1 巫俊(ふしゅん)
魏、呉、蜀、その後の末裔たち
その後の諸葛氏らしき人。
『晋書』諸葛長民伝、、
諸 葛 長 民 , 琅 邪 陽 都 人 也 .
諸葛長民は孔明と同じ郡県の出身(戸籍上の出身)です。
東晋末(5世紀の初め)の武人劉裕(南朝宋建国者)に仕えた武将で功績があったとされています。
義熙年間(405年〜)の初めまでの間に歴陽や芍陂(注1)で楚国の皇帝桓玄の一族(注2)と戦って之を破っており、東晋の末葉に活躍した武人です。
注1、歴陽は孫策が江東に渡って揚州刺史劉ヨウを攻めるときに拠点としたところ、長江の北岸。芍陂は寿春の近く。
注2、東晋が江南に遷都してから一世紀が経過し、東晋の皇帝司馬氏が衰えると、桓玄という男が東晋の簒奪を計ります。これが桓氏の楚国です。しかし東晋の武人劉裕によって謀反は防止され、のちに劉裕が東晋を簒奪して宋の皇帝に即位します。
『晋書』諸葛長民伝、、
諸 葛 長 民 , 琅 邪 陽 都 人 也 .
諸葛長民は孔明と同じ郡県の出身(戸籍上の出身)です。
東晋末(5世紀の初め)の武人劉裕(南朝宋建国者)に仕えた武将で功績があったとされています。
義熙年間(405年〜)の初めまでの間に歴陽や芍陂(注1)で楚国の皇帝桓玄の一族(注2)と戦って之を破っており、東晋の末葉に活躍した武人です。
注1、歴陽は孫策が江東に渡って揚州刺史劉ヨウを攻めるときに拠点としたところ、長江の北岸。芍陂は寿春の近く。
注2、東晋が江南に遷都してから一世紀が経過し、東晋の皇帝司馬氏が衰えると、桓玄という男が東晋の簒奪を計ります。これが桓氏の楚国です。しかし東晋の武人劉裕によって謀反は防止され、のちに劉裕が東晋を簒奪して宋の皇帝に即位します。
(PC)
3 巫俊(ふしゅん)
>>2
ウィキペディアの丹波哲郎の項を拝見すると「丹波の国の農民だから丹波と名乗ったとの説もある」と疑いの目でも見られているようですが、
10世紀に成立した我が国の『新撰姓氏録』諸蕃の項に「後漢霊帝から数えて八代目の末裔、孝日王の子孫である」と称される丹波史(たんばのふひと)という渡来系氏族を指しているようですね。
一世代二十五年で計算してみると、倭の五王が成立する前夜にあたる時期になりますか。この手の由来出自なんて粉飾が付き物ですけど。
ウィキペディアの丹波哲郎の項を拝見すると「丹波の国の農民だから丹波と名乗ったとの説もある」と疑いの目でも見られているようですが、
10世紀に成立した我が国の『新撰姓氏録』諸蕃の項に「後漢霊帝から数えて八代目の末裔、孝日王の子孫である」と称される丹波史(たんばのふひと)という渡来系氏族を指しているようですね。
一世代二十五年で計算してみると、倭の五王が成立する前夜にあたる時期になりますか。この手の由来出自なんて粉飾が付き物ですけど。
(PC)
話しを端折って申し訳ないですが…スレを立てる時、>>1に書く文はなるべく短いほうが良いと思います。
もちろんこれは巫俊さんに限らず。
>>1の文はページを捲っても必ずついて来ますから。
突然すいません。では続きをどうぞ。
もちろんこれは巫俊さんに限らず。
>>1の文はページを捲っても必ずついて来ますから。
突然すいません。では続きをどうぞ。
(PC)
8 ストラップ
(F2102V/FOMA)
10 赤龍
家系図を想像してもらうと分かりやすいですが、始祖から一本につながった本家筋を直系とすれば、そこから脇に別れたものが傍系となるわけです。
例えば徳川家。本家の将軍家が直系の血筋になりますね。そして、その本家から枝分かれした、御三家、御三卿といった支族が傍系になるわけです。
その視点を御三家の一つ水戸家に移してみると、歴代藩主の家柄が直系となり、その兄弟の子孫が傍系になります。
要は、どこを直系と設定するかで、それからはずれたのが傍系になるわけです。
孔子の末裔ですが、TSさんが言われるように、現在公式に正統な子孫とされている方がいます。一応この方の血筋が直系となります。すると、それから外れる人は孔融も含め傍系になるわけです。
例えば徳川家。本家の将軍家が直系の血筋になりますね。そして、その本家から枝分かれした、御三家、御三卿といった支族が傍系になるわけです。
その視点を御三家の一つ水戸家に移してみると、歴代藩主の家柄が直系となり、その兄弟の子孫が傍系になります。
要は、どこを直系と設定するかで、それからはずれたのが傍系になるわけです。
孔子の末裔ですが、TSさんが言われるように、現在公式に正統な子孫とされている方がいます。一応この方の血筋が直系となります。すると、それから外れる人は孔融も含め傍系になるわけです。
(PC)
14 子竜
久々に書き込みます。
後裔となると、筍イクの家系が挙げられるのではないでしょうか。
東晋の時には筍シュウが尚書ボクヤの役職に就いておりますし、その二人の息子も何かしらの役職に就いております。また、娘の筍灌はその活躍が烈女伝に記載されております(具体的な話は中国史博物館の辞典に書いてあります)。
確か、その後も長い期間、主要な役職に就き続けた家系だったと記憶しております。
後裔となると、筍イクの家系が挙げられるのではないでしょうか。
東晋の時には筍シュウが尚書ボクヤの役職に就いておりますし、その二人の息子も何かしらの役職に就いております。また、娘の筍灌はその活躍が烈女伝に記載されております(具体的な話は中国史博物館の辞典に書いてあります)。
確か、その後も長い期間、主要な役職に就き続けた家系だったと記憶しております。
(W31SA/au)
16 巫俊(ふしゅん)
孫資:荀イクにもてはやされた若き英才。秘書郎、中書令、光禄大夫、衛将軍など歴任して魏皇帝曹芳の時代に死去する。
死後、驃騎将軍を贈られる。
孫資の子孫宏は南陽太守、孫資の孫孫楚は馮翊太守、孫楚は293年(西晋恵帝元康三年)に死去。
孫楚の孫の孫統は五胡十六国の乱を避けて江南に渡り、東晋時代に東晋の(会稽郡)余姚県令となる。
孫統の弟の孫綽、孫統の従弟の孫盛は歴史家として『三国志』裴注に登場する。
孫綽の文は譙周伝の裴注にあり、譙周の蜀降伏論を非難する。
死後、驃騎将軍を贈られる。
孫資の子孫宏は南陽太守、孫資の孫孫楚は馮翊太守、孫楚は293年(西晋恵帝元康三年)に死去。
孫楚の孫の孫統は五胡十六国の乱を避けて江南に渡り、東晋時代に東晋の(会稽郡)余姚県令となる。
孫統の弟の孫綽、孫統の従弟の孫盛は歴史家として『三国志』裴注に登場する。
孫綽の文は譙周伝の裴注にあり、譙周の蜀降伏論を非難する。
(PC)
17 通
劉備の子孫は、八王の乱で劉禅とその一族は根絶やしにされ、劉禅の異母弟の劉永の孫である劉玄までは正確に伝わっているようですね。
乱を逃れて蜀へ行き、そこでその地の王から大叔父にあたる劉禅の爵位であった安楽公に封ぜられた、ってとこまではわかりますが、その後はどうなったんでしょうか。行方不明ですかね。
乱を逃れて蜀へ行き、そこでその地の王から大叔父にあたる劉禅の爵位であった安楽公に封ぜられた、ってとこまではわかりますが、その後はどうなったんでしょうか。行方不明ですかね。
(P902i/FOMA)
19 ストラップ
「中国書道全集」で見たのですが、
「字元上、孔子十九世之孫、エイ川君之元子也」
と書かれた河東太守の孔彪という人物がいた様です。
同じ本には
「字文礼、孔子廿世之孫、秦山都尉之元子」
と、孔融の兄である予州従事孔褒の碑や、
「孔謙字徳譲、宣尼公廿世孫、都尉君之子也」
と書かれたやはり兄の孔謙の碑が収録されていました(共に大阪市立美術館蔵との事)。
「字元上、孔子十九世之孫、エイ川君之元子也」
と書かれた河東太守の孔彪という人物がいた様です。
同じ本には
「字文礼、孔子廿世之孫、秦山都尉之元子」
と、孔融の兄である予州従事孔褒の碑や、
「孔謙字徳譲、宣尼公廿世孫、都尉君之子也」
と書かれたやはり兄の孔謙の碑が収録されていました(共に大阪市立美術館蔵との事)。
(F2102V/FOMA)