1 天草
河北統一戦
実録シリーズに新シリーズがスタートしたのに気がついてました?(笑)
今回は官渡の前に遡って、界橋・易京の戦いをメインにしてます!
さて、まずは公孫賛の話からスタートしましたが、彼の評価は人によってまちまちです。皆さんはどういう評価してますか?
今回は官渡の前に遡って、界橋・易京の戦いをメインにしてます!
さて、まずは公孫賛の話からスタートしましたが、彼の評価は人によってまちまちです。皆さんはどういう評価してますか?
(PC)
3 天草
利用された感が大きいですよね。
劉備に慕われた…という事でイメージ的には良いイメージなんですが、略奪やよくない政治など、決して良将と呼べるような行いは少なくないんです(汗)
侠人だったみたいなんですけどな。。。
最後の場面もどうなの?って感じです。そろそろシリーズ内でも出てくるかな?
劉備に慕われた…という事でイメージ的には良いイメージなんですが、略奪やよくない政治など、決して良将と呼べるような行いは少なくないんです(汗)
侠人だったみたいなんですけどな。。。
最後の場面もどうなの?って感じです。そろそろシリーズ内でも出てくるかな?
(PC)
6 独眼龍李克用
公孫サンは騎兵を主力にしてましたが騎兵では、敵を完全に倒すことはできないんですよ。城攻めではまったく役に立ちませんし。そもそも三国時代でよく騎兵をつかいだしたわけですから戦術はまだ研究され尽くしてないんです。この時代最も騎兵の扱いがうまいのは曹操です。曹操の使い方はここぞというときの奇襲や機動力を生かした遊撃部隊で主力は歩兵です。
公孫サンは異民族との戦いでは強いですが、中華のなかに入れば昔から対騎兵戦術が研究されているのをよくわかっていなかったのでは?
あまり公孫サンのことに詳しくないので騎兵に限って言えばです。
公孫サンは異民族との戦いでは強いですが、中華のなかに入れば昔から対騎兵戦術が研究されているのをよくわかっていなかったのでは?
あまり公孫サンのことに詳しくないので騎兵に限って言えばです。
(P900i/FOMA)
7 天草
ひとまず、界橋・易京の戦いを終わらせました。公孫賛の最後は、とうてい納得のいかない終わり方だと感じましたが、皆さんはどうでしょう?
妻子まで皆殺しにしなければならないほど、この時代の戦の後は、敗者側は冷遇されたと言う事でしょうか?それとも公孫賛の単なる我儘?
いずれにしても名声の高い袁紹なら、妻子まで皆殺しにするような真似はしなかったのでは?と私は考えます。
公孫賛の評価…改めて、どう思いますか?
妻子まで皆殺しにしなければならないほど、この時代の戦の後は、敗者側は冷遇されたと言う事でしょうか?それとも公孫賛の単なる我儘?
いずれにしても名声の高い袁紹なら、妻子まで皆殺しにするような真似はしなかったのでは?と私は考えます。
公孫賛の評価…改めて、どう思いますか?
(PC)
8 独眼龍李克用
皆殺しには眉をひそめますが、あのまま袁紹に捕まっても冷遇されたでしょう。袁紹みたいなのは、何をするかわからないところがあるので。
公孫サンが本当に家族のことを思うなら武人らしく自害しないで、袁紹に降って自分の命と引き替えに家族の命を保障してもらうのが、よかったでしょう。
公孫サンが本当に家族のことを思うなら武人らしく自害しないで、袁紹に降って自分の命と引き替えに家族の命を保障してもらうのが、よかったでしょう。
(P900i/FOMA)
13 天草
公孫賛の祖先ですか?
へぇ〜!!
一応昨日で完結させました。最期は少しとりとめのない内容になってしまいましたが…(汗)
今後は実録シリーズは月一回の更改にしようと思います。一日から十日の間で。
界橋・易京の戦い・袁術の皇帝問題。
何か意見あったらお願いします!
へぇ〜!!
一応昨日で完結させました。最期は少しとりとめのない内容になってしまいましたが…(汗)
今後は実録シリーズは月一回の更改にしようと思います。一日から十日の間で。
界橋・易京の戦い・袁術の皇帝問題。
何か意見あったらお願いします!
(PC)
14 独眼龍李克用
公孫サンの先祖ってあいつだったんですか!「白馬非馬」を説いて、ある意味世を騒がせた詭弁家。
知らない人のために説明。「白い馬が馬なら黒い馬も馬だ。なら黒と白は一緒になる。よって白い馬は馬ではない。」と言って白馬は馬じゃないといってます。後に韓非子が、たぶんかなり呆れていたんだろうと思うけど、税関で税をとられないなら馬でなくて、とられるなら馬といってます。あっけない幕切れ。
ちなみに孟子も似たようなこといってます。
知らない人のために説明。「白い馬が馬なら黒い馬も馬だ。なら黒と白は一緒になる。よって白い馬は馬ではない。」と言って白馬は馬じゃないといってます。後に韓非子が、たぶんかなり呆れていたんだろうと思うけど、税関で税をとられないなら馬でなくて、とられるなら馬といってます。あっけない幕切れ。
ちなみに孟子も似たようなこといってます。
(P900i/FOMA)
16 趙
稷下の学士彼が祖先ですか。ってそもそも彼はどこの公孫なんでしょうかね?
おまけ
春秋時代の陳はキ姓で侯爵の爵位をもつ家柄で胡公満を祖とし、遠祖は帝舜であるとされています。
おまけ
春秋時代の陳はキ姓で侯爵の爵位をもつ家柄で胡公満を祖とし、遠祖は帝舜であるとされています。
(N900i/FOMA)
20 無問題
ちなみに、彼は孫堅とともに戦ってますが戦死してますよね?確か誰と戦った時ですかね?この事を聞いた公孫サンは激怒し、袁紹に対して本格的な軍事行動をおこしてます。彼の死が界橋の戦いの原因になったわけですね。
(W32SA/au)
23 無問題
飛燕さん・自分もその時期だったと思います。ただ、袁紹が派遣してきた誰かだったような…。この戦い、孫堅伝と公孫サン伝では記述の内容が違ったと思います。孫堅伝ではこの戦いは圧勝だったと思いますが、公孫サン伝では初戦で大敗し、公孫越が戦死したとあります。どっちが正しいんですかね?
(W32SA/au)
24 飛燕
>>22
全然劉表じゃありませんでしたね(汗)本に書いてある事をそのまま抜粋してしまいますが… 「191年、袁術配下の孫堅が守る陽城を袁紹の部将周昂に襲われたとき、同じく袁術配下にあった公孫サンの従弟・公孫越が救援に向かい、流れ矢に当たって死んだ。公孫サンは公孫越の死は袁紹が招いたものとして報復の軍を起こし……」
結局、孫堅の勝敗がわからないのが残念ですが…
全然劉表じゃありませんでしたね(汗)本に書いてある事をそのまま抜粋してしまいますが… 「191年、袁術配下の孫堅が守る陽城を袁紹の部将周昂に襲われたとき、同じく袁術配下にあった公孫サンの従弟・公孫越が救援に向かい、流れ矢に当たって死んだ。公孫サンは公孫越の死は袁紹が招いたものとして報復の軍を起こし……」
結局、孫堅の勝敗がわからないのが残念ですが…
(F900iC/FOMA)
25 天草
曹操は袁紹軍と黄河を挟んで対峙した際、突然反旗を翻した劉備に向かい兵を挙げます。
実はこれはかなり危険な策ですよね?
目の前には数で圧倒的不利な袁紹軍の大軍がいるわけですから、下手をしたら勢いに乗って許を突かれる恐れもあったわけです。
本当に袁紹の性格を見通し、少ない軍を分けたのであれば、かなりのギャンブルですし、それほどまでに曹操が劉備を恐れていたとも考えづらい。
私はそこに徐州という州への曹操の渇望があったのでは?と思います。
劉備を叩きたかったのではなく、徐州を手放したくなかったのではないでしょうか?
また結果的には、この時攻めなかった為に、手堅い勝利をものに出来なかった袁紹の行動も謎です。
実はこれはかなり危険な策ですよね?
目の前には数で圧倒的不利な袁紹軍の大軍がいるわけですから、下手をしたら勢いに乗って許を突かれる恐れもあったわけです。
本当に袁紹の性格を見通し、少ない軍を分けたのであれば、かなりのギャンブルですし、それほどまでに曹操が劉備を恐れていたとも考えづらい。
私はそこに徐州という州への曹操の渇望があったのでは?と思います。
劉備を叩きたかったのではなく、徐州を手放したくなかったのではないでしょうか?
また結果的には、この時攻めなかった為に、手堅い勝利をものに出来なかった袁紹の行動も謎です。
(N902i/FOMA)
26 礼文
袁紹:「名門の当主である自分に並ぶものなど認めたくないが、献帝を擁立して以来曹操の名声はうなぎのぼり。阿瞞め、調子にのりおって。お前なぞ本気でかかればいつでも潰せるということを思いしらせてやる。…ただ打ちまかすだけでは芸がないな。ここは正面から打ち破って我が軍の精強さを天下にしらしめよう。どんな奇策にも揺るぐことなく勝利したとなれば、二度と曹操のように私に歯向かおうとする者は現れまい」
とか考えてたら、隙とわかっていてもそれをつこうとは思わないかもしれないですね。勝つことは前提で、後のことばかり考えていたのではないでしょうか?
とか考えてたら、隙とわかっていてもそれをつこうとは思わないかもしれないですね。勝つことは前提で、後のことばかり考えていたのではないでしょうか?
(EZ)
27 赤龍
>>25
劉備本人を恐れたというよりも、袁紹との決戦時に背後を脅かされることを恐れたと思っています。そのため、対袁紹に専念できる態勢を作るためにも、多少の無理をしてでも、手早く片付けられる徐州方面を安定させる必要を感じたのではないでしょうか?
また、さらにその向こうでは孫策も許を襲撃する計画を立てており、徐州でそれを防げる態勢もとっておく必要が。
南は張シュウを懐柔し帰順させ、西でも関中軍閥をおさえておく。そして、東の劉備を叩いておく。全ては袁紹との決戦を重視し、万全の態勢で挑めるようにする為の戦略だったと思います。
劉備本人を恐れたというよりも、袁紹との決戦時に背後を脅かされることを恐れたと思っています。そのため、対袁紹に専念できる態勢を作るためにも、多少の無理をしてでも、手早く片付けられる徐州方面を安定させる必要を感じたのではないでしょうか?
また、さらにその向こうでは孫策も許を襲撃する計画を立てており、徐州でそれを防げる態勢もとっておく必要が。
南は張シュウを懐柔し帰順させ、西でも関中軍閥をおさえておく。そして、東の劉備を叩いておく。全ては袁紹との決戦を重視し、万全の態勢で挑めるようにする為の戦略だったと思います。
(PC)
28 天草
>>27
普通に考えれば、そうなのですが、袁紹と既に退治した状態で、兵を割くだけではなく、さらに指揮官自らわざわざそこを離れて向かうにはリスクが大きすぎると思うんです。
そこに不自然さを感じませんか?
だからと言って何か他の仮説がある訳でもないのですが…。
袁紹は絶対にまだ仕掛けてこない…という絶対的な自信があったのか?
そもそも袁紹はまだ出兵していなかったのではないか?
そんな考えはいかがでしょう?
普通に考えれば、そうなのですが、袁紹と既に退治した状態で、兵を割くだけではなく、さらに指揮官自らわざわざそこを離れて向かうにはリスクが大きすぎると思うんです。
そこに不自然さを感じませんか?
だからと言って何か他の仮説がある訳でもないのですが…。
袁紹は絶対にまだ仕掛けてこない…という絶対的な自信があったのか?
そもそも袁紹はまだ出兵していなかったのではないか?
そんな考えはいかがでしょう?
(PC)
31 朱家
調べてなくて申し訳ないですが、同姓というだけで書いたんじゃないですかね?
約450年も前の人物にたどり着くのは、正直しんどい(笑)
人名ですから「公孫龍」と正確に書いたほうがいいですね。
約450年も前の人物にたどり着くのは、正直しんどい(笑)
人名ですから「公孫龍」と正確に書いたほうがいいですね。
(W32K/au)
35 巫俊(ふしゅん)
とりあえず二十五史と呼ばれる中国正史(史記〜清史稿)のなかには、公孫龍の子孫の記述は見当たらないようですが。
公孫というのは、春秋時代は公(諸侯)の孫、
つまりおじいさんが諸侯だった人を指す言葉です。
公―公子―公孫
(付記日本)天皇―親王―王
ということで公孫(諸侯の孫)の子孫は数えきれないくらい多くいますし、
公孫というのは、春秋時代は公(諸侯)の孫、
つまりおじいさんが諸侯だった人を指す言葉です。
公―公子―公孫
(付記日本)天皇―親王―王
ということで公孫(諸侯の孫)の子孫は数えきれないくらい多くいますし、
(PC)
36 しす
>>31-35
ありがとうございます。
何れにせよソース不明確ってことですね。
明確な答えが出ない以上は話を元に戻すことにしましょう。
腑に落ちない部分はありますが、これ以上脱線しても無意味かと思われますので。
皆さん重ね重ねありがとうございました。
ありがとうございます。
何れにせよソース不明確ってことですね。
明確な答えが出ない以上は話を元に戻すことにしましょう。
腑に落ちない部分はありますが、これ以上脱線しても無意味かと思われますので。
皆さん重ね重ねありがとうございました。
(PC)