1 三原色
三国志時代の遊戯
初めまして。
いつも掲示板みさせてもらってます。
普段はロム専なのですがどうしても気になることがあり、過去ログにもないようなので投稿させてもらいました。
ズバリタイトル通り三国志時代での遊戯は何があったのでしょうか?
武将達が戦争以外で余った時間を何に費やしていたのか気になります。
いつも掲示板みさせてもらってます。
普段はロム専なのですがどうしても気になることがあり、過去ログにもないようなので投稿させてもらいました。
ズバリタイトル通り三国志時代での遊戯は何があったのでしょうか?
武将達が戦争以外で余った時間を何に費やしていたのか気になります。
(W61CA/au)
2 ストラップ
三原色さんはじめまして。今後も宜しくお願いしますね。
遊戯としては囲碁やすごろくが有った様ですね。
囲碁に関しては>>>258をご覧下さい。馬融なんかが碁に関する文章を残していますよ。
又、確認はしていませんが>>>391あたりにも情報あるかも知れません。
遊戯としては囲碁やすごろくが有った様ですね。
囲碁に関しては>>>258をご覧下さい。馬融なんかが碁に関する文章を残していますよ。
又、確認はしていませんが>>>391あたりにも情報あるかも知れません。
(F2102V/FOMA)
スレは上げて良いものやら…誰も見ていない気配はするが分かったことは書いておこう。
川出書房の「中国文化〈伝来〉事典」から
連珠・レンシュ。いわゆる五目並べ。堯や舜の時代にはすでにあったとか。ただ、今の五目並べとは少し違うものなのかも。
将棋・ショウギ。漢代には三人で指す形式のものがあったとか。
樗蒲・チョボ。宋代の類書「太平御覧」によれば老子が西の蛮地で考案したというが本当なのやら…。ただ、本当なら漢代にもあったのかも。
樗(ぬるで)と蒲(がま)の実は形は同じだが色が違うのでサイコロの代用品に使われた。残念ながら遊び方は省略されて書いてなかった。
蔵鈎・ナンコ。掌に幾つかの物を握ってその数のあてっこをする遊戯。中国では猜拳や猜枚、弁拳とも呼ぶ。
和名抄(和名類聚の事か?)に前漢の昭帝の母、鈎弋夫人がボタンの花びらを握って先帝(武帝)と当てっこしたがこれを蔵鈎という、とある。
鞦韆・シュウセン。牛馬の尾にかける綱の意でブランコの事。北方の山岳民族の遊び道具で斉の桓公が北伐して持ち帰った。
漢唐以後は宮中でもよく用いられた。
蹴鞠・シュウキク。これはWikipediaからの情報。斉の軍事訓練が発祥で、漢代には12人のチームでサッカーみたいな事をやってたようだ。
曹丕が王忠を辱める逸話から漢代にも芸人はいるようだが、何をしていたのだろうか…曲芸かな?
投壺はどうなんだろう…唐代にはあったようだが。
凧は韓信が戦場で敵との距離測定に用いていたので、漢代にもあるのだろう。まだ遊戯にはなって無いと思うが。
曲水も入れておこうかな…まず宮中や貴族の家に細い流水を作って、曲がる所の岸辺に並んで待つ。
そこへ上流から酒を注いだ盃を流して自分の前を通り過ぎる前に詩歌を作り、流れてきた盃を取り上げて飲むという文人たちの遊び。
秦の昭王が河曲で酒宴を開いたとき、金人が秦の前途を祝して祝ったため、後に秦が全国制覇した時にこれを記念して曲水を行うようになった。
川出書房の「中国文化〈伝来〉事典」から
連珠・レンシュ。いわゆる五目並べ。堯や舜の時代にはすでにあったとか。ただ、今の五目並べとは少し違うものなのかも。
将棋・ショウギ。漢代には三人で指す形式のものがあったとか。
樗蒲・チョボ。宋代の類書「太平御覧」によれば老子が西の蛮地で考案したというが本当なのやら…。ただ、本当なら漢代にもあったのかも。
樗(ぬるで)と蒲(がま)の実は形は同じだが色が違うのでサイコロの代用品に使われた。残念ながら遊び方は省略されて書いてなかった。
蔵鈎・ナンコ。掌に幾つかの物を握ってその数のあてっこをする遊戯。中国では猜拳や猜枚、弁拳とも呼ぶ。
和名抄(和名類聚の事か?)に前漢の昭帝の母、鈎弋夫人がボタンの花びらを握って先帝(武帝)と当てっこしたがこれを蔵鈎という、とある。
鞦韆・シュウセン。牛馬の尾にかける綱の意でブランコの事。北方の山岳民族の遊び道具で斉の桓公が北伐して持ち帰った。
漢唐以後は宮中でもよく用いられた。
蹴鞠・シュウキク。これはWikipediaからの情報。斉の軍事訓練が発祥で、漢代には12人のチームでサッカーみたいな事をやってたようだ。
曹丕が王忠を辱める逸話から漢代にも芸人はいるようだが、何をしていたのだろうか…曲芸かな?
投壺はどうなんだろう…唐代にはあったようだが。
凧は韓信が戦場で敵との距離測定に用いていたので、漢代にもあるのだろう。まだ遊戯にはなって無いと思うが。
曲水も入れておこうかな…まず宮中や貴族の家に細い流水を作って、曲がる所の岸辺に並んで待つ。
そこへ上流から酒を注いだ盃を流して自分の前を通り過ぎる前に詩歌を作り、流れてきた盃を取り上げて飲むという文人たちの遊び。
秦の昭王が河曲で酒宴を開いたとき、金人が秦の前途を祝して祝ったため、後に秦が全国制覇した時にこれを記念して曲水を行うようになった。
(PC)