1

典韋

こんにちは^^

曹操の親衛隊として活躍したが最後に壮絶な死をとげた典韋について語りましょう!!
(N901iS/FOMA)
2 巫俊(ふしゅん)
こんばんは。
典韋で話すことがあったな何でも語ってください。
私は典韋(正史)に通説以上の興味がないので、とくに語る気も湧かないのですがw
そういえば悪来という言葉の語源は夏殷時代まで遡りますね。これなら語れるかww
典韋は武人です。あっさり死んでしまったこともあり政局に関連した話題というのも少ないです。

でも、そういえば夏殷時代の悪来は王の側近とされていますね(ただし考古学的に実在が確認されている訳ではない)。
典韋の異名とされているとおり、卑弥呼的な巫制国家であった夏殷時代には、王と個人的な結びつきが強い側近の武人は巫事に関わることが多かったと思います。
巫事とは何かというと、歯を磨くこと、車に乗ること、臣下に命令すること、弓矢をひくこと、などなど日常の諸々の行動にあたっての神への祈りのことですが、古代の人々にとっては何をするにしても宗教的、呪術的な儀式を必要としていました。

三国時代はそういう時代ではないですが、曹操が実は呪(まじな)いを信じていたとする説も某所で紹介されており、そう遠いことではないんです。
今でも田舎では、男女差別的な習慣を維持していることがあって、私は体験したことがあるのですが、女性を差別するということは日本人の先祖以来の習慣でしてそれをみだりに変えると悪いことが起こるとか今でも信じている人がいます。
女性は穢れているとか平気で言うんですよ。そういう妄想がある時代、魔をよせつけない霊力をもった男性の武人、勇者というのはきっと重宝されたことだと思います。
ものすごく酷い話ですね、はい。
(PC)
3 巫俊(ふしゅん)
・訂正
×典韋で話すことがあったな
○典韋で話すことがあったら
・説明を追加
悪来は夏殷時代の武人、王の側近。その強さは破格であったとされ、中国では伝説の武人として語り継がれる。
秦の始皇帝の兵馬俑の近くから相撲の力士俑が発見されており、まるまると肥えた力士の身体には霊的な力があると信じられていた。
霊的な力とは身体能力のことでもあり、それは生きた心臓を連想させるような生物的生命力の象徴とされていた。
つまりチャンコ鍋を食べて脂肪、タンパク質をつけて太っていると解釈するのではなく、生きた熊から取り出したばかりの心臓のような脈打つ巨大な生命をもつもの、人より多く生命を喰らって太った男、として認識されていた。
(PC)
4 ストラップ
そういえば由来になった悪来については
ttp://z-z.jp/thbbs.cgi?id=syosinsya&p3=&th=69
で話題になった事がありましたね。
(F2102V/FOMA)
5 皇澪桜
漫画などでは許緒や典葦が軍を率いているのを見かけますが実際普段や戦争中はどういった役割を担っていたのでしょうか?
親衛隊長的役割と考えてよいのでしょうか?
(W52CA/au)
6 しす
>>5
「親衛隊数百人を率い、常に大帳の周りを固めさせた」という記述があるから、親衛隊長というニュアンスの解釈でいいと思います。
「戦闘になるといつも先鋒を務めて敵陣を陥れた」ともあるので切り込み隊長的な部分もあったんでしょうね。
ただ興平元年(194)、呂布軍と戦った時に決死隊を率いて敵を撃退した以外に具体的記述がないのが残念ですが。

ただこの人の場合、立伝されている人物の中では数少ない字不明不明者ですよね。
追諡もされてないみたいだし、演義から受ける印象に比べると重要人物ではないのかなという気もしてきます。
活動期間が短かった上に、あるいは彼が戦死した張繍戦とも関係があるのでしょうか。

ところでこの人が李典や李通、文聘あたりと一緒に立伝されていることに違和感を感じるのは私だけですかね。
(PC)
7
みなさんすごい詳しいですね^^

宛城で戦ったとき、典韋の部隊と相手の軍はどのくらい兵力差があったんですかね??
(N901iS/FOMA)
8 諏訪
>>6
私も同様に違和感を感じています。
李典・李通・臧覇・文聘・呂虔は自家の勢力を率いて曹操に従った人物として、許チョ・典韋・ホウ悳・ホウイク・閻温は命を懸けて主や国家のために尽くした人物として、それぞれ別々に立伝するべきだったと思います。
ただ許チョは、「一族数千家を集め」「軍勢をつれて太祖に帰服した」「許チョに従っていた侠客たち」といった記述があることから、前者に含まれるかもしれません。
(W51S/au)
9 李三
私はそれほど違和感を感じませんが…
この巻は義侠心や忠誠心に優れた人物の巻と思っているので…
多少強引に纏めている気もしますが編集上の都合かと…
(912SH)
10 巫俊(ふしゅん)
>>6
>>8
>>9
私は魏書の列伝の形式について深く考えたりしたことがないのですけど、性格の著しく異なる人物が同じ伝に配属されていることも目につくので、立伝の理由をひとつのくくりで合理的に説明することは控えた方がいいかなと思っています。
というか陳寿に限りませんけど中国の史書の書式はかなりカオス(無秩序もしくはひとつの書ごとに秩序が異なる)なところがあると感じています。
だからあまり類型とかは気にしないで、なんでこんな書式なんだろう、面白いじゃないか、と思いながら個性を楽しむことが漢籍読解の楽しみですよ。

『三国志』を真似た列伝形式で日本の昭和史などを編纂したとしても、典韋のような侍衛の臣は立伝されないと思っています。
(PC)
11 李三
巫俊殿>典韋の伝は元からあったんですかね?
他の伝と比べると許猪の附伝でも良いような内容に見えるのですが?

列伝の形式…書いた本人には理由があるんでしょうね?
編集上の都合とか(笑)
(912SH)
12 赤龍
>>11
一応、伝を立てる人物の人選とか、それをどの巻にまとめるかという構成も、勿論その作者なりの意図がしっかりあるはずです。それが、私等から見れば違和感を感じる場合も時々ありますが……。

典韋の伝を含む魏書の巻十八については、単純に魏のその他の武臣列伝という感じでひとくくりにされたものではないでしょうか。
巻九でまず曹・夏侯氏と一門・準一門クラスを、巻十七でそれ以外の武臣の功績筆頭とも言える人物を、そして巻十八でその他の武臣を、という感じで。

あえてさらに細分化すれば、>>8の諏訪さんのような考えもあるかもしれませんが、そこまで陳寿は武臣を細かく分ける気はなかったんじゃないかと思います。
呉書でも、巻十にかなりの数が詰め込まれていますし。
(PC)
13 しす
>>12
やはり十把一からげってのが一番しっくりくるんですかねぇ。
確かに呉書の件の箇所は「多すぎだろ」的な気はしました。

ただやっぱり今でも特に>>6で挙げた面々は「わしだったら違う括りにしたいなぁ」なんて思いはあります。
自分ならどう纏めるか?と妄想を巡らすのも楽しみの一つかなとも思いますね。
(PC)
14 諏訪
>>12
ホウ悳まではその他の武臣として納得できますが、ホウイクと閻温は違う気がします。ただ、彼らのために別に巻を立てるほどではないので、同じ巻に入れたのかなと思います。それこそ、李三さんの仰られる編集上の都合ということでしょう。
(W51S/au)
悪来典韋ていうのはたしか本名
じゃありませんよね。本名は何でしょうかね。
(N905imyu/FOMA)
16 寿君
姓は典、名は韋で、字は記述がありません。
悪来はご存じかも知れませんが、殷の紂王の家来から取った渾名。

“あくらい”または“おらい”とも読みますが、個人的には、最近“おらい”も良いなぁと思ってます。
短戟を投げて、敵を退ける場面が好きです。確か、正史にも記述ありましたよね?。確か読んで「あれ、これちゃんと正史に載ってるんだぁ」と感心した記憶がありますから。
(P905i/FOMA)
17 赤龍
悪来の件は>>4の初心者スレのほうでも話題にあがってますね。
そちらでも触れてますが、私が調べた限り、正史では典韋がそういうあだ名でよばれたことはなかったような。演義でも実は一箇所程度(ここら辺は要検証)

ふと思ったのですが、演義で典韋が悪来にたとえられたのは、暗に対になる連想として、曹操を暴君として名高い紂王の位置に置こうとしてるんじゃないか?
深読みしすぎですかね(苦笑)
(PC)
18 赤龍
ちなみに、安能務さんの『封神演義』読んでたら、悪来出てきたんですが、単なる二代目奸臣コンビという扱いで、強力なんて話は悲しくなるほど全く無かったです。
原典のほうはどうなってるか確認してないですが。
(PC)
19 寿君
私も悪来なんて言うから、凄い人なんだろうと思ってたら、今Wikipediaみたら、殷の紂王時代の官僚と書かれてて、肩透かし食らいました。
しかし、Wikipediaの典韋の紹介は間違えるのでは、完全に正史でも悪来と呼ばれてたかの如き、書き方になってる。
正史にはないし、あそこ他では大体は正史と演義とは区別して書くのに…。
(P905i/FOMA)
20 巫俊(ふしゅん)
とりあえずコピペだけ。解説聞きたかったら言ってください。

崇 侯 、 悪 来 知 不 適 紂 之 誅 也 , 而 不 見 武 王 之 滅 之 也 。 比 干 、 子 胥 知 其 君 之 必 亡 也 , 而 不 知 身 之 死 也 。 故 曰 : 『 崇 侯 、 悪 来 知 心 而 不 知 事 , 比 干 、 子 胥 知 事 而 不 知 心 。 』 聖 人 其 備 矣 。
『韓非子』説林下
(PC)
21 巫俊(ふしゅん)
裴松之の属する河東郡聞喜県の裴氏は『新唐書』宰相世系表によると、悪来の末裔であるとあります。
裴茂、裴潜らは漢、魏に仕えて有名ですね。
(PC)
22 しす
そういえば立伝されていながら字が記されていない人って典韋の他は張繍、劉封…他に誰かいましたっけ?
(912T/SB)
23 諏訪
>>22
皇族と后妃を別にすると、張燕・朱建平・趙達がいますね。
朱建平は字の可能性がありますが。
(F07B/FOMA)
24 しす
>>23
ありがとうございます。
朱建平と張達は方術士の類として扱いが軽くなったんですかね。
典韋、張繍と劉封は曹昂、関羽の死に関わっているからと考えるべきなのでしょうか。
張燕は賊あがりだから?
それぞれ、そんな単純な理由ではないのかもしれませんが、ちょっと気になります。
(912T/SB)