1 巫俊(ふしゅん)
張昭
孫策・孫権の二代に仕え文武の職掌を歴任し、しばしば一軍を率いて遠征した張昭を詮索するスレッドです。
江北出身の張昭は孫策が江東に覇を唱えるとこれに従って仕え、
(おそらく198年に討逆将軍府)長史および撫軍中郎将を兼ねて任命を受け、文武の一切の事を孫策より委任されます。(『討逆(孫策)伝』『張昭伝』)
200年に孫策の遺命を受けて孫権を補佐し、引き続き以前と同様の任務を担当。(『張昭伝』)
208年に孫権が合肥を囲むと張昭は別働隊を指揮して九江郡の当塗を攻め、(『呉主(孫権)伝』、『張昭伝』の裴注『呉書』)
それに前後する時期に二度軍を率いて反乱を鎮圧しています。(『張昭伝』の裴注『呉書』)
209年に孫権が劉備に推薦されて車騎将軍を自称すると、張昭は軍師に就任、以後は最前線からしりぞいたようです。(『張昭伝』)
本人が戦場からしりぞいてからも、張昭の一族は転属して各地の軍に配属されたらしく、子の張承と弟の子の張奮が以後も戦場で功績を挙げたことが附伝に記されています。(『張昭伝』附伝)
156年生まれる。
236年死去する。
文侯。
字は子布。
江北出身の張昭は孫策が江東に覇を唱えるとこれに従って仕え、
(おそらく198年に討逆将軍府)長史および撫軍中郎将を兼ねて任命を受け、文武の一切の事を孫策より委任されます。(『討逆(孫策)伝』『張昭伝』)
200年に孫策の遺命を受けて孫権を補佐し、引き続き以前と同様の任務を担当。(『張昭伝』)
208年に孫権が合肥を囲むと張昭は別働隊を指揮して九江郡の当塗を攻め、(『呉主(孫権)伝』、『張昭伝』の裴注『呉書』)
それに前後する時期に二度軍を率いて反乱を鎮圧しています。(『張昭伝』の裴注『呉書』)
209年に孫権が劉備に推薦されて車騎将軍を自称すると、張昭は軍師に就任、以後は最前線からしりぞいたようです。(『張昭伝』)
本人が戦場からしりぞいてからも、張昭の一族は転属して各地の軍に配属されたらしく、子の張承と弟の子の張奮が以後も戦場で功績を挙げたことが附伝に記されています。(『張昭伝』附伝)
156年生まれる。
236年死去する。
文侯。
字は子布。
(PC)
2 巫俊(ふしゅん)
209年に張昭に替わって車騎将軍府の長史になったのはもと洛陽で尚書令右丞の経験のある全柔みたいです。
かの全jの父親が全柔で、189年の董卓朝廷乗っ取り事件以降に故郷の呉郡にかえり、揚州刺史劉繇(りゅうよう)の幕僚として起用されてたみたいですね。
ちなみに呉書の二つの張昭の内乱鎮圧記事のひとつは黄巾関係だったりします。
かの全jの父親が全柔で、189年の董卓朝廷乗っ取り事件以降に故郷の呉郡にかえり、揚州刺史劉繇(りゅうよう)の幕僚として起用されてたみたいですね。
ちなみに呉書の二つの張昭の内乱鎮圧記事のひとつは黄巾関係だったりします。
(PC)
3 ストラップ
>>>62-41の様な記述を見ると、孫策が必ずしも賢者を求めた訳では無い、と言えると思います。
一方は斬り、一方は活かした。
張昭という人は、何故斬られなかったのでしょうかね?
>>1
そうそう。
この人、爺さんのイメージなんですが、曹操より年下なんですよね。
曹操の生年は>>>175-6を参照。
一方は斬り、一方は活かした。
張昭という人は、何故斬られなかったのでしょうかね?
>>1
そうそう。
この人、爺さんのイメージなんですが、曹操より年下なんですよね。
曹操の生年は>>>175-6を参照。
(F2102V/FOMA)
4 巫俊(ふしゅん)
>>3
高岱は何者かにハメられたんですよね。高岱が召されたのは200年の前後なんで、孫策が江北から許昌をうかがっていた時機ですね。この時期の高岱は『左伝』をよくする人で名声があった他、意外なつながりですが会稽の妖族の許昭(注1)と関係を結んでいたことがあり、そして故人の呉郡太守許貢は高岱に遺恨を抱いていたと書いてあります。そして高岱は何者かの計略で孫策との仲を引き裂かれ、孫策と高岱の面会は高岱の処刑で幕を閉じました。そして同年中に孫策は長江の岸辺で許貢の末息子の残党に暗殺されるのです(注2)。
ひょっとすると孫策がこの時期に高岱と面会したのは、江北遠征と献帝救出を前にして江南の地縁血縁社会のまとめに重点があったのかもしれません。『左伝』というところも面白くて、『左伝』の末尾の文には江南の春秋呉国の王夫差が中原に攻め上り、天下の覇者になるという歴史が書かれています。そして中原遠征中に夫差の下僕であった会稽の越王句銭が挙兵して夫差を殺し呉国を奪うという最期が書かれています。
孫策は夫差、句銭、項羽の志を継いで江南から天下をうかがうという大志をもっていましたから、これはなおさらです。高岱は裏社会のボスと言ってもよく、孫家に仕えて表側にいた忠臣・張昭という位置とは対極かと。つまり賢者といっても体制側の賢者と体制外の賢者がいるということなのでしょう。そして孫策は自分になびかないものには過酷だった。
注1(若かりし日の孫堅が朝廷に従軍して討伐に従事した陽明皇帝許昌の子が許昭ですね。)
注2(負傷したのち傷が悪化して死んだらしいです。)
高岱は何者かにハメられたんですよね。高岱が召されたのは200年の前後なんで、孫策が江北から許昌をうかがっていた時機ですね。この時期の高岱は『左伝』をよくする人で名声があった他、意外なつながりですが会稽の妖族の許昭(注1)と関係を結んでいたことがあり、そして故人の呉郡太守許貢は高岱に遺恨を抱いていたと書いてあります。そして高岱は何者かの計略で孫策との仲を引き裂かれ、孫策と高岱の面会は高岱の処刑で幕を閉じました。そして同年中に孫策は長江の岸辺で許貢の末息子の残党に暗殺されるのです(注2)。
ひょっとすると孫策がこの時期に高岱と面会したのは、江北遠征と献帝救出を前にして江南の地縁血縁社会のまとめに重点があったのかもしれません。『左伝』というところも面白くて、『左伝』の末尾の文には江南の春秋呉国の王夫差が中原に攻め上り、天下の覇者になるという歴史が書かれています。そして中原遠征中に夫差の下僕であった会稽の越王句銭が挙兵して夫差を殺し呉国を奪うという最期が書かれています。
孫策は夫差、句銭、項羽の志を継いで江南から天下をうかがうという大志をもっていましたから、これはなおさらです。高岱は裏社会のボスと言ってもよく、孫家に仕えて表側にいた忠臣・張昭という位置とは対極かと。つまり賢者といっても体制側の賢者と体制外の賢者がいるということなのでしょう。そして孫策は自分になびかないものには過酷だった。
注1(若かりし日の孫堅が朝廷に従軍して討伐に従事した陽明皇帝許昌の子が許昭ですね。)
注2(負傷したのち傷が悪化して死んだらしいです。)
(PC)
5 巫俊(ふしゅん)
高岱が面会したのも長江の岸辺だったりして。この時期は揚州の攻略に向けて、孫策直々に長江にて水軍の調練にあたっていたと想像することもできます。
この一連の記事も討逆伝の注釈の『呉録』なので、興味があったら参照してみてください。
この一連の記事も討逆伝の注釈の『呉録』なので、興味があったら参照してみてください。
(PC)
6 赤龍
>>4
その許昭と、会稽の妖賊許昭は別人の可能性がかなり高いですよ。
『後漢書』臧洪伝には、臧ビンが許昭の反乱を平らげ「獲昭父子、斬首数千級」とあり、おそらく処刑されているでしょう。
また『三国志集解』を読むと、許昭の反乱が起きたのは172と約20年も前ということ、妖賊許昭は会稽の人であり、成憲に仕えた許昭は呉の人だと思われることなどをあげ、別人とする説を紹介しています。
ちなみに、ちくま訳の索引では両者を同一人物と扱ってますね。
その許昭と、会稽の妖賊許昭は別人の可能性がかなり高いですよ。
『後漢書』臧洪伝には、臧ビンが許昭の反乱を平らげ「獲昭父子、斬首数千級」とあり、おそらく処刑されているでしょう。
また『三国志集解』を読むと、許昭の反乱が起きたのは172と約20年も前ということ、妖賊許昭は会稽の人であり、成憲に仕えた許昭は呉の人だと思われることなどをあげ、別人とする説を紹介しています。
ちなみに、ちくま訳の索引では両者を同一人物と扱ってますね。
(PC)
7 赤龍
当時は体制外の賢者、つまり仕官を求めず「逸民」として生きた人達が、反権力の立場をとり、民衆の側にたった暗黙の批判者という指摘はなされていますが、「裏社会のボス」というのはかなり誤解を招く、少々不適当な表現ではないでしょうか?
(PC)
8 巫俊(ふしゅん)
なるほど、孝霊本紀には父の方の許生(昌のこと)を殺したとしか言及されていないのですから、子の許昭は地下に潜ったと想像していたのですが、ゾウ洪伝には確かに父子を殺したと書かれていますね。
妖族の許昭と同一人物であった場合は、逸民とか言ってるけど前歴は宗教勢力の指導者ということであり、この二つは矛盾するとも思えません。ゾウ洪伝の記事が問題になって「裏社会のボス」説の根拠が不明確になるということは事実ですが、不適当という表現は如何なものでしょうか。
列伝によって記述が食い違うことも常態なのですし、問題とは思わないですね。むしろ賢者という言葉に妙な先入観でもあるのでは?
呉書だけで考えれば、許昭が殺されたという記述は無く、また韓遂の如くかつて反乱を起こしたからといって史書が賢者と書かないとも限りません。
第一注釈の語録の記事なのですし、信憑性は疑われるでしょうけど、中国社会の常識に沿って人物は行動してるはずだと見る赤龍さんの態度にも見落とす視点があるのではないですか?
妖族の許昭と同一人物であった場合は、逸民とか言ってるけど前歴は宗教勢力の指導者ということであり、この二つは矛盾するとも思えません。ゾウ洪伝の記事が問題になって「裏社会のボス」説の根拠が不明確になるということは事実ですが、不適当という表現は如何なものでしょうか。
列伝によって記述が食い違うことも常態なのですし、問題とは思わないですね。むしろ賢者という言葉に妙な先入観でもあるのでは?
呉書だけで考えれば、許昭が殺されたという記述は無く、また韓遂の如くかつて反乱を起こしたからといって史書が賢者と書かないとも限りません。
第一注釈の語録の記事なのですし、信憑性は疑われるでしょうけど、中国社会の常識に沿って人物は行動してるはずだと見る赤龍さんの態度にも見落とす視点があるのではないですか?
(PC)
9 巫俊(ふしゅん)
許貢のエピソードで許昭の家が呉郡にあったことと、厳白虎が旧君で呉郡余杭で厳白虎をかくまったことです。
たしかに別人の可能性は高いと納得しますが、これも別人らしいという可能性の問題になってしまいますね。
史記から清史稿までの二十五史の中に「許昭」という人がいるかどうか調べてみましたが、この時代の許昭ただひとり(ふたり?)しまいませんし。
たしかに別人の可能性は高いと納得しますが、これも別人らしいという可能性の問題になってしまいますね。
史記から清史稿までの二十五史の中に「許昭」という人がいるかどうか調べてみましたが、この時代の許昭ただひとり(ふたり?)しまいませんし。
(PC)
11 巫俊(ふしゅん)
『呉録』の如きこの時代の史書はそこまで書かないこともしばしばあることではないですか。
私が赤龍さんの立場だったとしても、その説の不十分さは指摘していると思いますが、まるで誤解を振りまいているみたいに書かれてもそれはそれで困ります。妖賊許昭と同一人物ならば「裏社会のボス」の可能性が浮上し、同一人物でなければ浮上しない、たったそれだけのことですから。
私が赤龍さんの立場だったとしても、その説の不十分さは指摘していると思いますが、まるで誤解を振りまいているみたいに書かれてもそれはそれで困ります。妖賊許昭と同一人物ならば「裏社会のボス」の可能性が浮上し、同一人物でなければ浮上しない、たったそれだけのことですから。
(PC)
13 朱家
遅レスでスレ違いですが。
『後漢書』に死んだ記述があり、『呉録』には生きてると記述がなく、史書の矛盾はないですよ。
「裏社会のボス」の定義を詳しく説明してもらわないと、かなり誤解を招く表現だと思います。
間違ってると申し訳ないですが、出発点が「数里の間、人々が埋め尽くした」の記述で、この集団は何?って事でしょうが、許昭が別人でも、同じような集団は組織できるし、他の状況も推測できるし、わざわざ『後漢書』を無視する事もないと思うんですけどね。
『後漢書』に死んだ記述があり、『呉録』には生きてると記述がなく、史書の矛盾はないですよ。
「裏社会のボス」の定義を詳しく説明してもらわないと、かなり誤解を招く表現だと思います。
間違ってると申し訳ないですが、出発点が「数里の間、人々が埋め尽くした」の記述で、この集団は何?って事でしょうが、許昭が別人でも、同じような集団は組織できるし、他の状況も推測できるし、わざわざ『後漢書』を無視する事もないと思うんですけどね。
(PC)
14 巫俊(ふしゅん)
なんですかね、「誤解を招く表現」という意味がよく分からないんですが。整合性の付く範囲で自分の解釈を書くところが掲示板でしょ。これはおかしいと思ったら史料に沿って反論すればいいし、反論があれば皆さんも私の説と赤龍さんや朱家さんの説を見比べることができるでしょ。疑うということを知らず私の意見を史実だと信じてしまうなら、それはその人の問題です。掲示板で面白い解釈やもっともらしい説明を見て安心したいんだ。私は朱家さんの立場には立ちません。「誤解を招く表現」おおいに結構ではないですか。歴史はどんどん疑ってください。どんどん議論してください。
(PC)
15 ストラップ
言いだしっぺが言うのもなんですが、とりあえず高岱は次の機会に別スレを立てるとして話を張昭にw
孫策は張昭を随分と買っていますよね。文武の一切を委任した様ですし。
赤龍さんのブログ記事
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/24720968.html
も、孫策の絶大な信頼があったが故のエピソードだと思います。
孫策という人は高岱を斬った様に、荒っぽいイメージがあるのですが、張昭は用いた。
張昭という人はどこがそんなに魅力的だったのでしょう?
僕は>>>163で、曹操は荀イクの能力ではなく、名士としての評判を気にしたのでは無いかと書いています。
劉備が許靖を重く用いた理由や、>>>287-7の様な例もありますし、張昭も同じ様な理由で重用されたんですかね?
孫策は張昭を随分と買っていますよね。文武の一切を委任した様ですし。
赤龍さんのブログ記事
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/24720968.html
も、孫策の絶大な信頼があったが故のエピソードだと思います。
孫策という人は高岱を斬った様に、荒っぽいイメージがあるのですが、張昭は用いた。
張昭という人はどこがそんなに魅力的だったのでしょう?
僕は>>>163で、曹操は荀イクの能力ではなく、名士としての評判を気にしたのでは無いかと書いています。
劉備が許靖を重く用いた理由や、>>>287-7の様な例もありますし、張昭も同じ様な理由で重用されたんですかね?
(PC)
16 赤龍
張昭、それに虞翻なんか、孫権の代になると、結構孫権との激しい衝突が見られますが、短気で荒っぽいイメージのある孫策には、不思議と彼らと衝突したような記録はありませんよね。
意外と、これはと思った人物を見こんだ場合の扱いに関しては、孫策のほうがむしろ一枚上手なのでは?とさえ感じてしまうもともあります。
意外と、これはと思った人物を見こんだ場合の扱いに関しては、孫策のほうがむしろ一枚上手なのでは?とさえ感じてしまうもともあります。
(PC)