1 天草

赤壁の戦いPART2

赤壁の戦いスレが100を越えましたので、新スレを導入します。

前スレ
>>>143
【長江】赤壁の戦い【炎上】
(PC)
2 天草
前スレより話の続き。

>>>143-98-100
漢津の位置など、当時の戦況を地図から考える事により、赤壁の戦いの真の姿を見つけたいですよね。
(PC)
3 寿君
 すいません、私の言った徐晃伝の当該ヶ所の記述の直前に、手がかりらしきものがありました。
 どうも徐晃は荊州攻めでは別軍として樊に駐屯し、中廬・臨沮・宣城の賊を討伐してたようなので、長坂追撃には加わってないみたいです。
 だから、南下する関羽水軍を直接追撃した時の記述ではなく、曹操が江陵を確保してからの話になるので、どうやら赤壁戦では関羽は漢津あたりに駐屯して漢水方面からの攻撃を支えていた可能性が出てきました。
 しかし、「中廬・臨沮・宣城の賊」ってのは何者なんでしょうか?。劉備に同調した抗戦派勢力なんでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
4 天草
前スレから振り返ってみると、赤壁の戦いを振り返るにあたり、個人的に以下の点に注目してます。

●赤壁の戦いは、そもそも誰と誰の戦いだったのか?

●赤壁の戦いは誰が侵攻して、誰が防衛したのか?

特に劉備がほとんど参戦していなかったという説を考えている方、もしくは劉備中心の戦だったと考えてる方の意見が聞きたいですね♪
(PC)
5 TS
赤壁を含む一連の戦いは、「曹操が荊州全域の制圧に失敗し、荊州から追い出された戦い」です。
あえて言うなら、
漢の朝廷の名を借りた曹操
vs
荊州を中央の支配から独立させたい勢力(当時の暫定的リーダーは劉備)
の戦いでしょう。
孫権は戦いに介入し、荊州独立派に肩入れして荊州での自分の影響力を拡大しようとしていたと見るべきでしょう。最終目的は自分たちによる荊州制圧ですが、赤壁時点では荊州独立派と「曹操を(荊州から)駆逐する」という目的を共にする同盟勢力です。
荊州制圧が済めば呉が危ないのも事実であり、早くも曹操への臣従が検討されていたためにわかりにくくなっていますが、赤壁における呉は防衛側ではありません。
曹操は荊州独立派のリーダーという意味では劉備に敗れたと言えるし、実際に戦った相手という意味では孫権(の配下周瑜)に敗れたとも言えるのではないでしょうか。

たとえるなら、劉備はWW2西部戦線におけるフランスパルチザン・イギリス、曹操はナチスドイツ、孫権はアメリカというところではないでしょうか。
(W31T/au)
6 寿君
>>5
 まったくもって私もほぼ同じ意見です。例も納得です。

 それにしても赤壁の戦いって詳しく書いてるのは「呉書」か呉関連の注。魏書はまるで敗戦としては漢中失陥と同等ぐらいの扱い。蜀書に関しては本文だけ見ると…記述が少なすぎて(苦笑)、ここでもまるで博望で夏侯惇撃破した時と同じぐらい分量でしか書かれてないから困りますよね。

 問題は呉書が戦勝を課題に喧伝してるのか、してないのかですね。

 私はしてないとは言い切れないです。
 
 呉書も信じない訳にはいかないだけに、この真実は推測するしかないんですが、だからと言って演義であのように描写されてるから、その反動で実際には劉備軍は何もしてないんだよと言う固定観念は捨てなくてはならない気もします…。
(P901iS/FOMA)
7 天草
>>5-6
しかし、正史の記述通りなら、曹操は荊州制圧後、孫権に脅迫まがいの手紙を送ってますよね?

曹操が一気に南下を目指し、孫権楊州制圧のために動きたかったが、脅迫してみて、荊州のように無血開城できるか確かめた?と思いませんか?

周瑜の荊州侵攻は当初予定にはなく、赤壁での快勝の勢いに乗って、荊州制圧に動いたとは考えられないでしょうか?
(PC)
8 寿君
>>7
 確かに、江表伝に書簡が来たとありますよね。
 となると、こうなりますよね。
 劉備が頼るとすれば、孫権しかない。書簡の内容を簡単に見れば、
「劉ソウは罪人だから討伐した。俺は今八十万の大軍を擁してる。下手な真似したら、あんたの領地で…って事なるぞ!」(笑)
 って脅してる訳で、この脅して屈伏させる理由が、直接孫呉なのか、「だから劉備との戦には手を出すな」のいずれか判らないですね。
 また程イク伝の記事がひっかかります。
 明らかに劉備が呉に援助を求めた事が判明した段階で、皆が呉は劉備を殺すだろうと判断する中で、
「孫権は一人では敵対できない。劉備をたすけとして我々に抵抗するだろう」
 みたいな事を言ってます。
 とすると、その手紙が、 もしこの段階で送られたのなら、曹操は劉備を孫権が助けないように釘を刺したって話になります。
 荊州降伏、益州は好を通じてくる。揚州も所帯の大きさでは変わらない訳だし、一気にいこうとした可能性もありますね。
(P901iS/FOMA)
9 TS
呉主伝なんかからは、孫権は劉表が死んだ時点から荊州進出を目論んでいたのがわかります。彼からすれば曹操に先を越されたのです。しかし隙あらば荊州に進出したいという野心は変わりません。
州境沿いで即応体制を取っていたのは守るためではなく荊州を攻めるためなのです。

また江陵を取ったあと、劉備が夏口に逃げ延びた段階での曹操に目を向けて見ると、
・荊州には独立・反曹的立場の劉備・劉キがまだ残っている
・劉備らは孫権と境を接している
・孫権は荊州進出の野心がある
といった状況です。
曹操としては劉備を捨てて孫権を攻めるわけはありません。劉備を討ち、そのまま揚州になだれこむ、なんてできればいいでしょうが、劉備と孫権が合力するのは避けたいはず。
そうなると孫権に例の脅しをかけ、孫権の介入に釘を刺す、ということになります。
まずは荊州。孫権には中立でいてくれればいいのです。
しかし魯粛や周瑜らにより劉備に協力し曹操と戦うことが決められ、見返りとしておそらく劉備・劉キと孫権の間で孫権の悲願ともいえる江夏・江陵など荊州諸郡の権益が保証されたのでしょう。
劉備の参謀かつ荊州人(名士)に人脈を持つ諸葛亮が孫権の元を訪れたのは、劉備も(独立派の)荊州人も孫権が荊州進出するのを認めたことを意味すると言えるのではないでしょうか。
(W31T/au)
10 寿君
>>9
 では孫権が周瑜死亡と共に、“荊州を貸す”と言うのは、劉備が共同では益州を攻めないので、“荊州における孫権の権益を貸す”事で道を空けたと言う事でしょうか?。
 それとも南郡を得たが、荊州の人的資源が劉備に流れた為に、孫権の力では現時点での確保が難しいと考えて南郡を明け渡したのでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
11 TS
基本的には後者でしょう。
孫権にしてみれば自分たちが多大な犠牲を払い手に入れたのだから、自分たちのものだと思っています。
そんな心情からも、面子からも、また劉備に対して「貸し」にしておくためにも、
「俺のもの=荊州を劉備に貸してやるんだ」と言ったのではないでしょうか。
孫権が江陵占領を強行すれば、荊州人の感情も、江陵や更には益州に野心を持つ劉備との関係は険悪となり、全面戦争にさえなりかねません。
それにより全て失うのを避け、一時的に江陵を損してでも「荊州を劉備に貸してやった」という交渉カード・評判を得たというところでしょう。
(W31T/au)
12 変身!エビフリャア!
 なるほど、目先より、将来を取ったと言う訳ですな。
 となると、魯粛の基本戦略としては、劉備に荊州を地均しさせて、後を頂くつもりだった。
 ところが劉備・諸葛亮は魯粛の戦略を利用して、自陣営を発展させる為に荊州領土問題の先延ばしを図っていた事になりますね。
 劉備とすれば、せめてマジで涼州や荊州北部(南陽郡周辺)を獲得するまで、荊州南部を保持できていれば御の字。赤壁戦前の取り決めがあったとするなら、劉備側もそれならそれでのやりくりの仕方があった…。しかし、魯粛の死で孫呉の国論が急進的になったのと関羽が呂蒙の策略で江陵を失う事で、劉備の綱渡り的外交戦略も破綻したんでしょうね。
(P901iS/FOMA)
13 寿君
すいません、>>12は私です。他サイトで使用してるHNをつい癖で入力してしまいました。
 大変申し訳ありません。以後、気を付けます。(TT)
(P901iS/FOMA)
14 TS
>>12
魯粛は劉備に対して十分強硬だったと思います。
江陵を占領し続けたり、いきなり荊州全土を奪回出来るとは思っていなかった現実家だっただけです。
南部三郡の帰属問題の際など、別に劉備の側に立った交渉をした形跡はないように思います。
江陵奪回を果たす前に死んでしまったために誤解されがちなのかもしれませんが…
(W31T/au)
それでも魯粛は呉の軍部内では親劉備派だったと思います。彼が亡くなってから荊州に進行したことを考えると孫権や反劉備派を説得していたのではないでしょうか?
(N900i/FOMA)
16 TS
ところで、カク伝によると彼は曹操に、江陵を確保した後は荊州をじっくり制圧すべきことを説いていますね。
聞き入れられなかったわけですが、曹操が赤壁の大敗を避ける道は示されていたとことになりますね。
戦略眼を持つ者からは、曹操のこのあたりの行動は焦りすぎに見えていたのでしょうか。
(W31T/au)
17 ストラップ
赤壁の戦いと直接は関係しませんが、質問です。

建安十三年の夏口は「呉主伝第二」によると、春に失陥した様ですが、この後はどうなったんですかね?

赤壁後は孫権領の様ですし、以後は孫権だったでよいのでしょうか?

演義とごちゃになってます?
(PC)
18 ストラップ
>>>143-55-57に詳しい人はいますか?
詳細知りたいです。
(EZ)