1 くわぁまん
陳羣について…。
自分は陳羣の事あまり知らないので教えてください。m(__)m
彼が劉備陣営に残っていれば孔明の苦労も幾分緩和され寿命も少しは伸びたのでは…。ifの話です。
彼が劉備陣営に残っていれば孔明の苦労も幾分緩和され寿命も少しは伸びたのでは…。ifの話です。
(SH900i/FOMA)
4 大伴
頴陰侯は、曹丕「四友」の一人ですね。
九品官人法は後々、新たな弊害を生みますが、この当時において門閥の勢力を削ぐ為に有効であった事は疑い無い様ですね。
曹真の蜀討伐に反対する時は、曹操の対張魯戦で食料調達に苦しんだ事を挙げて反対しています。軍政にも明るかったのではないでしょうか?
しかし裴松之が注に引く「博物記」の記述は、陳羣とその子泰に厳しいですね。
九品官人法は後々、新たな弊害を生みますが、この当時において門閥の勢力を削ぐ為に有効であった事は疑い無い様ですね。
曹真の蜀討伐に反対する時は、曹操の対張魯戦で食料調達に苦しんだ事を挙げて反対しています。軍政にも明るかったのではないでしょうか?
しかし裴松之が注に引く「博物記」の記述は、陳羣とその子泰に厳しいですね。
(F2102V/FOMA)
6 大伴
固定化した貴族階級が新たに出来てきた様ですし、派閥化や贈収賄を促進した様です。
特に詳しくはありませんので、詳細は人に譲ります。まぁ何にせよ、南北朝時代まで残った制度ですからね。制度上のホールは、沢山見つかりますよ。
特に詳しくはありませんので、詳細は人に譲ります。まぁ何にせよ、南北朝時代まで残った制度ですからね。制度上のホールは、沢山見つかりますよ。
(F2102V/FOMA)
8 大伴
九品官人法を詳しく知りたいのでage(笑)詳しい方宜しくお願いします。
陳羣家略系図
(苟家) ショク
│ ├─┐
イク 紀 シン
├─┐ │ │
ギ ◯─羣 ◯
│ ┌┘┌┴┐
◯-?-泰 佐 坦
┌──┘ ┌┘
├──┬─┐│
シュン 温 ◯│
│
┌─┬─┬──┘
準 戴 微 カン
│
◯
│
逵
陳羣家略系図
(苟家) ショク
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イク 紀 シン
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ギ ◯─羣 ◯
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◯-?-泰 佐 坦
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シュン 温 ◯│
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準 戴 微 カン
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◯
│
逵
(F2102V/FOMA)
9 赤龍
九品官人法、簡単に説明しますと、まず全ての官職に一品〜九品の官品をつけ序列をつけます。官吏登用法として、各郡国に中正という役職を派遣し、中正はその地の徳行才能ある人物を選び、品等(郷品)をつけ、中央に推薦します。任官されると、郷品の四品したからスタートし、郷品と同じ官品まで昇進できるという制度です。
(J-SA05)
10 赤龍
例えば、郷品二品を与えられた人は、六品の官で採用され、二品の官まで昇進できます。
ここで重要な役割を果たす中正は、次第に当初の目的からはずれ、権力者側の意向に沿った評価を行うようになります。その為、西晋には既に「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言が生まれています。漢代の郷挙里選の、同等の弊害はまぬがれませんでした。
ここで重要な役割を果たす中正は、次第に当初の目的からはずれ、権力者側の意向に沿った評価を行うようになります。その為、西晋には既に「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言が生まれています。漢代の郷挙里選の、同等の弊害はまぬがれませんでした。
(J-SA05)
11 赤龍
最後に、川勝義雄氏の評を引用
「もともと郷論にもとづいて、賢と徳を基準とする個々の人物のランキングを整序し、賢者・有徳者のヒエラルキーをつくるはずであったのに、しだいに既成の権力者側に偏向し、個人でなく家柄のランキングをつくる方向、すなわち貴族階層を固定させる方向に運用されていった」(『魏晋南北朝』講談社)
「もともと郷論にもとづいて、賢と徳を基準とする個々の人物のランキングを整序し、賢者・有徳者のヒエラルキーをつくるはずであったのに、しだいに既成の権力者側に偏向し、個人でなく家柄のランキングをつくる方向、すなわち貴族階層を固定させる方向に運用されていった」(『魏晋南北朝』講談社)
(J-SA05)
14 大伴
郭嘉伝ですね。
後漢書/荀韓鍾陳列伝第五十二での陳ショクの記述の最後に、
六子有り、紀とシン最も賢なり(岩波版訳)
とありますよね?この六子には、娘も含まれるのですか?男子のみ?それとも成人に達した男子のみ?
後漢書/荀韓鍾陳列伝第五十二での陳ショクの記述の最後に、
六子有り、紀とシン最も賢なり(岩波版訳)
とありますよね?この六子には、娘も含まれるのですか?男子のみ?それとも成人に達した男子のみ?
(F2102V/FOMA)
18 大伴
いえ、図書館からの借り物です(汗)
文庫どころか、未だ李杜列伝五十三までしか出版されていない様ですよ。三国志に関する人物についての記述は、これからになるみたいですね。
文庫どころか、未だ李杜列伝五十三までしか出版されていない様ですよ。三国志に関する人物についての記述は、これからになるみたいですね。
(F2102V/FOMA)
27 しす
(PC)
29 しす
>>28
アイタタタタ…
一番やってはいけないことをやってしまったようですね。
そうなると陳羣は下野した後に徐州に移った時に呂布の招聘を受けたと考えるべきなんでしょうかね。
呂布に仕えていたとなると陳羣の印象も微妙に変わってきますね。
アイタタタタ…
一番やってはいけないことをやってしまったようですね。
そうなると陳羣は下野した後に徐州に移った時に呂布の招聘を受けたと考えるべきなんでしょうかね。
呂布に仕えていたとなると陳羣の印象も微妙に変わってきますね。
(PC)
30 ストラップ
>>29
「三国志」の立伝されている部分には、「徐州に移った」と書かれていますが、陶謙からずっと「徐州の支配者」の下で働いている人ですし、劉備や呂布に従ったのも、徐州の役人としてなのではないでましょうか?
「三国志」の立伝されている部分には、「徐州に移った」と書かれていますが、陶謙からずっと「徐州の支配者」の下で働いている人ですし、劉備や呂布に従ったのも、徐州の役人としてなのではないでましょうか?
(F2102V/FOMA)
31 赤龍
>>29
陳羣て陶謙に仕えてましたっけ?
劉備が陳羣を召し出したのは、先主伝に「陶謙は上表して先主を豫州刺史とし、小沛に駐屯させた」とある時期。演義や光栄のゲームなんかでは小沛というと徐州の中のように扱われていますが、先主伝の文をみてもわかるように豫州に属しています。つまり、豫州の人であった陳羣は、豫州刺史になった劉備に召し出され豫州の役人になったが、徐州へ行こうとする劉備と決別。後に戦乱を避け徐州へ。という経緯だと思われるので、「徐州の支配者」としての劉備には仕えてなかったのではないでしょうか。
陳羣て陶謙に仕えてましたっけ?
劉備が陳羣を召し出したのは、先主伝に「陶謙は上表して先主を豫州刺史とし、小沛に駐屯させた」とある時期。演義や光栄のゲームなんかでは小沛というと徐州の中のように扱われていますが、先主伝の文をみてもわかるように豫州に属しています。つまり、豫州の人であった陳羣は、豫州刺史になった劉備に召し出され豫州の役人になったが、徐州へ行こうとする劉備と決別。後に戦乱を避け徐州へ。という経緯だと思われるので、「徐州の支配者」としての劉備には仕えてなかったのではないでしょうか。
(PC)