1 くわぁまん
亡国について…
あちしは常々、国が滅びる時、人の和が崩れた時に敵に攻められたケースが余りに多い事が気になって仕方ありません。例をあげればきり無いのではしょります。 蜀が滅びた最大の理由は諸葛息子と、孔明2番弟子、姜維の不仲が原因と思ってますが、皆さんはどー思いますか?(^^ゞ
(SH900i/FOMA)
2 李克用
滅びた国をしらべましたが、個人個人の確執や不仲よりは国にたいして国民が悪感情をもっている状態が一番危ないようです。これは天下を統一している王朝にいえることですからショク漢の場合は国力の低下が一番おおきいのではと。何年も負け続ければ国力は当然へります。働き盛りの人がいってしまいますからね。
滅亡するには複数の条件が重なって、ということがありますので一概には言えませんのであしからず。
滅亡するには複数の条件が重なって、ということがありますので一概には言えませんのであしからず。
(P900i/FOMA)
4 くわぁまん
天草サンの小説のネタになるかも知れませんので一言。
蜀が滅びた時の軍の配置が謎を解くキーとなります。 漢中には五万の軍勢を引き連れて姜維が立て篭もっていました。
そして最終防衛ラインの綿竹を守っていたのが諸葛瞻でした。
彼等は片方が危機の時援軍を出さなかったのが理由の一つ。また、これはあくまで想像なんですけど、孔明が遺したとされる兵法書、実の息子ではなく、弟子が譲り受けたとすれば瞻は面白くないと思いますよ。
蜀が滅びた時の軍の配置が謎を解くキーとなります。 漢中には五万の軍勢を引き連れて姜維が立て篭もっていました。
そして最終防衛ラインの綿竹を守っていたのが諸葛瞻でした。
彼等は片方が危機の時援軍を出さなかったのが理由の一つ。また、これはあくまで想像なんですけど、孔明が遺したとされる兵法書、実の息子ではなく、弟子が譲り受けたとすれば瞻は面白くないと思いますよ。
(SH900i/FOMA)
5 大伴
孔明が姜維に自らが著した兵法書の全てを託した……というのは、創作ですよ。又実際孔明は、死の間際に李福から後継者を訪ねられた際は、蒋エンと費イの名を挙げていますし、劉禅にも内密に、己の死後は蒋エンに任せる様にと上表しています。姜維というのは、それ程買われてはいなかった様に感じますね。
それに、小さくは無い国が滅ぶ時というのは、綻びが大きくなりすぎた時でしょうから、一因ではあっても、そこに全てを収斂させるのは、流石に乱暴が過ぎる気がします。
しかし蜀崩壊の要因を、チームワークの観点から(のみ)考察する事も又、面白いやも知れませんね。
それに、小さくは無い国が滅ぶ時というのは、綻びが大きくなりすぎた時でしょうから、一因ではあっても、そこに全てを収斂させるのは、流石に乱暴が過ぎる気がします。
しかし蜀崩壊の要因を、チームワークの観点から(のみ)考察する事も又、面白いやも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
6 くわぁまん
まあ、想像が殆どですから…。黄皓やら閻宇等の悪臣の影響が要因大でしょうがあれこれ空想するのは面白いです。
姜維が漢中で劉禅の五男劉シンを帝に建てて独立するとか…。
姜維が漢中で劉禅の五男劉シンを帝に建てて独立するとか…。
(SH900i/FOMA)
8 大伴
呉の滅亡は如何でしょう。
遠因はもはやすでに、孫権にあった様な気がします。彼が後継者をはっきりと決めなかった事が、孫峻達の専横を許し、衰退へと導いていった様な気がします。
遠因はもはやすでに、孫権にあった様な気がします。彼が後継者をはっきりと決めなかった事が、孫峻達の専横を許し、衰退へと導いていった様な気がします。
(F2102V/FOMA)
9 C
呉、ショク共に魏にくらべ余裕がなかったんだと思いますが、徴兵一つ取っても
魏は、あまり強制ではなかったようですよ
呉、ショクは共に一戸あたりにという強制だったようで他の面からも長期戦うには不利だったようで
魏は、あまり強制ではなかったようですよ
呉、ショクは共に一戸あたりにという強制だったようで他の面からも長期戦うには不利だったようで
(F900i/FOMA)
10 李克用
魏晋南北朝の南朝は、悲惨ですな。南が北に勝つことはあまりないようですし。
蘇州の人口やらはかなり多いとか聞きましたが、この時点では未開発でしたからね。東晋あたりから、発展していったらしいですが、江南がまだ栄えていない呉の時代では、他国と争えるほどではないと考えます。
蘇州の人口やらはかなり多いとか聞きましたが、この時点では未開発でしたからね。東晋あたりから、発展していったらしいですが、江南がまだ栄えていない呉の時代では、他国と争えるほどではないと考えます。
(P900i/FOMA)