志調べたら、東郡に東武陽という土地がありました。さらに、『魏書』武帝紀をよく読むと「袁紹はそこで太祖の東郡太守任命を上奏し、東武陽に政庁を置かせた」とあります。そしてその直後に、東武陽を武陽と記述する箇所あり。つまり、東郡の東武陽県の人ということで、全く問題無かったですね。これにより、曹操が東郡太守として、東武陽を拠点とした時に従った地元の名士と推測もできます。
(PC)
22 ストラップ
>>21
成る程。>>19は東武陽の事だったのですね。
陳宮に関しては、
「及天下乱,始随太祖」
とありますが、この「天下が乱れると」は、我々がイメージする乱れた時期(霊帝崩御)よりも少し遅いのかも知れませんね。
赤龍さんの仮説が正しければ陳宮は、董卓包囲戦を経験していない事になります。とすれば、陳宮の戦歴は案外に浅いものなのかも知れませんね。呂布が陳宮の策を用いなかった理由かも知れません。
(PC)
23 ストラップ
呂布ファミリーに新しいお友達を追加。

秦誼・陳衛・李黒

「後漢書 卷七十二 董卓列伝第六十二」
の注に、「九州春秋曰く」として、
「布素使秦誼、陳衛、李黒等偽作宮門衛士、持長戟。卓到宮門、黒等以長戟挟叉卓車、或叉其馬、卓驚呼布、布素施鎧於衣中、持矛、即応声刺卓、墜於車」
とあります。
三人は宮門の衛士の格好をし、長戟で董卓を阻んだ様ですね。

この記述から、当時の宮門の護衛をする者が、長戟を持っていた事がわかりますね。

呂布ファミリーは、魏越と魏続など、同じ姓の人がいますが、秦誼も秦宜禄と同じ姓ですし、もしかしたら同じ一族なのかも知れませんね。
(PC)
24 しす
age
(PC)
25 迷子
高順は自分も大好きです。
ただ、彼はいつ頃からファミリーの一員になったのかがわかりません。
自分の浅はかな推理では
彼は、チョウバク配下の部将だったのでは…と考えてます。
だとすれば彼が陳宮と仲が悪かったのも説明がつくし、ソウソウに斬られた事にしても合点がいく気がするのですが…
(912SH)
26 巫俊
東武陽は黄河の北岸にあったので、確か後に臧洪が東郡大守になってますが、臧洪もこの県に赴任してるんじゃないかと思っています。
臧洪という人は正史では重要な位置にある「群雄」で、彼を群雄に指定する理由は呂布と同じ列伝に組まれているからですが、曹操とエン州地域を争った雄君として表現されているのだと思います。
しかし張超などではなく彼が対抗者として立伝されているのは、一考の余地があると思います。前回典夷のスレでは立伝理由の探索に慎重な意見を言ってしまいましたが、今回は大胆な意見だということでお受け取りください。
さて陳宮ですが、彼が陣営のなかでちょっと異質な立場に置かれた理由としては、東武陽に地理的、地域的に特殊な地位があったからではないかと思います。今日は携帯で書いてるので指が痛く( ̄〜 ̄;)詳しくは後述しますが、東武陽では臧洪が城を枕に討ち死にしたことで、陳宮の親戚、旧友、馴染みの人などもおそらくその際、臧洪のアジ演説に乗せられて、落城は確実だというのに死ぬまで抵抗をして、ほとんどの在県人が死んでしまったことにありそうです。
陳宮にしても革命家というか寧ろ維新志士的な過激さを持つらしい人ですし、どうも東武陽という地域は任侠の気風が激しいところなんじゃないかと。
史記には、かつて殷の都があった辺は紂王に習って任侠が盛んで気が荒いとあり、呂布がエン州に入るまで滞在していた黄河北岸の河内郡にしても同じ殷の近畿ですぐ隣という感じであったと思います。おそらく陳宮が呂布とはじめて接した際にも東武陽人や東郡人のネットワークを介した知識や紹介があり、そのせいで呂布は尊王の義挙に立つ人であるという世間の噂を陳宮は過大に評価してしまったのかもしれません。
高順が非東武陽系の士であるとすると、ほかに呂布陣営に合流してくる勢力として張バクを考えるのは、面白い見解だなと思いますよ。
(PC)
27 白圭
サイト巡りをしていたらこのサイトに出会いました。

高順が好きなので早速スレ探して入ったのですが…
レベル高くて参加できない…しかも正史とかチンプンカンプンです。
今のところはこのスレは勉強の為に覗くだけで、参加出来そうな内容のとき参加しますのでその時はよろしくお願いします。

迷子さん、巫俊さん話しの腰を折るようなことをして申し訳ないです。
(812SH)
28 白圭
諏訪さんへ

他の武将にも「陥陣」という名があったというのは知りませんでした。
ですが、いろいろなサイトをみると高順=「陥陣営」というイメージが定着しているように思われます。
官職について余り知らないのでちょっと上手く言えない(当時、官職がどれほど重要か私にはわかりません)のですが、高順にも于禁・楽進のように「陥陣都尉」という官職がついているのですか?
「もし高順に官職がついていないとしたら彼の場合、官職という虚名のものからでなく、ありふれた名であっても実績から名付けられた」という仮説が成り立つのでは(もしついていたなら無意味なので、その時は別の反論を考えます)
あと、なぜ、于禁・楽進の官名が「陥陣都尉」であるのに、彼等にはそういった異名がないのでしょうか?

質問だらけで申し訳ありません。
(812SH)
29 諏訪
白圭さん、はじめまして。

まず最初の質問ですが、高順が「陥陣都尉」という官に就いたという記録はありません。
しかし、白圭さんは官職なら虚名であるとお考えのようですが、そもそも「陥陣都尉」という官にしても以前からあったわけではなく、于禁や楽進の働きから、曹操が勝手に作った官であると思われます。従って、于禁・楽進にしても、実績から名付けられたといえるのではないでしょうか。
官名という言い方が誤解を与えてしまったのかもしれません。私はむしろ、「陥陣都尉」というのは称号のようなものだと考えています。

次に、なぜ于禁・楽進に高順のような異名がないのかという質問ですが、言うまでもなく彼らは曹操軍を代表する将であり、その能力は実績からわかります。つまり、人物像を説明するための異名を必要としないのです。
一方、高順は記録が乏しいので、優れた将であることを説明するために「陥陣営」という異名が必要だったのでしょう。そうしたことから、高順=「陥陣営」というイメージが定着したのだと思われます。
(W51S/au)
30 白圭
諏訪さんへ

官職って昔のままの形で残っているのではなく、当時にあわせて作られるんですね。知らなかったです。

>高順は記録が乏しいので、優れた将であることを説明するために「陥陣営」という異名が必要だった
→つまり、当時は高順に「陥陣営」という異名はなく、後世になってつけられたということですか?
それはおかしいと思います。
存命時に優れた武将として名が知られたから当時において、公孫(王賛)の「白馬侍従」や孫策の「小覇王」や馬超の「錦馬超」などのように異名がついたのではないですか?→論点はずれてないですよね?

ちょっとしつこいかもしれないですが、「陥陣都尉」は昔からではなく、本当に曹操が勝手に作った官なんですか?
以前から「陥陣都尉」という官職があって于禁・楽進の功績の量に匹敵する位置の官職を与え、それがたまたま「陥陣都尉」であった。
のと
曹操は于禁・楽進の為に官職を「陥陣都尉」わざわざ作った。
ではかなりニュアンスが違うと思いますので…

あと、その官職を作ったのは高順の存命時か死亡後なのか時期も知りたいです。
死亡後であれば、高順の陥陣営になぞらえて「陥陣都尉」作ったと考えることはできないでしょうか?→ちょっとこれは過大評価ですかね…
存命時だったらこの仮説も全部無意味になりますけど…

諏訪さんが意見の言葉尻を捕らえているのは?と感じたらごめんなさい。
高順に対してかなり思い入れが強いので簡単に納得をしたくないんです。
(812SH)
31 白圭
すいません。
諏訪さんがちゃんとエン州牧の時期と述べていましたね。ちゃんと確認してませんでした。

ところで曹操がエン州牧というのは官渡の戦いのときからでしたっけ?

その付近の解説をお嫌でなければ、説明して下さいません?
流れは知っているんですが、地名、官職で言われてもすぐにこの時期だと特定出来ないです。
家には三国志のゲームと蒼天航路、火鳳(火寮)原、反三国志、呉三国志とあまり調べるに役立ちそうな資料がないので。
演義は前ありましたが売ってしまいました。悔やまれます…

前文に引き続き、長文申し訳ありません。
(812SH)
32 諏訪
>白圭さん
これから仕事があるので、結論だけ簡単に書きます。詳しいことは、仕事が終わってからでよろしいでしょうか。

于禁・楽進が「陥陣都尉」になったのは194年以前で、高順の死は198年ですから、高順の死後ということはありません。

「陥陣都尉」を曹操が勝手に作ったと推測したのは、「陥陣都尉」という官が于禁・楽進の他には見られないからです。

高順は生前から「陥陣営」と呼ばれていますが、私が>>29で述べたかったのは、後世なぜ高順=「陥陣営」というイメージが定着したのかということです。
この点、説明不足でしたね。

本当に簡単で申し訳ありません。後でちゃんと書きます。
(W51S/au)
33 白圭
諏訪さんへ

私はこういうネット上で話し合うという経験がこれまでにないので、諏訪さんが私の疑問に対して素早く答えて下さること自体がとてもありがたく感じられますので、時間帯や内容についてあまり気にされないで下さい。

むしろ、私のほうが質問ばかりで申し訳ないくらいです。

>29は後世なぜ高順=「陥陣営」というイメージが定着したのかということ。
諏訪さんの意見を、私なりに解釈すると、

公孫(王賛)の「白馬侍従」や孫策の「小覇王」や馬超の「錦馬超」などのような異名のほかに、当時において、于禁・楽進のように「陥陣都尉」という異名があった。(そのほかに現代に伝わってない異名も含む)

しかし後世において于禁・楽進の「陥陣都尉」という異名や現代に伝わってない有名武将の異名はわざわざ言うまでもないので(それだけの功績をあげているから)省略された。
そして高順は優れた武将ではあるがあまり知られないから、それを知らせるためにその異名を普及させた。
ということでしょうか?
(812SH)
34 しす
>>33
白圭さん、はじめまして。
人に情報をクレクレと頼むだけではなく、自分で調べる努力をしてください。
>>28であなたは「仮説」と仰ってますが、自分で調べもせずに想像だけで語っていては「仮説」とは言えないでしょ。
想像だけならば何とでも言えますから。
図書館に行くなり、正史を買うなりをせずに根拠のない「仮説もどき」を提示されても調べる方の負担は大きいですよ。

それから細かいことを指摘しますが、公孫サンの渾名は「白馬長史」、孫策や馬超が「小覇王」「錦馬超」と呼ばれた事実はありません。
孫策と馬超の渾名は三国志演義の創作です。
こうした誤った知識にしても、御自身で調べないからこそではないですか?

脱線失礼しました。
(PC)
35 巫俊(ふしゅん)
陥陣という言葉は、少なくとも戦国時代からある言葉です。
陥陳(ちん)とも書くことがあります。
例えば『管子』という戦国時代の斉国で編纂された諸子百家の思想書にその語が出てきます。

陥陣と言う言葉が史書の中で流行していたことは司馬遷の『史記』を読んでいても分かります。
『史記』には例えば漢の高祖に仕えたハンカイという張飛みたいな豪傑の事績を記す場面で、「陥陣した」と出てきます。
とくに勢いのある場面で使う言葉なのかもしれません。
そして『後漢書』や『晋書』といった文献にも陥陣という言葉は普通に使われています。
ただし私が確認した限りでは、渾名や官職の名前で出てくる陥陣は『三国志』の本文、注釈と『後漢書』の引く『英雄記』の高順の事績の部分だけでした。

なお、唐代には衝車のことを陥陣車といったようです。『左伝正義』という唐代の文献に出てきます。

それから『三国志』の引く『英雄記』では高順を陥陳(ちん)営と呼んでいますのでご注意ください。
ただし私が確認しているのはnetの台湾(中央研究院)版の『三国志』です。

私見を言えば、高順だけ陥陳営という渾名で呼ばれるのは何か違和感があります。知られている高順の性格の多くは『英雄記』という英雄伝説的な内容を記す文献に書かれているので、どうも脚色があるのかもしれませんし、そうでなくとも「陥陳営」という渾名をわざわざ記すのは『英雄記』の作者の好みなんでしょう。
だから渾名があることで高順がほかの誰よりも突撃力のある武将であるということにはならないですし、渾名がたとえ物語として創作されたものであったとしても、高順に武勇がなかったという観念を抱く必要はありません。

実のところ史料を吟味すればするほど、高順がどんな人かは分からなくなるものです。
しかし高順はこうであるはずだ、という白圭さんの信念が正しいと認められるには、史料を解釈して自分の意見を示す必要があります。
信念だけをおっしゃられても歴史家的な立場からは信じて差し上げることができません。
心情を理解して差し上げることはもちろんできますし、掲示板では必要な態度です。
(PC)
36 赤龍
手元の本では、中華書局の標点本は「陳」の字を、芸文印書館の集解では「陣」の字を使ってますね。

この場合「陳」=「陣」と全く同じ意味の字ととって差し支えないので、どちらの字を使っても問題無し。特にこだわりがなければ、現代日本で一般に用いる「陣」で問題はないでしょう。

最古の版本や、本来の原文がどちらの字を使ってたかとか、さすがに私なんかには分からないし、ここで議論するようなことでもないですし。
(PC)
37 白圭
様々な方面からの詳細な説明をありがとうございます。

荒っぽくまとめますと
高順に陥陣営という異名が現代に伝わっているのは後世における人々が関わったためであって、高順は当時は優れた武将の一人であり、それ以上でもそれ以下でもない。
異名が現代に伝わることに関しては、むしろ高順が例外的存在である。
ということですね。
(812SH)
38 白圭
諏訪さん、しすさん、巫俊さん、赤龍さんへ

今まで、三国志に関する情報を様々な三国志関連のサイトから、演義や正史という区別なく取っていましたので、間違った情報の下で的外れなことを延々と述べ、申し訳ありません。

>しすさん
今まで正史に興味がなかったのですが、これを機に勉強してみたいとおもいます。そして読んだ上でわからない点が出たとき、このサイトに改めて質問するようにしたいと思います。

>巫俊さんへ
申し訳ないのですが、資料がなく、あっても内容を読み解くのに時間がかかると思いますので、「私が高順がこうであるから好きである」ということを今すぐには説明ができないです。しばらく、発言を控え、高順について正しい知識を得てから言いたいと思います。

>諏訪さんへ
諏訪さんが丁寧に説明してくだったのでそれに甘えて、諏訪さんが調べるという労苦を考えずに次々と質問してしまいました。本当に申し訳ありません。
(812SH)
39 諏訪
ようやく仕事が終わったのですが…
なんだかすでにまとまってしまっているみたいですね(汗)
ちゃんと書きますと言っていたのに、申し訳ないです。

>>38
別に労苦ではありませんよ。好きでやっていることですし、調べているうちに新たな発見もありますからね。
ですから、これからも色々と発言してください。
(W51S/au)
40 諏訪
せっかくですから、もう少し話を続けさせていただきます。

現代における高順の人気の一因は、「陥陣営」という異名にあると思います。
しかし>>35で巫俊さんが仰られているように、「陥陣営」という異名があろうとなかろうと、高順という武将の価値に何ら変わりはないと思います。
そもそも異名の有無が、人物の優劣に関係あるわけではありませんからね。

話の発端である>>>351-86-87にしても、「陥陣」という表現がありふれていたのでは?ということを述べたまでです。そのことで、高順の将としての能力が劣るとは考えていません。
(W51S/au)