1 李克用
法正孝直
実は自分正史読んだことないんですが(汗)ショクが負けだすのは法正が死んだ後。法正が死ぬのは二百二十年で、ホウ統は二百十四年ですよね。劉備は二百二十三年に負けますので、この二人の死が関係しているとにらんでいますがどうでしょう?
皆さんの意見待ってます!
皆さんの意見待ってます!
(P900i/FOMA)
2 大伴
議論を円滑に進める為に少し解説を。
「劉備は二百二十三年に負けますので、」
↑この一文は、212年、劉備がオウ亭で呉の陸遜に敗戦し、白帝城に逃げ、翌年病死した事を指しています。
ここでは先ず主に、関羽の死に発する劉備の東征に、関羽の前年に死んだ法正が健在であったならば、影響があったか否かを議論する事としましょう。
「劉備は二百二十三年に負けますので、」
↑この一文は、212年、劉備がオウ亭で呉の陸遜に敗戦し、白帝城に逃げ、翌年病死した事を指しています。
ここでは先ず主に、関羽の死に発する劉備の東征に、関羽の前年に死んだ法正が健在であったならば、影響があったか否かを議論する事としましょう。
(F2102V/FOMA)
3 くわぁまん
当時、軍師で劉備に直言出来たのは孔明だけでしたが、彼の兄は呉に仕官している為スパイ容疑を掛けられるのを危惧し、発言できませんでした。
孔明の他に信頼されていたのが法正と鳳雛先生だったと言うだけで本当に停戦を止められたか解りませんが、利を諭して直言できる人物が居なかったと言うことの表れですな。
孔明の他に信頼されていたのが法正と鳳雛先生だったと言うだけで本当に停戦を止められたか解りませんが、利を諭して直言できる人物が居なかったと言うことの表れですな。
(SH900i/FOMA)
5 大伴
法正という人は、随分と人格的に問題のある人物であった様ですが、その寝返りの功績の為、又益州攻略の功労の為、孔明によって横暴が許されていた様です。しかし彼が許されていたのは、果たしてその為だけでしょうか?私は彼の軍事的才能が後々必要に迫られる事を考えての事でなかったかと、私は考えます。
彼は軍略に明るく、彼が強く漢中侵攻を進言しなければ、劉備はチャンスを逃す筈でした。又戦術にも長じ、漢中をめぐる攻撃の際、退却を踏み切れ無い劉備を無理に退却させています。
孔明でさえ、わかっていながら止められなかったのだから……と私も考えましたが、ひょっとすると、とも考え直しました。法正が軍事に優れていた事は、前線指揮官であった劉備には良くわかったのだと思います。法正がいれば、劉備が別の機会を待った可能性は、確かに考えてもよさそうな気もしますね。
彼は軍略に明るく、彼が強く漢中侵攻を進言しなければ、劉備はチャンスを逃す筈でした。又戦術にも長じ、漢中をめぐる攻撃の際、退却を踏み切れ無い劉備を無理に退却させています。
孔明でさえ、わかっていながら止められなかったのだから……と私も考えましたが、ひょっとすると、とも考え直しました。法正が軍事に優れていた事は、前線指揮官であった劉備には良くわかったのだと思います。法正がいれば、劉備が別の機会を待った可能性は、確かに考えてもよさそうな気もしますね。
(F2102V/FOMA)
6 李克用
彼は魏で言えば賈ク、呉で言えばカン沢並の才能があったと思われます。劉備が成都に入って間もない頃にショク郡の大守になってますので文官のイメージがありますが、彼のことが書かれている書物には謀臣とか策士となっているので軍学とか軍政の才能が豊かだったんだとおもいます。
法正は四十五歳ぐらいに死にますので、もう少し長生きしていたらと言える人物だと思うo(´^`)o
法正は四十五歳ぐらいに死にますので、もう少し長生きしていたらと言える人物だと思うo(´^`)o
(P900i/FOMA)
7 天草
良いスレですね!
私も法正はなかなかの人物でなかったか?と評価してます。
しかし、こと劉備の呉出兵に関しては、やはり止められなかったと思います。
関羽・張飛と並んで、寝食を共にする仲だったあの趙雲の制止でも聞き入れなかったくらいだから、やはり無理だったのではないでしょうか?逆に従軍していたら…と考えると、さらに惜しい早死にですけど。
私も法正はなかなかの人物でなかったか?と評価してます。
しかし、こと劉備の呉出兵に関しては、やはり止められなかったと思います。
関羽・張飛と並んで、寝食を共にする仲だったあの趙雲の制止でも聞き入れなかったくらいだから、やはり無理だったのではないでしょうか?逆に従軍していたら…と考えると、さらに惜しい早死にですけど。
(PC)
8 李克用
法正がいればそれほどひどい負けではなかったのでは?
黄忠は正史では死んでますし馬超も戦いが起こる前後には死にます。それまでショクの軍内で重きをなしていた将がいなくなるのである程度は軍内に動揺があった。そういうときいざ攻めるとなったら軍全体の指揮ができるのは劉備だけなんで(たくさん兵をまともに統率できたのはショクでは後、関羽と馬超ぐらいだと思う)国の守りに信頼できて安心な人をおく必要があった。なので趙雲と魏延は残したのですが、それではなんというかあまり軍歴のない人がたくさん行ってしまった。その辺りを法正がいればなんとかできたと思うのですが(~ヘ~;)
黄忠は正史では死んでますし馬超も戦いが起こる前後には死にます。それまでショクの軍内で重きをなしていた将がいなくなるのである程度は軍内に動揺があった。そういうときいざ攻めるとなったら軍全体の指揮ができるのは劉備だけなんで(たくさん兵をまともに統率できたのはショクでは後、関羽と馬超ぐらいだと思う)国の守りに信頼できて安心な人をおく必要があった。なので趙雲と魏延は残したのですが、それではなんというかあまり軍歴のない人がたくさん行ってしまった。その辺りを法正がいればなんとかできたと思うのですが(~ヘ~;)
(P900i/FOMA)
10 李克用
今までの話と少しかわりますが法正以下二人について私の見解です。
法正、張松、孟達の三人は相当な野心をもっていたと思われるんですよ。自分達の才能(法正は軍略と民政、張松は外交、孟達は軍事だと勝手に思っている)に誇りを持っていた、劉璋ごときでは能力をフルに扱えないし益州はこのままでは攻めとられる。だから自分達を高く買ってくれるところを探した。
結局劉備に落ち着きますが、魏に最初張松がいくから曹操のほうがよかったんだと思います。その時の益州は疲弊していた(たぶん)ので民政にも実績(劉備は民に慕われていたとはいえはっきりとした治績はみせていない)があり降伏したものでも重用してくれる曹操を荊州の時みたいに呼びたかった(三人とも益州出身なので無血で益州を獲らす事で民を守りたかったのではないか?)
曹操と張松は相性が悪かったみたいなので、劉備のところへ行ったらよし行こうとなった(劉備は益州が喉から手が出るほどほしかった。逆に曹操は治めがたいと思っていたのではないか?)。
劉備はホウ統や法正のゆうことだけ聞いていればあるいは無血だったかも。
法正は病死ですが後の二人は己の才覚による死といっても過言ではないかもしれません。三人ともずっと生きていればどうなったのか?
変な文になりましたが、ちょっと三人を美化してとらえているので、話し半分にみてください(・ω・)ノ
法正、張松、孟達の三人は相当な野心をもっていたと思われるんですよ。自分達の才能(法正は軍略と民政、張松は外交、孟達は軍事だと勝手に思っている)に誇りを持っていた、劉璋ごときでは能力をフルに扱えないし益州はこのままでは攻めとられる。だから自分達を高く買ってくれるところを探した。
結局劉備に落ち着きますが、魏に最初張松がいくから曹操のほうがよかったんだと思います。その時の益州は疲弊していた(たぶん)ので民政にも実績(劉備は民に慕われていたとはいえはっきりとした治績はみせていない)があり降伏したものでも重用してくれる曹操を荊州の時みたいに呼びたかった(三人とも益州出身なので無血で益州を獲らす事で民を守りたかったのではないか?)
曹操と張松は相性が悪かったみたいなので、劉備のところへ行ったらよし行こうとなった(劉備は益州が喉から手が出るほどほしかった。逆に曹操は治めがたいと思っていたのではないか?)。
劉備はホウ統や法正のゆうことだけ聞いていればあるいは無血だったかも。
法正は病死ですが後の二人は己の才覚による死といっても過言ではないかもしれません。三人ともずっと生きていればどうなったのか?
変な文になりましたが、ちょっと三人を美化してとらえているので、話し半分にみてください(・ω・)ノ
(P900i/FOMA)
11 エイ
恐縮ながら、ツッコミから失礼いたします。
蜀書・及び注に基づけば、法孝直は扶風郡の出身。
つまり雍州人(後漢では涼州人)です。
孟子敬も同郷とあります。
また、法真は玄徳先生と友人から慕われましたが、字は『高卿』とあります。
蜀書・及び注に基づけば、法孝直は扶風郡の出身。
つまり雍州人(後漢では涼州人)です。
孟子敬も同郷とあります。
また、法真は玄徳先生と友人から慕われましたが、字は『高卿』とあります。
(P2102V/FOMA)
12 エイ
で、私は思いまするに法孝直が存命であったとしても
俗に云う『夷陵の戦い』は避けられなかったのではないかと考えます。
以下の理由で
・関雲長の死からは年数の開きがあり、一時の感情以外に東征を意図したのではないか
・私見ですが、それには荊北を押さえて中原への足掛かりにしたかったのではないか
・『群臣の多くが反対したが全く聞き入れなかった』とあるので、いくら法孝直が特別であったとしても、これに関しては同じ扱いを受けたのではないだろうか
と、考える次第です。
但し、従軍していれば、やはりあれ程の大敗は回避できたかも知れないとは思います。
俗に云う『夷陵の戦い』は避けられなかったのではないかと考えます。
以下の理由で
・関雲長の死からは年数の開きがあり、一時の感情以外に東征を意図したのではないか
・私見ですが、それには荊北を押さえて中原への足掛かりにしたかったのではないか
・『群臣の多くが反対したが全く聞き入れなかった』とあるので、いくら法孝直が特別であったとしても、これに関しては同じ扱いを受けたのではないだろうか
と、考える次第です。
但し、従軍していれば、やはりあれ程の大敗は回避できたかも知れないとは思います。
(P2102V/FOMA)
14 李克用
エイさんの意見はごもっともだと思います。
関羽の死は攻める口実だったと私は思うのです。劉備と関羽と張飛が仲良かったにしても義兄弟とは私は思ってない(志を同じくした盟友かな)。復讐するにしても間を置きすぎなのでは?と思わざるをえません(復讐しようとする人の気持ちはわかりませんが)。
ショクは漢復興のためといって戦い続けますがその戦いは反面、領土欲にしかみえないのです(法正は野心があったなどと前ので書きましたが劉備の比ではありませんね。彼は若いときからずっと成り上がりたいとか偉くなると思い続けていたとすると死ぬ間際まで天下を望み続けたことになりますので空恐ろしい)。
もちろん徳やら他人を引き付ける魅力があったのでしょうが、彼の怨念はショクそのものとなり多数の人を殺してしまうので彼の存在が唐にいたるまでの混乱を招いたと思う(劉備がいなければ魏か呉の天下となっていただろうとして百年は平和になっていただろう)。
劉備ファンの方ごめんなさいm(_ _)m悪く言いすぎました。蒼天航路の劉備は好きですよ。ほんとに\(゜o゜;)/
関羽の死は攻める口実だったと私は思うのです。劉備と関羽と張飛が仲良かったにしても義兄弟とは私は思ってない(志を同じくした盟友かな)。復讐するにしても間を置きすぎなのでは?と思わざるをえません(復讐しようとする人の気持ちはわかりませんが)。
ショクは漢復興のためといって戦い続けますがその戦いは反面、領土欲にしかみえないのです(法正は野心があったなどと前ので書きましたが劉備の比ではありませんね。彼は若いときからずっと成り上がりたいとか偉くなると思い続けていたとすると死ぬ間際まで天下を望み続けたことになりますので空恐ろしい)。
もちろん徳やら他人を引き付ける魅力があったのでしょうが、彼の怨念はショクそのものとなり多数の人を殺してしまうので彼の存在が唐にいたるまでの混乱を招いたと思う(劉備がいなければ魏か呉の天下となっていただろうとして百年は平和になっていただろう)。
劉備ファンの方ごめんなさいm(_ _)m悪く言いすぎました。蒼天航路の劉備は好きですよ。ほんとに\(゜o゜;)/
(P900i/FOMA)
15 天草
夷陵の戦いに関する考え方については、エイ殿に同調します。
あと、関羽の死から劉備の出兵までの時間差については、こう予測します。
劉備は漢中を奪取した後、219年、漢中王になりました。魏延を漢中に残し、自分は成都に戻って、国の整備をしようとしていた時に関羽の訃報が飛び込んできます。
翌220年に曹操が没すると、曹ヒがついに皇帝に就きます。そして221年に、漢王室を自らの即位で復興させました。これが4月。
同年7月に反対を押し切って出兵してます。
つまり…関羽の仇を取るべく考えはあったが、曹操が死に曹ヒが即位した為、漢王室の建て直しを優先させ、その上で出兵したものと思われます。タイミングを見計らったかのように、孫権から和睦の使者が現れているのを考えると、タイミング的にも、周りの想像通りの出兵だった事が、考えられます。
あと、関羽の死から劉備の出兵までの時間差については、こう予測します。
劉備は漢中を奪取した後、219年、漢中王になりました。魏延を漢中に残し、自分は成都に戻って、国の整備をしようとしていた時に関羽の訃報が飛び込んできます。
翌220年に曹操が没すると、曹ヒがついに皇帝に就きます。そして221年に、漢王室を自らの即位で復興させました。これが4月。
同年7月に反対を押し切って出兵してます。
つまり…関羽の仇を取るべく考えはあったが、曹操が死に曹ヒが即位した為、漢王室の建て直しを優先させ、その上で出兵したものと思われます。タイミングを見計らったかのように、孫権から和睦の使者が現れているのを考えると、タイミング的にも、周りの想像通りの出兵だった事が、考えられます。
(PC)
16 李克用
いつのまにか夷陵の話になってますが(苦笑)趙雲はなぜ残されたのか?そこらへんが私はわからないのですが、反対したからでしょうか?後、他にも良い将(李厳や陳到とか)がいたのに連れていかれなかったのも疑問(・・?)
(P900i/FOMA)
17 天草
ところで諸葛亮は夷陵に出兵する劉備を見て
「法正さえ生きていれば…」
とこのスレの皆さんの意見と同じような事を言ってますが、実は…
『諸葛亮は法正と個人的な好みは合わなかった』
と書かれています。
しかし、国事に関しては必ず法正の意見を求め、その度に彼の非凡な発想に敬服したとも言われてます。
こういう微妙な関係って、諸葛亮には多いですよね(笑)
やはり法正の早死は蜀漢にとっては大きな痛手だったようですね。
「法正さえ生きていれば…」
とこのスレの皆さんの意見と同じような事を言ってますが、実は…
『諸葛亮は法正と個人的な好みは合わなかった』
と書かれています。
しかし、国事に関しては必ず法正の意見を求め、その度に彼の非凡な発想に敬服したとも言われてます。
こういう微妙な関係って、諸葛亮には多いですよね(笑)
やはり法正の早死は蜀漢にとっては大きな痛手だったようですね。
(PC)
法正について能力の評価の元に、法正さえ生きていれば・・・が出てきているのでちょっと否定意見を♪
法正は益州の現地勢力を代表する所があったと思います。だからこそ諸葛亮もその意見を無視できず、また劉備も押さえられた可能性があるのではないかと。つまり劉備を押さえる力の元は、法正個人の能力の他に、地盤である益州の豪族の代表意見としての力があったのではないかな〜なんて。
法正は益州の現地勢力を代表する所があったと思います。だからこそ諸葛亮もその意見を無視できず、また劉備も押さえられた可能性があるのではないかと。つまり劉備を押さえる力の元は、法正個人の能力の他に、地盤である益州の豪族の代表意見としての力があったのではないかな〜なんて。
(PC)
22 天草
う〜ん。。。少し違うような気がします。
法正は司隷州フ風軍の出身で、飢饉を避けて、孟達と共に蜀に移ったと法正伝にあります。しかも、同郷の食客連中に嫌われていた様な事まで書かれてます。
廖立スレにどなたかが書いてましたが、蜀って本当に変わり者が多かったのかな?(汗)
法正は司隷州フ風軍の出身で、飢饉を避けて、孟達と共に蜀に移ったと法正伝にあります。しかも、同郷の食客連中に嫌われていた様な事まで書かれてます。
廖立スレにどなたかが書いてましたが、蜀って本当に変わり者が多かったのかな?(汗)
(PC)
23 しす
法正って正史の記述見てる限りではちょっと人格に難ありですよね。
実際劉備入蜀後に過去に怨みのあった人々を些細な罪にかこつけて処刑しまくった人ですし。
およそ人心収攬できるような人物ではなかったと思われます。
それを考えると、そこまでメチャクチャな人物なのに、あそこまで重要され、かつ諸葛亮ですらそれを諫止するどころか何も言えなかったというのは、相当に才略に秀でた人物であったということの証拠ではないでしょうか。
しかしその反面彼が死んだ時、劉備は何日も涙を流して泣き、何日ものあいだ涙を流して泣き、彼に翼侯と諡した…とあります。
相当信頼されていたのでしょう。
ただ自分も皆さんの意見と同様、出兵そのものは阻止できなかったと思います。
劉備の東征はかなり入念に準備が進められており、どう考えても一時の感情の高ぶりで出征したとは思えません。
それを考えると、これは劉備の戦略の一環であり、そこで法正が果たす役割はやはり「理想的な勝利」だったのではないでしょうか?
実際劉備入蜀後に過去に怨みのあった人々を些細な罪にかこつけて処刑しまくった人ですし。
およそ人心収攬できるような人物ではなかったと思われます。
それを考えると、そこまでメチャクチャな人物なのに、あそこまで重要され、かつ諸葛亮ですらそれを諫止するどころか何も言えなかったというのは、相当に才略に秀でた人物であったということの証拠ではないでしょうか。
しかしその反面彼が死んだ時、劉備は何日も涙を流して泣き、何日ものあいだ涙を流して泣き、彼に翼侯と諡した…とあります。
相当信頼されていたのでしょう。
ただ自分も皆さんの意見と同様、出兵そのものは阻止できなかったと思います。
劉備の東征はかなり入念に準備が進められており、どう考えても一時の感情の高ぶりで出征したとは思えません。
それを考えると、これは劉備の戦略の一環であり、そこで法正が果たす役割はやはり「理想的な勝利」だったのではないでしょうか?
(PC)
会社からだと資料不足で知識の無さが露呈(^o^;
といいつつ今日も会社から♪
法正は張松と組んで劉章を劉備に挿げ替える計画をしていたイメージだったので・・・しかし法正も孟達も流れ者、もちろん劉焉も、となると、益州は劉備が入る以前から各地から人が流れていたのかもしれませんね☆
といいつつ今日も会社から♪
法正は張松と組んで劉章を劉備に挿げ替える計画をしていたイメージだったので・・・しかし法正も孟達も流れ者、もちろん劉焉も、となると、益州は劉備が入る以前から各地から人が流れていたのかもしれませんね☆
(PC)
25 天草
確か益州方面は流刑人などが行かされる地方じゃなかったですかね?あれは交州方面だったかな?
法正スレにスレ違いかも知れませんが、蜀の武将には派閥があったのでは…という気がしますがいかがでしょう?
荊州に入る前からの古参武将(関羽・張飛ら)、荊州から入蜀時に配下となった武将(諸葛亮・馬良ら)、益州の豪族・名士達(李厳・呉懿ら)という感じだと、勝手に予想してます。もちろん個人的な繋がりはあったでしょうけど…どう思います?
法正スレにスレ違いかも知れませんが、蜀の武将には派閥があったのでは…という気がしますがいかがでしょう?
荊州に入る前からの古参武将(関羽・張飛ら)、荊州から入蜀時に配下となった武将(諸葛亮・馬良ら)、益州の豪族・名士達(李厳・呉懿ら)という感じだと、勝手に予想してます。もちろん個人的な繋がりはあったでしょうけど…どう思います?
(PC)
26 李克用
蜀は、一番派閥がなかったと思うんですが、やっぱりあったのかな?思い浮かぶのは、武官派と文官派の対立だけですが。
魏は、派閥がいっぱいあっていろいろな派閥の攻めぎあいがありますね。
呉は、武官と文官の対立が大きかったのかな?張昭派と周瑜系の都督派あたりの対立ですかね。
魏は、派閥がいっぱいあっていろいろな派閥の攻めぎあいがありますね。
呉は、武官と文官の対立が大きかったのかな?張昭派と周瑜系の都督派あたりの対立ですかね。
(P900i/FOMA)
27 大伴
悲しい事に、人の集まるところに派閥はつきものですね。
劉備配下(蜀)にも大きく分けて四つ程のグループがありそうです。
・挙兵時グループ(劉備の個人的な魅力に従った者。孔明もここか?)
・荊州グループ(霍峻に従った人々)
・益州グループ(劉璋から鞍替えした人々)
・孔明登用グループ(新しい時代の人々)
それぞれのグループには、ある程度の派閥意識があったと思います。特に益州グループは、簡単に劉備政権を受け入れた豪族中心ですからね。忠誠という点で、他のグループとは考え方が大きく異なるでしょう。
劉備配下(蜀)にも大きく分けて四つ程のグループがありそうです。
・挙兵時グループ(劉備の個人的な魅力に従った者。孔明もここか?)
・荊州グループ(霍峻に従った人々)
・益州グループ(劉璋から鞍替えした人々)
・孔明登用グループ(新しい時代の人々)
それぞれのグループには、ある程度の派閥意識があったと思います。特に益州グループは、簡単に劉備政権を受け入れた豪族中心ですからね。忠誠という点で、他のグループとは考え方が大きく異なるでしょう。
(F2102V/FOMA)
30 ユウキ
法正って言ったらやっぱり黄忠と組んで夏侯淵を斬った事でしょうか後はショク科を制定したメンバーでもありますねただ劉備の配下になる以前はどんな活躍があったのかはあまり知られてませんよね人格の問題は昔からあったようですが…
(P900i/FOMA)
31 天草
正史の記載が正しければ、法正は建安年間(196年〜220年)の初めに劉章の配下になってます。劉章の配下とわざわざ書いてるという事は劉エンが死んだあとでしょうから、200年前後でしょう。法正はこの時20代中盤です。この後、曹操の下に張松が訪れ、劉備の使者として再度張松を推薦するまで、彼は不遇の時間を過ごした事が書かれてます。言わずと知れた性格の問題です。劉章伝では劉備の下に張松が伺うのは211年以降ですから、少なくともこの時法正は35歳以上です。
ちなみに劉備が入蜀したのが214年で、法正は220年に亡くなってますから、僅か6年前後しか活躍してない事になります。
この短い活躍を皆さんはどう思いますか?
たった6年で伝が立つ程、凄い人物?
ちなみに劉備が入蜀したのが214年で、法正は220年に亡くなってますから、僅か6年前後しか活躍してない事になります。
この短い活躍を皆さんはどう思いますか?
たった6年で伝が立つ程、凄い人物?
(PC)
33 たけがみ◆FiJ8
皆さん初めまして。
法正の伝がたったのはやはり漢中をとる進言が大きかったと思います。この後劉備は漢中王になりますし。程イク、郭嘉と並べられるからには、相当知略があったんですね。法正は漢の劉邦を支えた陳平と重なってみえます。
法正の伝がたったのはやはり漢中をとる進言が大きかったと思います。この後劉備は漢中王になりますし。程イク、郭嘉と並べられるからには、相当知略があったんですね。法正は漢の劉邦を支えた陳平と重なってみえます。
(N900i/FOMA)
34 ユウキ
6年間だけの活躍…でも浜崎あゆみもデビュー約6年…相当な活躍すれば伝がたつかなぁ
というか孔明は遠征に本心から反対してたんですかね?
田舎のショクにはケイシュウは超重要拠点ですよねだから関羽を置いた止められなかったというかむしろ呉との関係が崩れてる今こそ攻めるべき今取り返さないとチャンスはなくなりますしあえて強くは反対してなかったんじゃないかと和睦してから呉を攻めたんじゃショクの存在意味ないし打倒魏がショクの目標ですからね
呉を攻めて負ける確立の方が少なかったんじゃ…リョモウは死んでたし、陸遜だって大抜擢がたまたま成功しただけだし元領地で地理もわかってるし法正が生きてればってコメントはリュウビの戦争下手を顕著に表してるんですかね
というか孔明は遠征に本心から反対してたんですかね?
田舎のショクにはケイシュウは超重要拠点ですよねだから関羽を置いた止められなかったというかむしろ呉との関係が崩れてる今こそ攻めるべき今取り返さないとチャンスはなくなりますしあえて強くは反対してなかったんじゃないかと和睦してから呉を攻めたんじゃショクの存在意味ないし打倒魏がショクの目標ですからね
呉を攻めて負ける確立の方が少なかったんじゃ…リョモウは死んでたし、陸遜だって大抜擢がたまたま成功しただけだし元領地で地理もわかってるし法正が生きてればってコメントはリュウビの戦争下手を顕著に表してるんですかね
(P900i/FOMA)
35 ユウキ
↑つまり漢中取りに貢献したのは紛れもない事実ですけど多くの人が法正を高く評価してるのは孔明の『法正が生きていれば…』からきてる事が大きいと思うんですよそれを言わす原因になったリュウビは弱かったんじゃ…君主がソウソウだったなら『法正が生きてれば…』って言う孔明のコメントは無かったのでは過大評価されてるんじゃって僕は思います
(P900i/FOMA)
36 天草
ユウキ殿>>>34はイリョウの戦いの事ですね!それはなかなか斬新な意見で面白いですよね。
私はその辺こそ、いつも疑問に思っている、「天下三分の計の終焉」に繋がる謎だと思ってるんですよ。
孔明が本当に統一や魏打倒まで、考えていたか?
三分して終わりじゃなかったのか?
この辺は新たな議題として、明日にでも新スレを立てるとしましょう!
確かに法正の後の評価を考えるのに、孔明のその一言は大きいですよね!
だからと言って、過大評価なのかは…?
私はその辺こそ、いつも疑問に思っている、「天下三分の計の終焉」に繋がる謎だと思ってるんですよ。
孔明が本当に統一や魏打倒まで、考えていたか?
三分して終わりじゃなかったのか?
この辺は新たな議題として、明日にでも新スレを立てるとしましょう!
確かに法正の後の評価を考えるのに、孔明のその一言は大きいですよね!
だからと言って、過大評価なのかは…?
(PC)
37 赤龍
はじめまして。亮の「法正が生きていれば…」発言、私も亮の荊州への未練から積極的反対ができなかったと考えてますが、加えて、劉備存命中の亮は内政担当。軍事・外征に関わるのは備死後の事です。漢中戦を見るように当時は軍事は法正。戦争関係では法正の方が信頼され、亮は経験不足だったからと推測します。
(J-SA05)
38 たろう
ホウトウと法正二人がいきてれば…少し話が変わりますが自分はこの時点でショク滅亡が決まったと思います
もし生きてればケイシュウの地理にも詳しいホウトウをケイシュウ方面。関羽の死を防ぎよってチョウヒ、劉ビの死も。劉ビがいれば国の腐敗はなくさらに呉との関係も良好のまま勢力拡大もできたかと。呉のリョモウ、リクソンを中心にギに攻撃。
漢中方面に法正、チョウヒ、ギエン。ギエンは北伐の際長安強襲を提言したが亮に嫌われていたため補給困難などを理由に却下された。しかしギエンは長安の人材構成、食糧貯蔵庫の位置まで謀報していました。しかも天水や安定郡はすぐショクに降伏していた。法正ならギエンに長安強襲をさせていたかと。さらにエキシュウに亮。補給内政などがかなり充実したでしょう。
西(ホウセイ、ギエン、チョウヒ)、南(ホウトウ、カンウ)、東(リョモウ、リクソン、カンネイ等々)三面からの総攻撃。考えるだけでとても楽しみです。どこにも名軍師がいて…やはりホウセイ、ホウトウ二人が死んでいなければ…書いてるうちに興奮してしまい超長文なってしまいました。すんません。
もし生きてればケイシュウの地理にも詳しいホウトウをケイシュウ方面。関羽の死を防ぎよってチョウヒ、劉ビの死も。劉ビがいれば国の腐敗はなくさらに呉との関係も良好のまま勢力拡大もできたかと。呉のリョモウ、リクソンを中心にギに攻撃。
漢中方面に法正、チョウヒ、ギエン。ギエンは北伐の際長安強襲を提言したが亮に嫌われていたため補給困難などを理由に却下された。しかしギエンは長安の人材構成、食糧貯蔵庫の位置まで謀報していました。しかも天水や安定郡はすぐショクに降伏していた。法正ならギエンに長安強襲をさせていたかと。さらにエキシュウに亮。補給内政などがかなり充実したでしょう。
西(ホウセイ、ギエン、チョウヒ)、南(ホウトウ、カンウ)、東(リョモウ、リクソン、カンネイ等々)三面からの総攻撃。考えるだけでとても楽しみです。どこにも名軍師がいて…やはりホウセイ、ホウトウ二人が死んでいなければ…書いてるうちに興奮してしまい超長文なってしまいました。すんません。
(W21SA/au)
41 ぺろ
>>30でも挙がってますが法正は劉備の入ショク以前は全く軍功がなかったのでしょうか?だとしても入ショクの手引き等の功績があったとしても、漢中侵攻戦での大抜擢は異例だと思いますけど、その辺どうなんでしょうか?
(W21H/au)
42 ピヨひこ
ちょっと法正を語りたくなったので、皆さんよろしくお願いしますm(_ _)m
確かに入蜀して、法正の戦術(指揮、戦)を劉備が見たわけではないのに漢中侵攻を進言しただけで相当の評価+参謀という優遇をされていますね(^_^;)
「進言したからには何か勝機があるのか?」と劉備が考えたのですかね?
確かに入蜀して、法正の戦術(指揮、戦)を劉備が見たわけではないのに漢中侵攻を進言しただけで相当の評価+参謀という優遇をされていますね(^_^;)
「進言したからには何か勝機があるのか?」と劉備が考えたのですかね?
(W21SA/au)
44 朱家
劉備が異様に気に入ったのは確かだと思いますが…
漢中侵攻の最初の立案者は黄権です。劉備は荊州問題で、呉と睨めっこしてたので、黄権に命じますが、張魯が降伏して作戦が破綻します。黄権、法正に限らず、益州派は漢中の重要性を話してたでしょう。そもそも劉備が入蜀できたのも、張魯問題ですから。法正とは益州侵攻で、多くの時間を話し合ったと思いますし、才を認めるのも難しくないでしょう。
最初に黄権が立案したとおりに漢中侵攻が進んだとの事ですし、法正だけの考えではなかったのでしょう。呉と睨めっこなどせず、漢中を取っていれば、かなり歴史が変わったと思いますね。
漢中侵攻の最初の立案者は黄権です。劉備は荊州問題で、呉と睨めっこしてたので、黄権に命じますが、張魯が降伏して作戦が破綻します。黄権、法正に限らず、益州派は漢中の重要性を話してたでしょう。そもそも劉備が入蜀できたのも、張魯問題ですから。法正とは益州侵攻で、多くの時間を話し合ったと思いますし、才を認めるのも難しくないでしょう。
最初に黄権が立案したとおりに漢中侵攻が進んだとの事ですし、法正だけの考えではなかったのでしょう。呉と睨めっこなどせず、漢中を取っていれば、かなり歴史が変わったと思いますね。
(EZ)
46 天草
法正の一番の見せ場は漢中侵攻戦ですが、彼が従軍した記録が残っていても、もしかしたら彼が軍師として淵を討ち取らせる策を献策したという記録はないのではないでしょうか?
ちょっと気になりました。
ちょっと気になりました。
(PC)
48 天草
もしかすると、我々が思っている様に軍師と呼ばれる誰かが策を立て、各将軍がそれを実行するという、綺麗なイメージではなく、単純にみんなで案を出しあい、臨機応変に対応していたのかも知れませんね(;^_^A
ちなみにこの漢中の戦いに関しては、黄忠・夏侯淵の記述も見てみましたが、いづれも法正の策で戦をしたという記述はない様に思えます。
私を含め、夢を壊す様ですが(;^_^Aもしかすると、法正も戦略家というより政治家だったのかも…という気さえしてきました。
ちなみにこの漢中の戦いに関しては、黄忠・夏侯淵の記述も見てみましたが、いづれも法正の策で戦をしたという記述はない様に思えます。
私を含め、夢を壊す様ですが(;^_^Aもしかすると、法正も戦略家というより政治家だったのかも…という気さえしてきました。
(N900i/FOMA)
49 赤龍
法正伝を見ると、漢中侵攻を進言し、自身も従軍。そして、夏侯淵との戦闘で、法正が「撃つべきです」といい、黄忠に攻撃させたことが記されています。
また、曹操が法正の献策を聞き知った、ということも書かれています。
やはり、法正は漢中戦の軍師的立場として策を建ててたと考えていいんじゃないでしょうか。
また、曹操が法正の献策を聞き知った、ということも書かれています。
やはり、法正は漢中戦の軍師的立場として策を建ててたと考えていいんじゃないでしょうか。
(PC)
50 ピヨひこ
定軍山の戦いを見たら、法正は定軍山頂上から白旗をふり、山を登って来た夏候淵の攻勢が弱まったのを見て、赤旗に変え、それを合図に黄忠が撃って出て淵を斬った…
僕が見た記述はこれなんですが、これは創作だとでも言うんですか?
皆さん深く考えすぎでは?
生意気失礼m(_ _)m
僕が見た記述はこれなんですが、これは創作だとでも言うんですか?
皆さん深く考えすぎでは?
生意気失礼m(_ _)m
(W21SA/au)
51 朱家
それは演義?の創作ですね。
私は法正信者ですが、劉備の軍事才能を高く評価しています。軍の方向性は政治能力を必要としますし、戦場でも話し合いによって決められるでしょう。法正の大きな役割は、策の立案ではなく、状況を判断し、理論的な『行け』『行くな』だと思います。これは法正だけではなく、参謀の基本だと考えてます。
私は法正信者ですが、劉備の軍事才能を高く評価しています。軍の方向性は政治能力を必要としますし、戦場でも話し合いによって決められるでしょう。法正の大きな役割は、策の立案ではなく、状況を判断し、理論的な『行け』『行くな』だと思います。これは法正だけではなく、参謀の基本だと考えてます。
(EZ)
52 天草
>>49
何せ漢中戦でしか従軍した記録がない(てか、元々劉備配下でいた期間が短いのか?)ので、本当は政治家ではなかったのか?と疑ってしまいます。
劉璋に送った降伏を勧める手紙なんか、説得力のある代物ですもんね。
>>50
それは何が出典元でしょうか?
吉川三国志はもう忘れましたが(汗)そんなのでした?
戦場での法正は従軍したという記録しかないはずです。・
>>51
参謀の役割という話になるとスレ違いになりそうですが、結局そこですよね?
戦における細かい立案・支持は演義や小説のように誰か特定の人物が立てていた訳ではなく、皆で話し合って決めていたか、TOPの独断だった可能性が高いのかも知れませんね。
何せ漢中戦でしか従軍した記録がない(てか、元々劉備配下でいた期間が短いのか?)ので、本当は政治家ではなかったのか?と疑ってしまいます。
劉璋に送った降伏を勧める手紙なんか、説得力のある代物ですもんね。
>>50
それは何が出典元でしょうか?
吉川三国志はもう忘れましたが(汗)そんなのでした?
戦場での法正は従軍したという記録しかないはずです。・
>>51
参謀の役割という話になるとスレ違いになりそうですが、結局そこですよね?
戦における細かい立案・支持は演義や小説のように誰か特定の人物が立てていた訳ではなく、皆で話し合って決めていたか、TOPの独断だった可能性が高いのかも知れませんね。
(PC)
54 ぺろ
>>53横山三国志に書いてあったということは吉川三国志にも書いてありますね!!>>52天草さんは法正を政治家として捕らえていますが彼は正史で奇策等を評価されていますよね、さらに魏でいう郭嘉、程イクと評価されてますよね??彼らは謀臣なのでやはり戦略家、謀臣として捕らえたほうが適切ではと思いますが?
(PC)
56 ぺろ
>>55郭嘉、程イクは確かに性格でしたね笑ちなみに国事においての奇策とは何なのでしょうか??また政策においてなのか、戦略においてなのか?ただ政策において、となると謎か深まるばかりですが...
(W21H/au)