1 ヤスシ
泣いて馬謖を切る?切らない?
はじめましての方も多いかと思います。
軍律の為に馬謖を切るあのシーン。泣いてしまった方も居るかと思いますが、自分は切るのはやり過ぎだったかと考えます。ただでさえ蜀軍は人材不足。まだ若く、これからの馬謖を切ってしまったのは結果論ではありますが、蜀の滅亡を早めてしまうだけだったのではないでしょうか?
皆様のお考えを拝聴したく存じ上げます。
軍律の為に馬謖を切るあのシーン。泣いてしまった方も居るかと思いますが、自分は切るのはやり過ぎだったかと考えます。ただでさえ蜀軍は人材不足。まだ若く、これからの馬謖を切ってしまったのは結果論ではありますが、蜀の滅亡を早めてしまうだけだったのではないでしょうか?
皆様のお考えを拝聴したく存じ上げます。
(J-SH53_a)
2 天草
確かに人材不足の蜀にあって、馬謖は有望な若手だったと考えられますね。
実は蜀には(他の国もそうでしょうが)いくつかの政治的な派閥が存在してました。入蜀以前の劉備配下と入蜀後に配下になった益州の名士達がその代表です。孔明は失策を演じた馬謖を許しては益州の名士達の反感を買ってしまう、と考えたのではないでしょうか?もちろん馬謖も孔明も荊州で仲間になった名士ですからね。
公平な政治・懲罰を行い、益州の人民の支持を得る事が孔明には必要だと感じたのでしょう。
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泣いて馬謖を斬る
第一次北伐
実は蜀には(他の国もそうでしょうが)いくつかの政治的な派閥が存在してました。入蜀以前の劉備配下と入蜀後に配下になった益州の名士達がその代表です。孔明は失策を演じた馬謖を許しては益州の名士達の反感を買ってしまう、と考えたのではないでしょうか?もちろん馬謖も孔明も荊州で仲間になった名士ですからね。
公平な政治・懲罰を行い、益州の人民の支持を得る事が孔明には必要だと感じたのでしょう。
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(PC)
3 ei
うろ覚えなのにカキコするのが大好きのエイとイイマス
馬幼常についてですが、
出世のコースが途中で方向性が変わってしまっていると聞いたことがあります。
加えて、当時の通例では士大夫が一度の失敗で刑死に至ることは少なかったと記憶しています。
この二つを鑑みると、
「街亭の戦いこそが名誉挽回のチャンス」
として諸葛丞相が弟子に与えたのではないかと、推察をしてみたりするわけです。
馬幼常についてですが、
出世のコースが途中で方向性が変わってしまっていると聞いたことがあります。
加えて、当時の通例では士大夫が一度の失敗で刑死に至ることは少なかったと記憶しています。
この二つを鑑みると、
「街亭の戦いこそが名誉挽回のチャンス」
として諸葛丞相が弟子に与えたのではないかと、推察をしてみたりするわけです。
(P2102V/FOMA)
5 大伴
馬氏の五常については、恐らく伝わってないと思うのですが、記されているとすれば、三国志では無いですね。
さて、只今調べましたところ、馬謖の死について記されている箇所は、馬良伝、諸葛亮伝、王平伝、向朗伝の四つです。この内、注目すべきは、向朗伝の記述ではないでしょうか?ここには向朗が「馬謖の逃亡を知りながら、孔明に報告しなかった為に、官を免じた」とあります。馬謖が敗戦後、逃亡を企てた可能性もある事は、見逃せませんね。
さて、只今調べましたところ、馬謖の死について記されている箇所は、馬良伝、諸葛亮伝、王平伝、向朗伝の四つです。この内、注目すべきは、向朗伝の記述ではないでしょうか?ここには向朗が「馬謖の逃亡を知りながら、孔明に報告しなかった為に、官を免じた」とあります。馬謖が敗戦後、逃亡を企てた可能性もある事は、見逃せませんね。
(F2102V/FOMA)
7 大伴
馬謖が逃亡を企てたとするならば、まぁ斬られてもおかしく無いでしょう。
しかしそれ以上に、一罰百戒という意味もありましょう。それが弟分の馬良の実弟であれば、以後諸将は、後々の処罰を恐れて、自分の判断よりも諸葛亮の判断を優先させるでしょう。
現代でもあらゆる職場で、似た様な事は起きていると思いますよ。
しかしそれ以上に、一罰百戒という意味もありましょう。それが弟分の馬良の実弟であれば、以後諸将は、後々の処罰を恐れて、自分の判断よりも諸葛亮の判断を優先させるでしょう。
現代でもあらゆる職場で、似た様な事は起きていると思いますよ。
(F2102V/FOMA)
8 天草
しかしよく考えたら、曹操は何度も配下のミスを寛容な処分で許しています。
この馬謖の処分は孔明ではなく、曹操なら、もしかしたら許していたのかも知れませんね。
逃亡していなかったら…という条件付ですが…。
この馬謖の処分は孔明ではなく、曹操なら、もしかしたら許していたのかも知れませんね。
逃亡していなかったら…という条件付ですが…。
(PC)
11 大伴
曹操も許すかは微妙ですね。馬謖の行為は軍紀違反であり、軍紀に関しては曹操も厳しいところありますから。
まぁでも曹操という人にとっては、許す事がどれだけ自分に有利に働くかどうか、の方が大切な様な気がしますから……?マークを付けておきます。
まぁでも曹操という人にとっては、許す事がどれだけ自分に有利に働くかどうか、の方が大切な様な気がしますから……?マークを付けておきます。
(F2102V/FOMA)
12 大伴
そういえば、晋書では、三国志での諸葛亮の書き方が悪かった為、陳寿への中傷が多く、悪い歴史家のイメージを作ろうとしていますが、その<陳寿伝>に、
寿父為馬謖参軍
謖為諸葛亮所誅
寿父亦坐被コン
とあります。陳寿の父は、馬謖の参軍で、罰として髪を剃られた……とあり、だから諸葛亮を悪く書いた……と続きます。
<諸葛亮伝>の評の最末に書かれた一文、
蓋応変将略
非其所長ヨ
(蓋し応変の将略は、其の長ずる所に非らざるカ→意訳;孔明は戦争が下手だったのだろう)
は、今でも陳寿を非難する材料になりますからね。孔明人気、恐ろしいですね。孔明ファンに正史の話はせぬが無難です。
寿父為馬謖参軍
謖為諸葛亮所誅
寿父亦坐被コン
とあります。陳寿の父は、馬謖の参軍で、罰として髪を剃られた……とあり、だから諸葛亮を悪く書いた……と続きます。
<諸葛亮伝>の評の最末に書かれた一文、
蓋応変将略
非其所長ヨ
(蓋し応変の将略は、其の長ずる所に非らざるカ→意訳;孔明は戦争が下手だったのだろう)
は、今でも陳寿を非難する材料になりますからね。孔明人気、恐ろしいですね。孔明ファンに正史の話はせぬが無難です。
(F2102V/FOMA)
13 趙
でも正史を読めば陳寿が故国の偉大な丞相として孔明を敬愛していたことが分かるかと。それを考えると陳寿も可愛そうですな。ただの一文でごうごうたる非難を浴びることになって。まあ歴史家の常ですが。
(N900i/FOMA)
14 大伴
ええ。
今日に至るまで、孔明の政治家としての手腕が知られているのは、何といっても正史である三国志の功績が大きいですからね。三国志が無ければ、孔明の政治力の評価に、今程の信頼はなかったかも知れませんものね。
まあ、↑で本当に言いたかった事は、
「陳寿の親父は、街亭の負け戦の際、馬謖のスタッフだった」
であって孔明評はオマケのつもりだったのですが……オマケがメインのビックワンガム状態でしたね(汗)
今日に至るまで、孔明の政治家としての手腕が知られているのは、何といっても正史である三国志の功績が大きいですからね。三国志が無ければ、孔明の政治力の評価に、今程の信頼はなかったかも知れませんものね。
まあ、↑で本当に言いたかった事は、
「陳寿の親父は、街亭の負け戦の際、馬謖のスタッフだった」
であって孔明評はオマケのつもりだったのですが……オマケがメインのビックワンガム状態でしたね(汗)
(F2102V/FOMA)
17 大伴
「心を攻めるが上策、城を攻めるは下の策」
なんとも耳障りの良い言葉です。少なくとも彼は、論客としては優れていたのでしょうね。しかし劉備は負け戦ばかりとはいえ、流石に場数を踏んでいます。謖の経験の無さを注意していますね。現場は理屈どおりが通じる場では無いのでしょう(もっとも彼の失敗は、理論による部類のものですが)。
私は妥当と思いますが、裴松之は謖を厳しく罰した事を強く批判していますね。まぁ孔明としては、親しかっただけに、甘くはできなかったのでしょう。
なんとも耳障りの良い言葉です。少なくとも彼は、論客としては優れていたのでしょうね。しかし劉備は負け戦ばかりとはいえ、流石に場数を踏んでいます。謖の経験の無さを注意していますね。現場は理屈どおりが通じる場では無いのでしょう(もっとも彼の失敗は、理論による部類のものですが)。
私は妥当と思いますが、裴松之は謖を厳しく罰した事を強く批判していますね。まぁ孔明としては、親しかっただけに、甘くはできなかったのでしょう。
(F2102V/FOMA)
18 大伴
このスレッドに思い入れあるの、私だけかなぁ?並ぶ大伴の名……
<向郎伝>にある逃亡疑惑や、陳寿の父が街亭で馬謖の参軍だった事など述べてきましたが、(私自身が否定している為に)一つ大事な疑惑を忘れていました。
獄死疑惑……<馬良伝>に「謖下獄して物故す」とあるのです。これはいかなる事でしょうか?裴松之も、この一文に否定的な意見を書いてはいません。私は私なりに考えがありますが、先ずは皆さん、どう考えますか?
<向郎伝>にある逃亡疑惑や、陳寿の父が街亭で馬謖の参軍だった事など述べてきましたが、(私自身が否定している為に)一つ大事な疑惑を忘れていました。
獄死疑惑……<馬良伝>に「謖下獄して物故す」とあるのです。これはいかなる事でしょうか?裴松之も、この一文に否定的な意見を書いてはいません。私は私なりに考えがありますが、先ずは皆さん、どう考えますか?
(F2102V/FOMA)
20 漢森
初投稿で失礼します
確かに馬謖の最後は「諸葛亮伝」「王平伝」では誅戮、「向朗伝」では逃亡、「馬良伝」は獄死(と云うより投獄された後死亡と訳すべきか?)と一見矛盾するかの様な書き方をなされていますが、それぞれが正しいとすれば、《馬謖は街亭の敗戦後、罪を怖れて逃亡を計るも、捕まり投獄され、そして処刑された。》と解釈出来ませんか?
陳寿は「伝」を立てた本人にとって不名誉な事は書かない為、一つの事柄を幾つかに分けて記載する事が多い三国志ならではの「謎」ですね
確かに馬謖の最後は「諸葛亮伝」「王平伝」では誅戮、「向朗伝」では逃亡、「馬良伝」は獄死(と云うより投獄された後死亡と訳すべきか?)と一見矛盾するかの様な書き方をなされていますが、それぞれが正しいとすれば、《馬謖は街亭の敗戦後、罪を怖れて逃亡を計るも、捕まり投獄され、そして処刑された。》と解釈出来ませんか?
陳寿は「伝」を立てた本人にとって不名誉な事は書かない為、一つの事柄を幾つかに分けて記載する事が多い三国志ならではの「謎」ですね
(N504iS)
21 天草
漢森殿>初めまして!よろしくお願いします!
なるほど!全ての記述が真実だということですね。
馬謖の不名誉な記録を、陳寿は書きたくなかったのかな?それとも諸葛亮を際立たせる為のかませ犬にしたかったのかな?
なるほど!全ての記述が真実だということですね。
馬謖の不名誉な記録を、陳寿は書きたくなかったのかな?それとも諸葛亮を際立たせる為のかませ犬にしたかったのかな?
(PC)
22 大伴
私も漢森さんと同意見ですね。陳寿は馬良を扱う列伝で、彼の肉親の不名誉な出来事を書きたくなかったのでしょう。
裴松之もその気持ち(というより意図)が理解できたからこそ、ワザワザの直接的な指摘を避けたのではないでしょうか。
ただ裴松之は<馬良伝>のその注で、馬謖の刑死を書き、それを暗に否定しています。
裴松之もその気持ち(というより意図)が理解できたからこそ、ワザワザの直接的な指摘を避けたのではないでしょうか。
ただ裴松之は<馬良伝>のその注で、馬謖の刑死を書き、それを暗に否定しています。
(F2102V/FOMA)
23 漢森
そんなこんなで、スレの主題に戻りますが、諸葛亮が愛弟子(と云うより作戦参謀、少なくとも戦略・戦術に関しては諸葛亮が馬謖に意見を仰いでる)の馬謖を斬らざるを得なかったのは、敗戦の罪より逃亡の罪に依るものではなかったのではないでしょうか?
馬謖の場合未遂に終わり、何処に落ち延びるつもりだったかは永遠の謎ですが、普通、軍の司令官が逃亡を企てて頼る先と云えば、今迄敵対していた相手ですよね(そこが一番安全ですからね)だとしたら、これはちょっと許せるレベルの話じゃないですよね。
諸葛亮の涙は、裏切られた悔し涙もあったのかも
馬謖の場合未遂に終わり、何処に落ち延びるつもりだったかは永遠の謎ですが、普通、軍の司令官が逃亡を企てて頼る先と云えば、今迄敵対していた相手ですよね(そこが一番安全ですからね)だとしたら、これはちょっと許せるレベルの話じゃないですよね。
諸葛亮の涙は、裏切られた悔し涙もあったのかも
(N504iS)
24 天草
なるほどね。
もし漢森殿の推理が正しければ、諸葛亮の評価を上げるために作られた故事のお陰で、馬謖は後世において過大評価(元々評価は高かったのでしょうが…)を受けた、幸運の持ち主って事になりますかね。
もし漢森殿の推理が正しければ、諸葛亮の評価を上げるために作られた故事のお陰で、馬謖は後世において過大評価(元々評価は高かったのでしょうが…)を受けた、幸運の持ち主って事になりますかね。
(PC)
25 大伴
ここで少し馬謖の抜擢についての私見を。
蜀には人的資源が少なく、孔明には人材育成の必要もありました。しかし人を育てるという事は、手取り足取りノウハウを教える事ばかりではありません。少々荷が重いかな?という程度の仕事を任せてみて、経験を積ませる事も、一つの手法なのです。
恐らく孔明としては、己の指示を守れば勝てる……という思いがあったのでは無いでしょうか?彼の抜擢は贔屓などよりも、勝てる戦闘で、彼に経験を多く積ませる為の物であったと、そう考えます。
如何でしょう?
蜀には人的資源が少なく、孔明には人材育成の必要もありました。しかし人を育てるという事は、手取り足取りノウハウを教える事ばかりではありません。少々荷が重いかな?という程度の仕事を任せてみて、経験を積ませる事も、一つの手法なのです。
恐らく孔明としては、己の指示を守れば勝てる……という思いがあったのでは無いでしょうか?彼の抜擢は贔屓などよりも、勝てる戦闘で、彼に経験を多く積ませる為の物であったと、そう考えます。
如何でしょう?
(F2102V/FOMA)
26 C
反対に人材の必要ない国家を作ろうとしたのかもしれませんよ
韓非子にあるようなしっかりとした法治国家を作ることで劉備のような人徳ある人物でない君主でも治めれる国作りの基礎作りとして行ったのではないでしょうか
つまり、名君主も名将も名軍師もいなくても長期戦っていける国家作りこそこの天下三分から勝ちのこる方法だと言えます
そうすると、バショクは孔明の長期戦略からすれば切られて当然かと
韓非子にあるようなしっかりとした法治国家を作ることで劉備のような人徳ある人物でない君主でも治めれる国作りの基礎作りとして行ったのではないでしょうか
つまり、名君主も名将も名軍師もいなくても長期戦っていける国家作りこそこの天下三分から勝ちのこる方法だと言えます
そうすると、バショクは孔明の長期戦略からすれば切られて当然かと
(F900i/FOMA)
27 大伴
Cさんの意見は、
「規則を重視した組織を孔明は理想とした為、命令違反をした馬謖は斬られて当然」
という事かな?まぁこれは理解できます。恐らくそうでしょう。
しかし、人材育成の放棄をするのとは、亦別の問題であると思います。飽くまでそれは、突出した才能を必要としないシステムの構築であって、才能ある人を不要とするものでは無いでしょうから。
ちなみに私の意見は、孔明の失敗談の一つとして、馬謖の起用(というか大抜擢)が良くあげられますが、私はそれ程には感じないと思うという事です。失敗は結果であって、育成の見地から言えばそうおかしくも無いと。
「規則を重視した組織を孔明は理想とした為、命令違反をした馬謖は斬られて当然」
という事かな?まぁこれは理解できます。恐らくそうでしょう。
しかし、人材育成の放棄をするのとは、亦別の問題であると思います。飽くまでそれは、突出した才能を必要としないシステムの構築であって、才能ある人を不要とするものでは無いでしょうから。
ちなみに私の意見は、孔明の失敗談の一つとして、馬謖の起用(というか大抜擢)が良くあげられますが、私はそれ程には感じないと思うという事です。失敗は結果であって、育成の見地から言えばそうおかしくも無いと。
(F2102V/FOMA)
28 天草
Cさんの意見、私は気に入りました!
斬新で、面白い意見ですよね。
天下三分の計の完成はどこだったのか?にもよるのかな?いずれ新スレでも検証したいですね!
天下三分の計は、三分して終わりなのか?統一しておわりだったのか?
斬新で、面白い意見ですよね。
天下三分の計の完成はどこだったのか?にもよるのかな?いずれ新スレでも検証したいですね!
天下三分の計は、三分して終わりなのか?統一しておわりだったのか?
(PC)
29 C
大伴さん>ちょいと違います。放棄との見方は、当時の背景としてはそう見えると言う程度です
言い方が難しいですね、つまり孔明は時代を先取りしすぎた感があるということです。
天草さん>面白いですね孔明は、果たして劉備に天下三分の全てを伝えたのか!?とかもですね
言い方が難しいですね、つまり孔明は時代を先取りしすぎた感があるということです。
天草さん>面白いですね孔明は、果たして劉備に天下三分の全てを伝えたのか!?とかもですね
(F900i/FOMA)
31 ずわい
馬謖が斬られた事については孔明の考えを考察するにふさわしい出来事ですよね。
自分は孔明の北伐は無茶だと思います。
劉禅がしっかりした人物ならやはり止めたと思います。
それでも孔明が北伐した理由は劉備に対しての忠義に他ならないと考えますが、自分も無茶と知りながらも自分の描く作戦通りにいけば…と考える孔明にとって馬謖の失敗は自軍に多大な被害を与えたもので、失敗は許さない、という態度は自軍の士気を取り戻すのに仕方なかったのでは。
もしくは、寵愛していた馬謖に対し甘い処置では士気に関わると考えたのかも。
なんにせよ、この出来事のせいでダメ武将のレッテルを貼られましたが、彼が生きていたら孔明、馬謖、姜維の三人でどんな事ができたかを考えると残念で仕方ありませんね。
自分は孔明の北伐は無茶だと思います。
劉禅がしっかりした人物ならやはり止めたと思います。
それでも孔明が北伐した理由は劉備に対しての忠義に他ならないと考えますが、自分も無茶と知りながらも自分の描く作戦通りにいけば…と考える孔明にとって馬謖の失敗は自軍に多大な被害を与えたもので、失敗は許さない、という態度は自軍の士気を取り戻すのに仕方なかったのでは。
もしくは、寵愛していた馬謖に対し甘い処置では士気に関わると考えたのかも。
なんにせよ、この出来事のせいでダメ武将のレッテルを貼られましたが、彼が生きていたら孔明、馬謖、姜維の三人でどんな事ができたかを考えると残念で仕方ありませんね。
(N900i/FOMA)
32 ユウキ
勝手な妄想です孔明が生きてる内はともかく死後二人は仲悪くなるような権力の取り合いが始まりそうでも漢中に姜維、上庸方面に馬ショクがいたら頼もしいですねショウエンの上庸に攻め込む案が途中で挫折しましたけど馬ショクがいたらできたかも地理にもある程度は詳しそうですし
(P900i/FOMA)
34 ユウキ
ソウソウなら斬りませんよね斬るかなちょっと詳しくないですけど我々と同じで三国時代にも当然世間体ってあったと思うんですがバショク生きていてもかなりつらい立場ですよね魏延なんかはかなり文句いいそう
(P900i/FOMA)
35 くわぁまん
馬氏の五常白眉よしの言葉で解る事…。
@馬良は長男では無い(多分四男)上に兄が三人いる
A馬謖は五男の末弟
B字の決まりを考慮し三人の兄を想像…
長男…馬〇泊常
二男…馬〇仲常
三男…馬〇叔常
四男…馬良季常
五男…馬謖幼常
となります。尚、字の決まりは司馬の八達を参照
@馬良は長男では無い(多分四男)上に兄が三人いる
A馬謖は五男の末弟
B字の決まりを考慮し三人の兄を想像…
長男…馬〇泊常
二男…馬〇仲常
三男…馬〇叔常
四男…馬良季常
五男…馬謖幼常
となります。尚、字の決まりは司馬の八達を参照
(SH900i/FOMA)
36 たけがみ◆FiJ8
長男の伯は孟かもしれませんね。
私が孔明なら多分斬ります。罪の重さから処置としては斬るか、庶民に落とすかしかないと思いますが馬謖はプライドが高そうなので落としても自吻しそうですから、軍の引き締めに役立ってもらいます。前のほうのレスにあるようにもし脱走してたら選択の余地すらないですが。
私が孔明なら多分斬ります。罪の重さから処置としては斬るか、庶民に落とすかしかないと思いますが馬謖はプライドが高そうなので落としても自吻しそうですから、軍の引き締めに役立ってもらいます。前のほうのレスにあるようにもし脱走してたら選択の余地すらないですが。
(N900i/FOMA)
37 天草
ずっと探してたんですが(笑)やっと見つけました!馬謖逃亡説のソース。
『蜀書・向郎伝』 より
『向郎は平素より馬謖と仲が良かったので馬謖が逃亡した際、事情を知りながら黙認した。諸葛亮はこれを恨んで(向郎を)免官し成都に帰還させた。』
果たして真相はいかに!?
『蜀書・向郎伝』 より
『向郎は平素より馬謖と仲が良かったので馬謖が逃亡した際、事情を知りながら黙認した。諸葛亮はこれを恨んで(向郎を)免官し成都に帰還させた。』
果たして真相はいかに!?
(PC)
38 赤龍
この謎の向朗伝の記述、宮川尚志さんの『諸葛孔明』では、馬謖敗れ、街亭から逃亡(敗走)向朗は馬謖をかばうつもりでこれを孔明に報告せず、蜀軍全軍総崩れに。と解釈してます。どうなんでしょう?
これに限らず、三国志って重大事件の詳細がはっきりしないこと多いですよね。赤壁とか。
これに限らず、三国志って重大事件の詳細がはっきりしないこと多いですよね。赤壁とか。
(J-SA05)
40 ユウキ
パニックになって現場放棄したのかも知れないですよね!それを向朗がかばってバショクは最後まで現場に残ってがんばってました!って報告したのかも
罰を恐れて逃げたというより恐くなって頭の中真っ白になってつい逃げてしまったのでは??ひき逃げ犯的な感覚で
罰を恐れて逃げたというより恐くなって頭の中真っ白になってつい逃げてしまったのでは??ひき逃げ犯的な感覚で
(P900i/FOMA)
何年か前に一杯のかけそばの話が話題になりましたが、馬謖は兄の馬良とともに伊籍より劉備に紹介されるが、始めに召し抱えられたのは馬良だけで、馬謖が何時から召し抱えられたかは不明…。
ですが、伝が有ります。
宜城に住む馬謖は劉備を慕っていた…。荊州の劉表が亡くなり、曹操が劉備討伐軍を動かした。劉備は戦火を避け数千の兵と何万もの住民を連れ南下…。宜城はその通り道あたる。 馬謖は薬草を入れた何万杯ものお茶を彼等に振る舞い、その行いに感動した劉備はその場で馬謖を配下にとりたてた…。とね。
ですが、伝が有ります。
宜城に住む馬謖は劉備を慕っていた…。荊州の劉表が亡くなり、曹操が劉備討伐軍を動かした。劉備は戦火を避け数千の兵と何万もの住民を連れ南下…。宜城はその通り道あたる。 馬謖は薬草を入れた何万杯ものお茶を彼等に振る舞い、その行いに感動した劉備はその場で馬謖を配下にとりたてた…。とね。
(SH900i/FOMA)
44 たろう
始めまして。いつもこのサイトをみさせていただいています。
早速なんですが私は斬る以前に街亭の戦いは何故負けたのかというのが疑問です。バショクは決して間違ってはないと思います。なぜなら兵法は確実に山上に布陣したほうが有利。敗戦の要因は水路を断たれた事とありますが聞いた所によると従軍の際には命ともいえる水を大量にもっていきそんなに簡単に尽きることはないといわれてます。なのに亮はなぜ山上に布陣してはいけないといったのか?それこそ敵に山上に布陣され散々だったと思うんですがどうでしょうか?
早速なんですが私は斬る以前に街亭の戦いは何故負けたのかというのが疑問です。バショクは決して間違ってはないと思います。なぜなら兵法は確実に山上に布陣したほうが有利。敗戦の要因は水路を断たれた事とありますが聞いた所によると従軍の際には命ともいえる水を大量にもっていきそんなに簡単に尽きることはないといわれてます。なのに亮はなぜ山上に布陣してはいけないといったのか?それこそ敵に山上に布陣され散々だったと思うんですがどうでしょうか?
(W21SA/au)
45 大伴
たろろさん始めまして。
難しい問題が来ましたね。
確かに水の補給が容易では無い時は、その準備もしたと思います。しかしこの場合、孔明は水路の傍を決戦場に選んでいますから、その用意が無かったのかも知れませんね。戦闘や移動の邪魔になるだけで無く、食料等の問題もありますから、なるべく余計な人員は連れていきたく無いのです。
この理由では弱いかな?
近いうちに私も考えてみます。皆さんの意見もお聞かせ下さい。
難しい問題が来ましたね。
確かに水の補給が容易では無い時は、その準備もしたと思います。しかしこの場合、孔明は水路の傍を決戦場に選んでいますから、その用意が無かったのかも知れませんね。戦闘や移動の邪魔になるだけで無く、食料等の問題もありますから、なるべく余計な人員は連れていきたく無いのです。
この理由では弱いかな?
近いうちに私も考えてみます。皆さんの意見もお聞かせ下さい。
(F2102V/FOMA)
49 しす
当時の街亭辺りはうっそうと樹木が生い茂る広大な森林地帯であったようです。
そして軍が行軍するには人が切り開いた道を進むしかなかったとか。
万を越える軍勢が森林地帯を迂回することは不可能で新たに道を切り開く時間もなかった。
孔明の考えではこの地形を利用し街道封鎖すれば寡兵でも魏軍の脚を止めることができると考えたのではないでしょうか。
街道沿いに設営してしまえば線上の一点での戦闘になりますから守りを堅くしていれば大軍と言えど、それを抜くことは難しかったのでは。
それとたとうさんの指摘する水の件ですが、馬謖の軍は前衛部隊ですから大量の補給物資を抱えて進軍していたとは考えにくいのではないでしょうか。
山上に布陣し水の手を断たれた上に逆に糧道を封鎖されては敗北は必至かと思います。
それと高きから低きへと攻めた方が有利なのは確かですが、それも敵が攻め寄せてきた場合のお話。
魏軍が無理攻めをせず、守りを固めて包囲してしまえば効果は半減します。
それに糧道を断たれ、退路を断たれた軍の士気は減退しきっており、この状態で攻撃を仕掛けたところでまともな戦果が期待できるとも思えないのですが。
ましてや相手は半世紀近くに渡って戦場で指揮をとり続けた名将張コウ。
果たしてこの状態で馬謖に勝算があったでしょうか?
そして軍が行軍するには人が切り開いた道を進むしかなかったとか。
万を越える軍勢が森林地帯を迂回することは不可能で新たに道を切り開く時間もなかった。
孔明の考えではこの地形を利用し街道封鎖すれば寡兵でも魏軍の脚を止めることができると考えたのではないでしょうか。
街道沿いに設営してしまえば線上の一点での戦闘になりますから守りを堅くしていれば大軍と言えど、それを抜くことは難しかったのでは。
それとたとうさんの指摘する水の件ですが、馬謖の軍は前衛部隊ですから大量の補給物資を抱えて進軍していたとは考えにくいのではないでしょうか。
山上に布陣し水の手を断たれた上に逆に糧道を封鎖されては敗北は必至かと思います。
それと高きから低きへと攻めた方が有利なのは確かですが、それも敵が攻め寄せてきた場合のお話。
魏軍が無理攻めをせず、守りを固めて包囲してしまえば効果は半減します。
それに糧道を断たれ、退路を断たれた軍の士気は減退しきっており、この状態で攻撃を仕掛けたところでまともな戦果が期待できるとも思えないのですが。
ましてや相手は半世紀近くに渡って戦場で指揮をとり続けた名将張コウ。
果たしてこの状態で馬謖に勝算があったでしょうか?
(PC)
51 天草
たろうさん>初めまして!以後よろしくお願いします!
白熱した皆さんの意見を拝見させてもらいました。私も愚見ですが、この問題を自分なりに考えました。
まずは5つの北伐ルートをもう一度、確認です。
北伐ルート
このうち、第一次北伐では諸葛亮は趙雲とケ芝という名将を褒斜道に向かわせ、そこを通ると見せかけて、大軍を関山道に向かわせました。この理由は天水郡のいくつかを帰順させ、後顧の憂いを起つためですね。これにより、曹真はまんまと騙されて、その隙に本軍は街亭まで辿り着きます。ちなみにここで姜維が降伏します。
さていよいよ街亭での布陣ですが、ここから先はまだ調べてません(爆)また調べてみます。ここまでは皆さんの調べ・意見と同じでしょうか?
白熱した皆さんの意見を拝見させてもらいました。私も愚見ですが、この問題を自分なりに考えました。
まずは5つの北伐ルートをもう一度、確認です。
北伐ルート
このうち、第一次北伐では諸葛亮は趙雲とケ芝という名将を褒斜道に向かわせ、そこを通ると見せかけて、大軍を関山道に向かわせました。この理由は天水郡のいくつかを帰順させ、後顧の憂いを起つためですね。これにより、曹真はまんまと騙されて、その隙に本軍は街亭まで辿り着きます。ちなみにここで姜維が降伏します。
さていよいよ街亭での布陣ですが、ここから先はまだ調べてません(爆)また調べてみます。ここまでは皆さんの調べ・意見と同じでしょうか?
(PC)
52 削除済
53 天草
では正史の各伝から、真実を紐解きます。
『諸葛亮が祁山に出陣した。張儁乂は特進の位を与えられ、諸軍を指揮して諸葛亮の武将、馬謖を街亭で防いだ。馬謖は南山を頼りとして抵抗し、平地に降りて戦おうとしなかった。張儁乂は彼らの水源を断ち、攻撃して散々にこれを打ち破った』(張コウ伝)
『228年、諸葛亮は出陣して祁山に向った。当時経験を積んだ指揮官として魏延、呉懿らがおり、意見を言ったものは皆、彼らを先鋒にするべきだといった。しかし諸葛亮はそれに反して馬謖を抜擢して先鋒として大軍を率いさせて前方にやり、魏の将軍、張儁乂と街亭で戦わせたが張儁乂によって打ち破られて軍兵は散り散りになった。諸葛亮は進軍しても拠点にするべき場所が無かったので軍を撤退させて漢中に戻った』(馬謖伝)
『228年、参軍馬謖の先鋒隊に属した。馬謖は水路を捨てて山に登って陣を構え、指示する措置は煩雑を極めた。王平は何度も馬謖をいさめたが馬謖は取り上げず、街亭で大敗を喫することになった。軍兵はことごとく四散したが、王平指揮下の兵一千だけは陣太鼓を打ち鳴らして踏みこたえたので張儁乂は伏兵がいるのではないかと怪しんで近づこうとしなかった。そこで王平は徐々に緒営の残留兵を吸収して、将兵を率いて帰還した』(王平伝)
たったこれだけかよ…(汗)
『諸葛亮が祁山に出陣した。張儁乂は特進の位を与えられ、諸軍を指揮して諸葛亮の武将、馬謖を街亭で防いだ。馬謖は南山を頼りとして抵抗し、平地に降りて戦おうとしなかった。張儁乂は彼らの水源を断ち、攻撃して散々にこれを打ち破った』(張コウ伝)
『228年、諸葛亮は出陣して祁山に向った。当時経験を積んだ指揮官として魏延、呉懿らがおり、意見を言ったものは皆、彼らを先鋒にするべきだといった。しかし諸葛亮はそれに反して馬謖を抜擢して先鋒として大軍を率いさせて前方にやり、魏の将軍、張儁乂と街亭で戦わせたが張儁乂によって打ち破られて軍兵は散り散りになった。諸葛亮は進軍しても拠点にするべき場所が無かったので軍を撤退させて漢中に戻った』(馬謖伝)
『228年、参軍馬謖の先鋒隊に属した。馬謖は水路を捨てて山に登って陣を構え、指示する措置は煩雑を極めた。王平は何度も馬謖をいさめたが馬謖は取り上げず、街亭で大敗を喫することになった。軍兵はことごとく四散したが、王平指揮下の兵一千だけは陣太鼓を打ち鳴らして踏みこたえたので張儁乂は伏兵がいるのではないかと怪しんで近づこうとしなかった。そこで王平は徐々に緒営の残留兵を吸収して、将兵を率いて帰還した』(王平伝)
たったこれだけかよ…(汗)
(PC)
54 天草
さて、ここからは私の推測です。
まず水路と馬謖の布陣の問題。私は祁山という地(安定ら帰順させた地と長安を結ぶ要所)に砦があったのでは…と予想します。
諸葛亮は、自分は帰順させた地方の平定に取り掛かり、その間に魏の大軍を祁山で馬謖に防がせようとした。しかし、馬謖は守りやすい砦で守らず、街亭に出陣して迎え撃とうとした。その際、王平は猛反対。張コウはその山と砦を包囲し、補給のやり取りをさせなかった。こんな感じではないでしょうか?
なぜ馬謖はわざわざ守りやすい砦でなく山頂に布陣したのか?それは諸葛亮と馬謖の北伐における『認識の違い』があったのだと思います。
諸葛亮は、困難な補給を少しでも楽にさせるように少しずつ魏の地を帰順させながら平定し、長安を目指した…のに対し、馬謖は、張コウ率いる魏の大軍を見て功をあせり、侵攻を続ける事で長安を奪取しようと考えた。
そう考えると馬謖の布陣の意味も分かる気がします。
事実、この戦いは蜀が攻め込んだのに、まるで攻め込んだのが魏軍のようなイメージになりますから、諸葛亮としては祁山をどうしても守りたかったのではないでしょうか?
まず水路と馬謖の布陣の問題。私は祁山という地(安定ら帰順させた地と長安を結ぶ要所)に砦があったのでは…と予想します。
諸葛亮は、自分は帰順させた地方の平定に取り掛かり、その間に魏の大軍を祁山で馬謖に防がせようとした。しかし、馬謖は守りやすい砦で守らず、街亭に出陣して迎え撃とうとした。その際、王平は猛反対。張コウはその山と砦を包囲し、補給のやり取りをさせなかった。こんな感じではないでしょうか?
なぜ馬謖はわざわざ守りやすい砦でなく山頂に布陣したのか?それは諸葛亮と馬謖の北伐における『認識の違い』があったのだと思います。
諸葛亮は、困難な補給を少しでも楽にさせるように少しずつ魏の地を帰順させながら平定し、長安を目指した…のに対し、馬謖は、張コウ率いる魏の大軍を見て功をあせり、侵攻を続ける事で長安を奪取しようと考えた。
そう考えると馬謖の布陣の意味も分かる気がします。
事実、この戦いは蜀が攻め込んだのに、まるで攻め込んだのが魏軍のようなイメージになりますから、諸葛亮としては祁山をどうしても守りたかったのではないでしょうか?
(PC)
55 漢森
勝手な憶測ですが、何故馬禝は高所に布陣したのか?何故馬禝は破れ去ったのか?と云う疑問に対して、もう一つの『認識の違い』もあったのではないでしょうか?
つまり高所に陣取り大勝した漢中争奪戦の再現を目論んだ馬禝と、その敗戦を糧とした張コウ、と云う前線司令官同士の高所の布陣に対する認識の差があの結果に繋がったとは考えられませんか?
つまり高所に陣取り大勝した漢中争奪戦の再現を目論んだ馬禝と、その敗戦を糧とした張コウ、と云う前線司令官同士の高所の布陣に対する認識の差があの結果に繋がったとは考えられませんか?
(P900i/FOMA)
56 くわぁまん
わざわざ敵の見える位置に布陣する…。
普通は守りが堅く、伏兵がいるであろうから攻めないと考える。しかし張コウは攻めて来た。これは言わば、一種の空城の計。成功すれば敵を足止め出来作戦成功。しかし策は失敗…。
意外と張コウは何も考えずに攻めてたりして…
普通は守りが堅く、伏兵がいるであろうから攻めないと考える。しかし張コウは攻めて来た。これは言わば、一種の空城の計。成功すれば敵を足止め出来作戦成功。しかし策は失敗…。
意外と張コウは何も考えずに攻めてたりして…
(SH900i/FOMA)
58 天草
この行軍には趙雲や呉懿といった名将も従軍していて、彼らを押し退けての抜擢だった事が書かれてますから、恐らくはまだまだ無名に近かったのではないかと思います。
確かに無名の馬禝にとっては敵の名将張コウを破るのは大金星ですから、彼にとってはチャンスだったんでしょうね。
確かに無名の馬禝にとっては敵の名将張コウを破るのは大金星ですから、彼にとってはチャンスだったんでしょうね。
(PC)
60 子竜
横から失礼します。
李厳は北伐の時に軍需輸送の責任者に任命されていましたが、三次くらいだったかな?まあ、そのときの兵糧輸送のミスを諸葛亮に押し付け、それが明るみにでたので、罪に問われて追放されました。馬ショクのスレなので多くは書きませんが。(過去のスレに李厳のスレがあったような気が…)
李厳は北伐の時に軍需輸送の責任者に任命されていましたが、三次くらいだったかな?まあ、そのときの兵糧輸送のミスを諸葛亮に押し付け、それが明るみにでたので、罪に問われて追放されました。馬ショクのスレなので多くは書きませんが。(過去のスレに李厳のスレがあったような気が…)
(W11K/au)
65 天草
極端な話になるかもしれませんが…。
例えば、曹操ならどうしていたでしょうか?結構甘い一面も彼にはありますよね。
孫権だったら?
孫策だったら?
劉備だったら?
いろんな想像を聞かせてください!
例えば、曹操ならどうしていたでしょうか?結構甘い一面も彼にはありますよね。
孫権だったら?
孫策だったら?
劉備だったら?
いろんな想像を聞かせてください!
(PC)
66 八苦
曹操だったら人材配置したのは自分のミスって言って馬稷の罪を問わなそうですね。曹操は意外と大言吐く輩が好きそうですしね暫らく謹慎程度?孫策、孫権、共に斬らない気が少しします。後の手柄に期待するとか何とか言って。それより何より、もし、劉備、曹操、孫策、孫権といった人達なら、あそこで馬稷を使わない。皆、人材使うのが巧い人達ですから。でもそれ言い出すと議論が逸れちゃいますね(^_^!)
(P2102V/FOMA)
67 天草
結構皆さん、馬稷には厳しいんですね(汗)
私は彼が決してあそこで抜擢されて恥ずかしい人物だとは思ってないんですけどね。
歴史に名誉の名を残すか、汚点を残すかは紙一重ですからね。
馬稷に関しては、また後ほどここで語るとして…
話を戻しますが、曹操が大失敗した武将を許した例っていうのはありましたっけ?
私は彼が決してあそこで抜擢されて恥ずかしい人物だとは思ってないんですけどね。
歴史に名誉の名を残すか、汚点を残すかは紙一重ですからね。
馬稷に関しては、また後ほどここで語るとして…
話を戻しますが、曹操が大失敗した武将を許した例っていうのはありましたっけ?
(PC)
70 天草
曹操って結構温情采配が目立つんですよね。イメージと違うんですが。。。
罪を憎んで人を憎まず…っていうのは曹操なのかもしれませんね。
陳宮なんかの場合は裏切った人物ですからね。しかし、良く考えたら陳宮の時もそうしようとしてましたが、官渡の戦い前には、裏切って袁紹側についた魏チュウという人物でさえも、許しているのですから器の大きさが違いますよね。
罪を憎んで人を憎まず…っていうのは曹操なのかもしれませんね。
陳宮なんかの場合は裏切った人物ですからね。しかし、良く考えたら陳宮の時もそうしようとしてましたが、官渡の戦い前には、裏切って袁紹側についた魏チュウという人物でさえも、許しているのですから器の大きさが違いますよね。
(PC)
71 ひよこ
皆様はじめましてよろしくお願い致します。
あまり詳しくないのですが、馬ショクの失敗例を皆さん挙げていますが、司馬懿を陥れた彼の謀略にも注目してあげたいと思いました。これは演技の話なんですかねぇ?
私的な意見ですが、彼は戦術よりも戦略家だったのではないでしょうか?
あまり詳しくないのですが、馬ショクの失敗例を皆さん挙げていますが、司馬懿を陥れた彼の謀略にも注目してあげたいと思いました。これは演技の話なんですかねぇ?
私的な意見ですが、彼は戦術よりも戦略家だったのではないでしょうか?
(P900i/FOMA)
72 天草
ひよこ殿>初めまして!よろしくお願いします。
いきなりこの名物スレに目をつけたとは…お目が高い!!(笑)
さて、実は私も馬謖はやはり有能だったと信じてます。司馬懿を陥れた…というのは演義に詳しくない私は良く分かりませんが(すいません)、襄陽記によれば南征の「心を攻めることを上策とし、城を攻めることを下策とする」というのは彼の言ですしね!
ただ、一つ考えてみました。
劉備は臨終の際、馬謖の重用を注意してるのは御存知の通りですが、諸葛亮が劉備の遺言を唯一聞かなかったのはこれでした。
なぜそこまで彼を溺愛したのでしょうか?
私はそこに馬良と諸葛亮の只ならぬ関係があるのではないか?と感じました。
馬良は諸葛亮に宛てた手紙の中で諸葛亮のことを『尊兄』と呼んでます。これは彼らが義兄弟か共通の親戚がいたのだろう?と裴松之も書いてるくらいですから、手紙でそう書くのは特別な意味があったかと。
とすると、馬良が死んだあと、馬謖が重用された理由がうっすらと見える気がしますがいかがですか?
いきなりこの名物スレに目をつけたとは…お目が高い!!(笑)
さて、実は私も馬謖はやはり有能だったと信じてます。司馬懿を陥れた…というのは演義に詳しくない私は良く分かりませんが(すいません)、襄陽記によれば南征の「心を攻めることを上策とし、城を攻めることを下策とする」というのは彼の言ですしね!
ただ、一つ考えてみました。
劉備は臨終の際、馬謖の重用を注意してるのは御存知の通りですが、諸葛亮が劉備の遺言を唯一聞かなかったのはこれでした。
なぜそこまで彼を溺愛したのでしょうか?
私はそこに馬良と諸葛亮の只ならぬ関係があるのではないか?と感じました。
馬良は諸葛亮に宛てた手紙の中で諸葛亮のことを『尊兄』と呼んでます。これは彼らが義兄弟か共通の親戚がいたのだろう?と裴松之も書いてるくらいですから、手紙でそう書くのは特別な意味があったかと。
とすると、馬良が死んだあと、馬謖が重用された理由がうっすらと見える気がしますがいかがですか?
(PC)
73 ひよこ
すいません「演技」でなく「横山三国志」ですね(;^_^A
これも「横山三国志」のみかもしれませんが、劉備は義理の息子である劉封を斬るという前例をつくってしまいました。
孔明もこの前例に従い父とまで言わしめた馬ショクを斬るしか無かったのではないかと思います。
孔明と馬ショクの交わりを考えると泣かずには切れない、つまり孔明は泣いて馬ショクを斬る以外に道は無かったかと思いました。
孔明も自分にも降り掛かってくると知っていれば、劉備が劉封を斬るのをもう少し必死で止めたかもしれませんね
勝手な推測で申し訳ありません、どうかあまり突っ込まないでください(;^_^A
これも「横山三国志」のみかもしれませんが、劉備は義理の息子である劉封を斬るという前例をつくってしまいました。
孔明もこの前例に従い父とまで言わしめた馬ショクを斬るしか無かったのではないかと思います。
孔明と馬ショクの交わりを考えると泣かずには切れない、つまり孔明は泣いて馬ショクを斬る以外に道は無かったかと思いました。
孔明も自分にも降り掛かってくると知っていれば、劉備が劉封を斬るのをもう少し必死で止めたかもしれませんね
勝手な推測で申し訳ありません、どうかあまり突っ込まないでください(;^_^A
(P900i/FOMA)
75 天草
改めて読み返しても、このスレは本当に面白いですよね!
馬謖逃亡説なんて、全然知りませんでしたし、街亭の戦いの地理的有利不利の話しも面白い!!
まだ見てない方は、是非読み返して見て下さいね☆
馬謖逃亡説なんて、全然知りませんでしたし、街亭の戦いの地理的有利不利の話しも面白い!!
まだ見てない方は、是非読み返して見て下さいね☆
(PC)
79 三三
ここはレベルが高いのでいろいろ読ませていただいてます。
馬謖に有能・無能説ですか。
かなり上には孔明は戦争が下手とかありますね。
それらしきことの書かれたものを見た記憶がありますが正確には覚えてませんが、確か、夷陵(←字あってます?)の戦いで負けた時「方正が生きてたら・・・大敗はなかっただろう」と嘆いていた(でしたっけ?)とか。なぜ方正が、ということで成都侵攻にはホウ統、漢中には方正と、孔明より戦術に長けていたと思われます。では孔明がどれくらいなのかですが、擬兵などの騙しや罠など、正攻法的なものがあったかな?人材不足もありますが。全体的に見て拠点を押さえるなど、戦術より戦略的に戦争してると思います。
で、馬謖は戦術より、孔明と同じ戦略的な見方が同じなので、孔明は有能と認めてたのではないでしょうか?
あと魏延の長安急襲策はどうでしょうか?孔明は長安を拠点としては難しいと戦略面で考え、魏延は長安を一つの陣としてみていて、戦術的奇襲策を出したと思います。(文章ちょっとおかしいですがすみません)
馬謖に有能・無能説ですか。
かなり上には孔明は戦争が下手とかありますね。
それらしきことの書かれたものを見た記憶がありますが正確には覚えてませんが、確か、夷陵(←字あってます?)の戦いで負けた時「方正が生きてたら・・・大敗はなかっただろう」と嘆いていた(でしたっけ?)とか。なぜ方正が、ということで成都侵攻にはホウ統、漢中には方正と、孔明より戦術に長けていたと思われます。では孔明がどれくらいなのかですが、擬兵などの騙しや罠など、正攻法的なものがあったかな?人材不足もありますが。全体的に見て拠点を押さえるなど、戦術より戦略的に戦争してると思います。
で、馬謖は戦術より、孔明と同じ戦略的な見方が同じなので、孔明は有能と認めてたのではないでしょうか?
あと魏延の長安急襲策はどうでしょうか?孔明は長安を拠点としては難しいと戦略面で考え、魏延は長安を一つの陣としてみていて、戦術的奇襲策を出したと思います。(文章ちょっとおかしいですがすみません)
(PC)
80 たろう
もう討論にでてたらすいません。
孔明は馬禝を後継にする予定だったんですかね?ちなみにイリヨウの法正に関しては戦術に関してではなく劉備をひき止められた…(討呉を止められた)だったと思います。
孔明は馬禝を後継にする予定だったんですかね?ちなみにイリヨウの法正に関しては戦術に関してではなく劉備をひき止められた…(討呉を止められた)だったと思います。
(W21SA/au)
81 天草
>>70
法正に関しての諸葛亮の言葉ですね?
「法正さえ生きていれば、我が君の東征を思い止まらせただろう。かりに東征したとしても、ここまでの大敗にはならなかったものを…」
こんなニュアンスですね。
ちなみに…法正に関しては>>>41
魏延に関しては>>>32に専用スレがありますよ♪
>>80
私は馬禝有能説を唱えてますが(笑)諸葛亮が後継に置くつもりだったかどうかは微妙ですよね。
前の方にも出てると思いますが、皆さんが話してる荊州派への配慮という点で馬禝を優遇したという事も、十分に考えられますからね。
法正に関しての諸葛亮の言葉ですね?
「法正さえ生きていれば、我が君の東征を思い止まらせただろう。かりに東征したとしても、ここまでの大敗にはならなかったものを…」
こんなニュアンスですね。
ちなみに…法正に関しては>>>41
魏延に関しては>>>32に専用スレがありますよ♪
>>80
私は馬禝有能説を唱えてますが(笑)諸葛亮が後継に置くつもりだったかどうかは微妙ですよね。
前の方にも出てると思いますが、皆さんが話してる荊州派への配慮という点で馬禝を優遇したという事も、十分に考えられますからね。
(PC)
83 天草
馬禝有能説を再燃させます!(笑)
馬禝の唯一の活躍は何といっても南方反乱戦です。
「心を攻めよ」
は演義では諸葛亮の案になってる程ですからね(まぁこれも本当に馬禝かどうかは微妙ですが…)
陳寿の記述から、私は以下のような人物ではなかったのか?と推理します。
○兵法・戦略・戦術にかなりの知識を持ち、弁も立つ人物だった←こんな感じの記述あり
○綿竹県・成都県の県令、越スイ郡の太守を歴任しているが、敵国と隣接してない為、実戦の経験はなく、南方が初陣だった。
○弁が立ったため、机上での自分の戦術案を凌ぐ者がいなかった。その為、かなりの自信家だったのではないか?
兵法は、意味深というか解釈によって色々な取り方のできる書物だと思いますので、馬禝の街亭での布陣が兵法に逆らったものなのかどうかは、微妙ではないかと思っています。
馬禝の唯一の活躍は何といっても南方反乱戦です。
「心を攻めよ」
は演義では諸葛亮の案になってる程ですからね(まぁこれも本当に馬禝かどうかは微妙ですが…)
陳寿の記述から、私は以下のような人物ではなかったのか?と推理します。
○兵法・戦略・戦術にかなりの知識を持ち、弁も立つ人物だった←こんな感じの記述あり
○綿竹県・成都県の県令、越スイ郡の太守を歴任しているが、敵国と隣接してない為、実戦の経験はなく、南方が初陣だった。
○弁が立ったため、机上での自分の戦術案を凌ぐ者がいなかった。その為、かなりの自信家だったのではないか?
兵法は、意味深というか解釈によって色々な取り方のできる書物だと思いますので、馬禝の街亭での布陣が兵法に逆らったものなのかどうかは、微妙ではないかと思っています。
(PC)
84 闘莉王
スレッドを読んで面白かったのでカキコします♪
私も馬謖は街亭の一件で斬られてなければ有能な将になったと思います。街亭での失敗は豊富な知識に反比例する実戦経験の少なさが問題だったんじゃないかと。もし実戦を数こなしていれば指示通り動いてたと思いますし、状況にあった兵法を用いることができたんじゃないかと思います。あとどこかで「馬謖は功を焦っていた」なんて記述があったんですがその辺りも関係してるんですかね?長文すいませんm(__)m
私も馬謖は街亭の一件で斬られてなければ有能な将になったと思います。街亭での失敗は豊富な知識に反比例する実戦経験の少なさが問題だったんじゃないかと。もし実戦を数こなしていれば指示通り動いてたと思いますし、状況にあった兵法を用いることができたんじゃないかと思います。あとどこかで「馬謖は功を焦っていた」なんて記述があったんですがその辺りも関係してるんですかね?長文すいませんm(__)m
(F900i/FOMA)
85 天草
>>84
おぉ!!闘莉王サン、同意見ですか!!
嬉しいなぁ☆
馬謖の実戦不足を見抜けなかった諸葛亮の責任の方がやはり大なのかな?
もちろん天狗になって王平などの意見に耳を傾けなかった彼の責任も指揮官としては重大ですけどね。
おぉ!!闘莉王サン、同意見ですか!!
嬉しいなぁ☆
馬謖の実戦不足を見抜けなかった諸葛亮の責任の方がやはり大なのかな?
もちろん天狗になって王平などの意見に耳を傾けなかった彼の責任も指揮官としては重大ですけどね。
(PC)
86 朱家
私の見解を…馬謖が兵法を無視したとすれば「目的は戦いではなく勝利」のほうで、功を焦り、敵を壊滅しようとすれば、山地に陣を敷くのは間違いとは思えない。罪を赦され、成功した例が多くある事や有能であるための助命が多かった事、責任は孔明のほうが大きいと思われる事を考えても、斬るべきではなかったと思います。ただ私の印象だと諸葛格とカブるので、災いをもたらす事になった可能性もありますね。孔明が代行者ではなく、権力者だったなら赦したかもしれません。似てるようで、大きな違いがあると思います。それにしても劉備に意外な才能が…定軍山で張コウは逃がしたか…と悔しがった事、馬謖に対する遺言、孔明と違った評価の二人が街亭で戦う事になるとは…
(A1304T/au)
87 闘莉王
>>85
やはり敗戦の責任は馬謖にあるとは思いますが、初陣に近い馬謖を処断するのは重過ぎると思います。
しかしよく考えてみると馬謖は前線で軍を率いるより、後方で補給や外交をしていたほうが大成していたような気がします。
妄想の話ですが孔明の死後兵権は費偉と蒋エンが握っており姜維は1万程度しか与えられなかったことを考えると馬謖が生存していたら北伐を引き継ぐ可能性はあったんじゃないかと考えちゃったんですが…どうでしょうか?(苦笑)
やはり敗戦の責任は馬謖にあるとは思いますが、初陣に近い馬謖を処断するのは重過ぎると思います。
しかしよく考えてみると馬謖は前線で軍を率いるより、後方で補給や外交をしていたほうが大成していたような気がします。
妄想の話ですが孔明の死後兵権は費偉と蒋エンが握っており姜維は1万程度しか与えられなかったことを考えると馬謖が生存していたら北伐を引き継ぐ可能性はあったんじゃないかと考えちゃったんですが…どうでしょうか?(苦笑)
(F900i/FOMA)
88 たろう
ガイテイの敗戦後もし処断されなくても馬ショクにそれだけの軍権が回ってくるとは考えづらいですね…
リゲンの事も含め改めて考えてみるとやっぱ孔明は軍規に徹底してたんですね。やはりその時のショクなら処断されて当然だったのかな。
リゲンの事も含め改めて考えてみるとやっぱ孔明は軍規に徹底してたんですね。やはりその時のショクなら処断されて当然だったのかな。
(W21SA/au)
90 三三
かなり前に「諸葛亮伝」「王平伝」「向朗伝」「馬良伝」のことで書かれてますが、同じ解釈しましたが、別の角度からかんがえてみました。
そこで軍を率いるのに孔明の跡を継ぐのは誰か?
魏延の場合、付いていく人材が武官ばかりで、文官をないがしろにし、戦闘はできても、その後の事後処理をおざなりになる気がします。
そこで、馬謖なら、軍を上手くまとめていけ、孔明の理想に育つと思っていたのではないでしょうか?
しかし、街亭の敗北で斬られることになります
諸葛亮伝には
亮、西県の千余家を抜きて漢中に還り、謖を戮して以て衆に謝す
馬良伝は
亮、進むに拠るところ無く、軍を退きて漢中に還る。謖、獄に下され物故す。亮、これがために流涕す。
どちらも死んでいることになってます。
また、向朗伝は
朗、もとより馬謖と善し。謖、逃亡し、朗、情を知れども挙げず。亮、これを怨み、免官せられて成都に還る。
これが、街亭敗北で逃げたのか?
孔明は何に対しての怨みで、向朗を免官なのか?
王平伝は・・・(汗)
で、馬謖は死んだ ことにして、情報を流し、こっそり育てるつもりだったが、馬謖が逃亡してしまった。それを黙認した向朗は免官された
と考えてみました。
馬謖が魏でどれくらいの評価かわからないけど孔明に従事していたことぐらいはわかっていると思う。
そんな馬謖を使い、一回の敗北で処するとなると、他国での孔明に対する評価が下がり、魏へ油断を誘え、孔明死後、死んだはずの馬謖が影で軍を率いたなら、魏は正体不明な指揮官に戸惑い遅れを取る
たしか、李厳とか名を変えて軍に戻る人が数人いましたよね
馬謖に正体を隠してでも跡を継がせる気だったのでは?
それを向朗が逃がしてしまった
街亭の敗北の逃亡を黙認で免官では人材不足の蜀にとっては厳しすぎると思いましたので、こういう考えにいたりました
長々とすみませんm(_ _)m
そこで軍を率いるのに孔明の跡を継ぐのは誰か?
魏延の場合、付いていく人材が武官ばかりで、文官をないがしろにし、戦闘はできても、その後の事後処理をおざなりになる気がします。
そこで、馬謖なら、軍を上手くまとめていけ、孔明の理想に育つと思っていたのではないでしょうか?
しかし、街亭の敗北で斬られることになります
諸葛亮伝には
亮、西県の千余家を抜きて漢中に還り、謖を戮して以て衆に謝す
馬良伝は
亮、進むに拠るところ無く、軍を退きて漢中に還る。謖、獄に下され物故す。亮、これがために流涕す。
どちらも死んでいることになってます。
また、向朗伝は
朗、もとより馬謖と善し。謖、逃亡し、朗、情を知れども挙げず。亮、これを怨み、免官せられて成都に還る。
これが、街亭敗北で逃げたのか?
孔明は何に対しての怨みで、向朗を免官なのか?
王平伝は・・・(汗)
で、馬謖は死んだ ことにして、情報を流し、こっそり育てるつもりだったが、馬謖が逃亡してしまった。それを黙認した向朗は免官された
と考えてみました。
馬謖が魏でどれくらいの評価かわからないけど孔明に従事していたことぐらいはわかっていると思う。
そんな馬謖を使い、一回の敗北で処するとなると、他国での孔明に対する評価が下がり、魏へ油断を誘え、孔明死後、死んだはずの馬謖が影で軍を率いたなら、魏は正体不明な指揮官に戸惑い遅れを取る
たしか、李厳とか名を変えて軍に戻る人が数人いましたよね
馬謖に正体を隠してでも跡を継がせる気だったのでは?
それを向朗が逃がしてしまった
街亭の敗北の逃亡を黙認で免官では人材不足の蜀にとっては厳しすぎると思いましたので、こういう考えにいたりました
長々とすみませんm(_ _)m
(PC)
92 天草
そうそう。
馬謖にはこの逃亡説が絡んできますから、評価が大きく分かれるんですよね。
ところで…後継者という観点から見た場合、気になったので、少し調べてみたのですが、姜維のことです。
姜維が投降したのが、街亭の事件の前(だと思いますが)なら、跡取り候補が新たに出来た。しかも馬謖より有能に思える…この気持ちが諸葛亮の心にあったとは考えられませんかね?
馬謖にはこの逃亡説が絡んできますから、評価が大きく分かれるんですよね。
ところで…後継者という観点から見た場合、気になったので、少し調べてみたのですが、姜維のことです。
姜維が投降したのが、街亭の事件の前(だと思いますが)なら、跡取り候補が新たに出来た。しかも馬謖より有能に思える…この気持ちが諸葛亮の心にあったとは考えられませんかね?
(PC)
93 ユウキ
馬氏の五常白眉最も良し。に馬ショクは含まれてますか?
もし含まれてたら
馬良〉馬ショクですよね。で確か孔明は、姜維を評して馬良より上だと言っていたはずです。
って事は、
姜維〉馬良〉馬ショク
比べる分野が違うとは思うんですが、こんな感じ…?
もし含まれてたら
馬良〉馬ショクですよね。で確か孔明は、姜維を評して馬良より上だと言っていたはずです。
って事は、
姜維〉馬良〉馬ショク
比べる分野が違うとは思うんですが、こんな感じ…?
(P900i/FOMA)
95 単福
諸葛亮は軍律で斬ったというより、私情が含まれていると思います
諸葛亮に対する北伐はかなり重要なものだった。しかし街亭にて敗北し原因は愛する弟子の馬ショク。劉備の意志を継いでの北伐にも関わらず、劉備の忠告(馬ショクの重要視について)を聞かなかった自分への怒りが馬ショクの処刑になったと思います
まさか丞相の地位である自分が死ぬわけにはいきません
それでも蜀に帰った後、諸葛亮は位を下げるよう頼んでましたよね
三国志初心者のくだらない意見ですがどうでしょうか?
諸葛亮に対する北伐はかなり重要なものだった。しかし街亭にて敗北し原因は愛する弟子の馬ショク。劉備の意志を継いでの北伐にも関わらず、劉備の忠告(馬ショクの重要視について)を聞かなかった自分への怒りが馬ショクの処刑になったと思います
まさか丞相の地位である自分が死ぬわけにはいきません
それでも蜀に帰った後、諸葛亮は位を下げるよう頼んでましたよね
三国志初心者のくだらない意見ですがどうでしょうか?
(PC)
97 しす
私は孔明が本当に姜維を後継者として考えていたかどうかは疑問なんですよね。
孔明は生前一度として姜維を重要したことはありませんし、死に際に至っても彼の名を挙げることはしていません。
彼が姜維を得た時に「後継者」と喧伝したのは、いっこうに成果の上がらない北伐において、「なんらかの成果」があったことを示さなければならないと判断したからではないか?と個人的に考えています。
なので後継者問題が遠因であったとも考えていません。
もちろん飽くまで私個人の意見ですので確証はありませんけど。
孔明は生前一度として姜維を重要したことはありませんし、死に際に至っても彼の名を挙げることはしていません。
彼が姜維を得た時に「後継者」と喧伝したのは、いっこうに成果の上がらない北伐において、「なんらかの成果」があったことを示さなければならないと判断したからではないか?と個人的に考えています。
なので後継者問題が遠因であったとも考えていません。
もちろん飽くまで私個人の意見ですので確証はありませんけど。
(PC)
98 天草
姜維の話しまで逸れてしまいましたので(私のせい?w)少し軌道修正。
少しこのスレを振り返ります。もし話しがわからない方は、是非ここのログを全て読んでみて下さい♪
この話しが故事になって残ると言う事は、当時の人々はこれを美談として扱っていたということになりますよね?
ところが、馬謖は素直に斬られたのではなく、逃げていたのかもしれない…。
さて真相は?
少しこのスレを振り返ります。もし話しがわからない方は、是非ここのログを全て読んでみて下さい♪
この話しが故事になって残ると言う事は、当時の人々はこれを美談として扱っていたということになりますよね?
ところが、馬謖は素直に斬られたのではなく、逃げていたのかもしれない…。
さて真相は?
(PC)
99 しす
>>98
「泣いて馬謖を斬る」という故事産まれた経緯は演義の影響が大きいのではないでしょうか?
どうも三国志絡みの故事ことわざの類は正史よりも演義の影響の方がはるかに大きい気がします。
で、演義の影響だとすれば美談になる理由も納得いきます。
それに馬謖が実際に逃亡を企てたらしいということ羅貫中(あるいは講釈師)は採用もしなかったでしょう。
ところで演義だと孔明って馬謖を斬ったことで嘆いているのではなく、劉備から馬謖を重要するなと言われたことを思いだして、己の不明を嘆いたみたいな描かれ方をしていますよね。
「泣いて馬謖を斬る」という故事産まれた経緯は演義の影響が大きいのではないでしょうか?
どうも三国志絡みの故事ことわざの類は正史よりも演義の影響の方がはるかに大きい気がします。
で、演義の影響だとすれば美談になる理由も納得いきます。
それに馬謖が実際に逃亡を企てたらしいということ羅貫中(あるいは講釈師)は採用もしなかったでしょう。
ところで演義だと孔明って馬謖を斬ったことで嘆いているのではなく、劉備から馬謖を重要するなと言われたことを思いだして、己の不明を嘆いたみたいな描かれ方をしていますよね。
(PC)
100 ヤスシ
馬謖が副官と王平が司令官だったら、この敗戦は無かったかも知れない。。。考え過ぎかな?
重用するなと言われた人物を重用し、前途ある人材を斬ってしまった。孔明は馬謖を斬った事により余計に自分のミスを上塗りしている気がしますが…如何でしょう?
重用するなと言われた人物を重用し、前途ある人材を斬ってしまった。孔明は馬謖を斬った事により余計に自分のミスを上塗りしている気がしますが…如何でしょう?
(PC)