1 萌黄
関羽について
はじめまして!萌黄と申します。
ところで私は関羽が大好きです。そんな関羽について!
〜関羽は、曹操サイドについた事が一度あります。その後五関突破(三国演義)で劉備のもとに戻ったのですが、関羽はこのまま曹操のもとで戦った方がより長生き出来たのでしょうか。また、どうゆう生き方をしていたでしょうか?
ところで私は関羽が大好きです。そんな関羽について!
〜関羽は、曹操サイドについた事が一度あります。その後五関突破(三国演義)で劉備のもとに戻ったのですが、関羽はこのまま曹操のもとで戦った方がより長生き出来たのでしょうか。また、どうゆう生き方をしていたでしょうか?
(P903i/FOMA)
3 萌黄
そうですか…ですよね
でも、あんなに義を重んじ、死んだあとは神とまで歌われた猛将があの若さで…とても悲しい事実
もっと生きてくれれば、その後でも蜀に寝返って蜀は栄えてくれて、晋に呑み込まれずにすんだのかもしれません。
でも、あんなに義を重んじ、死んだあとは神とまで歌われた猛将があの若さで…とても悲しい事実
もっと生きてくれれば、その後でも蜀に寝返って蜀は栄えてくれて、晋に呑み込まれずにすんだのかもしれません。
(P903i/FOMA)
7 バンビ
博物館注意事項にスレの乱立は禁止と書かれていますし、乱立をすると話しが重複したりなど面倒臭いのであっちのレスが埋まるまではあっちでお願いします。
取り敢えず注意事項を一度ご覧下さいm(_ _)m
取り敢えず注意事項を一度ご覧下さいm(_ _)m
(W54T/au)
10 諏訪
>>>329-92-99からの続きです。
>>>329-99
菅原道真の場合、人々が道真の怨霊をおそれたとか、朝廷が道真の怨霊を鎮めようとしたという記録が残っていますが、関羽の場合、神格化される以前に怨霊扱いされていたという記録があるでしょうか?
>>93でも述べたように、著名な人物が、怨霊と関係なくても神に祀られることはよくあることですし、関羽が神として登場した当初も、怨霊と関係あるようにはみえないですから(四天王についてはよく知りませんが、四天王が怨霊の仲間だとしても、だからといって関羽が怨霊と関係あるということにはならないでしょう)、関羽の神格化の理由を怨霊に求める必要はないと思います。
また、怨霊の条件として子孫が絶えることにも、あまりこだわる必要はないと思います。
菅原道真にはちゃんと子孫がいますし、中国で有名な怨霊というと伍子胥がいますが、伍子胥にも子孫がいます。
>>>329-99
菅原道真の場合、人々が道真の怨霊をおそれたとか、朝廷が道真の怨霊を鎮めようとしたという記録が残っていますが、関羽の場合、神格化される以前に怨霊扱いされていたという記録があるでしょうか?
>>93でも述べたように、著名な人物が、怨霊と関係なくても神に祀られることはよくあることですし、関羽が神として登場した当初も、怨霊と関係あるようにはみえないですから(四天王についてはよく知りませんが、四天王が怨霊の仲間だとしても、だからといって関羽が怨霊と関係あるということにはならないでしょう)、関羽の神格化の理由を怨霊に求める必要はないと思います。
また、怨霊の条件として子孫が絶えることにも、あまりこだわる必要はないと思います。
菅原道真にはちゃんと子孫がいますし、中国で有名な怨霊というと伍子胥がいますが、伍子胥にも子孫がいます。
(W51S/au)
12 諏訪
関羽の一族が殺されたことについては、「関羽伝」注の『蜀記』に「ホウ悳の子のホウ会は鍾会・トウ艾に従って蜀を討伐した。蜀が敗北すると、彼はことごとく関氏の血統を滅ぼした」とあります。
鍾会は征蜀に際し、略奪を禁じ、諸葛亮や蒋エンの墓を祭り、姜維ら降将を厚遇しています。
このような鍾会が、部下のホウ会が関羽の一族を殺すのを許すとは思えません。
『蜀記』の記事が事実だとすると、関羽の一族が殺されたのは、鍾会の死後の混乱のときでしょう。
ここで想像ですが、関羽の一族は乱兵によって殺されたのが、関羽にうらみをもつとされるホウ会のしわざということにされてしまったとは考えられないでしょうか。
「後主伝」に「鍾会が死んだのち、蜀中の軍兵は略奪を行ない、死者が出て混乱し、数日してやっと平穏にもどった」とあり、劉セン・張翼・蒋斌・衛継らが乱兵に殺されています。
あくまでも想像ですが、『蜀記』はあまり信用できない史書なので、このようなことを考えたりしてしまいます。
鍾会は征蜀に際し、略奪を禁じ、諸葛亮や蒋エンの墓を祭り、姜維ら降将を厚遇しています。
このような鍾会が、部下のホウ会が関羽の一族を殺すのを許すとは思えません。
『蜀記』の記事が事実だとすると、関羽の一族が殺されたのは、鍾会の死後の混乱のときでしょう。
ここで想像ですが、関羽の一族は乱兵によって殺されたのが、関羽にうらみをもつとされるホウ会のしわざということにされてしまったとは考えられないでしょうか。
「後主伝」に「鍾会が死んだのち、蜀中の軍兵は略奪を行ない、死者が出て混乱し、数日してやっと平穏にもどった」とあり、劉セン・張翼・蒋斌・衛継らが乱兵に殺されています。
あくまでも想像ですが、『蜀記』はあまり信用できない史書なので、このようなことを考えたりしてしまいます。
(W51S/au)
13 歴史学科の学生より
最近の研究では関羽は元々塩の密売商人であった事がわかったそうです。
だから関羽は商いの神なんですよ。
それと、三国志時代の事をあれこれ言っても不毛な言い合いになるだけですよ。
何故なら、その時代に書かれた物が無いからです。歴史学者はその時代にあった事をあれこれ言う前に、それを示す物的証拠を出せ、と言ってきます
学会で認められているのは、陳寿の『三国志演義』だけなんですよ。それ以外のは時期が離れすぎていたりするため物的証拠とは認められていません。無論、正史と言われている『後漢書』などもです。
しかも、現在では三国志が好きなので調べたいからという理由で、大学の歴史学科に入りましたという生徒が多くいます。しかし、担当の教授に「もう三国志時代は調べ尽くされた為、調べることは出来ない」と言われ、絶望して行く人がとても多いのです。
あと、引用して文章などを言葉を使うのは盗作の疑いをかけられるかも知れないので注意して使ってください
あともう一つ言うならば、魏の曹操の墓と見られる場所が発掘されたみたいですよ
長く書いてしまって、どうもすみませんでした。
だから関羽は商いの神なんですよ。
それと、三国志時代の事をあれこれ言っても不毛な言い合いになるだけですよ。
何故なら、その時代に書かれた物が無いからです。歴史学者はその時代にあった事をあれこれ言う前に、それを示す物的証拠を出せ、と言ってきます
学会で認められているのは、陳寿の『三国志演義』だけなんですよ。それ以外のは時期が離れすぎていたりするため物的証拠とは認められていません。無論、正史と言われている『後漢書』などもです。
しかも、現在では三国志が好きなので調べたいからという理由で、大学の歴史学科に入りましたという生徒が多くいます。しかし、担当の教授に「もう三国志時代は調べ尽くされた為、調べることは出来ない」と言われ、絶望して行く人がとても多いのです。
あと、引用して文章などを言葉を使うのは盗作の疑いをかけられるかも知れないので注意して使ってください
あともう一つ言うならば、魏の曹操の墓と見られる場所が発掘されたみたいですよ
長く書いてしまって、どうもすみませんでした。
(T003/au)