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「季漢輔臣賛」に記された人々

「三国志」ファンの大部分は蜀ファンであると思うので、スレッドを立てておきます。

単独スレッドを立てるまでも無い様な情報の少ない人はこちらで。

>>>343 陳到
(F2102V/FOMA)
2 しす
>>>145の麋芳なんかもここに記述のある人物ですよね。

しかしこれを楊戯伝に入れた陳壽もすごいけど、それが削除されなかったこともまたすごいですよね。
(PC)
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>>2
転載である事を理由に
「昭烈皇帝を賛う」
と書きたかったのだと言われていますね。

しかしそう考えると、麋芳などの人が入っているのもそうですが、「季漢輔臣賛」の「輔臣」の意味するところに謎が起こりますよね。
昭烈帝は「季漢」を輔けた臣なのか?もしそういう意味で良いのならば、「季漢」の始まりは、いつからなのか。
「季漢」の始まりを、章武元年以前と見るべきなのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
4 しす
>>3
受け売りで申し訳ありませんが『三国志集解』で廬弼がそれを指摘してますね。
「輔臣」ではなく「君臣」の間違いではないかと。
叛臣も含まれているので輔臣というのはおかしいと疑問を提示してるようですね。

一方で楊戯の言う季漢の始まりとは献帝が曹操によって許に迎えられた建安元年とする見方もあるようですが。
いずれにせよ『季漢輔臣賛』という表題に関しては謎が残る気がします。

まぁもっとも、それすらも「官位と名声は常に趙雲の次にあり」とまで書かれた人物が立伝はおろか、この季漢輔臣賛以外に記述がないってことの方が謎ですが。

ところで本来ここで語られるべき人達はマイナーな人達が多くはなるのでしょうが、ただ一人だけ…王甫だけは演義でかなり印象的な人物として描かれていますよね。
関羽の部下として周倉に劣らぬ忠臣として脚色をなされているのが気になる人物です。
馬岱や厳顔と並んでいい意味でいじられた…悪く言えばデタラメな活躍をした人物かもしれませんね。
(PC)
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>>3-4
でも結局はここに書かれている人々は皆、昭烈帝の下で仕事をした人達ばかりですし、「季漢」を建安年間から、とするのは納得いかない部分あります。
やはり章武元年以降と見るのが正しい様な。

「君臣」説も、輔と君では意味も形も違いますし、すっきりしない感じです。
(F2102V/FOMA)
6 しす
>>5
始まりを章武元年にしてしまうと麋芳が載っているのもおかしな話ですから、やはり章武元年以前と観るべきではないでしょうか。
まぁだからと言って建安元年が正しいとも言いにくいですが。
(PC)
7 ストラップ
>>6
確かに前半の数人を見ても……

>>>168 昭烈帝 ◯
>>>157 忠武侯 ◯
司徒 ◯
>>>329 関羽 ×
>>>80 張飛 ◯
>>>43 驃騎将軍 ◯
>>>41 翼侯 ×
>>>189 軍師 ×
>>>136 将軍 ×
掌軍 ×

と、章武元年以前に死んでいる人は多いですね(汗)
(F2102V/FOMA)
8 赤龍
私は、季漢は普通に章武元年(劉備即位)からでいいんじゃないかと思います。それ以前に死んだ人といっても、彼等は建国の功臣達であるわけだから、名前が連ねられていても特に問題ないはず。
本文の『三国志』の方だって、三国時代には死んでいる、正式には後漢時代の人物の伝がいっぱいありますよね。
>>3
それに加えて、本文では「漢」と書けなかった「蜀漢」を、楊戯の文を借りて、中漢(楊戯の文中に見える後漢のこと)の後を正統についだ漢王朝である、という主張をのこしたかったというのも大きいと思います。
(PC)
9 赤龍
ところで、今さら「季漢輔臣賛」読み直して気付いたんですが、士仁て幽州出身なんですね。
ということは、簡雍なんかとともに劉備旗揚げ以来の古参の将だった可能性もありますよね。
もしそうだとすると、結構政権内で重要な地位にあり、麋芳とともにかなり信頼されていた人物だった可能性もあるのではと思いました。
なにぶん、荊州での呉軍への降服以外に出番の無い人なんで、想像の域を越えることは出来ませんが、陳到なんかと同様記録が残らなかった重臣だったのかも?
(PC)
10 TS
士仁は間違いなく劉備軍閥内で最古参の一人でしょう。
劉備と幽州の接点は公孫サンの下にいた頃くらいですから、その頃からいたことになります。
また、荊州で彼が守っていた公安は劉備の荊州治所。劉備が益州にいる間の留守居役として関羽や江陵の糜芳に次ぐくらいの重要な地位に就いていると言ってよいでしょう。
こんな地位にいるという事実も、彼がかなりの古参であることの裏付けになるでしょう。
(PC)
11 ストラップ
>>10
昭烈帝は幽州の出身ですよ。
それに武侯は徐州の出身ですが、二人が出逢うのは荊州でしたよね?
関羽も司州出身ですが、昭烈帝と司州との関係とは無関連です。

確かに建安二十四年当時、士仁は荊州に残っており、その信頼の大きさは推測できますが、幽州の出身というだけでは、断定できないと思います。

>>9
広陽郡って、幽州なんですね。
(F2102V/FOMA)
12 赤龍
>>11
そう、明確な根拠となる記述が見つからないので、私もあくまで推測というかたちに留めました。もちろん私自身もTSさんが言われることはかなり可能性の高い推測だとは思っていますが。

ところで、陳到といい、夷陵の戦いで重職にあったらしき馮習、張南といい、初期の建国期あたりの武官タイプの人物は極端に史料に乏しい傾向にありますね。
(PC)
13 ストラップ
>>12
呉壱の項目には陳寿自らが
「その事跡が無い為立伝しなかった」
と書き、呉壱についてはボク皇后伝等に少しだけ書いている位ですものね。

馮習、張南について書かれているのも陸遜伝ですし。

こうして考えると、「季漢輔臣賛」という部分は、史料の少なさから立伝できなかった人物を拾う役割をはたしており、やはり無い訳にはいかなかった部分に思えます。
(F2102V/FOMA)
14 TS
確かに呉の程普・韓当のような例もありますし、断定はできませんね。赤龍さんが言うとおりでしょうね。
逆に劉備の出身地の隣郡であることから考えたら、簡・張・関に次ぐ最古参かもしれませんし。


魏書でも曹操がかなり信頼していたらしい韓浩や王必、呉書でも孫権の娘婿劉纂や寵臣孫弘など、地位や重要性の割に記録がほとんど残らない(陳寿が入れなかった)人物というのは結構いたようです。
まともに立伝されなくても簡単な事績は引用している蜀書は親切設計というか、贔屓かもしれません。
(PC)
15 ストラップ
>>>152-48
「休元は敵を軽んじた為、国家に損失を与え、身は殺された」
とありますし、名将ではなさそうです。潘璋の部下に斬られた様ですが、「諸軍を指揮」する様な立場であるにも関わらず戦死していますから、凡将という評価が妥当でしょう。
南郡出身とありますし荊州の人ですね。

それよりも馮習と張南のおまけで記された傅ユウの方が僕は気になります。
「三国志演義」では丁奉と戦っている様です。
(F2102V/FOMA)
16 赤龍
>>15
馮習に対する賛の文は、どうにも結果論的なものも私は感じますがどうでしょうか?
さらにうがった見方をすれば、敗戦の責をこのように馮習一人にかぶせることで、劉備は悪くはないのだとするための配慮なのではとも考えます。
これに関連して、その後の文をちくま訳では「災難は一人(劉備)〔の軽率〕から生まれ、広大な影響を与えた」とカッコ付きで補足を加えて訳してますが、ここの「一人」は前の文から考えて、劉備ではなく馮習を指しているのではないでしょうか。賞賛すべき皇帝の責をここまで露骨に表すのはどうも不自然に思えます。
(PC)
17 ストラップ
>>16
確かにちくま訳の「(先主)〔の軽率〕」という部分には、何だか違和感がありますね。「一人」は赤龍さんが言われる様に、馮習を指していそうです。

法正伝の諸葛亮の嘆息は、法正の劉備への影響力から出た言葉と考えられていますね。事実、注で劉備が曹操との戦いで曲面不利にも関わらず退却を承知せず、法正の言葉でやっと退いたという話が取られています。
しかしこれは同時に法正の軍事的な能力にも触れているのでは無いかな、とも思うのです。
「計画は無茶だったが、それでも人がいれば大敗は免れる事ができた」と。
早期の退却を勧める事ができた、という意味のみでは無いと。

事実オウ亭の戦いでは、司令部であった筈の、馮習の陣がやられている訳です。つまりは、ここが(敵の攻める方法・強さに対して)堅く守られていなかったという事ですよね。

後に振り返って、大敗は防げたと(専門家では無い人物が)反省する様な戦いで、堅くあるべきところを崩されている訳ですから、やはり馮習を軍事の才能に特別優れていたとは評価できないのでは無いかと思います。

裴松之が「智術にたけているとはいいがたい」と評し、法正も「虚名がある」と言った許靖の例もありますし、地位だけで実力を量る訳にはいかぬと思います。
(F2102V/FOMA)
18 ストラップ
>>17
かと言って、元々無茶な計画だった訳ですし、馮習が特別「無能」という訳でも無いと思います。
赤龍さんが言われる様に、楊戯の文では、全ての責任を被せられている立場というのも、真実であるのではないかと感じます。

馮習は、荊州の出身者の中で、地位が高かったのだと思います。
結局オウ亭の戦いというのは、荊州出身者の故郷を取り返す為の戦いでもあった訳ですし、荊州出身者の中には出兵に賛成だった人も多いと思います。馮習はその中で役割を持っていた人なのでは無いかと想像します。
(F2102V/FOMA)
19 劉権
いやいや、馮習は忠義の将だと思います。悪いのは私情に狩られた玄徳だと思います。
(PC)
20 ストラップ
最近解らなくなってきてるんですが、読んだ事あるかは別として、「季漢輔臣賛」の名前は、三国志ファンなら知ってると考えて良いのでしょうか?

誰もが知っている様な気もしますし、思った程知られていない様な気もします。
(NS01/au)
21 魏延
>>20

多分、知らない人の方が多いんじゃないでしょうか。
うちのサークルの三国志好きの人もキ漢補臣賛は知らない人の方が多かったですし。陳ドウなら知ってたりするんですけどね。
(812SH/SB)
22 しす
>>20
三国志ファンと言えども知名度は低いと思いますよ。
最近大型書店などで目にするような三国志コーナーに平積みされている本にはまず載ってないでしょうし。
陳到の知名度が比較的高いのは銀英伝の人が騒いでるからですしねぇ。
(912T/SB)
>>21-22
ありがとうございます。
あんまり知られてはないんですね。自分も三国志読むまでは知りませんでしたし、三国志読んでない人は多いでしょうから、そうかも知れません。
でも確かに陳到は最早有名人ですから、不思議な気はしますね。
ゲームか何かでも出てるのでしょうかね。

(質問に至った事情の説明:新作の三国志小説を書いたのですが、三国志と入れずに三国志だと判るタイトルを探していたのです。この件に関しては、レスポンス無用にお願いします)
(NS01/au)