1 赤龍

邪馬台国について その2

このスレもめでたく2つ目突入。
邪馬台国の謎、魏志倭人伝、卑弥呼、当時の日本と中国の関係、といった三国時代の日本関連について討論しましょう。

前スレ >>>205
邪馬臺國(邪馬壹國?)
(PC)
2 巫俊(ふしゅん)
講談社の『邪馬台国論争』には、10世紀の瀬戸内海の群雄・藤原純友の残党(ワクワク)が、アフリカ東方のマダガスカル島を襲撃したとするイスラム文献に乗っ取ったスーパー仮説を披露なさっています。
是非一読を^^
(PC)
3 巫俊(ふしゅん)
×乗っ取った
○則った

ついでにイスラムの故事伝説では日本はワクワクと呼ばれて中国の向こうにある不思議な国と伝えれていたのですが、
(ワクワクは倭国の広東音の転訛とされる)
アレクサンダー大王がワクワクに到着して、言葉を話す樹木に残りの寿命が少ないことを告げられるとか、
黄金島で女王が治めている国であるとか、中国・イスラム間の海上交易を通じて、日本の風聞がイスラム圏でも親しまれたそうです。
(PC)
4 巫俊(ふしゅん)
イスラムの故事伝説の中にマダガスカルを襲った海賊ワクワクというものが登場しまして、『三国志』に書かれる邪馬台国の地理についても、誤りがある可能性を指摘しているようです。
(PC)
5 ストラップ
>>>205-54-55
古田武彦氏や谷本茂氏の「短里説」って、どれ位の信憑性があるのでしょうか?

ネット上にあった「1936年発布赤軍臨時野外教令」の翻訳によると、
「騎兵の普通行軍速度は1時間7粁半」
「一般兵団の一日行程は、普通行軍に於いて8時間32粁、強行軍に於いては10乃至12時間以上(大休止の時間を増加す)とす」
との事ですから、強行軍の場合騎兵は約「75Km/一日」な訳ですよね?三日に一度の強行軍だと計算すれば、三日で200Km弱進むというところでしょうか。

>>>282-27の移動距離を計算しますと、一里≒414.72mならば、夏侯淵の三日の移動距離である五百里は約207Km。
誇張も入れれば無茶な数字では無いし、短里では全く夏侯淵の凄さが伝わらない。
一体どうなんでしょう?僕は短里説怪しいと思うのですが。
(PC)
6 赤龍
>>5
肝心な説明が抜けているので補足しますと、後漢の一里は414.72m。魏では434.16m.と、どちらにせよ約400mちょっと。
それに対し「短里説」は一里を約75〜90mとするものです。
この短里説の素晴らしいとこは、日本列島を通り過ぎて海の中にまでいってしまう魏志倭人伝の行程記述が、この短里を前提によむと、綺麗に日本列島の中に!
ということですが、肝心な当時この短里が使われてたという根拠はあるんでしょうか?
これは本来「魏志倭人伝の記述を読む際、一里を約75〜90mとして扱えば、行程の記述がうまくあう」ということにすぎないですよね。私もかつてこれに近いことを考えたことはあります。
しかし、だから「当時は一里を75〜90mとしていた」というのはえらい飛躍ですよね。魏志倭人伝を読むためだけに、長さの単位の常識を塗り替えられるわけですから。
魏志倭人伝の研究以外の場で、この短里というものを全くといっていいほど聞かないのも、倭人伝問題のためだけの理屈(屁理屈?)にすぎず、一般には全く相手にされてない(認められてない)ということなんじゃないでしょうか?
(PC)
7 飛燕
レス遅くてすいません(汗)
文化的共通点についてはちょっと良く思いつきません。その「文化的」というのが例えば、青銅器の用い方が実用だと細形、祭用だと広形、だとかそんなのでも良いのでしょうか。

異文化だから従っていなかった、ということについては、それはそれでいいと思います。だからこそ役人を伊都国において、監視させてたのかもしれませんしね。

中国地方が文化の中心と考えてもおかしくない、と思うのですが。少なくとも九州よりは可能性があると思います。だってその後のヤマト政権が生まれたのは、確実に近畿なのですから。周辺に型となる文化は当然あったでしょう。
九州と近畿の文化が混じり合って中国文化が生まれた。その象徴が、出雲や吉備や荒神谷なのではないですか?そしてこれに近畿文化が触発されてヤマト政権が生まれた。この流れはおかしすぎますかね?

それに文化というものは、社会が荒れれば荒れるだけ磨きがかかるのだと思います。だからこそ、春秋・戦国に諸氏百家が出てきたのだと思います。そういう意味でも、安定性に欠けていた中国地方は、文化の中心になり得る資格はあるのではないですか。
(F900iC/FOMA)
8 飛燕
>>5-6
ちなみに、周の時代で1里は約100メートルだそうです。もちろん信じていません。

こういう学者さん達って中国史の勉強不足だと思ってしまいます。「倭人伝」なんて呼んでる時点で何となくわかりますが。「倭人条」が三国志のオマケ的存在だという認識に、欠けているのだと思います。この状態のままでは、邪馬台国論争は一生ヘリクツの言い合いなると思います。
(F900iC/FOMA)
9 赤龍
飛燕さんの一連の中国地方説を見て感じることは「中国地方も候補地になりえる」という可能性については繰り返し述べられているものの、「中国地方でなくてはいけない」という点に関してはかなり弱いように感じます。
例えば>>7
大和政権の型となった文化が中国地方にあったと仮定されますが、では逆に中国地方が近畿の文化に触発された可能性はどうなるのか?安定に欠けていたから文化の中心となりうるとされますが、安定した勢力を築きあげたほうが中心となる可能性だって充分ありますよね。

ちなみに、私は邪馬台国は必ずしも当時の日本の文化的なり政治的なりの中心、最大の勢力である必要は無いと思っています。「倭王」の名にとらわれすぎることは無いということです。
(PC)
10 赤龍
「魏志倭人伝」「倭人伝」という通称自体は、もう一般的なものであり、そう呼ぶこと自体はなんら問題はないように思います。ほんとに一流の研究者の方々でも普通に使われてますし。
「短里説」なんかは、真っ当な研究の場では相手にされてないように思えますし。実際の研究状況は飛燕さんが批判されているようなものばかりではないですよ。
(PC)
11 赤龍
ちょうど古本屋で古田武彦の『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫)を見つけたので、ちゃんと本人の著作を読まずに批判ばっかするのも悪いなあ、と思って買ってみました。
他にも何冊か買ったんで、あいかわらずちゃんと読むのはいつになるやらですが。でも、どうせ200円だったし(笑)
(PC)
12 赤龍
さて、>>11であげた古田武彦の本読んでみましたが、どうも読んでて色々気分悪くなって放り出してしまいました。満腹時の睡魔の誘惑に勝てなかっただけかもしれませんが(笑)
なんか、それではおさまらず、重箱の隅をつつくような三国志マニアならではの批判というか愚痴を思わずブログの方に投稿してしまいました。
というわけで、この本読破できそうにありません。また読んでない本がたまっていく……。
(PC)
13 巫俊(ふしゅん)
邪馬台国といえば、中国では夏王朝のようなものですから、取りあってはいけないような主張も山ほどありますって。
人の想像力が120%発揮されておもしろい分野でもありますけど。
とくに帝堯=三星堆蜀王朝の祖先=春秋時代以降の杜氏の祖先説とか。
三国時代から唐代まで続く杜姓の人たちも四川文明の子孫だと信じている人たちも少なくないようです。
歴史に発想はだいじだから感心はしてますw
(PC)
14 飛燕
面白そうな本を買いました。

古代史 9つの謎を掘り起こす(PHP文庫 関裕二著 税込500円)
9つの謎とは…
神話・ヤマト建国・浦島太郎・雄略天皇と継体天皇・聖徳太子・蘇我入鹿・壬申の乱・聖武天皇、そして邪馬台国の9つ

まだ立ち読みで少ししか読んでないので詳しいことは書き込めませんが、どうやら最近では、"マキ向遺跡が邪馬台の都かどうかの是非"が議論されてる様です。

他の入鹿の章も面白かったですから、この値段でこの量はなかなか良い買物したと思ってます。
(F900iC/FOMA)
15 赤龍
>>14
関裕二さんといえば、古代史ものを多数書かれている作家さんですが、私はどうも胡散臭いというイメージがあってまだ読んだことありません。
書店では結構平積みされてたりして、人気はあるみたいですね。
食わず嫌いはよくないので、私も暇を見て一度何か読んでみたいです。
(PC)
16 飛燕
>>15
有名な人だったのですか!全く知りませんでした(汗)

今のところ、神話と邪馬台国の一部を読んだところです。日本の古代史を深く勉強していない、ということもあるのでしょうが、どうも神話の章はこじつけ気味な気がしました。日本書紀の神話の話は、藤原氏の台頭を暗示しているとか、出雲を悪く書いているのは蘇我氏と関連があったからだ、とか。見たところは、"おお、なるほど!"と思えても根拠を読むと、薄いなぁ、という感じがしました。おまけにオチも中途半端でしたしね。
でも、まだ少ししか読んでないですからね。神話というのも曖昧なところですから。まだ投げ出しはしません。
(F900iC/FOMA)
17 司馬散人
私は関裕二氏の著書を十数冊読んだ事があります
三世紀から八世紀まで独自の史観で書かれているのがいいですね
現在も発掘成果を考慮して少しづつ自説を修正しているみたいです
ただ、記紀の解釈にいくつか疑問が有るのも確かですね
私の一番の収穫は、三世紀だけみて邪馬台国は語れ無いかもって事ですかね
(V905SH)
18 赤龍
>>17
「三世紀だけみて邪馬台国は語れ無い」って、確かにとっても重要ですね。
邪馬台国だけの考察とか魏志倭人伝の解釈のみにとらわれすぎるから、視界が狭くなり本人は大真面目なつもりの奇説・珍説が誕生してしまうんでしょうね。
邪馬台国だけでなく、当時の日本の状況、さらに視野を広げて東アジアの状況。また、司馬散人さんの言われるように、邪馬台国の時代だけでなく、前後の歴史のなかで邪馬台国がどういう位置にあるか?
こうした、縦方向にも横方向にも視野を広げた考察をしなければより深い理解はできないですよね。
(PC)
19 兀突杯
ずっと疑問を抱いていましたが、邪馬台国は遼東国家と深い関係(従属同盟etc)があったのではないのでしょうか?
理由としては@年代とA魏へ向かうルートです。
@は赤龍さんのコラム・Aは皆さんが検証なさっていますから詳しく述べる必要がないと思いますが、@については明らかに倭側の反応が早過ぎます。
Aについては当時の日本の造船技術だと朝鮮〜中国ルートが限界だと思います。(日本〜中国は命懸けと言われていました)
このルートで最初にぶつかる勢力は遼東国家…
ここからは仮説ですが、邪馬台国は遼東国家と深い関係(後ろ盾)にあったが魏が遼東国家を潰したので慌てて魏に朝貢(新しい後ろ盾)した。
という事です。
素人なりの意見ですが…ご検討お願いたしますm(__)m
仮説通りなら白江村に並ぶ侵略される危機だったと思います(笑)
(SH903i/FOMA)
20 兀突杯
ちなみに自分は九州説です理由は前に書いた@とAです。もし畿内説なら日本海〜朝鮮という命懸けの航海になるからです。(Aは不可能に近い)
また@を実現するには邪馬台国は巨大な国家(連合国家)でないと情報伝達〜使者派遣のスピードが厳しくなります(遠すぎます)
鏡の出土については外交用品に使われた・別ルートで(遼東国家から入手)で手に入れたという可能性も有り得ます。
九州説なら@・A両方可能です
長文連発すみませんでしたm(__)m
(SH903i/FOMA)
21 巫俊(ふしゅん)
>>20
兀突杯さんの言われる畿内説は九州王朝畿内王朝並立説を指してるんですね。
一般的な畿内説は畿内王朝九州統治説を指していると思いますから、ちょっと齟齬があるかもしれませんよ。
(PC)
22 ストラップ
>>19-20
とらいあえず、@の該当箇所と思われる記事を示しておきます。

>>>205-65(携帯端末用)
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50066737.html

尚、>>>205-52に関しては、
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50204231.html
を参照のこと。
(PC)
23 赤龍
>>19
『三国志』の東夷伝には、建安年間、公孫康は帯方郡を設置し、これ以後倭と韓は帯方郡の支配を受けることになったと書かれています。
遼東公孫氏と当時の日本になんらかの関係があったと考えるのが有力であり、邪馬台国問題及び当時の日本を含む東アジア世界を考える上でも、公孫氏は非常に重要な存在ですね。
(PC)
24 兀突杯
巫俊さん・ストラップさん・赤龍さん>
はじめましてレス+張り付け有り難うございますm(__)m
>>23
やっぱり…日本史変わるぞ〜(笑)(資料さえ出ればですが…)
数年抱き続けた疑問が解消した気分です
>>21
畿内説にも二つあったのですね
知りませんでした勉強し直して参りますm(__)m
あと白江村じゃなくて白村江でしたね…申し訳ありませんでしたm(__)m
(SH903i/FOMA)
25 巫俊(ふしゅん)
>>24
ついでに中国の沿海地方では外洋航行の伝統が3世紀のこの時点でもう広範に存在していたりします。

難破の危険性はあるとはいえ、山東半島の魏領を経由することなく遼東半島に使節を送ることが可能になっていますし、
ほかに会稽郡から建安郡(福建省福州市とその内陸)への海上航路が確保されいたほか、
東南アジアから広州の番禺までは南海貿易の航路として海路が完全に定着してます。
一説にはローマ商人の秦論は海路で建業までやって来たと考えられていて、貿易の便宜を得るためか孫権と会見しています。

また6世紀から9世紀の遣唐使の時代と異なり、当時の倭国にはインドネシア語系の海洋民族が海辺に村落をつくっていたとも言語学的に類推されています。
(PC)
26 巫俊(ふしゅん)
〇:
難破の危険性はあるとはいえ、呉は山東半島の魏領を経由することなく遼東半島に使節を送ることが可能になっていますし、

〇:
確保されていたほか
(PC)
27 赤龍
>>24
遼東公孫氏と日本との関係を示すと思われる遺物として「公孫氏作鏡」という銘文のある銅鏡が出土しているそうです。
また、「燕国王公孫淵の後」と称する常世連(とこよのむらじ)という氏族もいたようです。
公孫氏と日本の関わりは以前から研究者にも注目されているもので「実質は四国志」とまでいう学者もいるほどです。
ただ、両者の具体的な関係や、邪馬台国が公孫氏とどう接したかというような細かい問題になると、史料が少なくまだまだ分からないことが多いようです。
(PC)
28 飛燕
前紹介した、関さんの著作で言っていたことですが、"どうして日本書紀を無視するのか?"
6世紀以前の記述は信用できないというのが定説らしいですが、ある程度は信用できる、というのが関さんの説。具体的な根拠は欠けていますが(汗)
関さんによると、神功皇后ら畿内政権に反抗した、九州山門の女首長こそ卑弥呼である。その後、山門の地を皇后の妹・豊姫が治めたのではないか?すなわち台与である。と、いうことです。

台与は推定で、ちょっと弱いですが、卑弥呼については相当驚きました。どうして日本書紀にはまったく目を向けようとしなかったんだろう、反省しました。
少し年代がずれている気がしますが、かなり参考になると思います。
(PC)
29 巫俊(ふしゅん)
>>28
具体的な根拠に欠けていたら、全然駄目じゃないですか。^^
それでは解釈しだいで結論が揺らぐということですから、もう少し粘って考える必要があります。
まず『日本書紀』ですが、だれがつくったのか?奈良時代の日本国家の知識人がつくったんです。
卑弥呼の時代のことを新しい日本国家は正確に伝承しているのか?全然してないですね。

3世紀の倭国の記録を全然伝承してないから、神功皇后と卑弥呼が結びつけられているんですよ。
第一、神功皇后の子と称される応神天皇は5世紀の倭の五王の時代に近い年代の人物とされていますから。

『日本書紀』は日本国家に臣従する中国知識人の手を経て編纂された漢文史料ですから、陳寿の『三国志』は史書として参考にされていて当たり前なんですね。
『三国志』は奈良時代には舶来されていましたし、『日本書紀』にも引用されている。

『三国志』に卑弥呼の名前が記録されているのに、日本国家はその時代の歴史を伝承していないとすると、
開祖神武天皇は春秋時代の人であると自称していた当時の日本国家の面目が丸つぶれなんですね。

だから、神功皇后という女性の主権者を持ち出して、『三国志』の卑弥呼のことであると歴史を作為したのだと私は考えています。
(PC)
30 赤龍
>>28
記紀の極端な軽視というのは、一時の流行みたいなものでしょうか。戦前の皇国史観への反動やら、考古学ブームやら。現在の研究者の中で、6世紀以前の日本書紀の記述を全く無視するなんてのはほとんどいないでしょう。
ただ、参考とすべき記述もなかにはあるものの、>>29で巫俊さんが説明もされているように、色々問題とすべき点もあり、そこら辺の考証は慎重におこなわなければいけません。
関氏の本は未読なのではっきりとした批判はできませんが、記紀の記述の中に史実を反映したものもあるという前提はいいのですが、ではどれだけ信用できるかという部分が、しっかりとした考証を欠いたまま、自説に都合のいいとこだけ抜き出したように感じます。
(PC)
31 赤龍
さて、肝心の日本書紀の神功皇后と卑弥呼の問題ですが、>>29で巫俊さんが触れているように、現在比定されてる天皇の時期とはずれがありますね。
ここに中国の史書を引用し、わざわざ卑弥呼の記述をのせた理由としては、前スレでもちょっと触れましたが、神武天皇即位を紀元前660年とする書紀の代々の天皇の編年。それを中国の史書を利用して整合させるためのものとする考えが有力のようです。神功皇后を3世紀(中国の三国時代)の人物としてあてはめるために。
また、肝心な親魏倭王に封じられたとかいうことなどは書紀には書かれていません。天皇が中国の皇帝の臣下という扱いだったということは、あまり好ましくない内容だからと考えられています。有名な宋書の倭の五王のことなんかも全く引用してませんし。
というわけで、卑弥呼=神功皇后というのは、日本書紀編纂の都合で作られたものであり、何らかの史実を反映するものではないだろうと考えられるわけです。意味もなく無視されてるわけじゃないんですよ。
(PC)
32 飛燕
お二人とも少し勘違いされています。>>28神功皇后=卑弥呼じゃなくて、神功皇后らに反抗した山門の女首長=卑弥呼と、関さんは言っているのですよ。たいして変わらないかもしれませんが。あと、本居宣長の"九州の女酋長が、畿内に対抗するため、大和の王を偽称して魏に朝貢した"という考えを支持していました。

日本書紀を史書に無理矢理結び付けただけの書物、という解釈が、日本書紀を軽んじているという関さんの主張につながっているようです。
巫俊さんは全く伝承が伝わってないとしていますが、それこそ何故ですか?奈良の知識人なら、それくらいかき集めてくるんじゃないですか?大きい連合の様ですしね。少しは何か残っててもおかしくないのでは?大体、畿内から出る鏡は九州の邪馬台の一味から奪ったりしたんじゃないか、という説がありながら、大和政権は邪馬台国の事知りません、てそっちのほうがおかしくないですか?
関係ない方向にいってしまいましたが、断定はよくないと思うので。

神功皇后をそこまで否定していいのか、と単純に思ってしまうのですが。もしかしたら、本当に一致しているとか。
でも、悪あがきかもしれませんね。考えるほど、きりのないことな気がしますし。
(SH902iS/FOMA)
33 巫俊(ふしゅん)
>>32
>お二人とも少し勘違いされています。

そこは勘違いしてないんじゃないかな、神功皇后=卑弥呼説の根拠を崩したら、神功皇后・卑弥呼並立説の根拠も崩れてしまいますから。

>断定はよくないと思うので。

そうですね。注意深く見つめる必要がありました。
(PC)
34 兀突杯
飛燕さんはじめましてm(__)m
早速ですが、>>28>>32についてですが関氏の発言はおかしな点と面白い点があると思います。
・おかしな点
関氏は豊姫=壱与・山門の女酋長=卑弥呼と書いてありますが、壱与は卑弥呼の一族(魏志にはっきり『宗女』と書かれています)でありおかしいと思います。
神功皇后=卑弥呼・豊姫=壱与なら一応成立しますが凄く怪しいです。
・面白い点
山門の女酋長=卑弥呼ではなく、山門の女酋長=壱与だと不思議と繋がります。
(SH903i/FOMA)
35 巫俊(ふしゅん)
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki09.htm

『日本書紀』巻九神功紀の電子テキストです。
神功紀とは神功皇后本紀という意味の漢語です。
皇后の和名はオキナガタラシヒメノミコトとされているです。

九年春三月丙申の条が問題の一節ですが、
神功皇后の実在に拘る場合は、前後のほかの条なども検討を要すると思われます。

さて神功皇后が神功皇后であると我々が認識できるのは、本紀に神功皇后の事績が編年付けられて記録されているからです。

そしてこの掲示板でこれまで話されてきたことから了解されますのは、

―――
死後数百年の後に神功皇后という漢風の諡号で呼ばれることになる巫女王が近畿地方にいて、九州の山門の巫女を斬った。
ただし『日本書紀』の記録するところに由って類推しているのであり、 『日本書紀』の記録に間違いや改竄があったと考える場合はこの限りではない。
―――

ということだけです。
考えてみてください。これだけだと神功皇后という日本史上有数の個性的な女性に同定する必然に欠けるということが明らかだと思うんですが、
神功皇后の本紀が立伝されているのは、応神天皇という日本国の帝室の直系祖先を産んだ巫女王がオキナガタラシヒメノミコトだったからに過ぎません。
日本神話を渉猟してみれば分かることですが、有史以前の巫女王の記憶が反映されていると考えられているヒメはオキナガタラシヒメノミコト以外にも沢山いるんです。
(PC)
36 巫俊(ふしゅん)
オキナガタラシヒメノミコトと山門の巫女の争いは、かすかな歴史の記憶を伝承するものとして非常に興趣あるものですが、
例えば4世紀の東晋時代に邪馬台国の末裔を称した山門国が筑後平野の南隣の山際にあり、そこの巫女王がオキナガタラシヒメノミコトに討たれた。
と解釈することができます。

この解釈をとれば、4世紀の山門国は邪馬台国の末裔を称していた国ということになり、3世紀の邪馬台国は4世紀の山門国からそう遠くない別の地域にあったと考えることもできる訳です。

そして東晋司馬氏を簒奪して宋を建国した武帝劉裕の末年に倭王讃の使者が江南に来るのですが、それは421年のことです。
このときの倭国を宋書は「高驪の東南大海中に在り」と記し、これより17年後に来た倭王珍の使者は倭と百済新羅など朝鮮南部六国の都督を自称しています。
多少ハッタリかましているとしても、438年の時点では朝鮮半島への野心がうかがえ、国家統合が進んでいることが類推できます。

421年からそう遠くない過去に山門国など九州の国を滅ぼして、中国王朝に倭王の名目で交渉する権利と実力を得た近畿地方の王統がオキナガタラシヒメノミコト以下の系統だったのではないかと推察してみました。

倭の五王についても、近畿説と九州説があったような気がしますが、少なくとも編年を無視して「近畿の神功皇后、九州の卑弥呼」と考えるよりは正確を期していると思います。

慎重に正確を期したとしても、それが真実とは限らないわけですが。
あまり安直に神功紀の記録を卑弥呼の時代のものとするよりは、編年を重視した解釈の方に整合性を感じています。
(PC)
37 巫俊(ふしゅん)
訂正:倭と朝鮮南部の五国で合計六国でした。
巫女王オキナガタラシヒメノミコトは4世紀後半の人くらいに類推しましたが、5世紀の初めでも類推できそうな感じです。
(PC)
38 赤龍
ちなみに、倭王讃を歴代のどの天皇にあてはめるかというのは、応神に比定するのが一番有力ですよね。応神の母は神功皇后。ちょっと日本書紀の編年とずれちゃいますね。
また、倭の五王の九州説というのは、中国の文献に出てくる倭の五王は、大和朝廷の天皇ではなく、それとは別の九州地方の国の王とする説です。この時代もまだ大和朝廷の支配が九州にまで及んでなかったという考えに基づくものです。
(PC)
39 赤龍
つまり、倭の五王九州説の立場をとると、倭の五王の記述への比定をもとに行った応神から雄略あたりまでの編年が、根本から否定されちゃうわけですね。
(PC)
40 巫俊(ふしゅん)
>>39
雄略期については、この時代のワカタケル大王の銘文入りの鉄剣が南九州と関東の古墳から出土していることで、畿内と九州を包含した政権と判断することができるのではないでしょうか。
九州王朝説の場合は南朝の歴史書に出てくる倭王武は半独立的な九州王朝の仕立てた偽使だという解釈がなされることがあるのかな。
(PC)
41 巫俊(ふしゅん)
あと5世紀の高句麗長寿王が作った好太王碑文によると、高句麗と倭が交戦したとされるのが好太王期の391年あたりでしたか。
(PC)
42 飛燕
すいません、レス遅れて。
巫俊さん>電子テキストまでわざわざすいません。やっぱり、年代ズレてたら、全体的におかしいなぁ、と思うようになりました。色々おかしなことも言ってしまったと思います。すいませんm(__)m

>>34
初めまして。よろしくです。

関さんの考えを無批判に受け入れたのは、きっとそれが視野を広げてくれたからです。今まで倭人伝とか鏡で検証するようなものと思っていたのが、書紀から、しかも今まで焦点をあまり当てていなかった、人物の面から当てたから、とても新鮮に思えました。
色々迷惑かけてしまった上に、少し気苦しくなりましたが、そのかわり色々知った気がします。邪馬台国の問題は、ヤマト建国や五王の面からも考え、それらをひっくるめて結局位置が大事であること。
今更、上記の事を知りました。全然勉強不足です。おまけに姿勢も未熟です。もっと成長してから、出直すことにします。
(SH902iS/FOMA)
43 将劉賢
みなさんはじめまして。
いやー、赤龍さんだあ。懐かしいなあ。乍融どんとの談義がすごかったっす。 就職したのかが心配だが。

赤龍さんは、
あまてらす≠ひみこ という立場をとっていたようないないような。
また来ます。
(SA700iS/FOMA)
44 ストラップ
今、佐賀県の教育委員会が作成した、文化財調査報告書を読んでいるのですが、その注に
井上光貞「国造制の成立」(史学雑誌、第六0編第一一号)
を参考にしている文章があります。
「嶺県は肥前風土記によつて肥前三養基郡上峰村付近とするべきであろう。そしてこのミネ県は、かの[弓爾]奴国に近き字音を有している。」

「有次[弓爾]奴国」について書かれた部分なのですが、この井上光貞という人は支持されている研究者なのですか? それとも県教委が自県に都合の良い論文を参考にしているだけなのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
45 巫俊
『史学雑誌』は日本の歴史学界で最も権威的な定期刊行物(雑誌)のひとつです。と言っても論文を寄稿しているのは人間、結果的に誤った内容であっても刊行する際の判断で収録されます。

欧米では「科学は先代の科学者の誤りを糾すことで発展してきた。しかし長年研究に従事してきた科学者は自分の誤りを指摘されても容易に認めたりはしない」と言われるらしいです。

歴史学は類推を使う学問です。研究者たる者は類推する場面であると判断すれば躊躇なく自説として紹介します。しばしば世間では類推に物証が伴っているように錯覚されていますが、よしんば三国時代の発音でミネ国だったとしても『風土記』の地名とミネ国の関係に因果関係が保証される訳ではないはずです。

もっともらしい類推として支持されているか、風聞すら知らないですけど、その一片の考証でも歴史を考えることの意味を知る価値はあるのではないでしょうか。

ところでもし仮に権威的な説であると回答があったら、どうなさる気だったんですか?歴史は肯定されている際に落とし穴がありますから、怖いものです。
(PC)
46 赤龍
>>44
ちょっと遅めのレスで、もう解決していたらすみません。
まず、私は最新の研究動向までは把握できてないので、そこら辺誤りがあればご容赦を。

井上光貞氏は、邪馬台国九州説の立場にたつ研究者です。
しかし、それ以前の九州説の立場の者の多くが、筑後国山門郡をとっていたのに対して、山門郡と肥後国菊池郡山門郷を含む広い地だと推定しました。
この説からすると「自女王国以北」の21ヶ国の一つの彌(弥)奴国が、三養基郡あたりにあるということは、位置的にも都合がいいことになりますね。
(PC)
47 赤龍
ストラップさんの問題にされてることですが、まずみなさん御存知のように、邪馬台国論争は諸説紛々、現在では近畿説、九州説の二つにほぼ絞られていますが、いまだ決着のつかない問題ですよね。
そして、現状としては、近畿地方、とくに大和を中心とする地域の相次ぐ考古学の発掘成果から、近畿説が優勢になりつつあります。

井上氏の弥奴国比定は、井上氏の九州説を前提としたものであり、それに反する立場からは認められるものではありません。
なので、この弥奴国の比定については、残念ながら学会の定説となるほどのものでなく、あくまで井上説という一仮説の域を出ないものと考えられます。ちなみに、位置の比定について、ほぼ確定してると思われるのは対海国〜奴国までのようです。

個人的な感想としては、弥奴国自体、名前以外に特に記述の無い、ひとまとめにされた諸国の一つであり、その位置を特定するのは困難で、九州説の立場からも確定できるほどのものではないと思えます。井上氏も、音の類似による推定を行なっているのみで、それ以上の強い根拠を持っているわけではないのではと思います。
(PC)
48 赤龍
補足として、井上光貞氏についてですが、もう20年以上前に御亡くなりになられた方ですが、日本古代史の分野の非常に著名な研究者であり、一般向けの概説書『日本の歴史』シリーズの執筆陣にも加わってたりします。
邪馬台国論争の歴史を扱う本なんかでも、必ずと言っていいほど名があがる、邪馬台国研究史の上でも重要な研究者です。
>>47読み返すと、私の稚拙な説明で、適当な仮説立てた人と思われかねないので、井上先生の名誉のための補足でした。
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49 ストラップ
巫俊さん、赤龍さんありがとうございました。

論争がある筈の倭人伝に関する部分で、一つの仮説を、さも仮説では無いかの様な書き方で県の公式な文章が書いていましたので、余程指示されている研究者なのだろうと考えておりました。

やはり>>48の様な事もあり、全面的に採用したのかも知れ無いですね。
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50 邪馬台国
論争にはずみがつきそうです。中古にもプレミアムがつき、なかなか入手困難な書籍の一つだったのですが、このたびミネルヴァ書房より待望の復刻が、「古田武彦・古代史コレクション」と銘打ってスタートしたようです。「初期三部作」と呼ばれている、『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』の三冊がまず復刻されました。次いで『邪馬壹国の論理』『ここに古代王朝ありき』『倭人伝を徹底して読む』の復刻予定とのこと。 特に初期三部作は古田史学のデビュー作と言うだけでなく、その学問の方法を徹底して重視した論証スタイルに古代史学界が受けたインパクトもかなりの強烈なものでした。
皆で論争を盛り上げましょう
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