5 くわぁまん
天草殿、早速窄融の事を調べて頂き有りがとうございます。m(__)m
実の処、窄融と孔明とは少なからず因縁があるのです。窄融が徐州に居たとき孔明も居ましたし、その後劉ヨウ配下になったときには、孔明は伯父玄に身を寄せていた時には散々の目に遭わされています。
孫策に追い立てられた劉ヨウは諸葛玄の領地を手中に入れようとしたためその戦がもとで伯父玄は怪我をし、じきに亡くなっています。
この時、窄融はやはり劉ヨウ配下でした。
実の処、窄融と孔明とは少なからず因縁があるのです。窄融が徐州に居たとき孔明も居ましたし、その後劉ヨウ配下になったときには、孔明は伯父玄に身を寄せていた時には散々の目に遭わされています。
孫策に追い立てられた劉ヨウは諸葛玄の領地を手中に入れようとしたためその戦がもとで伯父玄は怪我をし、じきに亡くなっています。
この時、窄融はやはり劉ヨウ配下でした。
(SH900i/FOMA)
6 くわぁまん
また、文がおかしくなってしまいました。m(__)m
窄融は劉表の配下にはなっていません。予章にて自立しようとしましたが劉ヨウに撃破され敗走中に落ち武者狩りに合い住民に殺されています。
窄融は劉表の配下にはなっていません。予章にて自立しようとしましたが劉ヨウに撃破され敗走中に落ち武者狩りに合い住民に殺されています。
(SH900i/FOMA)
11 赤龍
「北の呂布、南のサク融」というのは、私も初耳ですが、単に裏切り、非道といった意味でつけられたんじゃないでしょうか。特に広陵に逃げ込んだサク融を賓客として冷遇した太守趙イクを殺害し、大略奪を行い、広陵を去った事件はかなりの悪評を生んだでしょう。武勇や、戦上手という点では特筆することもない以上、裏切りの面で並べられたと見るべきでしょうね。
(PC)