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ホウ徳について

彼は何故、馬超から離れ曹操に仕える事が出来たのに、劉備には仕える気になれなかったのか…。
初心者(資料等、何も持ち合わせていない)ゆえ、詳しい事は何も知りません。
彼の一生(環境等含め)を詳しく、教えていただけますようよろしくお願いいたします。
m(__)m
(SH901iS/FOMA)
2 寿君
爺さんはじめましてm(__)m
 ホウ悳(演義では徳)は演義では馬超と共に、漢中に落ち延び、馬超が蜀に援軍として赴く時には病気で従軍できなかったって事になってますが、魏書ホウ悳伝には、馬超に同行しなかった理由がはっきり書かれてませんね。
 改めて読んでみて、自分でも驚きました。

 私は彼が好きな武将なんですが、若い頃から、馬騰・馬超に従って各地を転戦し活躍してます。
 極め付けはやはり、樊城で関羽と戦い、額に矢を命中させた事でしょうね。
 
 そうそう、馬超に同行しなかったのは、やはり単純に劉備は地方軍閥なんで、将来性を感じなかったからじゃないでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
3 赤龍
ホウ徳の従兄ホウ柔は劉備に仕えていたようですから、馬岱等と共に馬超にずっと同行してたのでしょうね。
一方、程銀、侯選は馬超と共に漢中に逃げ込んだものの、ホウ徳と同じく張魯降服の際に曹操に降っています。
こうしたことから、漢中に逃げ込んだ馬超軍は、劉備につく者と、漢中に留まる者の二つに分かれたようですね。
彼らが馬超に同行しなかったのは、漢中に残って関中に戻る機会をうかがってたのではとも思えます。
(PC)
4 天草
意外とホウ徳も馬超と同格くらいの群雄だった…なんて可能性はないかな?

つまり関中以西の豪族だったなんて説はどうでしょう?
(PC)
5 赤龍
>>4
私もそれに近いことを考えてました。戦の度に馬騰・馬超親子に従っていることから、さすがに同格だと思えませんが、逆にわざわざ戦の度に「〜につきしたがって」とあることから、直接の部下ではないのかも?と。
つまり、関中の小規模の豪族の一人で、戦などがあるたびに大物である馬騰の軍に参加し活躍していたのではないか。そうした付き合いで、馬超とも密接な関係であるが、あくまで盟主的存在であり、部下ではないので、最後に関中奪回をあきらめた馬超と決裂したのではないか?
郭援を斬った功で中郎将、都亭侯に任じられているのも、馬騰の直接の部下ではないことを示しているのかも?とも思いました。
(PC)
6 天草
そう考えれば、そういう風に考えれば、馬超と袂を分かち、曹操に降ったのも説明がつきますね。

何かそれを証明できる様な記述がないかな?
もしくは断固拒否できる様に記述も募集しときましょ。
(N902i/FOMA)
7 れい
みなさん初めまして。
ホウ徳が豪族だった説ですが私も考えたことがあります。赤龍さんが募集していたこととは違いますが私は劉備と曹操の性格や勢力も関係すると思います。
地方軍閥で「自分がやるよりマシ」という感じで有能な部下に委ねる劉備と「意見は聞くが自分の決定で動く」曹操。馬超は仇討ちももちろんあったけど自分の力を示したかったがために左右に優秀な人材がひしめく魏より蜀を選んだのかなと思います。仇討ちを抜きにしても蜀を選んだのではないでしょうか?
(N900i/FOMA)
8 れい
失礼。天草さんが募集されてましたね。申し訳ないです。
ホウ徳はそういったしがらみが無いので安定性が高く名士がおおい魏に行くことで名士との繋がりを求めて地方の豪族以上になることを望んだのではないでしょうか?ただ曹操の唯材の浸透具合によっては覆りますが。みなさんはいかが思いますか?
(N900i/FOMA)
9 しす
ホウ徳伝で気になるのは一々、「馬騰に従い」「馬超に従い」と記述していることですよね。
確かに主従関係にあったのならばここまで書き記すこともないのかなという気もしてきます。
ただ馬騰が朝廷に召された時の記述からすると、やはり君臣関係なのかなという気もしてくるし…。
(PC)
10 巫俊(ふしゅん)
>>4->>9
ホウトクって、南安郡のカン道県の人だそうです。

『漢書』地理志に天水郡の十六県のひとつとしてカン道があり、

應 劭 曰 : 「 カン, 戎 邑 也 , 音 完 . 」

とありますから、異民族の居住地という意味だったんだと思います。
確認してないんですけど、涼州に多い「某道」という地名は、異民族自治区という意味の名残だったと記憶してるんですが、行政区分の道は異民族自治区という意味なので。

従って、ホウトクも漢化した異民族もしくは、漢族の植民の子孫と考えられ、厳しい現地の環境に適応してきた人たちだったと考えられます。
若くして出仕しているそうですから、豪族の出身の可能性が高いですね。

曹操に仕えたあとのホウトクは、故郷のカン道や封地の関門亭(どこの地名?)、あるいは別のところに家族を残しているとも考えられ、
故郷のためにも家族のためにも、ホウトク個人としては魏に仕えることが得策で大義になると考えたのではないでしょうか。

兄や従兄は蜀にいたようですけど(ホウトク伝)。
子のホウ会も後年魏に仕えていますし。
郷土愛?なところに注目してみたり。
あんまり分からないけど。
(PC)
11 天草
>>10
やや!!
これはおもしろい☆

ホウ徳に異民族の血が流れていたというのは面白い考え方ですね。

兄や従兄と分かれていたのはなぜなんでしょうか?

もしや本気で個人的に五斗米道に心酔し、張魯繋がりで曹操に降伏していた…なんてことだったら面白くないですか?
(PC)
12 巫俊(ふしゅん)
>>11
馬超といっしょに蜀に投降したとか?
別経由で蜀入りしててもいいと思いますけど(未確認)。

これまた証拠のないことですけど、
同じく西方の他の豪族たちの中には羌族と血縁を維持していた人たちがいましたから、史書に登場するような男系の祖先は漢族で占められていたとしても、DNA上は男女均等に遺伝しますから、母系の遺伝子の集積がホウトクのあの身体をつくったのかもしれないなどと考えてみたり。

馬超派の武将ながら、曹操陣営で目立った戦績を残して、魏書の中に代表的な魏将とともに列伝を立てる結果を残したホウトク。
(PC)
13
ホウ徳は演義では関羽と、何合と打ち合いをし続け、関羽の強さや、関羽が死ぬ前に見せ場を作った人物とも言えます。
ただ、正史にはそのような事は見えるのでしょうか?
(EZ)
14 諏訪
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