1 三国志&水泳

ショク・人材不足の謎

諸葛亮の北伐の頃からショク軍は人材不足に悩まされます。いったいなぜ、ショクの将は小粒になってしまったのでしょうか?
自分は劉備の志を継いだ諸葛亮は立派だったと思いますが、問題は皇帝の劉禅が凡君だったからだとと思います。なぜなら劉禅は北伐については諸葛亮にまかせっきりだったし、費イ、ショウエンが亡くなると黄コウに専横されるありさま。やはり劉禅は劉備と諸葛亮の志などどうでもよく、ただ遊んで暮らしたかっただけ。例えば諸葛亮に命は預けられても、とても劉禅には預けられません!主君が無能な奴だったからショクが人材不足だったんだと自分は思うのですが。皆さんはどう思いますか?
(P701iD/FOMA)
2 許斎
蜀の人材不足ですか・・・中央から離れすぎた立地と何より諸葛亮自身が政治から軍事までと何でもやり過ぎ為と思いますね。
諸葛亮の能力は認めますが、なまじ大抵の事が出来てしまう為に何でも自分でやってしまい後進が育たなかったのだと思いますね。
(W52S/au)
3 ヴらど
人材、特に行政などのできる文官を集めるのが遅かったからというのもあるのではないでしょうか。荊州に落ち着くまでは劉備は流れ者の傭兵といった感じですから、行政官はいなかった、ないし必要なかったのでしょう。
(N701i/FOMA)
4 李晃
何處からか流れ着いて來ました…

蜀の人材不足は、まづ、成都を除き大都市が無い。

次いで、中央から遠く、移動が困難。

先主古參の荊州閥と土着の益州閥の對立。

後主の君主としての資質については、諸葛亮死後約三十年國を維持した事を考えると疑問を差し挟む余地無し。

因みに、大陸史名君の筆頭に舉げられるだらう唐太宗の治世は廿三年。

諸葛亮は、殖産興業と富國強兵に努めたが、目立つた軍功は無し。尚且つ、街亭で致命的なミスを犯し、軍人としては微妙…
(N903i/FOMA)
5 程製肉まん
後期蜀軍の人材不足については、やはり夷陵での大敗が最大の原因ではないでしょうか。馬良、馮習、張南、王甫、傅肜、程畿など、生きていればひとかどの将になったかもしれない人物が無残に討ち死にしています。史書には名前の出てこない戦死者の中にも、有望な人物が含まれていたでしょう。「傅子」によれば、このときの蜀軍の死者は八万余だったとか。だめ押しに江北に布陣していた蜀屈指の名将、黄権は退路を断たれ、軍をあげて(龐統の弟ほか主だった将42人含む)やむなく魏に投降してます。そりゃ、人材不足にもなりますね。
(PC)