1 しす

早すぎた死、孫堅スレ

なぜか今までスレがなかった呉の祖、孫堅(字は文台)について語りましょう。

●関連スレ
>>>21 孫策
>>>67 呉の不人気
>>>91 孫権
>>>256 袁術
>>>335 華雄
(PC)
2 ピヨひこ
大戦の孫堅がかっこよくて、孫堅大好きになりました(笑)
ですが活躍の少ない(生年の短い)文台(T_T)
王叡でしたっけ?何故確執があったんでした?
(W21SA/au)
3 天草
孫堅スレキターーーーーー!!

では話題を一つ。

曹操や袁紹などは自分のこれまでの立場を省みることなく、勝手に旗揚げしたような感じに見えますが、孫堅だけは、袁術の言いなりだった感じが否めません。

これはなぜなんでしょうか?
単純に漢の臣として、忠誠を尽くしたのなら、かなり義理堅いですよね?
もしくはあまり野心がなかったのかな?
(PC)
4 ヒロサトル
皆様こんばんは。
孫堅スレと云うことで、参加させて頂きます。
>>2 ピヨひこさん
はじめまして。
孫堅の生年が短く、活躍が少ないとの事ですが、そんなことはありません。しかし孫堅文台は、
三国時代の人と云うより、確実に後漢の人です。だから、三国志の価値観で見ると、活躍が少ないように見えますが、
後漢の価値観で見れば、孫堅は百戦錬磨の勇将であり、第一級の武将です。と云うのも、三国時代が力を付けた諸侯同士の抗争であるのに対し、後漢は、地方反乱や
飽くなき賊の討伐に明け暮れていたからです。
孫堅も名のある名家
(孫子)の出自でありながら、後漢の直臣として、17才で初陣して以来、地方でその討伐や平定に追われていました。
彼が全国デビューを果たすのは、27才の時の、
黄巾党の乱ですが、
後漢の中郎将であった
朱シュンに請われてその
配下となり、共に大功を立てます。また
韓遂・辺章の乱のおり、張温に請われて参戦し、そこで董卓と決裂。
張温に、董卓を切るよう進言しています。
その後も地方反乱の平定などで活躍しますが、
劉備軍が、私的な
傭兵集団的性格を合わせ持っていたのに対し、
孫堅軍は、孫堅の名声や人望で集まった集団で
ありながら、完全に
朝廷の軍隊として機能し、常に官軍でした。またその事が、エン術の傘下に組する、直接的要因ともなりました。
董卓の横暴が極まり、
諸侯がこれを除かんと、都に集結します。
孫堅も、これに参加する途上で、エン術に謁見しますが、エン術が朝廷に上表して、孫堅を諸侯に取り立ててしまうのです。
しかも
エン術の支配領内で…
これにより孫堅は、望むと望まないとに関わらず、エン術の指図を受ける身となったのです。
結果的に無欲が、
乱世では命取りとなり、エン術の命で攻撃した、
劉表との戦いで
流れ矢に当たり、
37才の短い生涯を閉じたのです。

孫策・孫権の原点は、
まさに、父の生き様に
あったのでしょう。
長レス失礼しました。
(PENCK/au)
5 ヒロサトル
>>2
また孫堅と王叡の確執は、零陵・桂陽での反乱のおり、当時の荊州刺史であった王叡が、
格下の武官であった孫堅と同列に戦うことを嫌い、孫堅に礼を失する待遇を取って来たためであると言われています。

おそらく朝廷からは2人に勅令が下るも、実際には王叡が孫堅を兵士として扱ったのでは無いかと推察されます。
どんなに戦功を立てても、兵士の功は刺史のものですから、血気盛んな
青年孫堅には、耐え難かったのでしょう。
(PENCK/au)
6 晏隆
どうも晏隆です。
孫堅ですか〜、好きな武将の一人ですね。

伴野朗さんの『呉三國志』持ってるんですが、孫家は名門だが孫堅の父、孫啓は呉郡の主記(州郡の記録を司る主記室の属吏)だったそうです。

ヒロサトルさんの仰ったように海賊退治で名をあげ、仮の尉そして会稽の司馬に任命されたそうです。
(EZ)
7 赤龍
>>3
単純に、まだ独力で乱世に覇を競うほどの力を持たなかった為と思われます。そのため、ひとまず手頃な大勢力の下につく必要があった。劉備が公孫サンに従っていたように。
曹操や劉備は、やがて力をつけ独立しますが、孫堅はそれ以前、袁術に従っていた時期のまま死んでしまいましたから、いいなりの印象もやむをえないでしょう。
死が早すぎたため、不明な点も多いですが、私は野心もしっかり持ちあわせていた人物と思います。てか、そのほうが魅力的(笑)
(PC)
8 赤龍
>>6
孫家はそんなに名門なんかじゃないですよ。
一応注の『呉書』には代々役人だったとされてますが、所詮田舎の役人レベル。孫子の子孫という胡散臭いものを持ってこないといけないあたりも、家柄に誇れるものがなかった事を逆に示しているように思えます。
その孫堅の父の話も、小説の創作だと思います。

(PC)
9 赤龍
王叡との確執も、名家の文人士大夫である王叡が、孫堅を家柄の劣る成り上がりの武人と馬鹿にしていたことが原因と思われます。
ここでも、孫堅の家柄の悪さがうかがえますね。
他にも、呉夫人との結婚を、呉氏の人達が渋ったことや、赤壁前の魯粛の説得とか、家柄の悪さをうかがわせる記事が随所に見られます。
連続ですいません。孫堅大好きなんで、つい(笑)
(PC)
10 晏隆
>>8
ご指摘ありがとうございます。やっぱり正史読まないと駄目ですね。

質問なんですが小説の中に孫堅の母が身篭った時、自分の腸が飛び出して呉県のしょう門に巻き付いた夢を見たという話があるんですが孫堅には出生の時の話とかありますか? 毎度質問ばっかりですいません。
(EZ)
11 赤龍
>>10
その孫堅の母親の身篭った話は小説の創作でなく、正史の注の『呉書』に見られるものです。
ちなみに、孫堅の父だか祖父だかの話も
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50030164.html
(PC)
12 ヒロサトル
おはようございます。
>>7 孫堅の「孫家が
そんな名門じゃない」との事ですが、 正史にある「孫子の子孫」の記述は、誤りですか?

また孫堅の"野心"に
ついてですが、あれだけ賊退治や反乱の平定に
奔走してれば、とっくに諸侯になれてもおかしくなかったと思いますが、それでもエン術に上表されるまで、諸侯に取り立てられなかったのは、無欲と云うよりは、単に
政治力が無かったためでしょうか?
乱世では実力ですが、
一応後漢の世では、賄賂や人脈がものを言った。孫堅には実力はあったが、政治的駆け引きや人脈が無かった。
そう考えれば、あれだけ戦功があっても取り立てられなかった理由になり、「野心はあったが、
出世しなかった」の理由になります。が、私は
「無欲な孫堅」に
惹かれますね。
(PENCK/au)
13 ヒロサトル
>>12 訂正。
孫堅が孫子の末裔でない事は、赤龍さんの>>11の添付を見て納得しました。
(PENCK/au)
14 ピヨひこ
ヒロサトルさん〉回答感謝です♪
レス早いっすね(^_^;)
ちなみに華雄を斬ったのは孫堅の軍勢ですよね?
(W21SA/au)
>>14
おはようございます。
確かに、正史では華雄を斬ったのは孫堅軍ですね。
(PENCK/au)
16 ストラップ
>>4
読みづらい文章だったので、とりあえずは前半だけ(「」内は>>4から)。

「孫堅文台は、三国時代の人と云うより、確実に後漢の人です。だから、三国志の価値観で見ると、活躍が少ないように見えますが、後漢の価値観で見れば、孫堅は百戦錬磨の勇将であり、第一級の武将です。」
とありますが、三国志自体、三国鼎立までの過程を重視していますから、その記述の多くは後漢時代に当てられています。ですから三国志の内容の多くは孫堅に限らず、後漢末の事件です。第一「確実に後漢の人です」という一文を入れた意味が解りません。

「三国時代が力を付けた諸侯同士の抗争である」
とありますが、三国時代というのは、三人の皇帝が覇権を争った時代で、「諸侯同士の抗争」という表現は適切では無いと思います。

「孫堅も名のある名家(孫子)の出自でありながら」
ですが、恐らく『蓋し孫武の後なり』の『蓋し』の意味を知らないのでしょう。国語の勉強をして下さい。

「27才の時の、黄巾党の乱ですが」
孫堅は永寿元年(155年)の生まれ。黄巾の乱は光和七年(184年)。孫堅は三十歳です。算数の勉強もちゃんとしましょう。
(PC)
17 ストラップ
>>16
恥ずかしい。計算間違いです。
孫堅は初平三年(192年)に三十七ですから、永寿二年(156年)の生まれですね(汗)
(PC)
18 吾郎兵衛
>>17
>>4は、三国志の時代と三国時代を混同されているだけじゃないですか?
恐らくは無学に因る誤りだと思います。
(W21CA/au)
19
大伴殿>>18で言う、三国志の時代と三国時代ってなんでしょうかね???
(W32SA/au)
20 ストラップ
>>19
孫堅の話題から逸れるのは望ましくないので、>>>110へ。
(F2102V/FOMA)
21
>>20
失礼いたしました"笑、孫堅って元々海賊出身???それとも海賊討伐で名を上げた人でしたっけ?
(W32SA/au)
22 赤龍
17歳の時、偶然見つけた海賊を一人で退治して名をあげました。
個人的には、討伐っていうよりも、海賊退治くらいの言い方のほうがしっくりくる事件と思います。
(PC)
皆さんこんばんは。
>>16
まず孫堅の年齢につきまして、まったくもって私の計算違いです。
「30才の時の黄巾党の乱」が正解です。ご指摘ありがとうございました。
しかし三国時代につきましては、人それぞれかと思いますが、私は、曹操が献帝を匿まってからと考えておりまして、
196年(建安元年)から三国時代。それ以前までを後漢時代と認識しています。
よって孫堅は、
完全に後漢の人となるのです。私の認識については、あなたの価値観を
押し付けられる筋合いは無いので、勝手な認識を押し付けないのが、
よろしかろう。また孫堅の出自については、確かな資料も無く、
正史の記述も、訳し方によって認識が変わる程度のものなので、
後漢・三国時代の孫氏が、孫子(孫武)の子孫と
信じたいものは信じ、
まったく無関係であると信じたいものはそう信じればいいのであって、
>>16の認識を、
無理に押し付けられる
筋合いは無い。
(PENCK/au)
24
>>22
やはり今も昔もインパクトがないと、名を上げられないんでしょうね。一人で海賊退治…、力はあったんでしょうね。名を上げてそこで、孫子の子孫!!!と言ってしまえば世の中ある程度信じそうですからね。
(W32SA/au)
25 ストラップ
>>23
建安は、間違いなく漢の年号です。建安年間が三国時代であるというのは、明らかに間違った認識です。

又孫堅を孫武の子孫と断定するのもおかしな事です。
原文は「蓋孫武之後也」
辞書をお持ちでは無い様なので説明しますと、「蓋し」というのは、「おもうに。推量の意を表す語」です。蓋然性の蓋然が、「けだししからん」と読む事を考えれば、簡単に理解できると思います。

もう一つ。>>4
「流れ矢に当たり、37才の短い生涯を閉じたのです」
とありますが、「流れ矢」のソースが不明です。妄想でしょうか?
又、三国志に因ると撃たれたのは「初平三年」。注に引く「呉録」では「堅時年三十七」。そして同じく注に引く「英雄記」では「堅以初平四年正月七日死」つまり、孫堅の死亡時の年齢は、三十八です。
(PC)
26 赤龍
>>23
いつからが三国時代になるか?それを御自身で独自に認識すること自体は全く結構なことです(その認識が妥当かはともかく)
しかし、ストラップさんが言われるのが、ごく常識的な時代の区分であり、個人の勝手な認識などではない。御自身の特殊な区分をなんの説明もなく前提とされても、それを否定されるのは当然のこと。ひとりよがりに勝手な認識で話を進めていたのはどちらかよく考えるべきではないでしょうか?
(PC)
27 ヒロサトル
>>24
孫堅が初めて名を知られたのが17の海賊退治。この時孫堅は仮の尉となるも、その年(171年)に会稽の妖賊許昌が、
大規模な反乱を起こし、自ら陽明皇帝を名乗り、自分の父を越王の位につけた。反乱に加わる者は1万にも登ったと言う。この時孫堅は郡の司馬として、数千の官兵を率いて鎮圧に当たる。
孫堅の名を一躍有名にしたのはこの時であり、
孫堅が自ら孫子の子孫を名乗ったと言うより、
周囲の者たちが、
きっと孫子の末裔に違いないと囃し立てたのが
発端だと思われます。
(PENCK/au)
28 赤龍
ヒロサトルさん
そもそも、館長の天草さん、岳飛さんはじめ、多くの方に多大な迷惑をかけ、不快感を与えたにもかかわらず、それに対するなんの謝罪もなく討論場に参加しつづけようという神経が私には理解できません。
三国志に関する議論以前に、対人関係の常識、人としての礼儀というものをよく考えてみてはいかがでしょうか?

ヒロサトルさん、これ以上この場を汚さないためにも、これに対するここでのレスは不要です。何かあれば自治会掲示板のほうへ。
天草さん、申し訳ありませんが、この書き込みは本人の目に入った頃には早めの削除お願い致します。身勝手なことを言い申し訳ありません。
最後に、この書き込みを目にして不快に感じた皆様にも、本当に申し訳ありません。
以下、通常の討論にお願いします。
(PC)
>>25まず私は、
歴史の区分の話しで、
孫堅を三国時代の人と
定義したのではない。
後漢皇室の権威が明らかに失われたのが、曹操に匿われてからの認識から、孫堅は三国時代の人と言うより、明らかに後漢の人であると主張したのである。何度も言うが、これについては私の認識の問題であり、賛同も
求めない変わりに、
否定も無用である。
ただ>>25には、
何故私が孫堅を後漢の人と主張するのかを、納得するまで私に尋ねることだけが許される。
それ以上は、私の思想の自由を奪う権利の侵害であり、憲法違反だ。
また孫堅の出自は、
正史の訳し方の問題であり、筑摩書房の正史三国志では、「おそらく孫武の子孫なのであろう」とあり、徳間書店の正史を編集した三国志Vには、「おそらく孫武の子孫であろう」とある。
また孫堅が流れ矢に当たって死んだ下りは、正史三国志の付属「典略」に、孫堅が黄祖を追撃中、
「黄祖の部下が木々の間に隠れて矢をはなち、
孫堅を射殺した。」とある。また付属「呉録」に、「孫堅はこのとき年は三十七であった。」とある。私の妄想などと、
とんでも無い。ただ正史の記述を写したまでだ。
(PENCK/au)
30 赤龍
>>25
実は、孫堅が死んだのはいつか?ということは問題になっているのです。
孫堅伝本文では、初平三年。『英雄記』では初平四年五月七日(原文では五月。正月というのはちくま訳の誤植では?)。『後漢書』孝献帝紀では初平三年正月。また、孫策伝の注には、『漢紀』『呉歴』では孫堅が初平2年に死んだとされると書かれてます。
どれが正しいんでしょうか?私も、もう少し考えてみます。
(PC)
31 削除済
32 ストラップ
>>23
>>16>>17で訂正しているんだから(これを根拠とするなら)、
「29才の時の黄巾党の乱」
でしょうに。本当に計算の出来ない人だなぁ。

>>29
もう一度書くが、原文は「蓋孫武之後也」。蓋は疑詞。予想を表す文字です。

又、
「黄祖の部下が木々の間に隠れて矢をはなち、孫堅を射殺した。」
の何処に「流れ矢」という文字があるのか全くわかりません。ここに「流れ矢」という意味を見出すなら、基本的な読解力が不足しています。又死亡時期に関してはもう一度>>25を良く読む様に。

>>>107-94に書きましたが、少し読みやすい改行を心掛けては如何でしょうか?

>>30
今、手元に「後漢書」が無いのです(汗)

・初平二年説
・初平三年説
・初平四年説

とある訳ですね。赤龍さんの続きを心待ちにします。
(PC)
33 晏隆
>>11
遅ればせながら、赤龍さんご教授ありがとうございます。
記事、読ませていただきました。確かに信憑性にかける気がしますね。

やっぱり歴史は面白いです!こうやってお互いに話しあえる場を設けてくれた天草さんや運営に協力していらっしゃる皆さんに感謝です!

長文失礼しました。
(EZ)
34 赤龍
流れ矢の件に関しては、『三国志』劉表伝に「堅流矢の中る所となりて死し(堅爲流矢所中死)」とあります。ここのちくま訳が「流れ矢にあたって」となっています。
しかし、以前さんざん話題になったように史書に見える「流矢」は、日本的意味の「流れ矢」ではありません。
>>29で引用されてるように「黄祖の部下が木々の間に隠れて矢をはなち、孫堅を射殺した。」と、偶然それた矢にあたったのではなく、はなから孫堅を狙った射撃であること、つまり「流れ矢」ではないことが明白ですね。
(PC)
35 巫俊(ふしゅん)
>>32
ストラップさん

PCをお使いになっているようなので、駄文を添えさせていただきますが、
http://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3
ここ(台湾の最高学府のサイト)で後漢書や三国志、三国演義を全文読むことができるようです。
漢文ですけど。

用語検索とかもできるので便利ですよ。
二十五史のところをマーキングして開啓のボタンを押してください。
(PC)
36 ストラップ
>>34
ソースは劉表伝にあったのですね。ご指摘ありがとうございました。呉書ばかりを気にしているとやはりいけませんね。

しかし自分が書いた事なのに、ソースを求められて示せない>>29って(汗)
(F2102V/FOMA)
37 ストラップ
>>35
紹介ありがとうございます。漢文読めませんけど(汗)
確かに>>30にある様に、孝献帝紀では
「(初平三年)袁術遣将孫堅攻劉表於襄陽、堅戦歿」
とありますね。
しかし三国志の注に引く「英雄記」は矢張り>>25と同じく
「堅以初平四年正月七日死」
でした。
(PC)
38 赤龍
>>37
たしかに、中華書局の標点本を確認しますと「正月」になってました。ちくまの誤訳・誤植ではなさそうですね。
私が調べたのは『三国志集解』のほうです。これは版本の相違による問題になりそうですね。
「正」と「五」形が近く、書き写す際に間違える可能性はたかいですから。
(PC)
39 ストラップ
>>>174-37
三国志演義で孫堅は、岩の下敷きになって死ぬのですか?
注に引く「英雄記」の記述では、劉表配下の呂公という将の兵が落とした石が原因で死ぬみたいですが……
「公兵下石、中堅頭、応時脳出物故」
と、脳が頭から出たと書いてありますね。
(F2102V/FOMA)
40 寿君
ストラップさん>すいません、もしかしたら横山三国志か吉川三国志だったかも知れません…(汗)
 でも、確か呂公の兵を軽装で追い掛けたら、ケン山に伏兵が居て、落石で下敷きになってグロい描かれ方してたのを読んだ記憶があります。
 それ以来、“漬物堅ちゃん”と知り合い間では冗談言ったりしてまして…(すいません、最後は冗談にしまして…)
(P901iS/FOMA)
41 寿君
 連ガキ失礼m(__)m
 私も「英雄記」確認しました。
 演義はこれを採用したんでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
42 ストラップ
>>39-41
今三国志演義、調べてきました。
「山の上から石子を落とされ、林の中から矢を一斉に放たれた。堅の体に石と矢が当たり、脳漿が洩れた。人も馬も皆死に、堅は三十七歳で死んだ」
とあるみたいですね。
「山上石子乱下」の「石子」は「礫」の事でしょうか?

孫堅が追ってるのも呂公、殺したのも呂公ですね。
(PC)
43 ももの人
>>42
石子は小石の意味で使いますから、礫で構わないと思いますよ。
(N902i/FOMA)
44 ストラップ
>>43
ご指摘感謝。

三国志演義では三国志の記述と英雄記の折衷案を採っている訳ですね。
(F2102V/FOMA)
45 元歎
演義を読んでて思ったのですが、孫堅はカイ良の指示を受けた呂公によって殺されたのに、孫策・孫権は黄祖を仇としてるんですね。確かに黄祖を攻撃中のことですけど…うーん。孫策に誤報かな?

ところで、このスレすごいですね。3日で44のレスがあるなんて^^;
(PC)
46 天草
黄祖って意外と色んな人と絡んでて、結構重要な人物なんですよね?(;^_^A

孫堅・孫策・甘寧にもちろん劉表…。
個スレがあっても案外伸びたりして。

孫堅が黄祖を攻めたのは、ただの野心からでしょうか?何か大義名分があったのかな?
(N902i/FOMA)
47 赤龍
>>46
一応、孫堅が黄祖(というより劉表)を攻めたのは、袁術の命令によるものと記述されています。いまだ孫堅は袁術の子分の立場でしたから。
でも、孫堅にもそれとは別になんらかの自分自身の野心もあったかもしれませんね。例えば荊州を奪って自分の地盤にしたいとか。
(PC)
48 天草
孫堅といえば、やはり最大の謎は玉璽でしょ?

実際、孫堅は本当に持ち出して帰ったのでしょうか?
だとしたらその後の行方は?

皆さんはどう思いますか?
(PC)
49 赤龍
玉璽の話は>>>254-17-27でも少し触れられてますね。
(PC)
50 天草
実際に玉慈というもの自体、何の役を果たしてたのかな?
三国志自体にあったのなら、それ以前にも当然あった訳ですよね?
しかし、この時代の書簡といえば竹などでしょ?
印鑑なんて無理っぽくないですか?
(N902i/FOMA)
51 TS
竹や木の簡をすだれのようにつないだのが当時の文書ですが、それを内向きに巻いて紐で縛り、結び目を粘土で固めるのが封印の方法でした。
で、結び目に盛る粘土(封泥)に押しつけて刻印するのが当時の印の役割です。簡に朱肉で押していたわけではありません。
(W31T/au)
52 赤龍
>>50
孫堅が見つけたとされる伝国の玉璽自体は、代々の皇帝に伝わる宝物であり、実際に使われるものではありませんでした。日本でいう三種の神器みたいなイメージですかね。
で、実際の皇帝の文書などに使用されるのが「皇帝六璽」と呼ばれる6種類の印璽であり、用途・相手により使い分けてたそうです。この六璽も玉で作られてたようで、史料中でも伝国璽と六璽で混乱することもあるようです。
使い方は>>51でTSさんが説明されているとおり封泥です。西洋の映画とかで、手紙の口を蝋(?)で固めてハンコ押す場面たまにありますよね。あんなイメージです。
(PC)
53 赤龍
印璽は、皇帝の玉璽以下、諸侯王から各官職までそれぞれ地位に応じたものを与えられてました。実際の使用に加え、その身分を示すものとして身につけていたようです。今でいう身分証明書的存在でもあったようです。
(PC)
54 天草
>>51-53

封泥!?
いやぁ…聞いてみるものですね。勉強になりました。

玉璽自体に関しては、良く分かりました。

伝国の…という言葉が良く付け加えられてますが、これにはどういう意味があるのでしょう?

漢だけではなく、その前の王朝から象徴として利用されていた、ということですかね?
(PC)
55
『伝国の玉璽』のそもそもの始まりは、秦の始皇帝の時代に霊鳥の巣から宝玉が見つかり、それを瑞祥とした始皇帝が宰相の李斯に命じて『受命於天、既寿永昌』と彫らせ、形を整えたのが始まりだそうです。
その後、王莽が帝位を簒奪せんとした時、王政君に対し玉璽を引き渡すように使者を出したが、激怒した王政君は王莽の事を「恩知らず」と散々罵り、使者に対して玉璽を投げつけたそうで、故に龍の角の部分(つまみの所)が欠けてしまい、後に金で補修したそうです。(これが本物かどうかは定かではない)
以後、代々の中原王朝の皇帝に受け継がれてきましたが、五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の大宗に捕えられた時紛失。以来行方不明になっています。
(P902i/FOMA)
56 天草
>>55

という事は、三国志時代以降も玉璽は存在したということですよね?

って事はやっぱり、孫堅強奪疑惑はデマの可能性大なのかな?
(PC)
57
そうですね。だいたい大した大きさの物ではありませんから、私が献帝なら手元に持って流浪しますね。
(P902i/FOMA)
58 赤龍
>>56
三国時代以降も伝国の玉璽が受け継がれたということは、それだけでは孫堅の玉璽所有を否定する根拠になりえません。
『後漢書』徐キュウ伝にあるように、袁術死後、伝国璽が徐キュウにより許の朝廷に戻されたという話があります。
これを信じると、孫堅→袁術→献帝と伝国璽が戻ってきたことになり、後の王朝に伝わったこととも辻褄があいます。
私は、ひょっとしたら、魏呉蜀三国みな伝国璽をもっていたかもしれないという想像(てか妄想)もしてます。それぞれが、自己の正統性を主張するために、伝国璽をつくり(要は偽造ですね)所有してた。そして、それぞれがその由来を説明するため、様々な説が生まれてしまったのではないか?と。ひどい場合、3つとも偽造されたもので、本物は既に失われ、その一つが後の王朝に伝わったのかも?ここまでくると酷い妄想ですが(笑)
(PC)
59 巫俊(ふしゅん)
フビライ・カーンも伝国の玉璽を「創作」しているらしいですよ。
時代を超えて登場し、いつの間にかデザインが変わっていくとか。
その時代に「本物」と鑑識されることが重要で、現代的な意味でのニ千年間変わらぬ「個体」の玉璽が必要だった訳じゃないんですよね。

伝統ってそんな感じのものです。
「つくられる伝統」。
でも「つくられる伝統」をニセモノの歴史と考えるんじゃなくて、
要は真贋が問題なのではなく、どうして玉璽の真贋が議論されるのかを考えたらいいんですよね。

人間のDNAはプログラムの集積ですけど、私たちはプログラムと自覚しているわけではなく、歴史や伝統といった自分のまわりの世界のなかで暮らしている(と思っている、、思いこんでいる?思うことそれ自体にこそ意味がある?)んです。

と別の話になりましたが、伝国の玉璽がニセモノであるとすると、(前漢から伝国の玉璽があったのは事実だが)私たちからするとニセモノでありながら、それでいて「伝国の玉璽たち」にすさまじき価値が付与されていたということが重要なんでしょう。

ダイヤモンドの採掘がアフリカの小国の経済を揺らすのにも似て、何の役にも立たない宝石のようでいて、何の役どころか実際に世界を揺らしているというところがポイントですね。
(PC)
60 巫祝(ふしゅく)の俊
>>55
10世紀の伝国の玉璽と3世紀の伝国の玉璽、
このふたつが科学成分的に同一の玉であるかどうかは、やはり紛失している以上は分からないというのが落ちですよね(^^;
よく考えたら。
歴代継承されたというけど、継承されたことを証明する手立ては私たちにはなく、ただ継承したと主張する人たちが何時代にいたかが分かるだけ。

あとついでに中国の印章文化はインダス文明の起源のようですね。別の話じゃメソポタミアが起源とか言うので私もよく分からないんですが、とりあえず新石器時代の最初から中国に印章があった訳ではないことだけは確かなので。
巴蜀文字と呼ばれる漢字ではない文字が書かれた印章が紀元前の四川から発見されています。
いわゆる長江文明のものですが、インダス文明の印章によく似てるということです。
(PC)
61
その物がもっている価値はそれその物にはなく、それの持つ歴史や状況によって変わる・・・・金もダイヤモンドも、採掘量が少ないから価値があるのであって同じ物が路端に転がっていれば、質が同じでもなんら価値はない・・・・また金自体に歴史を動かす力はなく、常に歴史を動かすのは人間であり、金によって動かされているように見えても、その実、動かしているのは人間である・・・・小説の一つも書けそうな題材ですね(笑)
(P902i/FOMA)
62 ストラップ
>>>442
孫堅の家系の直系ってどうなるんでしょうか?

嫡男は策ですよね?
この場合権は直系でしょうか?

堅―策―権―亮―休―コウ
という流れで正しいんでしょうか?
(F2102V/FOMA)
63 月濬
>>62

家督の流れと直系・傍系の如何は必ずしも合致しないものではないでしょうか?

もちろん、いわゆる血統上の流れでは「策―権」は直系ではないですよね。
直系というのは、親→子と続く流れのことをいいますから。

…この辺の例については、詳述は避けますが今の日本の皇族を思い浮べたら分かりやすいと思います。
(P901iS/FOMA)
64 赤龍
>>62
孫家の直系をどうとるかは難しいですね。
>>>448の私の説明も悪かったせいで誤解されたのかもしれませんが、直系は月濬さんの言われるように、親→子→孫と、文字通り直線で結んでいけるものです。
もし策の系統を直系とすれば、権の系統は傍系になってしまいます。
また、最後の孫皓を基準に、権―和―皓を直系とすれば、亮、休は傍系になってしまいますね。
このように、直系というのはどこに視点を置くか?どれを正統とするか?で変わってしまうものです。
(PC)
65 巫俊(ふしゅん)
孫堅の兄の孫羌の家系が直系なんじゃないですかね。
ただ、『呉書』には祖先の祭祀を孫羌兄弟の中の誰が相続していたのかさえ書いていないですから、「分からない」としておくのも一策だと思います。
そういえば、孫策は烏程侯の爵位を弟に譲ったという記録もあり(後に朝廷より孫策を烏程侯にするという任命書が届く)、江南の現地社会の相続関係は単純に長兄が祖先の祭祀を引き継ぐというものでは無かったのかもしれませんね。
(PC)
66 ストラップ
>>65
それを言うなら孔子だって次男じゃないですか(汗)
孫堅から始まる場合ですよ。

堅―策―策の子孫

というのが孫堅の直系という事で良いのでしょうかね。
(F2102V/FOMA)
67 巫俊(ふしゅん)
>>66
孫羌の子の孫賁は豫章太守征虜将軍で元の豫州刺史ですし、
同じく孫羌の子で弟の孫輔は廬陵太守平南将軍で交州刺史です。
この二人は江南の中で隠然たる力を持っていて、両人ともに孫権の掣肘から離れて曹操に帰参しようとしたんですが、孫権側の諸将の手によって阻止されます。
いずれも孫策の死(200年)から赤壁の戦い(208年)までの間の孫権初期時代に起こった事件です。

彼ら両人は呉の宗室であるから太守将軍を歴任していたのではなく、孫家の中で格の高い者として孫策と協同歩調を取っていたのだと考えられます。
そもそも孫策が孫堅軍団の継承者だというのも、194年の時点までは怪しい話だったんですよね。

194年に孫策が歴陽から江東に渡って曲阿(呉郡の西北部の県)を手中にした際にしても、孫賁、孫輔、呉景、徐[王昆]といった親類戚族の力を借りたものであって、孫策が孫堅の家督を継いでいたといっても孫策に取って代わることのできる立場の人たちは沢山いました。
とくに孫賁は孫策が成年するまでは孫家の筆頭にあった人ですからね。
(PC)
68 巫俊(ふしゅん)
つまり孫策なんて、最初は袁術に寵愛された美男子に過ぎなかったんです。
うまく袁術に取り入って昔の孫堅の軍勢を返してもらった孫策にしても、これを孫堅の軍団を全部返してもらったと見なしていいかどうかは、考えてしまうところです。
しかも孫策も孫権も孫堅の家督の後継者だというだけで、孫権の官位は将軍職と会稽太守に過ぎない為に孫賁や孫輔を従えるのは親族であるという私的な結びつきに過ぎないのです。
(PC)
69 巫俊(ふしゅん)
ということは、孫権が孫家の直系であるということは、孫賁、孫輔、孫翊(孫権の弟で丹楊太守、家督候補であったが孫権初期時代に部下に殺される。)を権力闘争の結果押しのけてはじめて成立した物なんですよ。
孫権が直系だと言うのは、赤壁の戦いの後から呉王即位、皇帝即位にかけての時期に定まって動かなくなったものなんでしょう。
(PC)
70 巫俊(ふしゅん)
>>66
策の子孫は侯爵位に過ぎません。
権の子孫が直系だと呉国の時代は考えられていたと思いますよ。
孫策の子孫は侯に過ぎないのに、孫権の子孫は祖先に皇帝が二〜三人いて自分は王位についてるという状態ですから。

それに第一、現代人の我々が儒教的理念である直系傍系論を真に受ける必要も無いですよ。
その直系論で言えば天武天皇も聖武天皇も現在からすれば傍系になるというのが、儒教的直系議論なんです。(これは北畠親房『神皇正統記』の議論)
(PC)
71 胡蝶
『呉書』巻一・孫破虜討逆伝第一の注に引く『英雄記』には、董卓配下胡軫の言葉として、
「今の此の行や、要ず当に一青綬を斬れば、乃ち整斉するのみ」
といった感じで書いてあります。
ちくま訳では、青綬を太守(長沙太守)と訳していました。
私もそう思っています。

ところが、石井仁氏の東洋史研究51-3に掲載された『都督考』という論文に、
「董卓の大督護胡軫が出陣に際して、配下の「青綬」――中郎将・校尉の官位をもつ都督一人を斬殺して軍紀を引き締める宣言し、」
という一文がありました。

この文を見た為、「青綬」というのは、「胡軫の敵対者」と解釈すべきか、「胡軫の配下の一」と解釈すべきか、迷っています。
皆さんはどのように解釈するべきだと思いますか?
(PC)
72 TS
軍の混乱を収めることについての発言であること、及びそれを聞いて軍内の諸将が悪んだということ。
この二点からは配下の部将を斬り軍紀を引き締めるという発言に見えます。
迎撃する相手を倒すまで軍の混乱が収まらないのでは手遅れではないのでしょうか?
(PC)
73 ストラップ
>>71
この問題、こうして見ると難しいですね。
>>72で指摘されている様に、「諸将聞而悪之」ですが、これも事実孫堅一人を斬れば済みそうな事から考えると、一青綬が孫堅では無いという風にも読めそうですね。

しかし胡軫が嫌われていた事は書いてあっても、軍紀が緩んでいた事は読み取れないので、僕はちくま訳で書かれている様に、孫堅の意で良いのでは無いかと考えます。
(PC)
74 ストラップ
そもそも、長沙太守であった孫堅が、本当に「青綬」であったのかどうかですよね?

孫引きで申し訳ないですが>>71の論文では『続漢書志』を引き、中二千石、二千石が青綬、千石、六百石が黒綬とありますね。
(F2102V/FOMA)
75 胡蝶
ちくま訳には「青綬」のことを「太守」とは書いていても、「長沙太守」とは書いてありませんでした(汗)
やはりTSさんと石井氏の説も一理ありますね。

>>74で仰ってる青綬の件ですが、「三国官職表」では諸郡太守は二千石となっていました。
後漢時代も同じかどうかはわかりませんが…。
(W21CA/au)
76 赤龍
難しい問題なので、私もはっきりとした答えはだせませんが、少しまとめてみましょう。

まず青綬について。『後漢書』(『続漢書』)の與服志の青綬の項目には「九卿、中二千石、二千石は青綬」とあります。
そもそも「綬」とは、「印綬」とセットで熟語になることもあるように、印にくっついてるひもと思って頂ければいいでしょう。この印と綬の色や長さで、その人の身分を表したということです。
なので、大体二千石相当の官の人の綬は青綬だった。これが転じて「青綬」といえば二千石相当の官の人を指す言葉になったわけです。
同じく『後漢書』の百官志を見ると、郡太守は二千石とあります。郡太守や州牧、九卿あたりが「中二千石、二千石」の官にあてはまります。青綬は地方長官、中央の高官クラスということですね。

よって、文の解釈は一事置いて、孫堅が「青綬」と呼ばれること自体は何の問題もないということになります。
(PC)
77 赤龍
さて、石井氏の説である、胡軫の部下は?
胡軫自体は太守であり青綬。その下にいた騎督の呂布は騎都尉、比二千石でおそらく青綬。その他多数の歩騎の将校都督がどの程度の地位だったか、私にははっきりわかりません。ただ、上の説明のように「青綬」はかなりの高官。相当の地位にある部下を斬ることになります。
(PC)
78 赤龍
ちくま訳では>>71の「乃ち整斉するのみ」を反董卓軍との戦いの沈静化ととらえ、石井氏は軍の秩序の乱れの引き締めととらえたわけですよね。

ちくま訳では、直前の胡軫のせっかちな性格「性急」にうまくつながるように感じます。
胡軫の言葉に「諸将聞きて、これを悪む」がうまくとれないようにも思えますが、単純さ、あるいは大言壮語あたりが反感を買ったのでしょうか?

一方石井氏訳では、諸将の反感にはうまくつながりますが、部下の将校都督の数が多いというだけで、軍内の乱れなどは特に書かれておらず、唐突な発言の印象をうけます。以下に続く文には胡軫軍が内部の乱れから崩壊する様が書かれますが、これは胡軫の宣言による反感の後のこと。全く逆の問題が生じたわけです。

というようなわけで、私はどちらかといえばちくま訳の方が素直な解釈で、石井氏の解釈は無理に自分の専門分野に結び付けてしまった印象を受けます。あくまで私個人の印象で、自信はありませんが。

以上長々とすみません。
(PC)
79 TS
行破虜将軍、領豫州刺史は青綬なんですかねえ?
(PC)