1 天草
人物辞典情報募集スレ
人物辞典のさらなる発展を目指して、情報を募集します。
辞典にまだ掲載されてない人物で、独自に調べられた武将がいましたら、是非情報を下さい。
辞典の内容のような書き込みを頂けたら、ありがたいですが、そうじゃなくても構いません。
出来れば、情報のソースを書き込みいただければありがたいです。
もちろん情報提供者として、名前を載せさせてもらいます!
辞典にまだ掲載されてない人物で、独自に調べられた武将がいましたら、是非情報を下さい。
辞典の内容のような書き込みを頂けたら、ありがたいですが、そうじゃなくても構いません。
出来れば、情報のソースを書き込みいただければありがたいです。
もちろん情報提供者として、名前を載せさせてもらいます!
(PC)
3 大伴
では先ず一人。
諸葛恪元遜(二0三〜二五三)
瑾の息子にして、蜀の丞相、亮の甥。弁舌、口論に秀でた詭弁家であり、博識であったが、大雑把な性格で、緻密な管理には向かなかったという。234年、丹楊への赴任においては、無理と思われた仕事であったにも拘わらず、三年で無事成功を収めた。
245年、陸遜が死亡すると、大将軍となり、軍事の責任者となる。252年、孫権が死ぬと、孫峻の推薦で太子の後見人となり、この年の末、丁奉とともに東関において、諸葛誕の率いる魏軍に大勝した。
翌年、多くの朝臣の反対を押し切り、魏の合肥新城を攻めるが、無理が祟り、失敗に終わる。しかしこれを恪は悔いる事をしなかった為に、孫亮、孫峻らによって謀殺された。
こんなものでいいかな?
諸葛恪元遜(二0三〜二五三)
瑾の息子にして、蜀の丞相、亮の甥。弁舌、口論に秀でた詭弁家であり、博識であったが、大雑把な性格で、緻密な管理には向かなかったという。234年、丹楊への赴任においては、無理と思われた仕事であったにも拘わらず、三年で無事成功を収めた。
245年、陸遜が死亡すると、大将軍となり、軍事の責任者となる。252年、孫権が死ぬと、孫峻の推薦で太子の後見人となり、この年の末、丁奉とともに東関において、諸葛誕の率いる魏軍に大勝した。
翌年、多くの朝臣の反対を押し切り、魏の合肥新城を攻めるが、無理が祟り、失敗に終わる。しかしこれを恪は悔いる事をしなかった為に、孫亮、孫峻らによって謀殺された。
こんなものでいいかな?
(F2102V/FOMA)
6 天草
本当だ。。。
いや、私の場合はズルというより、単純にそう思い込んでました(汗)
皆さんも遠慮なさらずに、伝の立っていない人物の列伝を書き込みください。一つしか知らないエピソードでも構いませんよ。
いや、私の場合はズルというより、単純にそう思い込んでました(汗)
皆さんも遠慮なさらずに、伝の立っていない人物の列伝を書き込みください。一つしか知らないエピソードでも構いませんよ。
(PC)
7 独眼龍李克用
今だに載ってないので、僭越ながら一人だけ
法正孝直(一七六〜二二〇)
劉備の謀臣。文官のイメージが強いが策士、参謀として幾度の戦いに参加している。人格的には問題があったが民のことをよく考えていた。
208年赤壁で曹操が大敗すると張松、孟達と画策して劉璋に曹操との絶交を進言して自身は使者として荊州に赴き劉備と会い益州をとるための出陣を要請する。211年劉備が入蜀した時点で参謀として活動している。劉備に劉璋を斬って蜀をとれと進言している。
214年成都に劉備が入ると蜀郡太守の重任を与えられている。この時から横暴を働いていたが諸葛亮は彼のおかげで蜀をとれたとして罰してはいない。
219年定軍山の戦いにおいて参軍としておおいに活躍している。
後年荊州にむかう劉備を諫めきれなかった諸葛亮はこういっている。
「法正がいれば、殿をお止めできたであろう。止めれなくても負けることはなかったであろう。」としている。
全然資料が無いのでこんなもんです。正史ではかなり違うかもしれないので、あしからずw(-_-;)w
法正孝直(一七六〜二二〇)
劉備の謀臣。文官のイメージが強いが策士、参謀として幾度の戦いに参加している。人格的には問題があったが民のことをよく考えていた。
208年赤壁で曹操が大敗すると張松、孟達と画策して劉璋に曹操との絶交を進言して自身は使者として荊州に赴き劉備と会い益州をとるための出陣を要請する。211年劉備が入蜀した時点で参謀として活動している。劉備に劉璋を斬って蜀をとれと進言している。
214年成都に劉備が入ると蜀郡太守の重任を与えられている。この時から横暴を働いていたが諸葛亮は彼のおかげで蜀をとれたとして罰してはいない。
219年定軍山の戦いにおいて参軍としておおいに活躍している。
後年荊州にむかう劉備を諫めきれなかった諸葛亮はこういっている。
「法正がいれば、殿をお止めできたであろう。止めれなくても負けることはなかったであろう。」としている。
全然資料が無いのでこんなもんです。正史ではかなり違うかもしれないので、あしからずw(-_-;)w
(P900i/FOMA)
9 子竜
ショク漢の何シはいかがでしょうか?戦場でこれといった功績を挙げたわけではないのですが、なかなか面白い人物だと思います。字を君粛といい、主に実務による功績を残した人です。具体的な記述はショク書楊洪伝に記載されているので、是非一度ご覧になって下さい。
(W11K/au)
12 黄漢升
じゃ、私からもどうしても載せてもらいたい武将をひとつ 李儒 字不明 演義のみ登場 列伝 董卓の側近にして軍師また董卓の女婿でもある。最初は、洛陽に入った董卓が少帝廃立をたくらみ、これに反対した丁原と袁紹と決闘しそうになるのを、止め武力ではなく計略をもって解決しようとする。呂布を味方に誘うため赤兎馬を譲ように提案、最初董卓はためらったが李儒に「天下を狙う方が、馬ごとき惜しんではなりません。」といわれ、これに従った。呂布を寝返らせ少帝が廃されると後の憂いを断つため弘農王(元少帝)を母もろとも暗殺。また曹操が董卓の暗殺に失敗し逃亡した曹操を疑い、董卓に「呼び寄せても、来なければ殺意があった証拠」と進言している。最期は、連環の計にかかった董卓を諫めたが聴かず、董卓が暗殺されると自分も下僕につかまり、王允に差し出され、処刑された。 こんな感じでいいですか?李儒載せてくださいおねがいします。
(N900i/FOMA)
13 子竜
お取り上げくださりありがとうございます。また何か面白い人物を見つけたら、この場を借りて紹介させて頂きますね。私は文章をまとめる能力が乏しいので、功績の具体的な内容までとはいきませんが…。
(W11K/au)
16 黄漢升
連続ですいません、彼も載けってもらいませんかね、 兀突骨 字不明 演義のみ登場 列伝 烏カ国王、孟獲の最後の切り札として登場、三国一の巨躯で、身長が一丈二尺(2m76p)あり、穀物の代わりに蛇や獣を食べ、体には刀や矢を通さない強靱な鱗もつ。兀突骨の率いる軍の籐甲軍の鎧は、刀や矢を通さず、河に入っても沈まない便利なもので兀突骨は、桃花水でショク軍を迎え撃った。最初は、連戦連勝だったが盤蛇谷まで来たとき退路を遮断され谷に閉じ込められた兀突骨軍は、松明を投げられ地雷に引火爆発、谷は火の海になり焼死した。 こんな感じでいいですか?お願いします。
(N900i/FOMA)
17 独眼龍李克用
たぶんその他に入ると思うけど
司馬炎安世(二三六〜二九〇)
司馬昭の長子。晋の初代皇帝で諡が武帝。聡明英武にして豪胆であるが後に酒色に溺れる。256年八月に司馬昭が死去するとその後を継いで晋王となる。
同年十二月に腹心賈充らと画策して魏帝曹奐に禅譲を迫り皇帝となり国号を晋とする。
280年賈充らの反対を押し切り呉の討伐を断行。杜預らにより呉を下す。
司馬炎は三国いずれの皇帝も殺していない。
司馬炎は官僚による政治に撤し、王族優遇政策をとる。しかしこれが後の『八王の乱』を生む遠因となる。彼の後宮には一万人以上の女官がいたとされている。
だいたいこんなもんです。
司馬炎安世(二三六〜二九〇)
司馬昭の長子。晋の初代皇帝で諡が武帝。聡明英武にして豪胆であるが後に酒色に溺れる。256年八月に司馬昭が死去するとその後を継いで晋王となる。
同年十二月に腹心賈充らと画策して魏帝曹奐に禅譲を迫り皇帝となり国号を晋とする。
280年賈充らの反対を押し切り呉の討伐を断行。杜預らにより呉を下す。
司馬炎は三国いずれの皇帝も殺していない。
司馬炎は官僚による政治に撤し、王族優遇政策をとる。しかしこれが後の『八王の乱』を生む遠因となる。彼の後宮には一万人以上の女官がいたとされている。
だいたいこんなもんです。
(P900i/FOMA)
19 天草
兀突骨は調べてみましたが、予想通り演義のみ登場の完全な空想の人物みたいですね(汗)
他にもそういう人物はいるでしょうが、辞典に彼らを載せるべきでしょうか?
一人では決めかねるので、一応確認してみました。
他にもそういう人物はいるでしょうが、辞典に彼らを載せるべきでしょうか?
一人では決めかねるので、一応確認してみました。
(PC)
20 黄漢升
確かに兀突骨は、怪物キャラで演義にしかでてこないですね個人の希望としては載っけてもらいたいですね。提案があるんですけど、演義にしかでてこない武将辞典を作ったらいいんじゃないですか、忙しくなるのはわかりますけど、そしたら周倉や、関索などの有名武将ものっけられるので、あくまで、提案ですので気に入らなかったら無視してください。
(N900i/FOMA)
21 くわぁまん
ほーぃ
自分も出して欲しいでぇーす。自分のネーム、くわぁまん別名、截天夜叉何曼と申します。
汝南、穎川で蜂起した黄巾軍の首領の一人。
演義、吉川三国志では曹操の息子に瞬殺されたヤラレキャラ…
自分も出して欲しいでぇーす。自分のネーム、くわぁまん別名、截天夜叉何曼と申します。
汝南、穎川で蜂起した黄巾軍の首領の一人。
演義、吉川三国志では曹操の息子に瞬殺されたヤラレキャラ…
(SH900i/FOMA)
23 独眼龍李克用
正史の「呉書・趙達伝」に葛仙公という神仙家がおります。呉には変なのが多いですが神仙家なのに大酒飲みというどうでもいい人ですが私は何となく好きです。なのでとりあえず推薦。
(P900i/FOMA)
28 くわぁまん
天草殿、お手数かけます。m(__)m
自分は、正史、演義を読んだのは数年前で手元に資料有りません。
解るのは前記しただけなので難しかったら除外してください。
ただ、自分の気分で選んだネームなだけなので。
自分は、正史、演義を読んだのは数年前で手元に資料有りません。
解るのは前記しただけなので難しかったら除外してください。
ただ、自分の気分で選んだネームなだけなので。
(SH900i/FOMA)
29 天草
何曼について…
○黄布賊の残党で曹操に討たれているのが、武帝記に書かれてます。
○何曼=何儀説もあるようです。確かに彼が降伏した時期と暴れた時期はダブってます。
○曹爽の腹心・何進の孫に同名の武将が三国志後半にも登場してます。
今、調べた感じではこんな感じです。
○黄布賊の残党で曹操に討たれているのが、武帝記に書かれてます。
○何曼=何儀説もあるようです。確かに彼が降伏した時期と暴れた時期はダブってます。
○曹爽の腹心・何進の孫に同名の武将が三国志後半にも登場してます。
今、調べた感じではこんな感じです。
(PC)
30 大伴
そろそろ徐平を入れてもらいましょうか。
字は伯先。父は三つの県の長を歴任し、零陵太守にまで昇進した徐陵である。
幼い内から評判が高く、虞ホンに称賛された。諸葛カクは丹楊太守となると、彼に威信があり、思慮深い事を知っていたので、願いでて自分の丞に任じる許可を得た。
後に徐平は、武昌の左部督にまで昇進する。彼は誠実な態度で全ての人と接した為、士卒達は皆、彼の為に死力を尽くして任務に励んだ。
諸葛カクが謀殺されると、その息子、諸葛建は逃亡したが、徐平の部曲(私兵)に捕らえられた。が、後に建は別の者に捕らえられた。
徐平の一族の女二名、離縁され戻って来たが、彼女達を大切にし、過度な程に思いやりをかけた。彼が篤い心をもって正しい満ちをふみ行った事は、皆かくの如しであった。
私の作品の、重要人物ですからね。
字は伯先。父は三つの県の長を歴任し、零陵太守にまで昇進した徐陵である。
幼い内から評判が高く、虞ホンに称賛された。諸葛カクは丹楊太守となると、彼に威信があり、思慮深い事を知っていたので、願いでて自分の丞に任じる許可を得た。
後に徐平は、武昌の左部督にまで昇進する。彼は誠実な態度で全ての人と接した為、士卒達は皆、彼の為に死力を尽くして任務に励んだ。
諸葛カクが謀殺されると、その息子、諸葛建は逃亡したが、徐平の部曲(私兵)に捕らえられた。が、後に建は別の者に捕らえられた。
徐平の一族の女二名、離縁され戻って来たが、彼女達を大切にし、過度な程に思いやりをかけた。彼が篤い心をもって正しい満ちをふみ行った事は、皆かくの如しであった。
私の作品の、重要人物ですからね。
(F2102V/FOMA)
34 くわぁまん
では、あちしは蜀将二人推薦しゃす。
先ずは、孔明の片腕、楊洪字はろくに読めなかったが、劉備の病気を知り反乱を起こした黄元を討伐し、その後劉禅を補佐した。
…もうひとりは来敏、左伝の学者で劉禅を補佐、費イが北伐に行くさい囲碁対局にて胆力を試した。景耀年間に97歳という長寿で亡くなった。
先ずは、孔明の片腕、楊洪字はろくに読めなかったが、劉備の病気を知り反乱を起こした黄元を討伐し、その後劉禅を補佐した。
…もうひとりは来敏、左伝の学者で劉禅を補佐、費イが北伐に行くさい囲碁対局にて胆力を試した。景耀年間に97歳という長寿で亡くなった。
(SH900i/FOMA)
36 独眼龍李克用
司馬炎と梁習は無理っすか…
それじゃあ魏の郭淮と婁圭と桓範を推薦しますかな(多っ)
郭淮は言うまでもありませんが司馬懿の配下で蜀と戦った人ですな。
婁圭(ろうけい)は馬超との戦いで曹操に氷の城を造れといい(たぶん演義)正史では失言により曹操に処刑にされている。
桓範は曹爽の時に大司農になっており曹爽に知嚢(ちえぶくろ)と呼ばれた人です。
それじゃあ魏の郭淮と婁圭と桓範を推薦しますかな(多っ)
郭淮は言うまでもありませんが司馬懿の配下で蜀と戦った人ですな。
婁圭(ろうけい)は馬超との戦いで曹操に氷の城を造れといい(たぶん演義)正史では失言により曹操に処刑にされている。
桓範は曹爽の時に大司農になっており曹爽に知嚢(ちえぶくろ)と呼ばれた人です。
(P900i/FOMA)
40 エロハシ
天草さん>過去ログにあった何進の孫ってのは、何曼ではなくで何晏じゃないですかね? つうわけでなんの思い入れもないですが書いてみます(笑)
何晏
何進の孫。曹操の側室、尹氏の連れ子。玄学の創始者。薬中(五石散)。後の中華における詩文の強い影響力を与えたと考えられている。
何晏
何進の孫。曹操の側室、尹氏の連れ子。玄学の創始者。薬中(五石散)。後の中華における詩文の強い影響力を与えたと考えられている。
(P900i/FOMA)
41 天草
エロハシ殿>情報感謝!
何晏の方はよく見かけるんですが、くわぁまん殿の方の何曼がなかなか見つかりません(泣)
ところで…五石散の常習者という記述が見つからないんですよね。ソースがあれば希望です。
何晏の方はよく見かけるんですが、くわぁまん殿の方の何曼がなかなか見つかりません(泣)
ところで…五石散の常習者という記述が見つからないんですよね。ソースがあれば希望です。
(PC)
42 独眼龍李克用
何晏といえば漫画(蒼天航路)に薬やってるって書いてましたね。私は大嫌いですね。老荘思想としては曲がってますよ。
何晏が嫌いだ、と書くだけではあれなんで一人だけ推挙。
賈充、字を公閭。賈逵の子である。司馬氏の腹心、参謀として働いた。
何晏が嫌いだ、と書くだけではあれなんで一人だけ推挙。
賈充、字を公閭。賈逵の子である。司馬氏の腹心、参謀として働いた。
(P900i/FOMA)
45 大伴
鄭欽ですか。「テイキン」と読むのでしょうか?
どの資料を見たら出てくるのか教えて下さい。三国志(ちくま学芸文庫版)の付録を見ても見つかりません。後漢書かな?
追記;ソース=ここでは出典という意味。source。
どの資料を見たら出てくるのか教えて下さい。三国志(ちくま学芸文庫版)の付録を見ても見つかりません。後漢書かな?
追記;ソース=ここでは出典という意味。source。
(F2102V/FOMA)
46 天草
賈充完了!
エロハシ殿>ソースというのは情報元という捕らえ方でお願いします。いろいろ調べましたが、薬中という記述が分からなかったので…(陳謝)
ところで、『鄭欽』というのも出てきませんね(汗)ソース教えてください。。。
エロハシ殿>ソースというのは情報元という捕らえ方でお願いします。いろいろ調べましたが、薬中という記述が分からなかったので…(陳謝)
ところで、『鄭欽』というのも出てきませんね(汗)ソース教えてください。。。
(PC)
47 大伴
私は旅人(本邦の奈良時代の軍人。太宰の帥であった事は有名。家持の父)が好きなのですが、彼の短歌には、三国時代の影響が大なのです。例えば、「いにしへの七の賢しき人なども……」などは、竹林の七賢を題材としています。
その旅人ですが、特に呉の鄭泉に影響を受けたらしく、「なかなかに人に非ずば酒壷に、なりてしかも酒に染みなむ」などと詠みました。
という訳で、鄭泉をお願いします。
字は文淵、陳郡の人。知識人であり人とは異なる志があった為に、孫権は議郎に任じた。
孫権が「君は私を衆中で諌めるが、礼と敬を失している」と詰問すると、「主君の仁愛を知っているからだ」と答えた。それで孫権は役人に引き渡し、彼を脅かしたという。
二二二年九月(劉備がオウ亭で陸遜に大敗したのが同年閏六月)、魏との間で戦が始まると、蜀との和平の為に使者となり、関係改善に尽力した。
大変な酒好きで、死後は酒壷の土になれるやも知れないと、遺骸を陶芸家の家の傍に埋める様遺言した。
その旅人ですが、特に呉の鄭泉に影響を受けたらしく、「なかなかに人に非ずば酒壷に、なりてしかも酒に染みなむ」などと詠みました。
という訳で、鄭泉をお願いします。
字は文淵、陳郡の人。知識人であり人とは異なる志があった為に、孫権は議郎に任じた。
孫権が「君は私を衆中で諌めるが、礼と敬を失している」と詰問すると、「主君の仁愛を知っているからだ」と答えた。それで孫権は役人に引き渡し、彼を脅かしたという。
二二二年九月(劉備がオウ亭で陸遜に大敗したのが同年閏六月)、魏との間で戦が始まると、蜀との和平の為に使者となり、関係改善に尽力した。
大変な酒好きで、死後は酒壷の土になれるやも知れないと、遺骸を陶芸家の家の傍に埋める様遺言した。
(F2102V/FOMA)
50 エロハシ(けんごじゃない・笑)
天草さん>天草さんは熊本人と?(笑)
えっと、何晏のソースなんですが…ないんです(つ_;)φイジイジ…。 俺がメモったノートをまんま写したので…(汗)
で、更に鄭欽なんですが超適当(滝汗) 伊達さんを習って誰か書かなきゃと思い、近くにあった小説の背表紙(?)の紹介文を写しちゃいましたι(反省) ちなみに演義びいきの「興亡三国志」です…
えっと、何晏のソースなんですが…ないんです(つ_;)φイジイジ…。 俺がメモったノートをまんま写したので…(汗)
で、更に鄭欽なんですが超適当(滝汗) 伊達さんを習って誰か書かなきゃと思い、近くにあった小説の背表紙(?)の紹介文を写しちゃいましたι(反省) ちなみに演義びいきの「興亡三国志」です…
(P900i/FOMA)
52 エロハシ
俺は生まれも育ちも熊本と!(唐突に方言使いだすあたりが嘘っぽいですが・笑)
祖茂なんてどうでしょう? 正史にはでてるのかな?
呉軍富春出身・孫堅配下。 反董卓連合軍・VS華雄戦にて戦死。 てか孫堅四天王って呼ばれてたんですねΣ(;゚Д゚ノ)ノドヒャー
祖茂なんてどうでしょう? 正史にはでてるのかな?
呉軍富春出身・孫堅配下。 反董卓連合軍・VS華雄戦にて戦死。 てか孫堅四天王って呼ばれてたんですねΣ(;゚Д゚ノ)ノドヒャー
(P900i/FOMA)
53 しす
あれ?興亡三国志はわしも読みました。
が、鄭欽って三好徹氏が物語の狂言回しとして創作の人物じゃないんですか?
自分はそう思って読んでいましたが。
ちなみにこの小説、陳宮の描きかたが珠玉の一品。
わしの好きな三国志小説の一つ。
が、鄭欽って三好徹氏が物語の狂言回しとして創作の人物じゃないんですか?
自分はそう思って読んでいましたが。
ちなみにこの小説、陳宮の描きかたが珠玉の一品。
わしの好きな三国志小説の一つ。
(PC)
55 大伴
陳宮小説があるのですか!!!
陳宮ファンとしては是非読まなければ(笑)
しかしどこのスレッドでもそうですが、小説や通俗演義の話を「事実」として語る方がありますよね。特別なスレッド以外は史実準拠だと、注意書きを入れた方が良くないですか?
陳宮ファンとしては是非読まなければ(笑)
しかしどこのスレッドでもそうですが、小説や通俗演義の話を「事実」として語る方がありますよね。特別なスレッド以外は史実準拠だと、注意書きを入れた方が良くないですか?
(F2102V/FOMA)
56 天草
あまり規律で絞めまくるのもどうかと思いますので、とりあえずはこのままでいきましょう。
演義の話しなのか、正史の話しなのか、分からなくなってたり、混乱してたりする方も多いでしょうからね。
ここは一つずつ、教えてあげて、誰でも気軽に書き込める掲示板にすべきかと。
演義の話しなのか、正史の話しなのか、分からなくなってたり、混乱してたりする方も多いでしょうからね。
ここは一つずつ、教えてあげて、誰でも気軽に書き込める掲示板にすべきかと。
(PC)
57 天草
はいはい!
祖茂をアップしました。
本文に書きましたが、華雄に殺されたというのは真実ですかね?私的には調べきれなかったのですが…。
っつうか、死んだのもその事件の時だったのかも分かりませんでした。
祖茂をアップしました。
本文に書きましたが、華雄に殺されたというのは真実ですかね?私的には調べきれなかったのですが…。
っつうか、死んだのもその事件の時だったのかも分かりませんでした。
(PC)
58 エロハシ
しすさん>そなんですか!? …芋知識ですいませんm(__;)m
天草さん>たぶん興亡三国志は図書館とかにも置いてあるとこもあったような…ι 結構有名っぽいですが、あんまりオリジナリティがない感じがして、俺的には微妙でした(^o^;
ちなみに一番好きな三国志小説は北方謙三さんの三国志です♪
…呉郡の漢字間違ってましたm(__)m
天草さん>たぶん興亡三国志は図書館とかにも置いてあるとこもあったような…ι 結構有名っぽいですが、あんまりオリジナリティがない感じがして、俺的には微妙でした(^o^;
ちなみに一番好きな三国志小説は北方謙三さんの三国志です♪
…呉郡の漢字間違ってましたm(__)m
(P900i/FOMA)
59 しす
>エロハシ殿
まぁ、あまり気にせんと、わしも最初は似たようなもんでしたからw
>大伴殿
「興亡三国志」基本的に演義準拠なので、正史に飽きた時に読むといいかも。
わしも正史にドップリ浸かった後で、ふと懐古主義で読みましたから。
陳宮もなかなかなのですが、その鄭欽が結構いい感じです。
まぁ、あまり気にせんと、わしも最初は似たようなもんでしたからw
>大伴殿
「興亡三国志」基本的に演義準拠なので、正史に飽きた時に読むといいかも。
わしも正史にドップリ浸かった後で、ふと懐古主義で読みましたから。
陳宮もなかなかなのですが、その鄭欽が結構いい感じです。
(PC)
60 しす
と、それだけではあまりにも…なのでわしも一人推薦。
文聘
字は仲業。南陽宛の人。
元は劉表の武将で北方の防御にあたっていた。
その後劉表の遺児、劉jが曹操に降伏したが、彼は長らく出頭しなかった。
出頭してきた文聘に曹操がなぜ遅れたかと問うと
劉表、劉jの恩に報いることができず、慚愧思いを抱き顔向け出来なかった…とむせび泣いたという。
これに曹操は「真の忠臣である」と感嘆し礼を厚くして待遇した。
その後呉と国境を接する江夏の太守になり対関羽戦や孫権との戦いで戦功を挙げる。
ちなみに孫権が攻め寄せた時、彼は固く守って動揺しなかったので孫権は包囲を解いたとある。
しかし「魏略」によると、この時大雨で城柵は崩壊しており、
為す術がなくなった文聘は「空城の計」でもって疑惑を抱かせ退けたとある。
文聘
字は仲業。南陽宛の人。
元は劉表の武将で北方の防御にあたっていた。
その後劉表の遺児、劉jが曹操に降伏したが、彼は長らく出頭しなかった。
出頭してきた文聘に曹操がなぜ遅れたかと問うと
劉表、劉jの恩に報いることができず、慚愧思いを抱き顔向け出来なかった…とむせび泣いたという。
これに曹操は「真の忠臣である」と感嘆し礼を厚くして待遇した。
その後呉と国境を接する江夏の太守になり対関羽戦や孫権との戦いで戦功を挙げる。
ちなみに孫権が攻め寄せた時、彼は固く守って動揺しなかったので孫権は包囲を解いたとある。
しかし「魏略」によると、この時大雨で城柵は崩壊しており、
為す術がなくなった文聘は「空城の計」でもって疑惑を抱かせ退けたとある。
(PC)
63 独眼龍李克用
最近気になってる二人を調べてほしいんですが…
「孫炎」と「文淑」がよくわからない。
孫炎は、魏の学者らしく反切法を始めたと辞書に載っていたのですが、全く知らん。
文淑は魏の文欽の長男?で趙雲ぐらい比せられた人です。こっちは、三国志]で最近知ったのでようわからん。
と言うことで天草さん、すみませんが調べてやってくださいホントにいまいちわからないんで。
「孫炎」と「文淑」がよくわからない。
孫炎は、魏の学者らしく反切法を始めたと辞書に載っていたのですが、全く知らん。
文淑は魏の文欽の長男?で趙雲ぐらい比せられた人です。こっちは、三国志]で最近知ったのでようわからん。
と言うことで天草さん、すみませんが調べてやってくださいホントにいまいちわからないんで。
(P900i/FOMA)
64 しす
文俶、幼名は「鴦」。
文欽の息子。
なぜか幼名の方が有名な人物。
父文欽がカン丘倹と魏に叛乱を起こすとこれに従う。
しかし司馬師によって討伐されると父と共に呉に亡命する。
諸葛誕が魏に謀反すると、これの救援のため父とともに寿春に赴く。
しかし文欽が諸葛誕に殺されると、弟文虎と共に城壁を越えて魏に帰投降した。
魏では処刑すべきだという意見もあったが、司馬昭は、「城が陥落しないうちに処刑すれば、敵の結束を固めてしまう」と、罪を許して厚遇した。
さらに司馬昭は城外から「文欽の子ですら殺されなかったのだから、他の者は心配いらぬぞ」
と呼びかけ戦意を喪失させた。
しかし司馬炎の時代には疎まれ、謀反の企てたという讒言により三族皆殺しにされた。
と資料が断片的でこんなもんしか解りませんでしたが…
諸葛誕伝などの断片的な記述にネットで検索した情報をプラスしただけなのでソースとしては微妙。
間違ってる可能性もありますので補足あるいは訂正していただけると助かります。
っていうかわしも知りたい。
「反三国志」で大活躍、重要キャラとして扱われるほどの人物なのか…気になります。
文欽の息子。
なぜか幼名の方が有名な人物。
父文欽がカン丘倹と魏に叛乱を起こすとこれに従う。
しかし司馬師によって討伐されると父と共に呉に亡命する。
諸葛誕が魏に謀反すると、これの救援のため父とともに寿春に赴く。
しかし文欽が諸葛誕に殺されると、弟文虎と共に城壁を越えて魏に帰投降した。
魏では処刑すべきだという意見もあったが、司馬昭は、「城が陥落しないうちに処刑すれば、敵の結束を固めてしまう」と、罪を許して厚遇した。
さらに司馬昭は城外から「文欽の子ですら殺されなかったのだから、他の者は心配いらぬぞ」
と呼びかけ戦意を喪失させた。
しかし司馬炎の時代には疎まれ、謀反の企てたという讒言により三族皆殺しにされた。
と資料が断片的でこんなもんしか解りませんでしたが…
諸葛誕伝などの断片的な記述にネットで検索した情報をプラスしただけなのでソースとしては微妙。
間違ってる可能性もありますので補足あるいは訂正していただけると助かります。
っていうかわしも知りたい。
「反三国志」で大活躍、重要キャラとして扱われるほどの人物なのか…気になります。
(PC)
68 子竜
辞典を拝見したところ、呉の賀斉が載っていなかったので(見落としかもしれませんが)、ぜひ、加えてあげてください。彼は、刃物を呪術で封じ込めてくる敵軍に対して、棍棒を用いて撃破した強者です。
(W11K/au)
70 子竜
ちくま学芸文庫の正史の賀斉伝と一緒に掲載されている「抱朴子」にあります。内容を大まかに書くと…
昔、呉が賀斉を派遣して山越の叛徒を討伐させたとき、その中にものの力を発動を封じる呪術を使う者がいた。そのため、刀剣を抜くことができず、矢を射ても、全て自軍に戻ってくるため、戦いは常に不利であった。そこで賀斉は、堅い木材で棍棒を多数作らせ、それを力の強い兵士五千人に持たせた。叛徒は、呪術を頼みにし、まともな備えは一つもしていなかった。そのため、彼らによって打ち破られ、死者は数万にのぼった。
以上が、棍棒に関する記述ですが、改めて読んで、かなり作り話っぽいと、自分でも思います。ただ、江東の平定に尽力し、活躍したのは間違いなく、そのためにこのような逸話が生まれたのでは?と思います。
昔、呉が賀斉を派遣して山越の叛徒を討伐させたとき、その中にものの力を発動を封じる呪術を使う者がいた。そのため、刀剣を抜くことができず、矢を射ても、全て自軍に戻ってくるため、戦いは常に不利であった。そこで賀斉は、堅い木材で棍棒を多数作らせ、それを力の強い兵士五千人に持たせた。叛徒は、呪術を頼みにし、まともな備えは一つもしていなかった。そのため、彼らによって打ち破られ、死者は数万にのぼった。
以上が、棍棒に関する記述ですが、改めて読んで、かなり作り話っぽいと、自分でも思います。ただ、江東の平定に尽力し、活躍したのは間違いなく、そのためにこのような逸話が生まれたのでは?と思います。
(W11K/au)
72 大伴
賀斉が根棒を用いた理由は、戦闘地域が、戟が使用しづらい密林であったからでは無いか、という説もある様ですね。これが脚色されて、禁の術となったと。
さて本題。
今回の図書館祭のテーマはマイナーキャラクターです。ですから知らない人の話も予想できます。
メインキャストは、作品の頭に人物紹介を付けてみては?辞典とリンクして。如何かな?
さて本題。
今回の図書館祭のテーマはマイナーキャラクターです。ですから知らない人の話も予想できます。
メインキャストは、作品の頭に人物紹介を付けてみては?辞典とリンクして。如何かな?
(F2102V/FOMA)
73 黄漢升
天草殿!遅くなりました。張嶷伯岐 貧民の出身だが若い頃から気概をもち、二十歳で県の功曹になる。劉備が蜀を平定した時、山賊が県を襲撃し、県長は家族を見捨て逃げたが張嶷は県長夫人を背負って襲撃をかいくぐり救出、これが評判になり州の従事になる。227年、諸葛亮が漢中に駐屯した隙に、山賊の張幕らが襲撃してきたので、張嶷が都尉として討伐に向かったさい、和議を結ぶふりをして宴席に誘い出し、その場で張幕ら50人あまりの首をきり、残党も十日間で滅ぼした。また越崔郡では叟族がたびたび反乱を起こし、太守を次つぎに殺害したが、張嶷が太守として赴任すると、恩恵と信義を施したので、蛮族は皆心服した。これが諸葛亮の南征のもでるになった。最後は254年に姜維とともに魏に侵攻し、徐質との戦いで討ち死にした。
(N900i/FOMA)
74 天草
なるほど!でもあのBOOK機能にリンク機能が引っ付けられたかな?ちょっと調べてみますね。
黄殿>明日にでも追加しておきます!
ここのスレ見て思い出したけど、最近子竜殿を見ないですね。忙しいかな?アド知ってるから、メールしてみっかな?
黄殿>明日にでも追加しておきます!
ここのスレ見て思い出したけど、最近子竜殿を見ないですね。忙しいかな?アド知ってるから、メールしてみっかな?
(PC)
76 C
嵆康とその家族
竹林の七賢の一人、父、嵆昭は譙の出身で曹操の挙兵時からの臣で曹操からは信頼され食料監督をおこなっていた、嵆昭は魏王朝成立後数年で死亡。嵆康は三男として生まれる。長男は名前不明次男は嵆喜がいて正史「魏書」「王燦伝」に記述あり。
嵆康は若くから優秀で沛王曹緯に見込まれ娘と結婚し曹一族と婚戚となる、ちなみに曹緯は曹林の子なので妻は曹操の曾孫になる。ちなみに曹林は杜夫人の子で杜夫人は金郷公主で何晏の妻。このことが司馬イのクーデター時の立場にかかわってくる。カンキュウケンの謀反に呼応し挙兵しようとするが、友人で司馬政権の内部に詳しい山濤にとめられる。そのご、嵆康は山歩きと鍛冶に没頭するこの時に鐘会がたずねてくるが無視し恨みを買う。そのご友人の山濤に絶縁状を出すがこれは司馬政権下でそれに反対する友人がいてはいけないという被害をかけないためであり形式上のもの
。この手紙(公開が目的だったため)により司馬昭の心証も害する。その後友人呂安の弁護をした際に無罪でありながら恨み(特に鐘会)によって死刑となる。ちなみに外見は身長188センチとかなり長身だったそうです
嵆康の息子である嵆紹は、父の死後、父の友人山濤の薦めで司馬政権に入る(ここでも絶縁状の形式だけで友情の継続が現れている)西晋王朝の侍中として暗愚とされる恵帝を最後まで守ろうとする。最後は恵帝の衣服に血がつくほどの凄惨な最後であった。このとき恵帝の服の血を拭こうとすると「これは嵆侍中の血だ拭いてはならん」と暗愚といわれた恵帝をして言わせるほどの忠臣であったと言われている。
竹林の七賢の一人、父、嵆昭は譙の出身で曹操の挙兵時からの臣で曹操からは信頼され食料監督をおこなっていた、嵆昭は魏王朝成立後数年で死亡。嵆康は三男として生まれる。長男は名前不明次男は嵆喜がいて正史「魏書」「王燦伝」に記述あり。
嵆康は若くから優秀で沛王曹緯に見込まれ娘と結婚し曹一族と婚戚となる、ちなみに曹緯は曹林の子なので妻は曹操の曾孫になる。ちなみに曹林は杜夫人の子で杜夫人は金郷公主で何晏の妻。このことが司馬イのクーデター時の立場にかかわってくる。カンキュウケンの謀反に呼応し挙兵しようとするが、友人で司馬政権の内部に詳しい山濤にとめられる。そのご、嵆康は山歩きと鍛冶に没頭するこの時に鐘会がたずねてくるが無視し恨みを買う。そのご友人の山濤に絶縁状を出すがこれは司馬政権下でそれに反対する友人がいてはいけないという被害をかけないためであり形式上のもの
。この手紙(公開が目的だったため)により司馬昭の心証も害する。その後友人呂安の弁護をした際に無罪でありながら恨み(特に鐘会)によって死刑となる。ちなみに外見は身長188センチとかなり長身だったそうです
嵆康の息子である嵆紹は、父の死後、父の友人山濤の薦めで司馬政権に入る(ここでも絶縁状の形式だけで友情の継続が現れている)西晋王朝の侍中として暗愚とされる恵帝を最後まで守ろうとする。最後は恵帝の衣服に血がつくほどの凄惨な最後であった。このとき恵帝の服の血を拭こうとすると「これは嵆侍中の血だ拭いてはならん」と暗愚といわれた恵帝をして言わせるほどの忠臣であったと言われている。
(PC)
81 郭煕
張温は小説のネタに使おうと思っていたので結構調べました。
張温、字は恵恕。呉郡呉の出身。父、張允も孫権配下で、父の死後、孫権に仕え、それより前の引見では見事な応対をする。 224年に蜀へ使者に立ち、蜀の人々に才能を評価される。しかしこの際に蜀の政治を賛美した事や幾つかの勝手な振る舞い、彼自身の名声を孫権は不快に思い、張温と仲の良かったキエンや徐彪らが訴えられるのにかこつけて失脚させる。その6年後に病死する。弟の張祗(し)、張白らも有能だったが官位を召し上げられる。
こんな所でしょうか。ちなみに張温の妹の一人は顧承に嫁いでおり、弟の張白は陸績の娘を娶っていて、名家の繋がりが感じられます。
後、人物辞典の張紘の字が違っていました。(×鉱→○紘)
張温、字は恵恕。呉郡呉の出身。父、張允も孫権配下で、父の死後、孫権に仕え、それより前の引見では見事な応対をする。 224年に蜀へ使者に立ち、蜀の人々に才能を評価される。しかしこの際に蜀の政治を賛美した事や幾つかの勝手な振る舞い、彼自身の名声を孫権は不快に思い、張温と仲の良かったキエンや徐彪らが訴えられるのにかこつけて失脚させる。その6年後に病死する。弟の張祗(し)、張白らも有能だったが官位を召し上げられる。
こんな所でしょうか。ちなみに張温の妹の一人は顧承に嫁いでおり、弟の張白は陸績の娘を娶っていて、名家の繋がりが感じられます。
後、人物辞典の張紘の字が違っていました。(×鉱→○紘)
(W11K/au)
85 大伴
そういえば、<公孫度伝>によると、
公孫恭は陰萎を病み性的不能者となり、資質劣って国を治める能力がなかった。
とあります。当時は「EDは政治も駄目」という認識だったのでしょうね。もっともそこからは、「政治が駄目だからEDに違いない」という逆説も生まれるでしょうから、恭が事実EDであったか否かは難しいですが……
公孫恭は陰萎を病み性的不能者となり、資質劣って国を治める能力がなかった。
とあります。当時は「EDは政治も駄目」という認識だったのでしょうね。もっともそこからは、「政治が駄目だからEDに違いない」という逆説も生まれるでしょうから、恭が事実EDであったか否かは難しいですが……
(F2102V/FOMA)
86 郭煕
風邪ひいて暇なのでここに何人か投稿します。
陸瑁、字は子璋。陸遜の弟。若い頃から学問を好み、義を重んじた。徐原(呂岱の部下で陸瑁と同郡出身)が亡くなると面識が無かったが、彼の為に墳墓を作ってやり、子供達を引き取って教育した。また、親族の陸績の遺児も引き取っている。州や郡の役所からの招聘や推挙は一切応じず、二三二年に半ば強引に召し出され、議郎、選曹尚書となる。孫権が公孫淵に騙され、出兵しようとした時には二度に渡って諫めている。正史に残る業績はこれだけで、二三九年に死去している。
息子の陸喜は孫皓の時代に選曹尚書になり、晋で皇帝の側近になった。また、陸瑁の孫は車騎将軍や司空になった。
自身に子供が5人いるので全部で10人以上育てた事になります。臣下としては虞翻に続く記録でしょう。官職を拒み続けたあたり、兄達とは異なった考えがあったのでしょうか。
陸瑁、字は子璋。陸遜の弟。若い頃から学問を好み、義を重んじた。徐原(呂岱の部下で陸瑁と同郡出身)が亡くなると面識が無かったが、彼の為に墳墓を作ってやり、子供達を引き取って教育した。また、親族の陸績の遺児も引き取っている。州や郡の役所からの招聘や推挙は一切応じず、二三二年に半ば強引に召し出され、議郎、選曹尚書となる。孫権が公孫淵に騙され、出兵しようとした時には二度に渡って諫めている。正史に残る業績はこれだけで、二三九年に死去している。
息子の陸喜は孫皓の時代に選曹尚書になり、晋で皇帝の側近になった。また、陸瑁の孫は車騎将軍や司空になった。
自身に子供が5人いるので全部で10人以上育てた事になります。臣下としては虞翻に続く記録でしょう。官職を拒み続けたあたり、兄達とは異なった考えがあったのでしょうか。
(W11K/au)
87 郭煕
駱統、字は公緒。陳国の相であった駱俊の子。二十歳の時、試験的に任じられた烏程の相の任を見事に果たし、功曹、騎都尉に任じられる。生涯に数十回もの上書を行い、その内容は立派な物であった。夷陵の戦いでは陸遜に従いその功績で偏将軍になる。二二三年にも功績を立てている。二二八年に三十六歳で死去。 息子の駱秀は司塩校尉になるが海賊に殺されている。
年齢を逆算すると193年生まれ、同年の張温とは彼の失脚時に上書したように仲が良かったのでは無いでしょうか。二人は赤壁の当時、若干16歳でしかなく、駱統に至っては仕えていなかった可能性があります。また、駱統の生母は魏の華キンの側室として再婚しています。
年齢を逆算すると193年生まれ、同年の張温とは彼の失脚時に上書したように仲が良かったのでは無いでしょうか。二人は赤壁の当時、若干16歳でしかなく、駱統に至っては仕えていなかった可能性があります。また、駱統の生母は魏の華キンの側室として再婚しています。
(W11K/au)
88 郭煕
陸遜1の所に「父の従兄弟の元に身を寄せた」とありますが、これが陸康を指すのなら正確ではありません。
ちくま版の系図は陸遜の祖父の陸ウの兄弟は○になっていますが間違いでここに陸康が繰り上がります。この根拠は陸ウの字が叔で陸康の字が季であること、陸瑁伝に陸績(陸康の子)が叔父であると書かれていることが挙げられます。よって父の叔父、つまり「大叔父」がいいと思います。
ちくま版の系図は陸遜の祖父の陸ウの兄弟は○になっていますが間違いでここに陸康が繰り上がります。この根拠は陸ウの字が叔で陸康の字が季であること、陸瑁伝に陸績(陸康の子)が叔父であると書かれていることが挙げられます。よって父の叔父、つまり「大叔父」がいいと思います。
(W11K/au)
89 郭煕
留賛、字は正明。若くして郡の役人となり、黄巾賊との戦いで首領を打ち取るも負傷し、片足が伸びなくなる。しかし、足の筋を切って引き伸ばすことで回復する。これを伝え聞いた凌統は彼を推薦した。よく諫言をし、意見を正面から述べるので孫権は彼を煙たがった。
孫権の死後、魏が攻めて来ると丁奉らと共に先鋒をつとめ、打ち破った。この功で左将軍に昇進する。
彼は戦いの前に髪を振り乱し、天に叫び、声を張り上げて歌を歌い、側近がそれに和する、これらをして初めて戦いを交え、必ず敵を打ち破った。彼が戦死したワイ南遠征では途中で病を発し、帰還する時を襲撃されたものだった。「俺が戦う時には、いつも決まったやり方があった。今病気が重くなって(それができず)こんなざまになってしまった。これも運命だろう。」こう言って戦死した。
息子の留略と留平は軍の重責を担った。
享年七十三歳とされていますが逆算すると三、四歳で戦ったことになるのですが、どうなんでしょう?伝が立てられてない名臣の一人です。
孫権の死後、魏が攻めて来ると丁奉らと共に先鋒をつとめ、打ち破った。この功で左将軍に昇進する。
彼は戦いの前に髪を振り乱し、天に叫び、声を張り上げて歌を歌い、側近がそれに和する、これらをして初めて戦いを交え、必ず敵を打ち破った。彼が戦死したワイ南遠征では途中で病を発し、帰還する時を襲撃されたものだった。「俺が戦う時には、いつも決まったやり方があった。今病気が重くなって(それができず)こんなざまになってしまった。これも運命だろう。」こう言って戦死した。
息子の留略と留平は軍の重責を担った。
享年七十三歳とされていますが逆算すると三、四歳で戦ったことになるのですが、どうなんでしょう?伝が立てられてない名臣の一人です。
(W11K/au)
90 たけがみ◆FiJ8
郭熙さん初めまして。
・瑁の従父が績
・績の父親が康
・遜の従祖が康
・遜の実弟が瑁
確かにこの四つの正史の記述で従祖が大季父であるのが一番都合がいいですね。私もそうだと思います。ただ疑問に思ったのは、紆の字が叔盤で康の字が季だから甥でなく弟とは決まらないと思うのですが…。
・瑁の従父が績
・績の父親が康
・遜の従祖が康
・遜の実弟が瑁
確かにこの四つの正史の記述で従祖が大季父であるのが一番都合がいいですね。私もそうだと思います。ただ疑問に思ったのは、紆の字が叔盤で康の字が季だから甥でなく弟とは決まらないと思うのですが…。
(N900i/FOMA)
92 天草
郭煕さん>風邪大丈夫ですか?お大事に!!
しかもこんなに沢山の情報をありがとうございます!
頑張って更新しますので、TOPの『更新状況』も注目しておいて下さいね★
しかしこのスレもかなり伸びましたね!100の方は新スレお願いします!
しりとり以来の100が見えたな(笑)
しかもこんなに沢山の情報をありがとうございます!
頑張って更新しますので、TOPの『更新状況』も注目しておいて下さいね★
しかしこのスレもかなり伸びましたね!100の方は新スレお願いします!
しりとり以来の100が見えたな(笑)
(PC)
93 大伴
(合肥の戦いスレッドより)確かにありました。
谷利
もともとは孫権の側近にあって使い走りをしていたが、謹直な性格である事から親近監に任ぜられた。忠義で一本気であって決していい加減な事を言わなかった為、孫権は愛し信頼した。孫権は彼を名で呼ばず、谷と呼んだという。
215年、合肥からの撤退の際、橋が壊されていた。その為孫権の後ろに従っていた谷利は、孫権の馬に鞭を当て馬を勢いつかせ飛ばせた。こうして橋を渡り危機を逃れた孫権は直ぐ様、谷利に都亭侯の位を与えたという。
谷利
もともとは孫権の側近にあって使い走りをしていたが、謹直な性格である事から親近監に任ぜられた。忠義で一本気であって決していい加減な事を言わなかった為、孫権は愛し信頼した。孫権は彼を名で呼ばず、谷と呼んだという。
215年、合肥からの撤退の際、橋が壊されていた。その為孫権の後ろに従っていた谷利は、孫権の馬に鞭を当て馬を勢いつかせ飛ばせた。こうして橋を渡り危機を逃れた孫権は直ぐ様、谷利に都亭侯の位を与えたという。
(F2102V/FOMA)
94 郭煕
少し時代が後になりますが陸機(士衡)、陸雲(士龍)兄弟を。
陸抗の子。呉滅亡後は晋に仕える。晋の張華は彼ら二人を賞賛して「呉討伐の最大の収穫は二人の俊才を得た事だ」と言った。二人は顕官を歴任した。八王の乱では成都王についたが王の寵愛を受けていた宦官の孟玖とその弟の孟超と不和になり、彼らの讒言で弟の陸耽と共に処刑された。天下の人々は皆その死を惜しんだ。
二人とも詩文に優れ、六朝の詩の基礎を築いた。以上が三国志注の内容ですが、「世説新語」によれば陸機は性格が険しく、郷里の仲間から畏れられており、陸雲は6歳で詩を作り、性格は温厚風雅で士大夫な尊敬され、政治家としても有能で生きている内から祠が建てられたそうです。また、彼らの別伝には詩才は陸機が優れ、議論に関しては陸雲が優れていたとありますが、世説新語では当意即妙の受け答えは専ら陸機の役目で陸雲の才に関する記述は少ないです。
陸抗の子。呉滅亡後は晋に仕える。晋の張華は彼ら二人を賞賛して「呉討伐の最大の収穫は二人の俊才を得た事だ」と言った。二人は顕官を歴任した。八王の乱では成都王についたが王の寵愛を受けていた宦官の孟玖とその弟の孟超と不和になり、彼らの讒言で弟の陸耽と共に処刑された。天下の人々は皆その死を惜しんだ。
二人とも詩文に優れ、六朝の詩の基礎を築いた。以上が三国志注の内容ですが、「世説新語」によれば陸機は性格が険しく、郷里の仲間から畏れられており、陸雲は6歳で詩を作り、性格は温厚風雅で士大夫な尊敬され、政治家としても有能で生きている内から祠が建てられたそうです。また、彼らの別伝には詩才は陸機が優れ、議論に関しては陸雲が優れていたとありますが、世説新語では当意即妙の受け答えは専ら陸機の役目で陸雲の才に関する記述は少ないです。
(W11K/au)
97 天草
気になったので、『二陸』の追加と同時に人数を調べてみました。
魏…92人
蜀…58人
呉…52人
他…89人
計…291人
でした。
なんと、今までが100人もサバを読んで、誇大広告だったとは…(爆)
と、言うわけで、400人に追いつけるように人物紹介を随時募集してます!
魏…92人
蜀…58人
呉…52人
他…89人
計…291人
でした。
なんと、今までが100人もサバを読んで、誇大広告だったとは…(爆)
と、言うわけで、400人に追いつけるように人物紹介を随時募集してます!
(PC)
98 大伴
先ずは記述の少ない人物を優先し、数を稼ぎますか(笑)
諸葛綽
諸葛恪の長男で騎都尉だったが、孫覇の事件に深く関与した為、孫権は身柄を恪に渡し、再教育する様に命じた。が、恪は毒を飲ませて殺害した。
諸葛建
諸葛恪の末息子。恪が殺害された時は歩兵校尉であった。253年、恪が謀殺されると逃亡したが、徐平の部曲に捕らえられた。徐平はこれを逃がした。建は長江を渡る事は出来たが、北方の魏に逃げ込もうとして、数十里行った所で追っ手の兵に捕まり斬られた。
諸葛綽
諸葛恪の長男で騎都尉だったが、孫覇の事件に深く関与した為、孫権は身柄を恪に渡し、再教育する様に命じた。が、恪は毒を飲ませて殺害した。
諸葛建
諸葛恪の末息子。恪が殺害された時は歩兵校尉であった。253年、恪が謀殺されると逃亡したが、徐平の部曲に捕らえられた。徐平はこれを逃がした。建は長江を渡る事は出来たが、北方の魏に逃げ込もうとして、数十里行った所で追っ手の兵に捕まり斬られた。
(F2102V/FOMA)
99 大伴
催州平
博陸の出身。父は太尉の催烈で、催均の弟。父は金銭によって官位を得た事から「銅臭がする」と嘲られていた。荊州時代の諸葛亮の友人で、諸葛亮の欠点を指摘できる程の中であったという。
石韜
頴川出身。字は広元。初平年間に中原で戦争が起こった為、同郷の徐庶と共に荊州に逃れた。ここで諸葛亮、孟建らと親しく交わった。後に曹操に仕官し、郡守、典農校尉を歴任した。
これで396人。
博陸の出身。父は太尉の催烈で、催均の弟。父は金銭によって官位を得た事から「銅臭がする」と嘲られていた。荊州時代の諸葛亮の友人で、諸葛亮の欠点を指摘できる程の中であったという。
石韜
頴川出身。字は広元。初平年間に中原で戦争が起こった為、同郷の徐庶と共に荊州に逃れた。ここで諸葛亮、孟建らと親しく交わった。後に曹操に仕官し、郡守、典農校尉を歴任した。
これで396人。
(F2102V/FOMA)