1 巫俊(ふしゅん)
南郡
各国における南郡の戦略的位置、歴代の南郡太守などの官吏、南郡出身の歴史に名前を記録した人たち、を扱うスレッドです。
南郡という単位で、意見交換や記事の紹介を繰り返せば、後漢時代、三国時代における南郡の置かれたポジションも描くことができるでしょう。
南郡という単位で、意見交換や記事の紹介を繰り返せば、後漢時代、三国時代における南郡の置かれたポジションも描くことができるでしょう。
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3 巫俊(ふしゅん)
南陽郡堵陽県出身の韓キ(既+旦)の父、韓純は魏書韓キ伝に引く『楚國先賢伝』によれば、南郡太守。
父純は南陽郡堵陽県の豪右陳茂に殺され、韓キは死士を雇って陳茂を殺して復讐を果たしたことから名声を挙げる。
堵陽県は南陽郡の東北に位置し、山脈を境にして豫州と接している。
韓キは山の民である山民の首長として国家の統制の外で先住民+漢族難民の民族小国家を建設したが、袁術や劉表の従属要求を避けるべく、魯陽、山都、武陵の山中などを転々とした。
興味深い存在。
父純は南陽郡堵陽県の豪右陳茂に殺され、韓キは死士を雇って陳茂を殺して復讐を果たしたことから名声を挙げる。
堵陽県は南陽郡の東北に位置し、山脈を境にして豫州と接している。
韓キは山の民である山民の首長として国家の統制の外で先住民+漢族難民の民族小国家を建設したが、袁術や劉表の従属要求を避けるべく、魯陽、山都、武陵の山中などを転々とした。
興味深い存在。
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4 巫俊(ふしゅん)
カイ越、カイ良は南郡中廬県の人です。
中廬県は春秋時代に廬戎と呼ばれる戎蛮が散居していたところで、戎蛮とは西北系の遊牧民と東南系の先住民の生活習慣を併せ持った異民族を指し、洛陽から襄陽にかけての地域はもともと彼ら戎蛮が勢力を広げていたところです。しかし戦国時代以降漢族と同化しつつあるのですが、襄陽県西南の山中のソ(シ+且)中という地の梅敷のように、魏と呉のあいだを行き来する蛮も中廬県のすぐ近くにいました。
中廬県は春秋時代に廬戎と呼ばれる戎蛮が散居していたところで、戎蛮とは西北系の遊牧民と東南系の先住民の生活習慣を併せ持った異民族を指し、洛陽から襄陽にかけての地域はもともと彼ら戎蛮が勢力を広げていたところです。しかし戦国時代以降漢族と同化しつつあるのですが、襄陽県西南の山中のソ(シ+且)中という地の梅敷のように、魏と呉のあいだを行き来する蛮も中廬県のすぐ近くにいました。
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