1 斎藤一

劉封について

劉備の養子、劉封。立場的にどんな位置にいたか、関羽との確執、孔明の意図…上庸の位置関係等もっと掘り起こしましょう。
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http://z-z.jp/thbbs.cgi?id=syosinsya&p3=&th=28

掘り起こすには面白い人だと確信してます
(P902i/FOMA)
2 斎藤一
まずは劉封は一応劉備の養子なわけで他の武将はどのような接しかたをしたのか?
当時中国での養子の概念はどういった物なんでしょうか?
(P902i/FOMA)
3 孫(みらう)
基本的に養子は同姓から貰うべきだ でしょうか
また、家系を繋ぐために長男、または(死亡してるなら)年長者男子は除外するとか
一概にはいえませんが(汗
姓を与えるとは別扱いなのかなと
一族に招き入れるよりは強固な話かな
同姓(父子) 劉封などなら
異姓(一族入り) 朱然だったか、孫河だったり
異姓まま(義父やら?) 呂布とか
なんか曖昧ですいません
気軽ではないにせよ、一族追放よりは養子受け入れの方が簡単にありえたのかもって感覚を受けました
(P700i/FOMA)
4 斎藤一
孫(みらう)さんのスレからふと思ったのですが…呂布は実は丁布や董布を名乗った事あるのか疑問に思えました。
董卓殺害後に本姓『呂』を名乗り呂布として後世にその名を残した。とかありえるんのだろうか?
(P902i/FOMA)
5 阿吐
斎藤サン初めまして☆

知識はあまりないですが三国志に対する熱意はある、高校生です(^-^)

この話題には大変興味がありますね。

確かに呂布が義父の姓を名乗っていないのは不自然ですね。
劉封と劉備、丁原&董卓と呂布は同じ義理の親子でも関係が微妙に違う気もします。

曖昧な言葉で申し訳ないです(;^_^A
(N902i/FOMA)
6 孫(みらう)
名乗っていたらどっかに(特に自身の伝あればそれに)かかてれいるはず
姓を与えずに父子になったら、家系はそれぞれ義兄弟みたいなアレかな?
だから義父なるわけ?
(P700i/FOMA)
7 阿吐
なるほど♪

確かに家系上は義兄弟に近いという可能性もありますな(^-^)


話を戻しますが、関羽との確執は多少なりあったと思います。劉封が養子に迎えられる以前の家柄から言って、少なくとも関羽の方が劉封に対しなんらかの嫌悪感があったように思います。

完全に私見ですが(汗)
(N902i/FOMA)
8 斎藤一
阿吐さんこんちは
自分は20年来の三国志馬鹿で学の無い筋肉作業員です

『家督』を得られるかどうかってのは、劉封は同姓であるゆえ可能性はあったとして同じ養子だった呂布は無いとの事なんだろうか…
関羽との確執はかなりの物があったと自分は想像してます。江陵と上庸の位置関係からいって強い連係が必要とされ前線地に当たる上庸には相応の軍備はあったはずだと
(P902i/FOMA)
9 阿吐
そうですなぁ☆


演義の話だったか忘れましたが、援軍を断った理由は「兵が少ないから」・・・・劉備存命中なので考えられない状況ですね笑

となると、やはり劉封もしくは孟達と関羽は仲が悪かったのかな??

特に孟達は益州組なので古参の関羽とは仲が良いとは思えませんね。

ですが、たったそれだけの理由で重鎮関羽を見殺しにするのでしょうか??

俺は関羽の援軍要請が遅すぎた気がします。
大軍に囲まれてからでは、さすがに援軍も役に立ったか・・・・

例え関羽を助けても上傭を奪われては、状況は厳しいでしょう(汗)
(N902i/FOMA)
10
私も参加させていただきます。劉封と関羽は多少信頼関係を築けていなかった様に思えますが兵の数が少ないだけで援軍を断るとは思えないですね。関羽の存在はただの武将というものではないですから。孫権は関羽に対してかなりびびっていたようですが…。
養子とはいえ自分の父である劉備と義兄弟(正史に記述はありませんが)である関羽ですから。関羽に対する恨み妬みが表に出ていたとしたら劉備が関係修復に乗り出すはず。関係が悪化したならば関羽に原因があるのでは?記述にもあったように階級が高い人物には厳しかったとありますし(劉封の階級がどれほどか知りませんが)。
(P702iD/FOMA)
11 孫(みらう)
太守とか城を預かる者は優先してその地を守護するのが義務、役目ですよね
手薄になって援軍元が陥落しては事態悪化を招く可能性が高かったかもね
全体みなきゃわかりませんけど、行きたいけどいけない を単に行かなかったでまとめられたら失意ですよきっと
(P700i/FOMA)
12 しす
>>9-10
劉封、孟達が援軍を断った理由は兵が少ないからではなく、上庸が従属したばかりで動揺が収まらないという理由です。

>>9
関羽が援軍を要請したのは樊城攻略中です。
麦城に追い込まれてからの援軍要請は演義の話しですよ。
(PC)
13 斎藤一
でわ劉封の処罰の原因はどこか?
孟達の裏切りの報復失敗&上庸陥落になるんかな…。自問自答する自分が楽しいわ(笑)

当時の養子関係について詳しい方いませんか?ご教授お願いします。
(P902i/FOMA)
14 孫(みらう)
劉備が王になったときに、やっぱり劉禅を跡継ぎに指名しているので、劉封は邪魔者扱いされていたのかも
劉封が劉備の思想をうまく反映出来ていなかった(劉備との性格の違いで、劉封が果敢であったため)ので、それを関羽が苦々しく思って仲が悪くなって…
最終的に関羽の死をネタに諸葛亮ととおに劉備が処刑を根劇ならが行ったとか
世継ぎも決めてあるし、年上の非嫡子は争い素だって感じで
もし養子ではないなら、単なる劉一族で族子ならば、きっと関羽もそんなに中が悪くもならなかっただろうし
何よりそんな勇猛な将を処分することも無かっただろうと、政治的な思惑だろうに1票です
(PC)
15 孫(みらう)
ネタに諸葛亮ととおに劉備が処刑を根劇ならが行ったとか

訂正
諸葛亮と共に、劉備が処刑を嘆きながら行った
(PC)
16 阿吐
あらら(;^_^A
やはり指摘されてしまいましたか笑
しすさん感謝です☆

機会があればもっと正史を勉強せねば♪

さてさて、劉封の処罰についてですが俺は馬謖と同様に軍法を明らかにするためかと思います。劉備は劉封を一介の将として重用したようですからなおさら、厳しくせねば建国からまだ日の浅いショクでは諸将の反感を買うかと思います。
(N902i/FOMA)
17 赤龍
劉封処罰の際に、後継者問題に関することが影響したことは、劉封伝に「諸葛亮は劉封が剛勇なため代がわりのあと結局は制御しがたくたると判断し、この際彼を除くように進言した」とはっきりと書かれており、おそらく確実なことだろうと思います。その諸葛亮の進言が通ったということも、一人諸葛亮のみの危惧でなかったことが推測できます。
>>16前にもどっかで書いた気がしますが、ここで諸葛亮が主君である劉備に養子である劉封を殺させてしまったため、亮も腹心である馬謖を斬らざるをえなかった。ここで自分だけ馬謖を救えば劉備に対する不義理となる。なんてことが諸葛亮の頭にあったんじゃないかなあと、小説的な想像をしたことがあります。勿論、何の根拠もないですが(笑)
(PC)
18 赤龍
ちなみに、正史には劉封と関羽が不和だったという記述は特に見られなかったと思います。
劉封を養子にする事に反対する場面からを含め、援軍拒否した事を理由づけするためにつくられたフィクションなのではないでしょうか?
(PC)
19 しす
援軍拒否に関しては後の申耽、申儀の行動を考えると強ち間違った判断だったとは考えにくい気がします。
援軍拒否も多かれ少なかれ影響はしているとは思いますが、むしろ孟達を離反させ、上庸他を失陥してしまった影響の方が大きい気がします。

>>18
そう考えると正史では後継がないから養子になったという記述に反して、演義での劉封養子縁組が阿斗誕生後であるのも納得できますね。
それを抜きにしても関羽劉封の不仲に関してはそこまで深読はしなくてもよいのではないかという気がします。
(PC)
20 朱家
孟達と反目していては、援軍など無理でしょうね。劉封はせいぜい20代後半、養子という前提があっての重職、その前提に対しての思慮不足とはいえ、極めて同情したい人物ですね。

上庸攻略時は、漢中王でないから、劉封を外に出しておいて、劉禅の太子指名とか…逆に、劉備を含め孔明と同じ考えの人が多く、劉封の事を想い外に出したとか…もちろん、根拠はありません(笑)ただ、責任者は、劉封でなくても良かったとは思いますので。
(PC)
21 阿吐
うおっ
やっぱり赤龍さんレベルの方々が来ると俺じゃまったく議論にならない( ̄□ ̄;)!!笑

理解できたのは劉封は可哀相な奴ってだけです(爆)
つまり劉封は煙たがられていたんですね。まぁ俺は劉禅大好きなので劉封には同情しますね(汗)

でも、もし劉封が跡を継いでいたら蜀はどうなったのかなと色々想像が膨らみます(^-^)
(N902i/FOMA)
22 阿吐
連カキすまそm(__)m

今思ったのですが劉封の性格は関羽に近い気がします。もちろん上記のみなさんの発言を見てから考えましたが(汗)

俺は関羽のような人物は人の下に居てその真価を発揮できるかと思います。

確かに劉封は部将としては、そこそこかもしれませんが大将としての器量はない気がするのでとても君主は勤まらないでしょうね。 
斎藤さん、思った事を殴り書きしたため自問自答になってスミマセンm(__)m
(N902i/FOMA)
23 斎藤一
阿吐さん自問自答や想像は楽しくて面白いと思うから私はいいと思いますよ。

さてまたまた想像してしまいました
インチキ黄門様が劉封を迎えた頃は確か自分の領土を持たない流浪の軍、その軍を後援した豪族が息子を無理矢理に養子にと押し付けた!インチキ黄門は当時は喜びそのお供に加えた。
それからあれよあれよと所帯が大きくなり一大勢力?に登りつめたんだけど。
困った事にその養子は中々の部将、旗揚げ当時から嘘吹いた中山精王?の血に家督を譲りたい、と悩むインチキ黄門。
所帯一の知恵袋に相談すると…まだ平定して間もない不安定な土地に危険分子と赴任させチョイと噂を流すと案の定、危険分子は去りその追撃を命じる…後は散々の呈で帰ってきた劉封を処断。って感じで(笑)

貧相な学と想像力じゃこれが精一杯なんで突っ込みどころ満載でしょうがお手柔らかに(笑)
(P902i/FOMA)
24 しす
>>3今更気づいたのですが…
正史に「もともと羅侯寇氏の子で、長沙郡の劉氏の甥にあたる」とあるのだから劉封の場合、同姓ではないのではないですか?
(PC)
25 孫(みらう)
劉の娘が寇さん家に嫁いで出来た息子がりゅーほー
寇封だったんでは?
ってな話ですね
羅侯になったから姓を改めた可能性はどうかなとひねくれてみる
(P700i/FOMA)
26 しす
もっとも羅侯寇氏ってのも史書に記録がなく、後漢書によると同音のケ氏であるケ隲の孫が「降格されて羅侯に転封された」とあるようですので、彼の元の姓はケ氏であった可能性が高いという話を目にしたことがあります。
いずれにせよ劉封が元から劉姓であったかはかなり微妙だと思うのですが。
(PC)
27
羅侯って、もしかして後漢の元勲のケ禹の弟のケ寛の系統じゃないですかね?封地の場所も南陽郡にあったらしいですよ。

寇氏といえば、上谷郡の豪族の寇恂がいるでしょう?ケ禹の同僚ですよ。

上谷郡は劉備の郷里の北京の北西辺りにありますから。

ここら辺にに羅侯の寇氏の鍵がありますね。
(PC)